幼君と檄文

No.8> 幼君と檄文
      最後の殿様

今回のトピックス

  幕末の延岡藩内に誠忠義士連なる連中の檄文が出回った。
  すわクーデターか? いや、大山鳴動して、ネズミも出なかった。

  この時、延岡藩の藩主は11才の幼君であったが、また、最後の殿様であもあった。
  この時代には、藩内になんらかの不安と不満があったのかもしれない。  

  最後の殿様である政挙のその後のエピソードも紹介しています。  (2013.11.1)

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  次のレポート9にも、二代目-小さんと政挙のつながりを紹介しています。      


【1】 時代:文久3年(1863年)  

2年ほど前に、桜田門外の変が置き、その時の藩主、内藤政義は、井伊直弼の実の弟であった。事件後、井伊家は、世間を騒がしたということで、被害者であるにもかかわらず、35万石から25万石へ減封を課せられて厳しい批判を浴びた。

井伊直弼の弟で延岡藩主である、内藤政義も、責任を感じたか、延岡に累が及ぶのを恐れたか、彼自身、壮年期である時に、養子が10歳とまだ幼いにもかかわらず、家督を譲ることを決心している。彼ほどの知識人が、この時の、そしてこれから起きるであろう世上の不安を意識しなかったとは思えない。政義は、その後、明治21年まで長生きしているので、健康の不安でもなかったろう。

政挙が養子縁組したのは、桜田門外の変の年、万延元年(安政7年)である。正義にも、責任論が出るかもしれないと考え、あわてて、養子縁組をしたと思われる。

文久1年、文久2年には、イギリス公使の置かれた東禅寺への襲撃があり、公使は、危うく難をのがれたが、イギリス人側に犠牲者が出た事件が起きている。そして、文久2年の7月には、延岡藩は、その東禅寺の護衛を任されている。2度事件が起きた直後である。

そして、文久2年8月には、横浜の生麦で、薩摩藩の大名行列にイギリス人が無礼にも馬に乗ったまま通過しようとしたことで、イギリス人が薩摩藩士から切られた事件が起きた(生麦事件)。世の中は、薩摩藩は良くやったとはやした時期である。イギリス公使館の護衛は緊張したことが想像できる。

そのような、世の中騒然の時期の、文久2年の10月に、10歳の息子に家督を譲るのは無責任ではないか。あるいは、そのような圧力が幕府からあったのか? 文久2年(1862年)10月24日に、政義が隠居したことで、養子である政挙が、10歳で、第8代藩主となる。

まず、その時代の雰囲気を見るために、年表を示す。

【2】 幼君が藩主となった延岡に檄文が出回った

政挙が、家督を継いだ翌年の文久3年(癸亥=1863年)に、延岡(城内?)に、誠忠義士連と称する連中(単独?)の檄文が延岡城内に出廻った。その文を見てみよう。

大意は、
「当今、武備を充実に取掛るべきなのに、妄吏は、利慾に、我が身を耽る覚悟で、非常時の備えを決めることを一切していない。

御登上の時に、御恥辱になるような処置をし、また、延岡は、最近、勝手に、命令され、依怙(贔屓)で不平等の時勢をも、顧みず、法外に不仁の取り計らいで、その外、姑息な暴政も少なからず。

すべて、御幼君の御仁徳を醸すような取業は、天罰を避けられず、不届きの至極にて、御家の差し迫ったこの時に、よって、いよいよ武備をし、立ちあがり、身命を投げ打つ程の潔さは無いというのは、御家君のため、一列、各々、悔いを始め、日を限りて、天誅を加えるので、後悔が、無い様に、兼ねてから、心得て、過ごす様に。

亥年冬(=文久3年=1863年)」


ここで、御幼君というのは、徳川の殿様、家茂(当時17才)のことではなく、延岡藩の最後の殿様になる政挙のことで、この年の前年(文久2年=1862年)に、先代の藩主、政義(当時、42歳)から、急遽、家督を継ぐことにになった。この時、政挙は、満で、10歳であった。家督を継いだ年の翌年の延岡で、この檄文が出たのである。

年表を見ると、文久3年とは、桜田門外之変の3年後で、長州藩が、英国艦船を長州で砲撃した年である。翌年は、京都で、池田屋事件や、長州藩による禁門の変、そして、第一次長州征伐が起きるという維新期の激動期が始まろうという時期に、心身ともに最も充実した時期の政順公(当時42歳)から、10歳(今でいうと、小学4年〜5年生)の幼い殿様に引き継いだのである。

もしも、井伊直弼が延岡藩主になっていれば?
安政の大獄や桜田門外の変という日本の悲劇は、決して起きなかった。そして、これからの延岡藩に起きる判断ミスも起きなかったかもしれない。明治以降の延岡の歴史は変わって居たろう。しかし、そうならなかったが故に、井伊直弼は、家柄から、早々に、大老となり、桜田門外の変がおき、その結果、延岡の藩主も若くして、家督を譲らざるを得ない状況に巻き込まれた。歴史は、1つの歴史の流れの様に、延岡まで累が及んだのである。

これからの日本に起きる最大の激動期に、延岡では幼君で立ち向かわざるを得ないという延岡藩の悲劇がこれから、際立ってくるも歴史の必然であったともいえるのである。

この檄文では、武備を充実すべきであると主張している。そして、新殿様が、仁徳者である、つまり、戦を望まないがゆえに、軍備をすべきではないという論争があったのか。また、御登上の時に、恥辱となる何かがあったのか。そして、延岡藩に理不尽な云いつけがあったのか、そこは、この檄文だけでは不明である。この点については、別の機会にふれよう。

この檄文を書いた人物は不明であるが、武備を急ぐべきというのは、これからの時代の激動を考えると、間違っていない。しかし、彼は、日本という広い世の中の変化を、全然、読み取っていいる気配が無く、自藩の重役に対する不満を述べているにすぎない。やはり、井の中の蛙のままであるという悲しさが漂ってくる。延岡の坂本竜馬になる玉ではなかったようだ。

延岡藩は、この文久3年(1863年)から、明治元年(=慶応4年=1868年)まで、判断ミスを重ねるのである。従来の考えからすれば、譜代大名である事から、徳川に付くべきであるが、時代の激変時期に、世の中の動きを判断できる人であれば、薩長側に付くべきであった。この大きな決断が、幼君には無理であり、それを支える家臣団もできていなかったことが不幸の始まりであった。せめて、政順が藩主のままであったらと考えるのであるが、井伊直弼の弟であるがゆえに、新政府側に付くことはできなかったかもしれない。延岡藩の不幸は、井伊家の養子を受け入れざるを得なかったことから始まる。

この幼君の下、延岡藩は、東禅寺の襲撃、生麦事件とそれにつながる薩英戦争の渦中に、イギリス公使館防備に付くという海外と否応なく接触をするのである。そして、第一次(元治1年=1864年)、第二次長州征伐(慶応1年=1865年)、鳥羽伏見の戦(慶応4年=明治1年=1868)のいずれでも徳川側に付く判断をしたのである。

その結果、延岡藩は、新政府から、睨まれ、何とか、言い逃れをしたが、以後、率先して、新政府側に気に入られようと、痛ましい程の忠誠をつくそうとし、錦の御旗を欲しがり、延岡城の放棄も率先し、その結果、今の延岡の原型である、「城の気配の無い街並みがが出来上がる」事になる。
しかし。明治10年の西南の役で、反政府という暴挙にもう一度出てしまい、重ねて、ミスを犯してしまうのである。それは、これからの別のレポートで扱っていく。

【3】内藤政挙 

内藤政挙(嘉永5年5月10日=1852.6.27〜昭和2年5月23日=1927年)
遠江掛川藩主・太田資始の六男。明治23年に、本格的に延岡へ移住し、延岡の教育、産業の振興を行った。(参照>レポート9=二代目-小さん)

教育>

藩校の系譜を引く亮天社を内藤家の私学校として起こし、延岡の子弟の教育を行った。

明治4年 :藩校“広業館” 廃校
明治5年:1月藩校の建物を利用して岡富に"延陵社学"として中等教育を開始した。
内藤家などの出資によるものであった
明治7年:”亮天社”(りょうてんしゃ)と改称された。
 内藤家の私費で維持され、学生は、授業料は無料で、教科書も無償で提供されていた。また、教科書は、ほとんど原書を用いた。政挙自身が、慶応大学に入学しており、福沢諭吉とも昵懇の仲だったこともあり、亮天社の卒業生は、全員、慶応大学に無試験で入学できた。

亮天社は、明治22年(1989年)に、宮崎県立尋常中学高(現、大宮高校)が、設立されるまで、16年間、宮崎県で唯一の中学校だった。

<女子教育>

明治9年 :この本小路の亮天社の一室に女児教舎がつくられ、
明治11年:亮天社から切り離して、本小路42(後の延岡小)に移された。
明治23年:女児教舎は、内藤家の経営となり、
明治34年:私立延岡女学校と改称された。
明治36年:今の岡富中の場所に移り、
明治39年:延岡女学校本科は延岡高等女学校に、技芸科は女子職業学校となる。 
   昭和4年に県立に移管されるまでの約60年の間内藤家の経営であった。

今の岡富中学校の地は藩の役所のあった所で、
藩校→亮天社(女児教舎)→延岡女学校→延岡高等女学校→県立高等女学校→県立延岡岡富高校→岡富中学校
と、ずっと教育の場であり続けている。

<公立校へ>

明治32年3月:県立(旧制)延岡中学校が、現延岡高校の場所に設立されるに伴い、亮天社は、廃校となる。亮天社の跡(現、岡富中学)は、延岡高等女学校となった。

延岡中学の第一回卒業生(明治37年)は、48人いたが、若山牧水は、この中の一人である。牧水は、同中学に、主席近くで入学したが、ほとんどビリで卒業している。
   大正9年に、後に黒澤明の映画でも有名な名優の志村喬が、延岡中学に入学している。
     (大正11年には15学級750人となっている)。
昭和23年3月:県立延岡中学校は第45回卒業式を行い、50年の歴史を閉じた。
     県立高等女学校・商業学校も昭和23年3月に閉校になった。
昭和23年:延岡には二つの県立高校、延岡恒富高校と延岡岡富高校が置かれた。
昭和24年:岡富高校は1年で廃止となり、合併して延岡恒富高校 1校となる
昭和34年4月:延岡恒富高校は「延岡高校」と改称した


渥美清主演のTVドラマ「泣いてたまるか」で、昭和42年6月放送の「先生故郷へ帰る」では、延岡高校が舞台とり、上図にある校庭の杜を含めた校庭での体育授業風景が映っている。同校は、筆者の母校のため、少し詳しく述べた。

政挙は、新潟県出身の若い鉱山技師の笠原鷲太郎を招聘して、日平銅山の経営に着手した。明治29年(1896年)3月には銅山内に日平尋常小学校を設立して従業員子弟の教育に配慮している。明治43年(1910年)1月には延岡電気所を設立した。電力事業は築港とあわせ、今日の旭化成につながる日本窒素の工場誘致の呼び水となり、今日の延岡市の経済的基礎を築くこととなった。

内藤政挙は、今の延岡の基礎を作った恩人であり、今も、延岡市民の尊敬を集めている。彼の偉業を顕彰すべく、生前の大正6年に、延岡城址に大きな銅像が建てられた。
 先の笠原鷲太郎は、延岡に来てから生涯、延岡のために尽くしている。そして、昭和6年に亡くなる時、「墓は、旧延岡城と政擧公の銅像が見える所に建ててほしい」という遺言し、その通り、彼の墓は、天守山の中腹にある。政挙と延岡を心の底から好きだったのだろう。

【4】太田資始:内藤政挙の父親

太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名で、遠江掛川藩の第5代藩主である。生涯、3度、老中に着いたが、最後は井伊直弼と衝突し、更迭されている。この太田資始の4男が、内藤政義の養子となり、内藤政挙を名乗った。彼の義父は、井伊直弼の弟であるから、彼は、実の父のライバルの弟の養子となったわけである。

1)1回目の老中就任と水野忠邦との確執

太田 資始は、第11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に、1回目の老中となった。 しかし、老中首座の水野忠邦と合わず、上知令、出羽庄内藩転封、倹約令などにそのつど反対した。また、忠邦を幕閣から追放せんとして策謀をめぐらし、忠邦の天保の改革を潰そうと画策した。それが、露見し、逆に、資始のほうが天保12年(1841年)6月、老中から罷免され隠居した。跡は長男の資功が継いだ。

2)老中再任

安政5年(1858年)に、再度、老中に再任された。大老・井伊直弼は堀田正睦、松平忠固を罷免し、代わりに太田資始、間部詮勝、松平乗全ら老中経験者3人を老中に起用した。既に家督を譲った隠居を老中に起用するのは大変異例なことであった。しかし、ここでも資始と直弼は尊王倒幕志士らの弾圧をめぐって意見が対立した。安政6年(1859年)、再び老中を罷免された。

3)三度目の老中に

文久3年(1863年)に老中に3度目の就任をしたが、在職1ヶ月で辞職した。

【5】 資料

@3-20維新-316 :「延岡藩妄吏天誅檄文」(文久3年)


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