二代目小さん

No.9> 二代目-柳家小さんと延岡藩
   藩士出身の落語家

今回のトピックス

  大名跡である柳家小さんの2代目は、延岡藩武士出身であった。   幕末時に、武士を捨て、落語家へ転身したのであった。時代の変化を感じ取ったのかもしれない。

  二代目小さんについては、資料が少ないことも有り、出典の不明確な話しかなかったが、今回のレポートで、
  確かな資料に基づく二代目小さん像が少しは明確にできたのではないでしょうか。  (2013.11.1)


【1】 柳家小さん

落語の世界では、「小さん」という名跡は、代表的なもので、特に「大名跡」といわれる数少ない名跡である。
先年、亡くなった人間国宝でもあった「小さん」は、五代目であり、名人と言ってよい人であった。
歴代、「小さん」は、時代を代表する名人であったので、現在の六代目にも、より精進していただきたい。

中でも、三代目は、明治中から後半に活躍した人で、夏目漱石の著書「三四郎」の中で、登場人物の与二郎に
「三代目小さんは天才だ」
と語らせているが、漱石自身の意見であることは間違いない。

その師匠であるに二代目-小さんの落語家としての紹介は、後の章で詳述するが、彼は、近代落語の創始者のひとりである。
その二代目-小さん(以後、特に述べない限り、小さんと略する)は、延岡藩の武家出身の変わり種であることは、マニアの世界では、
知られていることではあるが、文献やインターネットの世界では、同じ情報を、多くの人が引用しあっているだけで、
元となる情報源は少なく、怪しげでさえあるのが実情である。

今回は、内藤家資料など、信頼できる情報源に限り、二代目-小さんの実像を明確にしたい。

  

【2】小さんの生まれは?

二代目-小さんは、本名を大藤楽三郎といい、嘉永3年(1849年)8月 に、虎ノ門にあった延岡藩の上屋敷内の長屋で生まれた。
七人兄弟(男6人、女1人)の五男であった。長男と三男が、早世したので、実質、男3人兄弟であった。
二男を大藤実蔵(別名、久甫)といって、早く、家督を継いでいた。
鳥羽伏見の戦(慶応4年1月)には、実蔵が、内藤藩の一兵士として参戦している。

内藤家資料(資料1、資料2)によると、内藤実蔵は、御坊主組で、切米20俵二人扶持であるから、かなり下位の武士である。

明治2年に、殿様は、江戸詰めになり、少数の武士を連れて上京しているが、その中にも、実蔵は含まれていた。
残念なことに、楽三郎自体の記録は今のところ見つけられてはいない。

ただ、楽三郎の弟の孫の方が、宮崎県に居られて、その方の記録が残っている。(資料3)

楽三郎の弟は、大藤節夫(幼名鉉八)といった。
内藤家資料に、大藤玄八という人物の記録がある。
大藤鉉八と大藤玄八は、同一人物ではないかと思われるが、確信はない。
珍しい名字なので、偶然の一致とは考えにくい。ちなみに、大藤玄八は、楽隊に属し、下士の身分で、五番小隊に属している(資料3)。

楽三郎の弟の大藤節夫(幼名鉉八)の履歴書が残っている。それによると、

「宮崎県延岡藩士族、安政元年甲寅七月十三日 武蔵国東京麹町 三年町 内藤邸内ニ於イテ生ル」

とある。参勤交代に妻が同伴することはなかったのであるから、彼らの母親は、ずっと江戸に居り、
その長屋に居たわけである。従って、兄の楽三郎も、虎ノ門近くの上屋敷内で生まれたはずである。

上記の鉉八の履歴書に出てくる地名に付いて、付記する。
明治11年(1878年)11月2日に、大区小区制廃止となり、東京府麹町区が誕生している。
その中に、三年町があり、現在の霞が関と永田町付近に対応している。
確かに延岡藩の上屋敷の住所である。

楽三郎は、幕末中に、武士を捨てたという記録があるが、正確にいつなのかは、不明である。
(慶応4年=1867年以前である)

小さんは元延岡藩士だから、安直に、延岡生まれと勘違いしてある記事もあった。
彼は、江戸で生まれて、幕末時代には、延岡に行ったことはなかったのではあるまいか。

昔、江戸の噺家には、言葉のなまりの問題で、江戸出身者しかなれなかった。
品川出身でも、江戸生まれではないといって差別された時代である。
延岡で生まれ育ったのであれば落語家にはなれなかっただろう。

【3】 小さんは、高島流砲術をならったか

(1)砲術家の高島秋帆とは?

高島秋帆(寛政10年8月15日(1798年9月24日) - 慶応2年1月14日(1866年2月28日))は、幕末時代の砲術家である。
長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の3男として長崎に生まれた生まれた。
出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学んで、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。

清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、
秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、
武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平:この地名は、高島秋帆に由来する)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。
この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。

幕命により江川英龍や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。

しかし、幕府から重用されることを妬んだ鳥居耀蔵の「密貿易をしている」という讒訴により翌天保13年(1842年)に
長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。

武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。

「海防が不整備ではアメリカとは戦えない」とし、再度の処罰を覚悟の上で『嘉永上書』を幕府に提出。
攘夷論の少なくない世論もあって、その後、安政4(1857)年に、幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、
幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した。慶應2年(1866年)、69歳で死去した。

(2)小さんは高島秋帆(しゅうはん)から直接習ったのか?

秋帆は、死去する間際まで指導していたという。最晩年の慶応2年(1866年)において、小さんは、17歳ということになる
不可能な年ではない。5代目小さんの話として、「2代目小さんは、高島秋帆の塾に通って砲術を学んだ。
そこで、後に元帥になる大山巌と同窓だった」
というのが、紹介されている(資料4)。

確かに、延岡藩は、高島流砲術に熱心で、高島流を習熟した延岡藩士の吉岡数馬が弘化4年(1847年)3月13日に、
長州藩に西洋砲術を実演しているのである。藩内に、そのような先駆者がいたくらいである。

余談だが、内藤家資料に面白い物を見つけた。「高島流大砲打方欠席者」という資料である。
定期的に行っていた砲術訓練に欠席した人間の氏名が書かれた「覚」が残っている。
何でも、残している内藤家資料の面目躍如ではある。この欠席者氏名の中に、小さん(楽三郎)を見つけることはできなかった。

【4】明治23年の出来事:送別会での小さんの余興

延岡藩の最後の殿様である「内藤政挙」は、明治時代になって、東京住まいをしており、延岡の家や、内藤家が運営していた、学校や鉱山は、家令が代理していた。
しかし、明治10年の西南の役や、明治17年(1884年)の延岡大火で衰微した旧領の復興と教育振興のため、
明治23年に、政挙は、延岡に戻って定住することを決心した。

そこで、東京に残る旧藩士たちが、送別会を開いた。その送別会への出席者の一人がその時の様子を残している。
藤田一松(別名、弧松)は、延岡藩士の子弟で、明治になって、内藤家の私学「亮友社」で学んだ後、慶応義塾へ入り、後に、慶応大学の教授になった人である。
彼は、明治18年には、既に、慶応義塾へ入学しているという記録があるので、幕末の生まれであろう。

その彼が、思い出として「思ひいづるまま」(昭和9年刊)という書物を著している。
その中に、そのいきさつが書いてあるので、そのまま引用する。

「 内藤政挙公が、郷里へ御移住の事に決定したから、此の月(明治23年7月)の12日に御送別の宴を、芝の湖月楼に開催した。
  内藤一族の御光臨を仰ぎ、主人役としては、四谷恒之、(?)行英(?)、楠正元、柏木延一郎、三浦得一郎の諸氏を始め、
  旧藩人60余名。
  余興には、柳家小さんの落語などあって盛会を極めた。

  此の小さんという人は、大藤実蔵という延岡藩士の弟であるが、藩政の時代に両刀をかなぐり捨てて、落語家になったのだ。
  当時の思想から考えたら、実に思い切った英断で、急転直下の職業転換だ。

  しかも、東京一流の落語家になって成功し、その小さん名は、今は、存続三代目位になっている。
  余も寄席で彼の話を幾度か聴いたが、軽妙滑脱、 実に上手なもので、特に殿様の話が得意で非常に人気を呼んだものだ。
  彼の「将某の殿様」という題目の話などは、実に面白可笑しく、御臍の皮をよらせられた。

  この宴会に出演依頼に、柏木氏と余とが、彼の宅に行って、色々と浮世話をしたが、唯の座談でさえ、面白く思った。

  御面相は、余り褒めた方ではなかったが、
  紋付、袴で政挙公の前に威儀を正した時の風采は立派なもので、どこか昔しのばるるゆかしいところがあった。
  謝礼に7円包んだと覚えているが、この時代の相場としては、只、一席の落語に珍しい奮発したものだと思った。」


この「思ひいづるまま」には、先代正義公の最期の様子(明治21年11月18日)も書かれている。

明治になったとはいえ、まだ、大名の様式が残っていた時代に、藤田一松が、未明に井伊家に連絡に走っている。
門番を起こし、井伊家主人に報告するところのしきたりは、我々の知り得ない重厚さがあって興味深かった。

また、政挙が、延岡に着いた時の、旧家来の土下座をしての出迎えの様子も、今では想像もつかない主従の関係の強さを示している。

【5】 落語家としての小さん

(1) 履歴

楽三郎は、時期は不明ながら、幕末に、芝居噺が得意な初代-柳亭燕枝(後に談洲楼燕枝)に入門、柳亭燕花と名乗る。
しかし、落語の世界をいったん飛び出し、静岡に住んでいた。しかし、明治9年に、師匠に詫びを入れ、静岡に住んでいたことから、燕静と名乗った。

明治12年   柳亭燕寿と改名して、東京の寄席に復帰している。
明治16年1月1883年2代目-柳家小さんを名乗った。初代小さんが、師匠の燕枝と兄弟弟子だったことから、2代目への指名となった。
明治21年3月1888年禽語楼小さん を名乗る。
  顔がチンクシャで「珍面美人愛嬌の徳」などと新聞に書かれている。
  その声は、高調子で能弁であったために、贔屓の医学博士・松本順に「禽語楼」の号を贈られたのを期に、
  3月に弟子の初代柳家小三治に3代目小さんの名を譲り、両国中村楼で改名披露を行う。
  禽語とは鳥の鳴き声の事で、小さん自身が鳥の仕草が上手かった事からこの号が与えられた。
  他にも猫というあだ名もつけられた。
明治28年3月1895年初代-柳家禽語楼と改名したが、この頃から人気も下火となる
明治31年7月1898年50歳で他界


   (追加:2015.11.9)小さんの墓所は、養白山西光院(東京都台東区)にある。

   墓石には、禽語楼という字の上に猫の絵が彫ってあり、額と髭とがちょうど小三という格好になっている。
   戒名は、「浄光院清音明響居士」(明治31年7月3日没。享年49才)

(2) 落語家としての小さん

明治初期、落語の世界は、「三遊」派と「柳」派に二分されている。
そして、落語の世界は三遊亭円朝を頂点に、大真打は、トリにて、芝居噺、怪談、「人情はなし」等を長噺、続き噺をするのが不文律であった。

そして、自分の事を、「噺家(はなしか)」と称するのが普通であった。
ところが、小さんは、一席の滑稽はなしで、寄席を大いにわかしていた。
そして、「滑稽はなし」を売り物にする自分の事を、「落語家」と称していた。

滑稽自在の能弁を以って、三遊派のスター初代-円遊と人気を二分した。
そして、彼らは、新しい落語の旗手として、仲も良かった。
その初代-三遊亭圓遊のステテコ踊りは、小さんの燕寿時代に座敷で披露したのを見て圓遊が真似たのが最初だといわれている。

兵隊落語や、ジェスチャーで有名な「柳家金語楼」が、その名を名乗るに当たり、故人となっていた禽語楼に敬意を表して
未亡人の所へ行き、「禽」の代わりに「金」と名乗ることの了解を得ている。(5代目小さんからの話:資料4)

小さんの門人としては、先の3代目柳家小さんの他に、2代目談洲楼燕枝などを輩出しており、
他に、5代目三升家小勝、3代目三遊亭圓橘、初代三遊亭三福等もいる。

  小さんは、自分が武士出身ということもあって、殿様ものを得意とした。
得意ネタとして、「目黒のさんま」、「盃の殿様」、「将棋の殿様」、他に、「五人廻し」「廓大学」「猫久」などがある。

(3) 「目黒のさんま」(小さんの初演 明治24年)

この噺は、2代目小さんの作か、それとも、やはり得意ネタとした彼の師匠である春風亭燕枝の作かは不明である。
ただ、この舞台である目黒は、当時、目黒不動尊から渋谷辺りを指した。
この付近に、延岡藩の渋谷屋敷があり、渋谷屋敷は、馬術などの訓練の場であったから、小さんもなじみがあったのではないかとも思われる。

(4)「盃の殿様」

これは、小さんの作である。この噺の大意を示すと、

「領地が、江戸から、300里離れた所のある殿様が、参勤交代で江戸に上がってきた時、ノイローゼになった。
 心配した家来が、殿様に、気晴らしに、吉原に行くことを勧めた。

 すると、殿様は、その合い方に、すっかりぞっこんとなった。ところが、任期が来て、自分の国へ帰ることになった。
 しかし、国表で吉原の花魁が忘れられず、盃を交わしたくなった。
 殿様は、自分の飲んだ盃を、花魁と交わすため、足の速い家来を江戸へ向かわせ、盃を交わすという痛快な話である。」


筆者は6代目-円生によるこの話が大好きである。是非、お楽しみあれ。

この話の中で、殿様の領地が、江戸から、300里(1200km)という距離である。
江戸から延岡の距離なのである。つまり、モデルは、延岡の殿様なのである(参照>レポート7)。

この話に出てくる殿様は、決して間抜けではなく、愛すべき人である。目黒のさんまに出てくる殿様も、愛すべき人である。
武士出身の小さんの礼儀ではなかったかと、筆者は思う。

【6】資料

資料1: 内藤家資料=2-12由緒―196=定江戸分限帳、 1-29維新―126=大阪出陣の面々
資料2: 宮崎県通史=別編=維新期の日向諸藩=P72-73。「お召連れ御家来人 別 お届け」(明治2年4月12日)
資料3: 内藤家資料=2-3藩政一般―113-17、 2-3-藩政―113-16=5番6番下士名簿
資料4: 内藤家顕彰会誌「亀井」(平成12年)(非売品)
資料5: 藤田一松著「思ひいづるまま」(昭和9年刊行、延岡新聞社 1934年)


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