第81話:安政2年シリーズ:(2) 

No.81> 第81話:安政2年シリーズ:(2)

        少しずつ武士社会に緊張
        譜代大名の乗馬の技術を将軍に見せる上覧会


今回のトピックス

    とりあえずペリーは去ったが、これからも外国の開国要求は続くだろう。
    国内を引き締める必要がある。

    幕府は、将軍主催の大名による乗馬技術を見る会を突如、催す。
                                         (2021.8.3)


【1】 序:安政2年という時代

今回の舞台の安政2年というのは、ペリー来航(嘉永6年)、再来航(安政元年)で、日米和親条約を結んで、世の中がざわつき始める年である。

この安政2年時(1855)の将軍は、第13代の家定(1853−1858:嘉永6−安政5)である。

この将軍は、ちょうど、黒船来航から、日米和親条約、日米修好通商条約締結問題、安政の大獄までの、時代が大きく変化し始めた時の将軍である。

歴代将軍の中でも、最も、能力が危うい将軍であったのは、徳川家の最大の不幸であった。

この時代(安政2年)の、権力者は、阿部正弘(福山藩主)である。

後に、堀田正睦をへて、井伊直弼が登場するが、今は、まだ出てきていない。 ペリー来航後、海防が必要となってきたとき、登場するのが、水戸藩主の烈公こと徳川斉昭で、彼の尊王攘夷の考えは、維新に突き進むときの最初の原動力となっていく。

そして、水戸藩の不幸も始まるのである。

当レポートでは、今後、烈公の話題を入れて、これからの尊王攘夷の雰囲気の盛り上がりを見ていきたい。

【2】給料遅配



本題に入る前に、武士の給料について説明しておかなければならない。

武士の格として、例えば、「10石3人扶持」というような表現がされる。
1人扶持とは、健康な武士が1年間で食する米の量を指す。

1人が1日当たり、玄米(糠がついている)を5合食べることを基本として計算する。
そうすると、1人が年間1石8斗食べることになる。

3人扶持なら、給料として、食する米の5石4斗に、その他の生活費を加えて、10石として給料を与えることを意味する。

上位の武士は、コメの代わりに、土地をもらい、その土地から上がる米を給料とする(これを知行取という)。

/strong> その土地で生産されるコメの総量の6割を百姓が取り、残りの4割を税金として、領主に差し出すのである。
それより、下級の武士には、藩主から、コメの形で現物支給される(これを蔵米取という)。

さらに、下級の武士は、現金の形で支給される。これを、藩によっては切米とか切符金といった。
延岡藩では、御金配と言っている。

幕末になると、延岡藩だけでなく、いずれの藩でも例外なく、財務がひっ迫して、武士に、十分な給料が払えない状況になっている。

幕末より、だいぶ前から、コメの単位が玄米ではなく、モミ殻のついた籾(モミ)の形で、支給している。
同じ1石でも、籾では、実際に、食することのできる玄米にすると、体積は、8割に減る。

玄米から、籾にすることで、実質、給料が2割減らされていることになる。
さらに、武士は、頂いた給料から、役職に応じて割合は変わるが、2割ほどを、藩主にお返しをしなければならない(一種の所得税である)。

さらに、藩によっては、御借米と称して、藩主が借りる形で、配給米が減らされ、
それが、いつ穴埋めされるか不明(ほとんどは踏み倒し)なのである。

今回、出てくる、単位のは、籾で5斗(0.5石)に相当するが、それから、玄米にすると、2割へるから、
4斗のコメしか取れない。

現在のわれわれが食している米は、玄米から、さらに、糠(ヌカ)をそぎ落とした米(精米)である。

精米なら、1俵から3斗5升のコメしか取れない。

(1)遅配を謝る

延岡藩でも、経済状態はひっ迫しており、武士への給与は遅れがちである。
ある下級武士の役高の分の支給が遅れたのを誤りながら、支給するという延岡藩の記録である。 

概訳を示す。

   「 服部伝兵衛が、去る丑年(2年前の嘉永6年)4月に、
     籾(モミ)20俵が下(支給)され、御増高が40俵になった。

     よって、在役中(役についている間)、年々、下(支給)されるべきであるので、
     同年、7月渡しから、渡し方(支給担当者)から、直に申すべき処、

     その儀、不心得にも、以前の渡し方のまま、
     去る寅(安政元年1854年)7月渡しまで、そのように渡す旨を申し渡していた。

     御用が多いとは申しながら、
     その方儀(あなた)、御勘定役に御雇中に、心づけもなく
     不念(無念)の事であったろう。


(2)同様の例で、現金での給与支給も遅れている

概訳を示す

   「 御勝手向き(財務状態)が、御難渋にて、御金配も出来兼ねていたので、
     来る6日、(上級武士の)知行所の面々に、お渡しが、御延べ(延期)になった。

     尤も、(下級武士への)御金配は出来次第に、御渡しに成られるだろう。
     其の節は、御勘定所より、通達があるに違いない。

     この段、知行取の面々に申し通す様に、
     御番所に御勝手方(財務担当者)の新左衛門より、手紙をもって、申しやる。


【3】将軍が外出する:殿様が自ら番所に詰める、窓を閉め切る

(1)番所とは

江戸時代、地域の治安のため、現代の交番に相当する番所が存在した。
町人の住む地域には街中には、町人が自ら守る自身番、そして、大名屋敷がならぶ地域には、辻ごとに、 辻番所(辻番と略することもある)がある。

公儀(幕府)の指示で建てた「公儀辻番」、1家で辻番を負担する「一手持辻番」と数家が協力して負担する「組合辻番」がある。
各負担者の表高を所持屋敷で割って算出した「辻番高」に基づく負担である。

組合辻番の内、万石以上の者には、各家が交代で。既定の日数を務める「日割組合辻番」があった。

その番所を、江戸時代の浮世絵「江戸勝景 芝新銭座之図」(歌川広重)(天保6年から9年(1832〜1838)頃国立国会図書館デジタル化資料:)に見ることができる。

描かれた大名屋敷は、現在の汐留付近から浜離宮までの辺りにあった会津藩(松平肥後守)22万石の中屋敷である。
右の奥方、路上にポツンと建つ赤い家が辻番である。

これらの、町民を辻切から守る交番とは別に、江戸城内にも24時間体制の番所に相当するものがある。
現在の江戸城跡には、三の門脇に百人番所の建物が残っている。

そこには、忍者上がりの下級武士たちが毎日、百人ほど詰めていたのだろう。
今は跡形もないが、その先の中之門の内側には大番所があった。

それ以外に、代表的な門の入り口近くに、今回、話題になっている御番所があった。
特に、将軍が城外に出るというときは、譜代大名が自ら、番所に詰める習慣である。

(2)内桜田門とは

延岡藩の殿さまも、内桜田門にある御番所の詰める順番が来たが、できたらやりたくない仕事である。
その様子を示す記録(安政2年2月11日)を見てみよう。

ここで、問題になる内桜田門というのは、桜田門外の変で有名な桜田門(これは外桜田門ともいう)ではなく、桔梗門ともいう大手門近くの門である。

現在は、その近くの堀は埋め立てられている。
江戸城前の絵地図と内桜田門内の大番所(赤矢印)を示す。
近くは、それ以外に番所(青矢印)が多数ある。

 
江戸城前の地図。
内桜田門の前にも番所が見える 
  内桜田門内の番所     寺沢の二重櫓(ヤグラ)と内桜田門と渡り櫓

御番所は、その内桜田門のすぐ内側にあった。
絵図を見ると、内桜田門の外の辻に、通常の番所(小さな□で示されている、図では2カ所)が見えるが、
延岡藩の殿様が詰める予定のものはここではない。

一番右の写真は、江戸城が健在であった時に撮られた貴重なものである。
この写真に、桔梗門(内桜田門)と、江戸城の最も美しい風景になる寺沢二重櫓も写っている。

(3)殿様も番所詰めの仕事がある

大名になのに、将軍が外出する時は、番所詰めの仕事が回ってくる。出来たらやりたくない。
それが本音だろう。

まず、概訳を示す。

   「今日、(将軍が家定が)品川筋に御成りに付き
     (延岡藩の)殿様が、内桜田の御番所に、
     お詰めに成られる順番であるので、

     昨夕、(幕府から、将軍の遠出の件を)
     仰せ出でられたところ、
     夜中より、(殿さまが)御疝積に付き、

     お詰めするのは難しくなったと仰せ出でられたので、
     御用番様に、今暁、御留守居をもって、
     左の通り、お届け、仰せ達せられ候。

     (延岡藩重役の)内藤海部左衛門が、
     今日、御番所に御名代で、詰めを仰せつかったので、
     そのような趣旨を、月番が、手紙をもって、申し遣った。

        今日、品川筋に、(将軍が)御成りになると仰せ出でられ候処、
        私義、内桜田御門の当番中にご座候えども、

        夜中に、疝積が差し発し候につき、
        御番所に、詰め難く御座候。

        この段、お届け申し上げ候、以上、
             2月11日、 御名(本来は、ここに殿さまの名がある)


(2)殿さまが自ら番所に詰めなければならない


同日の記録の続きに、将軍が品川までお出かけになった時に、
延岡藩の上屋敷(虎ノ門横)下屋敷(六本木)の横をお通りなる。

失礼のない様に、長屋の窓は閉めて、将軍を上から見下ろすことのない様にと気を配る。

概訳を示す。

   「1.今日、五時(すぎ)、お供添えにて(お供をつれて)、虎の御門を通り、
      御品川筋に、御成りになる。

      還御(お帰り)の節、六本木のお屋敷脇を通りながら、
      虎の御門を通御に付き、両お屋敷表の御長屋窓より、
      戸を閉めさせ、 その外は、かっての、御観式に御成りの節の通の、
      御手当をすべき。

        但し、虎の御門外の辻番所は、
        (延岡藩の担当番の)御番所に付き、作事奉行が詰める。


大名屋敷の構造は、大小あれど、基本は同じである。敷地の端には、下級武士が生活する長屋が表長屋があって、屋敷の防御を兼ねている。
先の浮世絵でも、奥の方に見える。長屋の窓は、二階に相当するところにあるから、通行する将軍を見下ろす形になる。

【3】将軍が外出する:殿様が自ら番所に詰める、窓を閉め切る

ペリー来航のせいか、将軍が突然、大名の乗馬を見たいという。
延岡藩の殿様は、乗馬が得意のようで、慌てないが、周りの家来たちは、準備に大慌てで、また、心配である。

(1)殿さまの江戸城内の馬場での乗馬



概訳を示す。

   「1.月次の御禮のため、(殿さまが)今朝、6時(現在の朝6時)までに、御登城
      遊ばされたところ、御席に、大目付の柳生播磨守様が
      お越しになられ、

      今日、(江戸城内の)吹上(御庭)において、御禮後、御譜代大名とその嫡子、高家、雁の間詰め(の大名)とその嫡子、
      菊の間縁頬(エンガワ)詰め(の大名と)その嫡子になる乗馬を、(将軍が)上覧になると 
      仰せ付けられた旨を、御口達で趣旨を通達があった。

   1.右に付き、御禮後、袱紗と御小袖の御肩衣と御馬乗袴(が入っている)
     御箱入り品を差し上げ、お召替え遊ばされた。

   1.御馬は、御率馬(係)が、 直に其の儘(ママ)、召し為された(連れて来た)。
     畏れ(心配)なので、お供一同は、

     和田倉御門から 大手前(門前)を通り、竹橋御門から(江戸城の内堀内に)入り、
     朝鮮馬場、上覧所、御鷹部屋口前を通り、

     お供待ちの御小人目付が、引き連れて、同所御門より、御口取り一人が、組羽を打着て
     裸入った(刀等をはずしてはいった)。

     但し、今日、乗馬を勤める考えで、亦(マタ)、当用意が及ばない(場合は)
     御馬をお借りするよう、 仰せ付けられた。尤も、乗馬参り時は、借りるに若かず。

     右に付き、御刀番より、(殿さまが)俄(ニワ)かに乗馬した。
     上覧に(供すると、殿さまが)仰せ出でられた旨を、手紙にて、御側役まで伝えてきた。

     尤も、前条の御率馬係を、お連れになり、御着服も、御箱に入れた御品で(無事に)済んだ。
     別段、御用意の御品も、これ無く、一安心。最初心配した甲斐もなく、用意が十分だった。

     尤も、御赤飯と御にしめを 御頂戴した。そのほかに、御拝領の御品もあった。
     右、御赤飯は、御重箱に入れ、御刀番に手渡された。

     但し、御借用の御重箱は、翌日、係の御小人目付の乗田喜太夫の名宛に、
     お城中の口に、差し向かい、出すようにと、聞いたので、御留守居が
     手紙添えて、持参してお返しした。


参勤交代で江戸詰めになっている大名は、決まった日に、江戸城への途上が義務である。
将軍に、あいさつするまでの待合の部屋(詰め所)は、格式に応じて、決まっている。

大廊下席上之部屋には、尾張、紀伊、水戸の御三家、下之部屋には、加賀家、
柳之間席には、五位以上の外様、大広間席は、それ以下の外様大名である。

圧倒的多数の譜代大名は、雁之間席帝鑑之間席(延岡藩はここ)、最下級が菊之間席(正式には菊之間縁頬(エンガワ)詰)の7種類があった。
今回の、乗馬を命じられたのは、中堅とそれ以下の格の譜代大名である。

ペリー来航で、大名たちの緩んだ気持ちを引き締めようという幕府の魂胆かどうか。
延岡藩の殿様は無事、乗馬を将軍にお見せできたようだ。

2)延岡藩の武士が殿さまが心配で馬場に駆けつける。


殿様が心配といえども、延岡藩の下級武士は、江戸城内には入れない。
そこで、和田倉門前→大手門前→竹橋門から入ることが許されて、江戸城内に入っている。

地図で、その道筋を示した。その先に、馬場(地図では吹上御庭とある)にある上覧所→江戸城内の鷹屋部屋前を通過している。

重箱にいれた赤飯を将軍からいただいたが、面白いことに重箱は返却せよというのは、面白い。

(2)数日前に殿さまは小笠原流の騎戦の見学の申し込み

小笠原流の騎馬術のお稽古と、犬追いのお稽古の様子を、延岡藩の殿様が希望し、見学の是非を、大目付の柳生播磨守に尋ねている。
もともと、延岡の殿様は、馬術に興味があるようだ。それで、将軍の上覧会でも、臆せず、やれたのであろう。


概訳を示す。

 「2月5日

   1.大目付の柳生播磨守様に、小笠原平兵衛様の
     騎戦の御稽古と、また、小笠原鐘次郎様の犬追物の

     御稽古を、右、御見物のため、御出に成られたき段、
     左の伺い書を御留守居の場にて、平兵衛が持参した。

       麹町の馬場において、小笠原平兵衛様の
       騎戦の御稽古があるときに、能登守(延岡藩主)が
       見物のため、罷り越しても、苦しからずの筋に
       御座いますか、此の段を、御問合せ申し上げます。
                  以上。

            2月5日 御名(殿さまの名)
                   家来 渡辺平兵衛

       三番町馬場において、小笠原鐘郎様の
       犬追の御稽古があるときは、

       能登守が 見物のため、罷り越しても、
       苦しからず筋にございましょうか。
       この段、問い合わせ申し上げます。
                    以上

           2月5日、御名 家来 渡辺平兵衛


【4】資料

      1)明治大学所蔵の延岡藩資料:万覚帳=安政2年=1-7-143



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