家康没後250年=慶応元年 

    

No.28> 家康没後250回忌を第2次長州征伐直前に行う 

風雲急を告げる偉大になっても 幕府は、神君家康の没後250回忌はどうしても遣らねばならないイベントです。延岡藩は?

今回のトピックス


    現在、日本各地で、家康没後400回忌の式典が準備されています。
    実は、幕末の最も騒がしい慶応元年が、250回忌の大きな催しがありました。
    将軍家茂も、上野東照宮を参詣します。そこで、延岡藩もお手伝いをします。

    第2次長州征伐の慶応元年の出来事です。
    これも、長州征伐シリーズに入れようかと思いましたが、これは、外します。   

                                                 (2015年3月3日)


【1】家康没後400回忌と250回忌

今年2015年4月17日が、家康没後、400年回忌になるということで、全国でいろいろな式典が用意されているようだ。
現代の数え方では、本当は、来年が没後400年であるが、昔からの数え方なので仕様が無い。

実は、幕末の慶応元年4月17日(1865年)には、250回忌の式典が行われている。
その式典で、延岡藩主がある役割をしているということで、延岡藩の記録に載っている。

この250回忌の、1か月後の慶応元年5月16日には、将軍家茂が第二次長州征伐のために、出府するのである。
その慌ただしい時に、250回忌が行われている。実は、家茂は、この旅で帰らない人となるのだが、それは神のみぞ知ることであった。

当レポートでは、本当は、長州征伐シリーズなのだが、今年が没後400年という特別の年なので、特別に、1回、中断するが、
近々、同シリーズの記事も発表する予定である。お許し願いたい。

【2】徳川家康と日光東照宮

徳川家康は、関ヶ原の戦い(1600年)後、一気に豊臣つぶしを行い、江戸幕府を盤石の形にした人物である。
その家康は、元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で逝去した。享年75歳(現代の計算法では、73才)である。

家康の没後、静岡の久能山に葬られたが、遺言により、翌年の元和3年(1617年)に、遺骸は、日光に移され埋葬された(4月17日)。
その直前に日光東照宮の正殿が完成している。以後、家康は、「東照大権現」」と呼ばれ、神格化されている。

家光の時代の寛永の寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造営が始められ、
今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。

日光は、江戸城の北方向に位置し、江戸城を見守るという家康の意思である。

家光の最晩年の慶安元年4月17日に、家光は、自身が日光に行き、東照大権現の33回忌を盛大に行われている。
家光は、生涯、10回も自身で日光を訪問している。家光は、自分で、二世権現と称し、日光に廟所があり、「大猷院」という。

家光の遺言で、家康の東照宮を凌いではならないとのことで、東照宮よりは地味になっている。

【3】上野東照宮

日光の東照宮以外に、日本には、多くの東照宮があるが、日光以外では、久能山東照宮と、上野東照宮が有名である。

上野東照宮は、1627年(寛永4年)、津藩主藤堂高虎と天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公を お祀りする神社として創建された。
1646年(正保3年)には正式に宮号を授けられ「東照宮」となっている。

現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光が造営替えをしたもので、その後の戊辰戦争や関東大震災でも焼失せず、
第二次世界大戦でも被害はほとんど無く、江戸の面影と建築様式を現在に残す貴重な文化財となっている。
ここには、家康公以外に、吉宗公と慶喜公が祀られている。

【4】250回忌=慶応元年4月17日(1865年)

家康の年回忌にあたる特別な年には、神忌又は法会と称される特別な祭典が盛大に行われているが、それは、江戸時代を通じて11回催されている。

幕末では文化12年(1815)の200回忌と慶応元年(1865)の250回忌だけが行われている。
その、風雲急を告げる慶応元年であるが、長州藩等に、権威を示す意味でも、日光で開催される250回忌は、盛大に行う予定であった。

この時期、法会に向けて、日本各地、特に、京都の多くの公家たち、その警備の人たちが、
日光を訪れるので、幕府は、街道の整備、人馬小屋の設置、継立人馬の増員等特別の準備が必要であった。

幕府は、日光東照宮へ参向を要請する人たちに、装束料、道中賄料等を前もって届け、着々と準備を進めていた。
中山道、日光道の整備に、周辺の人馬を動員しなければならないのであるが、人足がなかなか集まらず、苦労したという記録もある。

【5】江戸での250回忌:延岡藩の資料から

概訳

「(慶応元年=1865年)4月17日

@権現様 250回 御忌に付き、今日、公方様 山に参られ、御宮を御参詣される。
  これについて、この最中、御触れの通り、お供を奉る。
  殿様、今暁、7時半(現在の朝5時)に、お供揃いで、西の丸に御登城された。
  お玄関で、御出役の御証用について、お名前を確認された。

  御祝直しのため、御帝鑑の間のお座席に入り、お供揃いを相控え遊ばされた。
  五時(現在の朝8時)、お供揃いで、道具出しをし、御同胞が外出するための御用を、御玄関でなされた。

  (公方様が)、還御(御帰り)の時に、御玄関で、お供を奉り、滞りなく済ませた。
  仕事が御済みになったので、すぐに、西の丸の大手門通り、坂下門から、山に参られ、
  御宮に御用を済ませ、坂下門より退出し、4時(朝10時)に、藩邸に御帰りになった。

@兼ねて、御触れの通り、今暁八時半(夜中の1時)に、上野に御太刀、馬代を御献備につき、
  御本坊に御留守居の代わりに、平兵衛が左の通り、御待請を持参した。

     御太刀1腰
     馬代銀1枚


言葉>
  大権現様=家康のこと
  公方様=将軍 家茂のこと
  還御=尊い方のお帰り
  帝鑑の間=主として譜代大名のお部屋。延岡藩も帝鑑之間を使用
  待請=献上品のことと思われる。

将軍家茂が、家康を祀っている東照宮である上野の(東叡山)寛永寺にある東照宮を参詣したようだ。
その時、延岡藩主は、当番で、西の丸にとどまり、将軍の出発と、御帰りの時のお世話係なのであろう。
それが済んでから、自分も寛永寺を参詣し、藩邸に帰っている。

御留守居の代理が、寛永寺東照宮に、上納品を届けているが、暁八時半とは、本当に、現在の夜中1時のことであろうか。
昼間なら、現在の午後1時であるが。
  

【6】資料

1)内藤家資料:万覚帳=慶応元年(1865年)1-7-153




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