今回のトピックス |
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黒船がきて日米和親条約は結んだが、それが今後どれだけの影響を与えるかの実感が、 まだ形成されていない安政2年のエピソードである。 江戸時代そのもののエピソードを紹介します。 (2022.4.3) |
今回も、幕末の記録からだが、特に、今回は、侍社会だけではなく、市中の話も盛り込みたい。
最初に、殺人の容疑者の指名手配書が、幕府から延岡藩にきたという話である。
現代の写真などが整備された指名手配でも、なかなか、容疑者が捕まらないことが多いのに、江戸時代は、猶更つかまりにくいとは思われる。
映画などでは、絵付き人相書きをよく見るが、今回のは、絵は付いていないようだ。
もう一つは、延岡藩の武士の息子を江戸に留学させたいという親の話である。
ある延岡藩の武士が江戸に上るときに、息子を同行させてもらう話で、ついでに、延岡藩から江戸屋敷への手紙も運ぶという話である。
その手紙には、海岸防禦の際の武士の服装についての指示である。
ペリーの最初の来航が、嘉永6年(1853年)、そして、2度目の来航がその翌年(嘉永7年=安政元年=1854年)の1月で、
同年4月に日米和親条約が結ばれている。
同年6月に、黒船は日本を去っている。
今回の件は、その翌年の安政、2年の出来事であるが、延岡藩には、まだ真の緊張感は感じられない。
幕府=公儀から延岡藩に届いた殺人の容疑者(お尋ね者)の指名手配書である。
この犯人は、遠州(今の静岡県)金谷の在のもので、母殺しの容疑者である。
その犯人が江戸市中に紛れ込んだ可能性があるのだろう。
内容を見てみよう。
「(安政2年=1855年)2月25日
1.一昨日の二十三日に、公儀からの、お触れが来た。
お尋ね者である與左衛門の人相書きを(延岡藩の)御家中に組触れをもって、(延岡藩トップが)仰せ出でられた。
然るべき旨、相続し達し、お聴を相済ませたので、
今日、御番頭の今村通左衛門と、御中小姓組世話役の鈴木龍平の御用部屋に
相板(アイハン:複数が共同で出版)でお書き付けを相渡し候。
1通 御番頭に、
1通 御中小姓組
1通 大目付
附札
右の通り、御家中に、仰せ出でられたので、
組触れの済ませた分は、
前の通りに、各より、申し通されるべきに候。
<指名手配書>
去る寅(安政元年=1854年)10月中、
遠州(現静岡県)椿原郡 金谷河原町の与次内の女房さよを
殺害に及び候趣に、想取される。
右、与次内の倅(セガレ)の与左衛門の人相書きである。
1.年齢27歳
1.(身長)中丈より少し低き方
1.中肉色白き方
1.顔丸き方
1.目口常躰(ふつう)
1.鼻低く前歯悉く並みより小さき方
1.月代(サカヤキ)も眉毛とも薄き方
1.出額にて、額に少し切り痕部 一か所有り。
1.言舌しづかにて、少し、どもり候方
1.その節の衣類など、
木綿 茶堅縞(ケンジマ)の袷(アワセ)=目落色(色落ちしている)。
皮堅縞の半纏(ハンテン)=目落色
小倉帯をシめ、納戸色(鼠色を帯びた色)の股引(モモヒキ)を組み、
脚絆を履いていた。
「右の通りのものが、いた場合は、その所に留置く。
御料は、御代官や、私領は領全地頭に 申し出無しより
江戸において出たかか、 当方に申し出るべく候。
若し、見取りに及んだら、其の段も申し出るべきこと。
尤も、家来や、(出入りの)もの等を、入念に吟味するべきこと。
もし、隠し置いて、脇から知られるなら、曲事(クセゴト)と為すべき候。
卯二月
右お書き付けの通りの段、
公儀から 仰せ出でられたので、写し取り、
自分は、申すに及ばず、召仕(メシツカイ)などまで、
心当たり有無の儀、大目付所まで、書付を以て、申し達すべき。
最も(何より一番)、右書付は、印形を致し、差し出されるべきこと。
支配(部下)の是ある面々は、銘々、入念に僉議(センギ=詮議)をし、
是又、書付を差し出し為すべきこと。
若し、隠し置き、脇より、知ることとなったら、面々、
越度(オチド)と為すべく事を理解して、吟味を遂げ、申すべき旨なりと仰せ出でられた。
二月
三松成右衛門、長坂平左衛門、千葉部坐衛門、岡本助太夫、渡辺平兵衛」
単なる一人の犯罪人に対するにしては、仰々しい感じがする。
それほどの極悪人だったのであろうか。母親殺しだろうか。
現代の我々は、着物との接触度が低いため、当時の人が常識にする着物に関する言葉を知らないことを実感する。
翻訳する段階で苦労した。落語でも着物用語は出てくるが、実感としては、知らないことが多い事を実感した。
江戸時代に、指名手配所で、犯人が捕まることがあるのかと思われるが、実際に、全国に指名手配をして、捕まった有名な例がある。
それは、歌舞伎の有名な演目「白波五人男」(絵参照)のモデルとなった人物である。白波五人男の内、4人は、実在のモデルがいる。
唯一、架空の人物は、最後に控えし“弁天小僧菊之助”である。白波五人男の首領が、日本左衛門(芝居の中では日本駄右衛門)である。
彼は本名を、濱島 庄兵衛といい、200名ほどの手下を引き連れ、東海道沿いの諸国を、延享3年(1746年)頃、荒らし廻った盗賊である。
しかし、「盗みはすれど非道はせず」という特徴があり、それが、白波五人男の特徴で、人気を博した原因である。
芝居では、5人が捕り手達と立ち回る時、一人一人が、七五調の切れの良い自己紹介をする。
日本駄右衛門の場合は、こうである。
「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四のときから親に離れ、
身の生業も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、
人に情けを掛川の金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に、廻る配符のたらい越し、
危ねぇその身の境涯も、最早四十に人間の、定めは僅か五十年、六十余州に隠れのねぇ、
賊徒の首領 日本駄右衛門」
このモデルの日本左衛門は、延享3年に、被害にあった駿河の庄屋によって、江戸北町奉行(能勢頼一)に訴えられた。
老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が日本左衛門の捕縛に派遣された。
幹部数名は、これによって捕まったが、日本左衛門は逃亡した。
しかし、安藝国(広島県)宮島で、自分の手配書を見て、逃げ切れないと観念して、
京都町奉行(又は、大坂町奉行)に出頭して、捕まった。
江戸に送られ、小伝馬町の牢獄で、子分らとともに処刑されている。
指名手配によって、犯人が捕まったという有名な例である。
優秀か、家柄かは不明だが、息子を江戸で勉強、修行をさせたいと思うのが、当時の親心である。
自分の希望だけでは、それは、なかなか難しい。種々の手続きや根回しをしたであろう。
また、江戸での滞在場所の確保なども難しい。それを思わせるエピソードである。
「(安政二年=1855年)3月6日
1. 加藤家の件、学問武藝の執行の為、出府願いの通り、お聞届が為されて、
縫殿介(ぬいのすけ)が出府にするに付き、申し達しの上、一同、延岡を、2月3日に乗船し、
大坂に同23日着、そこを発って、(江戸屋敷に)今日の夕方に着いた。
よって、延岡と大坂からの添え状を差し出した。
尤も、師近の見立がかなうまで、縫殿介方に、逗留するという届を出した。
1. 岡井截治は、支配頭の御櫓奉行まで、口上書を提出。
私の倅の(岡井)迫治は、自職未熟に御座いますので、この度、出府して、師近仕る為に、見立がかなうまで、
松山才助方に逗留し、師近見立が叶い、入門の三か年の間、逗留し、修行し、 奉詔をいただくため、
御厚恩を願い奉り度き旨を申し出たところ、願いの通りに、許可がでた。
そこで、縫殿介が、出府にするに付き、申し手続きをした上、
迫治達一同が、延岡を2月3日に乗船し、大坂に同23日に出立し、今夕、(江戸に)着府致しました。
よって、差出した。尤も、松山才助方に世話になる旨を届申し達した。
1. 右に付き、松山才助からも、月番までに届が申し達した。
加藤家の留学する者の名前は不明である。延岡藩から、江戸に留学するのは、大変なことであるのがわかる。
1.縫殿介が延岡より持参の手控え左の通り、
手控
御家中の面々、陣羽織等、着用の件について、
打紙(貼り付け手紙)の通り、江戸表に内標の趣を申し参ってきた処、
海岸防禦の筋に付いては、
質素であることとと、公儀より、厚く、御沙汰があった。
実用的な守りの件に付いて、陣羽織などの着用等が、差し止められ,
御中小姓組以上、小袴か、それ以下、
また、太刀付き股引き着用は是までの通り、勝手次第に御成り置きとのこと、
重ねて、どうしましょうか。
但し、右の品は、いずれも、木綿、折り目をつけて、
是までの、絹布にて、胴絹小袴等を取持の者は、
兼ねて、組頭、支配頭に着用することを申し達して、致すべきこと。
右の趣を、御着府の上、猶又、御仕合のこと(江戸でも同様の事をすること=しあうこと)
卯二月
縫殿介殿
1)延岡藩資料:万覚書=安政2年:明治大資料=1-7-143
江戸城前の地図。 内桜田門の前にも番所が見える |
内桜田門内の番所 | 寺沢の二重櫓(ヤグラ)と内桜田門と渡り櫓 |
1)明治大学所蔵の延岡藩資料:万覚帳=安政2年=1-7-143
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