今回のレポート |
---|
今回の新レポート: レポート82 :安政2年シリーズ(3) 黒船がきて日米和親条約は結んだが、それが今後どれだけの影響を与えるかの実感はまだ形成されていない安政2年のエピソードである。 江戸時代そのもののエピソードを紹介します。 (2022.4.3) こちらへ: レポート82 |
記事の修正と追加等 |
---|
緊急追加> 1) 幕末時代の延岡藩上屋敷の写真を見つけました。レポート1に追伸として報告しています。(2014.10.10) 2) 延岡から江戸に向かう充真院一行が、大阪に向かう将軍家茂の隊とすれ違うことになった時、 先ず、将軍のさらに前を行く他藩の武士の一行と先にすれ違いました。 それをつぶさに観測している。その一行の服装が既に洋服になっていたようです。 その記事も貴重なので、レポート31の【6】<2>に追加しました。(2015.7.17) 3) 私のHPをご覧になった方から当レポート#61内の胤康の京都にある墓の碑文について情報を頂きました。 あらたに、#61に追加しました。(2018.8.31) |
近況と報告 |
---|
近況: 個人的事情で間が空きましたが、また、再開します。 コロナが足掛け3年になりながら、ウクライナ戦争も始まり、これからの社会への自信が揺らぐ時代となりました。 民主主義の揺らぎです。 コロナがあり直接の資料を集められなくて、とどこっていますが、近々、再開します。 (2022.10.25) ******** 読者の方から時々コンタクトを頂きますが、先日(2019.4月末)、現役の時代小説家の方から、 参考にしたいというお話がありました。 出来上がりの作品を楽しみにしております。 某大学関係者の集まりで、このホームページの内容を紹介しました。(2017年末) 昨今の歴史ブームのせいか、強い関心を持っていただきました。 先日、当シリーズの第9話を落語家の大御所がご覧になったという情報が届き、びっくりしました。 私のHPを見ている方から、自費出版の書物を頂くことがあります。 先日も、「いろは丸始末」(渋谷雅之著)を頂きました。 今後の予定: 多数の方からの御要望に応えたいと存じます。 |
<趣味の写真>寒い日が続く中でも春が近づいています。シジュウカラも囀りをはじめました。 カワセミのつがいの写真を示します。 つい、最近まで別行動をとっていたのに、 最近は、始終、べったりです。 左のカワセミが、くちばしに紅を指しているのでメスです。 (2023.2.3 撮影) |
今までのレポート |
---|
レポート81 : 安政2年シリーズ(2) 黒船がきて日米和親条約は結んだが、それが今後どれだけの影響を与えるかの実感が、 まだ形成されていない安政2年のエピソードである。 江戸時代そのもののエピソードを紹介する。 (2021.8.3) レポート80 : 安政2年シリーズ(1) ペリーが来航して、翌年に日米和親条約が結ばれ、さらに、ロシアなども開国を迫ってくる。 幕府に少しずつ緊張感が出てきている反面、まだ、余裕のある一面もある。 じわじわとした変化を見ていく。 (2021.8.3) レポート79 : 明治元年=慶応4年(3) 延岡藩の情報担当者から奥羽戦争の終結の様子が伝わると同時に、 新政府側は、それを見込んで、江戸遷都を検討するために、 木戸孝允を、江戸へ遣わし、遷都が妥当という報告を受けた。 (2021.4.16) レポート78 : 明治元年=慶応4年(2) 慶應4年(明治元年)の夏から秋にかけて、東北戦争が起きている。その情報が延岡藩にも届く。 そして、徳川家の家来たちの処遇を巡って、新政府側と山岡鉄舟が交渉をしている。 新政府の大狸の岩倉具視の暗躍。 (2020.12.27) レポート77 : 明治元年=慶応4年(1) 明治維新は、明治元年の徳川幕府体制の崩壊から、明治四年の藩体制の破壊まで続くと考える。 この明治元年から4年までをシリーズで取り上げたい。 延岡藩は、京都や江戸の情報を必死で集めている。 最初は、戊辰戦争後の後半である東北戦争と北陸戦争の情報収集を報告する。(2020.9.1) レポート76 : 福沢諭吉の中津留別の書 福沢諭吉は、幕末から明治にかけて、欧米文化紹介や慶応大学設立など、 日本の近代化に大きな貢献をし、類を見ない文化人である。 同じ九州人(彼は必ずしも九州人という認識は大きくなかった)として親近感を持つ延岡藩は、 早期から彼に接して、西洋文化の取得に動いていた。 彼から、出版前の「中津留別の書」を手に入れて、東京から延岡に緊急便として送っている。 出版前の原稿に近い文章を紹介する。 (2020.7.3) レポート75 : 安政江戸地震の延岡藩の記録 安政時代は、日本史でも有数の大地震が集中した稀有な時期である。 今回は、江戸に甚大な被害を起こし、維新への一つのきっかけともなった安政江戸地震の様子を、 延岡藩の江戸藩邸に残る記録から、見直してみたい。 安政江戸地震の武家屋敷からの記録は、珍しいので、貴重である。 (2020.6.1) レポート74 : 東九州を襲った江戸時代の明和地震の記録 江戸時代に起きた巨大地震で、延岡は何度も被害を受けている。そして、津波の被害も受けている。 しかし、その記録はあまり残っていない。 今回、延岡藩に残る豊後水道で起きた明和地震とそれによる津波の記録を報告する。 老人の経験に基づいた冷静な判断が際立っている。 (2020.4.30) レポート73 : 彰義隊 将軍のおひざ元の江戸には、多数の幕臣がおり、市民の反官軍感情も強くて、 官軍側も強硬路線がとりにくい状況である。 そこで、勝海舟による江戸城の返還要求の策動もある中で、徳川家への処分決定された。 不満暴発の先手を打って、彰義隊がこもる上野山への官軍の一斉攻撃が始まる。 延岡藩は、江戸藩邸を閉じた直後であるが、延岡へ上野戦争を報告している。 (2020.3.18) レポート72 : 御朱印(3)=御朱印状の形式 数十年に一度の御朱印改めの儀式は各藩にとって重要であるだけでなく、 幕府側にとっても重要な儀式である。 その儀式の形式を報告する。 これらはほとんど紹介されていないので、今回の報告は貴重である。 (2020.2.19) レポート71 : 御朱印(2)=御朱印改めの当日の儀式 数十年に一度の御朱印改めの儀式はほとんどの当事者にとって、初めてのことで緊張する。 失敗は許されない。 藩主に変わって江戸家老が勤め、留守居が活躍する。 御朱印改めの儀式は、今までほとんど紹介されていないので、今回の報告は貴重である。 (200.12.1) レポート70 : 御朱印(1)=幕府からの領知安堵 延岡藩の領地安堵の証明書である御朱印が幕府から配布される。それは、藩存亡に関わる重大行事である。 行列も他所から人を借りて盛大に行う。手順ミスは許されない。その緊張を報告する。 (2019.10.31) レポート69 : 町民が武士を訴える 懐事情が苦しくなった延岡藩士が町民や寺社から借金をして、返却できなくなった。 それぞれ、町奉行所、寺社奉行所に訴えられた。 個人の問題から藩が関係する問題になったので、 藩が借金の肩代わりをせざるを得なくなった。 (2019.8.26) レポート68 : 江戸城本丸消失(2) 安政の大獄の最中に江戸城本丸が焼失した。将軍は西の丸へ退散した。 延岡藩の屋敷の近くの大名屋敷から火が出た。 延岡藩の対応はいかに。江戸城の防火体制と火消し組織も紹介する。 (2019.7.28) レポート67 : 江戸城本丸消失(1) 安政の大獄の最中に江戸城本丸が焼失した。 幕府は再建のために各藩へ上納金を要求する。 延岡藩は譜代としての見栄もありながら無い袖は振れないので、 分割払いをお願いする。 (2019.6.16) レポート66 : 長崎キリシタン弾圧 長崎等の隠れキリシタン遺跡(浦上天主堂は除く)が世界遺産に登録された。 その長崎の浦上地区で幕末から明治にかけて6年間の悲惨な弾圧があった。それを4番崩れという。 はれやかな世界遺産認定になったきっかけの本当の悲惨な事実を紹介する。 当時の長崎奉行所の記録である. (2019.2.16) レポート65 : 胤康(5)=胤康の最期 延岡藩は、勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師を召し捕りはしたが、丁重に扱ってきた。 しかし、幕府の命令で京都町奉行所へ差し出すことになった。 奪還を怖れて35名ほどの人員で延岡から京都まで連れてきて、京都町扶持行書へ引き渡しをした。 胤康は、その1年後に獄死をした。 (2018.11.19) レポート64 : 胤康(4)=胤康の召し捕り 勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師が、延岡藩の手で遂に召し捕られた。 延岡藩の内部では、対応に苦慮した。幕府への内密に報告をした結果である。 しかしながら、捕らえられた胤康は、揚屋では、客人のような対応を受けている。 (2018.8.31) レポート63 : 胤康(3)=胤康と寺田屋事件 薩摩藩内部の抗争ともいえる大きな事件である寺田屋事件に胤康一派が大きな役割をしていた。 胤康一派の小河弥右衛門(一敏)の記録から胤康の考えを解き明かす。 (2018.6.17) レポート62 : 胤康(2)=勤王の志士 胤康の思想形成の源泉 勤王の志士である胤康禅師が田舎の坊主でありながら日本中の勤王志士の中心人物の一人になりえたか。 それは彼の思想にある。彼の思想形成の原点とその骨格を探る。 (2018.5.15) レポート61 : 胤康(1)=誕生地から終焉地まで 譜代大名であった延岡藩の中にも、勤王の志士として倒幕を企て、日本中をめぐり、 日本中の仲間の志士と連携をした禅宗の住職がいた。 名を胤康といい、目的半ばで延岡藩に捕縛され、京都奉行所に送還され、維新の2年前に獄死した。 彼の魂は、京都東山の霊山に今も眠っている。 かれの誕生の地、活躍の地、そして、終焉の地を巡ったので紹介する。 (2018.3.28) レポート60 : 延岡藩の武芸帳と南蛮流柔術 諸藩では、多くの武芸者を抱えて、藩士に武芸を奨励していました。 延岡藩の精密に記録から、藩内での各種武芸を紹介します。 その中から、南蛮流捕手の有名人である橋本一夫斎の実像を探ります。 また、幕末には、武市半平太と「人切り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵が延岡藩を訪れて、 剣術の申し合いをしています。 (2018.2.28) レポート59 : 維新時の延岡藩改革 =明治元年3月 徳川幕府崩壊を受け、延岡藩は改革に取り掛かります。 今回は、服装面を中心に報告しますが、それは、あくまでも、武士社会の存続を前提にしたものです。 他藩も大同小異だと思います。 維新時の各藩の動きを示す貴重な資料となります。 (2018.2.2) レポート58 : 江戸藩邸閉鎖(2)=明治元年3月> 徳川慶喜が将軍所を放棄し、鳥羽伏見の戦も敗北し新政府軍が江戸に上ってくる緊迫の明治元年3月に 延岡藩も江戸藩邸に残る大殿様他を急ぎ延岡に移すことにしました。 混乱の中で大殿様を無事、延岡に送らねばなりません。その緊迫を報告します。 (2017.12.28) レポート57 : 江戸藩邸閉鎖(1)=明治元年1月から3月 徳川家の政権が終了し、同時に官軍が江戸に進軍してくる気配の中、 各藩の江戸藩邸は騒がしくなってきます。 一斉に藩主や前藩主や奥方たちを在所に帰す必要が出てきます。 延岡藩の江戸藩邸でのその終了の過程を報告します。 (2017.10.29) レポート56 : 鳥羽伏見戦(6)=延岡の謹慎がついに解ける 藩主が上京して来ましたが、謹慎処分になります。 必死の弁明で、終に、延岡藩の謹慎が免除されました。 その後、延岡藩は新政府軍の一員として全国に出張命令が出されます。 その中で、内藤家の分家が奥州同盟に参加してしまいました。 (2017.9.30) レポート55 : 鳥羽伏見戦(5)=肥後藩が延岡藩の救済に動く 慶喜の逃走で、鳥羽伏見の戦は終了しました。幕府側の延岡藩にも糾弾の手が押し寄せ、 藩の危急存亡の時です。 京都と大阪に残る少数の藩士による、必死の嘆願作戦の結果、肥後藩の協力をえることに成功し、 維新革命の陰の実力者、岩倉具視への接触にこぎつけました。 (2017.8.28) レポート54 : 鳥羽伏見戦(4)=嘆願書作成 慶喜の逃走で、鳥羽伏見の戦は終了しました。敗戦側の延岡藩にも糾弾の手が押し寄せます。 藩の危急存亡の時がきました。 京都に残る延岡藩士は、少数だけでした。彼らは、藩の生き残りのために、必死の策を練ります。 新政府側の要人である三条実美や、隣の大藩である肥後藩に必死に食い下がり、 活路を見出します。 (2017.7.1) レポート53: 鳥羽伏見戦(3)=大阪での混乱 幕府側の一員として、延岡藩も大阪までは藩士を集めましたが、今回の戦の不条理を訴えて、 途中、前線への出兵を控えた延岡藩でありました。 しかし、戦況は気になり、視察にいき幕府の増軍を陸軍奉行や老中に訴えます。 出軍を決心して大阪城に戻ると、慶喜は敵前逃亡した後でありました。愕然としました。 しかし、延岡藩士を急ぎ大阪から撤兵をする必要があります。 船を急ぎ手配して、翌日には船に乗せることに成功しました。 今回の敗戦と慶喜の脱走は、会津藩の入知恵と嘆いています。 (2017.5.27) レポート52: 鳥羽伏見戦(2)=京阪での延岡藩 徳川幕府の優等生であった延岡藩が今回の鳥羽伏見の戦は、徳川家と薩摩藩の私戦であり、それに、 合理的な条理がないとして、しつこいぐらい猛抗議をしています。 そして、最終的には、戦場の分担の警衛を行っていないようです。 慶喜の東帰を厳しく非難もしています。 (2017.3.21) レポート51: 鳥羽伏見戦(1)=江戸延岡藩邸での鳥羽伏見戦の情報 鳥羽伏見の戦が、始まるまで、そして、始まってからも江戸には、7日ほど遅れてニュースが届きます。 開戦や途中経過に焼きもしている中で、 戦況の結果と、前将軍慶喜の逃げ帰ってきたのが同時なのでびっくりです。 その様子を江戸藩邸の記録から報告します。 (2017.2.22) レポート50: 慶應3年(7)=延岡から見る大政奉還(2) 鳥羽伏見の戦まで数週間に迫った頃、慶喜はついに、二条城を去り大阪に下ります。 江戸では、薩摩藩が集めた浪人組が強盗狼藉を繰り返し、遂に、幕府軍が薩摩藩邸を襲いました。 鳥羽伏見の直接のきっかけになる争い事です。 (2017.1.16) レポート49: 慶應3年(6)=9月〜10月:延岡藩から見る大政奉還(1) 大政奉還を将軍慶喜から申し出たという大ニュースが日本中を飛び交った様子がわかります。 他藩も含めて、大騒ぎです。 江戸城内、二条城内での発表の様子がわかる貴重な報告です。 その一方で、幕府は、江戸市中の問屋に上納金を要求します。 延岡藩も、藩内の近代化を急ぎます。 (2016.11.18) レポート48: 慶應3年(5)=6月〜8月:幕末の経済特集と延岡藩 幕末も押し詰まると、政治だけの矛盾ではなく、経済面でも不都合が目立ってきました。 幕府も、慌てて、制度の近代化を図ろうと種々の対策を打ってはいます。 幕府も無策ではなかったのでした。 延岡藩の財政のひっ迫はより深刻です。藩士の給与の半額カットもしています。 (2016.10.20) レポート47: 慶應3年(4)=4月〜5月:四侯会議と延岡藩 京都で四侯会議が開かれ、そして、朝廷から兵庫開港に関する沙汰書が出ました。 京都が政治の中心となっています。 京都での情報がほしい延岡藩は、京都に屋敷を構えることを決定しました。 (2016.9.25) レポート46: 慶應3年(3)=延岡藩の厳しい財務状況 慶應3年2月〜4月:長州征伐の後の延岡藩は、いよいよ財政面が厳しくなってきました。 金のかかる江戸詰めの多くの藩士を家族同伴で、延岡に帰します。 しかし、拒否する人も出てきました。 (2016.8.31) レポート45: 慶應3年(2)=正月:延岡藩の持ち場で町人に関する事件勃発:幕府の指示を仰ぐ 町人がらみの事件でも、その対応は意外にも慎重です。 江戸時代の事件処理の格好の例であると思われます。 (2016.7.26) レポート44: 慶應3年(1)=正月:孝明天皇の崩御と明治天皇即位の知らせ:新年儀式と重なりあたふた 慶応3年正月:孝明天皇の崩御と明治天皇即位の知らせが江戸に到着しました。 不穏の慶應3年が始まります。 江戸屋敷では、年始のしきたりと喪中のしきたりで大混乱です。 (2016.6.19) レポート43: 大名屋敷の火事としきたり 江戸では火事が多かったので、相互扶助の仕組みが発達していました。 幕末は治安も悪く、火事も特に多くなっています。 慶応2年末、延岡藩邸の周りでも火事が頻発していました。 そこでは、各藩邸はお手伝いに人手をだし、また独特の火事見舞いがありました。 お手伝いを出せない藩邸は、謝りの一筆を届けています。 (2016.5.18) レポート42: 慶喜(1)=15代将軍に宣下される 慶喜が第15代将軍に宣下されます。尊王第一の水戸学で育った彼は、孝明天皇を守り、 幕府を捨て、京都にて次なる政権を立てようとしている様にもみえます。 しかし、孝明天皇の不思議な死により、流れは逆流を始め、彼は朝敵になり、 失脚することになります。彼の将軍になるまでの歴史を概観します。 (2016.4.20) レポート41: 将軍家茂の薨去=幕府の葬儀のしきたり 第2次長州征伐の終了と将軍家茂の薨去、そして、孝明天皇の薨去がほとんど同時に起きた。 歴史の偶然か何かの必然か。延岡藩の記録に従って、家茂の薨去をつづってみたい。 幕府が主催する将軍の葬儀は、最もしきたりのうるさい儀式である。 徳川幕府将軍の死去としては、最後の出来事である。 江戸幕府の終焉と重なるでき事でもある。 (2016.3.22) レポート40: 第2次長州征伐(13)=小倉口からの偵察隊報告 延岡本隊は藝州口(広島)にいますが、小倉口に偵察隊を出しました。 そこでも幕府側は芳しくありません。 このままでは、長州藩は延岡まで攻めてくるかもしれないと考えました。 藝州に居る延岡の本隊は孤立して餓死する可能性があります。 本隊を早急に延岡に帰し、補強に努めるべきだという意見も述べます。 幕府内の内紛を嘆きながらも、朝廷の決断が無いことに不満を示します。 このころになると、朝廷の判断が決定的であることを示しています。 (2016.2.24) レポート39: 第2次長州征伐(12)=いざ藝州へ(後) 延岡藩の本隊がいよいよ藝州口(広島ー山口県境)へ出陣します。 ところが、その時は、慶喜の主張によって、朝廷も停戦を承諾する段階となっていました。 出陣した士大将は、京都へ呼び出され、情勢が読めないまま停戦を言い渡されます。 彼は、大阪、江戸での決戦を意識しておりましたので、腑に落ちない指令でした。 状況を呑み込めない士大将の江戸に向けた正直な気持ちの手紙を紹介します。 (2016.1.20) レポート38: 第2次長州征伐(11)=いざ藝州へ(前) 長州へ宣戦布告をして長州での戦いが始まります。延岡藩も藝州口へ向かいます。出張命令書もでます。 幕府から、お待たせしましたということで3500両が延岡藩へ支給されました。 幕府側は伯耆守が人質を逃がしてしまうという失態も見せました。 そのような、藝州口へ向かう直前の大阪での雰囲気を紹介します。 (2015.12.24) レポート37: 第2次長州征伐(10)=出陣前の大阪での1年間滞在と大阪屋敷 大阪着後も出陣までに1年間を費やします。その大阪での滞在中も、幕府から次々に、 状況の進展を告げる触れが届きます。その触れを紹介します。 また、延岡藩大阪屋敷の場所を紹介します。 (2015.11.24) レポート36: 第2次長州征伐(9)=真夏の東海道進軍:洪水による川止めで大難儀にあう。 慶応元年(1865年)閏5月4日(太陽暦1865年6月28日)に江戸を発った延岡軍は、 大雨洪水に悩まされ、川を渡れず、その都度、逗留して、 大阪には、42日もかかって6月28日(同1865年8月19日)に着きました。 渡川に関係した話や、他の領地を通過する際の儀礼を紹介します。 そして、延岡藩は、途中で旅費が不安になり、緊急で江戸から送金させています。 豊富な資料をもとに、その当時の苦しみを報告します。 (2015.10.26) レポート35: 第2次長州征伐(8)=天気伺い(天皇への挨拶)をすべきか 慶応元年(1865年)閏5月4日、出陣の2つか前に、京都を通過するときに、 天皇への挨拶(天気伺い)をしないで直に大阪へ向かってよいかと幕府伺いを立てている。 結局、天気伺いをしないことになりました。大阪まで道と宿場も示します。 (2015.9.17) レポート34: 第2次長州征伐(7)=延岡藩いざ出陣と古式の出陣式 慶応元年(1865年)閏5月6日、ついに、延岡藩も第二次長州征伐のため大阪へ出陣をします。 そこでは、戦国の昔から続く出陣式の儀式を行っています。そこに揃う品々も珍しいものがあります。 正確な資料です。殿様は朝早く起きて、殿様の儀式も行います。 時に、殿様政挙は13歳(今でいう中学2年生)です。 江戸藩邸に残る侍にとっても最重要な儀式ですから、服装も最正装です。 (2015.8.25) レポート33; 第2次長州征伐(6)=出陣直前の急な人集めと庄屋からの高額の寄付 延岡藩から総勢2000名をこえる規模が、第2次長州征伐のために大阪に向かいます。 延岡からも人は出ていますが、江戸藩邸から多数が出陣します。 しかし、江戸藩邸も守らなければいけません。 不足した人員をいろいろな方法でかき集めています。 そのような時、江戸近郊の庄屋から100両(〜1000万円)という寄付がありました。 その庄屋とはその額に見合う付き合いがあるはずです。 出陣直前の動きを主に辞令から探っていきます。 (2015.7.24) レポート32: 第2次長州征伐(5)=征長への延岡藩の陣容と所持武器と出征侍の全氏名 延岡藩から総勢2000名をこえる規模が、第2次長州征伐のために集合しました。 延岡藩の所持する武器は、大砲以外は、時代遅れのものですが、幕末の平均的な藩の武力と いえるでしょう。大阪に集った全員(武者級のみ)の氏名を示します。 (2015.6.24) レポート31: 第2次長州征伐(4)=充真院一行が将軍隊とすれ違う 参勤交代の復活に伴い、延岡から江戸へ向かっていた延岡藩の充真院と御姫様が、 丁度、長州へ出陣した徳川将軍一行と静岡付近ですれ違います。延岡藩江戸屋敷に緊張が走ります。 ミスをすれば藩の取り潰しにもなりかねません。 さてどのようになったでしょうか? (2015.5.29) レポート30: 第2次長州征伐(3)=出発前夜のドタバタ劇 延岡藩は、将軍隊の後備を勤めるべく、将軍出発から20日ほど遅れて出軍します。 兵士に陣羽織を揃えるように、指示を出し、揃えられない者には、金を出してやります。 また、足軽の意識の引き締めをする一方で、小遣いを出しています。 (2015.4.26) レポート29: 第2次長州征伐(2)=軍令が延岡藩に届く 3代将軍家光時代に制定された幕府の軍令が、200年以上経過しても、ほとんど、そのまま、今回も、 幕府から発せられています。時代遅れです。 (2015.3.28) レポート28: 家康没後250年の催しが慶応元年に開かれました。 将軍家茂による長州征伐への御進発の直前です。 (2015.3.3) レポート27: 第2次長州征伐シリーズ(1)=将軍家茂の御進発 徳川時代の終焉です。将軍家茂自体、もう江戸に帰れない旅です。江戸城で、延岡藩も含めて、 派手にお見送りをします。 (2015,1.25) レポート26: しきたりにうるさい大名家では、正月をどのようにしてすごしているでしょうか? 特に、将軍と大名、そして、大名と家来の間のしきたりは興味深いものです。 (2014.12.23) レポート25: 延岡藩の上屋敷の隣に三年坂の辻番所があり、延岡藩も武士を出すべきなのですが、 民間に外注していました。 現在の交番に相当しますが、他に、番所もありました。その違いを説明します。 (2014.11.25) レポート24: 強引な取り締まりで有名な火付盗賊改が延岡藩の幹部である留守居に目を付けました。 延岡藩もびっくりしたようですが、何とかしのぎました。 (2014.9.28) レポート23: 幕末3傑の一人 長州藩の桂小五郎のうわさが延岡藩にも届いています。 彼の人望の厚さがわかります。 (2014.8.24) レポート22: 登城(4)藩主交代直前に、若殿様が初めての藩主として登城する時に恥をかかないように、 江戸御城内の坊主達に、付け届けをする様子を報告しています。(2014.7.31) レポート21: 登城(3)=江戸詰の延岡藩の資料から、殿様が病気のため、 江戸城に登城できない場合の記録を読みます。 (2014.7.31) レポート20: 登城(2)=江戸城内での将軍への挨拶時の、延岡藩主の座るべき位置を示す 延岡藩の資料を紹介します。 (2014.7.3) レポート19: 登城(1)=延岡藩の上屋敷から、江戸城本丸の玄関までのルートをたどります。 江戸城の石垣は規模と美しさで群を抜いています。 (2014.7.2) レポート18: 勝海舟の未発表文(と思われる)を発見しましたので報告しました。洒脱な文章です。 (2013.4.24) レポート17: 勝海舟の「海軍を増強すべき」という文章を紹介しています。 彼が、失脚して、蟄居している時に書いたものです。 以後の延岡藩の行動指針となります。 (2014.4.3) レポート16: 「いろは丸沈没事故」を報告しています。延岡藩の資料にあの坂本竜馬が出て来ます。(2014.3.3) しかし、紀州藩側から記述になります。長崎奉行所から手に入れた資料と思われますが、 なぜ延岡藩にあるのかは不思議です。 (2014.3.3) レポート15: 延岡藩は、明治になって、米国商人から軍艦を購入しました。 廃藩置県は想定していなかったのです。 (2013.1.31) レポート14: 延岡藩は鳥羽伏見の戦で、幕府側に付きました。しかし、将軍慶喜の逃亡を期に、官軍側へつきます。 どうにか、官軍として認めてほしいと涙ぐましい努力をしました。 最後に、官軍の証である錦章の払い下げをお願いして、認められます。 (2014.1.7) レポート13: 東禅寺警護(3)=生麦事件直後の警護にあたる延岡藩の中に緊張感が走ります。(2013.12.18) レポート12: 東禅寺警護(2)=警護にあたる延岡藩の服装と当時の残っている写真や合言葉を 紹介します。 (2013.12.14) レポート11: 東禅寺警護(1)=第一次と第二次東禅寺事件直後に、延岡藩へイギリス公使館である東禅寺の 警護命令がでました。そもそも東禅寺事件とは? (2013.12.14) レポート10: 三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、慶応3年に、土佐藩の為に、 グラバーから軍艦を購入している記録が、延岡藩資料に残っていました。それを本邦発公開します。 軍艦の値段も興味深いです。 (2013.12.10) レポート9: 大名跡である柳家小さんの2代目は、延岡藩の武士出身だったことを紹介しています。(2013.11.1) 2代目の小さんの墓所についての情報を追加しました。 (2015.11.10) レポート8: 最後の殿様である政挙公は10歳でその地位につきました。激動の時代と幼君のため藩内に不安が走ります。 檄文が出ました。それを紹介します。 (2013.11.11) レポート7: 桜田門外の変を延岡へすぐ知らせるべく使者を決めましたが、どうした訳か、3日ほど出発を遅らせ、 しかも、報告内容を変えました。その理由は・・・ (2013.10.30) レポート6: 井伊直弼は、部屋住の若いころ延岡藩の養子になる面接を受けましたが、実は延岡藩の記録では、 最初から、彼の可能性はありませんでした。 今回、初めて分かったことです。 (2013.10.8) レポート5: 延岡藩の江戸時代の抱屋敷であった渋谷屋敷について、場所の同定を行いました。 同時に、内記坂の起源とされる横山内記の屋敷の場所がわかりました。 (渋谷区や)以前からの言い伝えは間違っていることを示しました。 (2013.8.16) レポート4: 延岡藩の下屋敷である六本木屋敷の位置を示しました。 今の六本木のど真ん中にありました。(2013.8.16) レポート3: 幕末期のごく一部だけ延岡藩の抱え屋敷になった本所の屋敷を紹介しました。 本所屋敷の報告は当報告が初めてではないかと思います。 池上正太郎の鬼平犯科帳での引用は間違っていたことを示しています。 (2013.7.5) レポート2: 虎の門上屋敷(2)=現在の屋敷跡の様子を紹介します。隅櫓(すみやぐら)へ思いをはせます。 維新後、東大工学部の前身が設置され、その後、女学校、現在、文部省と移りました。 まだ石垣が少し残っています。 (2013.7.1) レポート1: 虎の門上屋敷(1)=延岡藩の上屋敷は、現在の文部省の位置にありました。 当時の浮世絵と地図を紹介します。まだ石垣が残っています。 「江戸一目図屏風」にも描かれていることを見つけました。 (2013.7.1) 幕末期の延岡藩の屋敷の写真を見つけました。 (2014.10.10) |
Last Update: 2015/10/26メニュー自己紹介0)延岡藩の紹介 1)上屋敷=虎ノ門(1) 2)上屋敷=虎ノ門(2) 3)本所屋敷と鬼平犯科帳 4)下屋敷は六本木の中心 5)渋谷屋敷と内記坂 6)桜田門外の変と延岡藩(1) :井伊直弼を延岡藩主に? 7)桜田門外の変と延岡藩(2) : 事変を延岡へ急報 8)幼君と檄文:最後の殿様 9)2代目-柳家小さんと延岡藩 10)岩崎弥太郎とグラバー 11)イギリス公使館と延岡藩(1) :任命のどたばた 12)イギリス公使館と延岡藩(2) :警護 13)イギリス公使館と延岡藩(3) :生麦事件 14)錦章拝領願い :官軍になりたい延岡藩 15)維新後に軍艦購入 :藩の海軍増強意欲 16)いろは丸沈没事件 :坂本竜馬登場 17)勝海舟と延岡藩(1) 18)勝海舟と延岡藩(2) 19)江戸日誌(1)=登城コース 20)江戸日誌(2)=着座位置 21)江戸日誌(3)=代理登城 22)江戸日誌(4)=坊主への付け届け 23)桂小五郎=延岡藩の資料に登場 24)火付盗賊改方が延岡藩を取り調べ 25)辻番を請負に出している延岡藩の苦闘 26)大名家の正月の過ごし方。延岡藩上屋敷の記録 27)第2次長州征伐(1)=将軍進発 28)家康250回忌=慶応元年 29)第2次長州征伐(2)=軍令配布 30)第2次長州征伐(3)=出陣直前のドタバタ 31)第2次長州征伐(4)=充真院一行が将軍隊とすれ違う 32)第2次長州征伐(5)=延岡藩の出陣時の陣容と武器と出征侍の氏名 33)第2次長州征伐(6)=出陣直前の人集めと庄屋からの寄付 34)第2次長州征伐(7)=延岡藩の出陣につき古式に従った出陣式を 35)第2次長州征伐(8)=天気伺い(天皇への挨拶)をすべきか 36)第2次長州征伐(9)=真夏の東海道進軍:洪水による川止めで大難儀にあう 37)第2次長州征伐(10)=出陣前の大阪での1年間滞在と大阪屋敷 38)第2次長州征伐(11)=いざ藝州口へ(前) 39)第2次長州征伐(12)=いざ藝州口へ(後) 40)第2次長州征伐(13)=小倉口からの偵察隊報告 41)将軍家茂の薨去=幕府の葬儀のしきたり 42)慶喜(1)=15代将軍に宣下される 43)大名屋敷の火事としきたり 44)慶應3年(1)=孝明天皇の崩御と明治天皇即位の知らせ 45)慶應3年(2)=延岡藩の持ち場で事件:幕府に判断を仰ぐ 46)慶應3年(3)=延岡藩の厳しい財務状況 47)慶應3年(4)=四侯会議と延岡藩 48)慶應3年(5)=幕末の経済関連特集 49)慶應3年(6)=大政奉還(1) 50)慶應3年(7)=大政奉還(2) 51)鳥羽伏見戦(1)=江戸延岡藩邸 52)鳥羽伏見戦(2)=京阪での延岡藩 53)鳥羽伏見戦(3)=大阪での混乱 54)鳥羽伏見戦(4)=嘆願書作成 55)鳥羽伏見戦(5)=肥後藩が延岡藩救済 56)鳥羽伏見戦(6)=延岡の謹慎がついに解ける 57)江戸藩邸閉鎖(1)=明治元年1月から3月 58)江戸藩邸閉鎖(2)=明治元年3月 59)維新時の延岡藩改革 =明治元年3月 60)延岡藩の武芸帳と南蛮流柔術 61)胤康(1)=誕生地から終焉地まで 62)胤康(2)=胤康の思想形成と骨格 63)胤康(3)=寺田屋事件と胤康 64)胤康(4)=胤康の召し捕り 65)胤康(5)=胤康の最期 66)長崎キリシタン弾圧 67)江戸城本丸消失 68)江戸城本丸消失(2) 69)町民が武士を訴える 70)御朱印(1) 71)御朱印(2) 72)御朱印(3) 73)彰義隊 74)明和地震 75)安政江戸地震 76)福沢諭吉の中津留別の書 77)明治元年〜4年シリーズ(1) 78)明治元年〜4年シリーズ(2) 79)明治元年〜4年シリーズ(3) 80)安政2年シリーズ(1) 81)安政2年シリーズ(2) 82)安政2年シリーズ(3) |
明治維新は、日本歴史にとって、若者が国家を憂えて行動した革命であり、それ以前の、鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府の設立とは本質的に異なるものである。
【延岡藩とは】現宮崎県延岡市を中心とした宮崎県北部と、現宮崎市の一部と、大分県の国東半島の北部と現湯布院あたりを領地とする。不思議なことに、現在「昭和の町」でヒットしている豊後高田市や、人気温泉地の湯布院など、今天下の地が多い。九州では珍しい譜代大名であり、7万石を領した。 江戸時代に入ってからも、以下の表のように、計5大名が延岡藩主となっている。 これから当HPで扱う幕末は、最後の内藤家の支配下にあり、同家が、最も長く延岡と縁があり、125年を治めた。 その中でも、幕末激動期は、第7代:政義(まさよし)と第8代:政挙(まさたか)の時代である。 右上図は、延岡藩の上屋敷を泥絵と言われる手法で描いたものである。今後のレポートにもあるが、延岡藩上屋敷は、江戸時代でもよく絵の対象となった観光名所である。現虎ノ門のそばの外堀に張り出した独特の配置をしている。 【延岡藩領地】
【延岡藩の歴代藩主】
【内藤家】
【幕末年表】
|
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|