第80話:安政2年シリーズ:(1) 

No.80> 第80話:安政2年シリーズ:(1)

        不穏な雰囲気
        ペリー来航後の江戸に緊張の始まり


今回のトピックス

    ペリーが来航して、翌年に日米和親条約が結ばれ、さらに、ロシアなども開国を迫ってくる。
    幕府に少しずつ緊張感が出てきている反面、まだ、余裕のある一面もある。

    じわりじわりと変化していく様子を追う。
                                         (2021.8.3)


【1】 序:安政2年という時代

このシリーズでは、ペリー来航(嘉永6年=1853年)から、世の中が騒然としてくる直前の、主に安政時代を、じっくり見ていこうと思う。

世の中は、まさか、徳川時代が終わるとは思っていない、しかし、外国からの開国要請など、 あわただしくなってきている中での武士政権の中の動きに関して、小さなことにも注意していきたい。

歴史の教科書的には、この後の、大きな動きにともすれば、目が行きがちで、見逃していることがあるのではないかと、考えたからである。

ペリー来航時、12代将軍・家慶と老中・阿部正弘(福山藩10万石の当主)に時代であった。

将軍・家慶は、ペリー来航の数週間後に、病没しているから、実質、ペリー来航後の騒動には、関係ない。

その後を継いだのは、徳川時代の将軍の中で、最も凡庸(越前藩主・松平慶永の言)といわれた家定(13代将軍)というのも、徳川家の悲運である。

筆者は、学生時代、福山藩の江戸家老の住宅に寄宿していたことがあるので、ことさら、親近感を持っている。

近くには、阿部様(昭和50年代の近所の人は、阿部様と呼んでいた)の学校(元藩校、現在の文京区立誠之小学校)等のある、阿部家の江戸屋敷の地域であった。

そこは、関東大震災でも、空襲でも焼けなかった一角(文京区西方地域)で、江戸自体の雰囲気を残す地域であった。

阿部正弘(右写真)は、天保14年(1843年)、25歳の時に、老中となって幕府の中心に座った。

天保15年(1844年)に、水野忠邦に首座を奪われたが、彼が天保の改革で失敗して失脚すると、弘化2年(1845年)、老中首座になっている。

それから、ペリー来航後の騒動中の、安政4年(1857年、39歳)、老中のまま病没している。

最晩年は、攘夷派の徳川斉昭(水戸藩主:烈公)と開国派の松平乗全(三河西尾藩主)や松平忠固(信濃上田藩主)の間で、苦しんだ。

斉昭に与したことで、井伊直弼等の開国派の譜代の重鎮(溜詰の連中)の反感を買い、そこで、開国派の堀田正睦(佐倉藩主)を老中首座に招いた(安政3年:1856年)。

その翌年に、阿部は病没している(安政4年6月)。享年39才であった。

安政3年に、米公使タウンゼント・ハリスが下田にきて、幕府に通商条約を迫る。そこで、堀田正睦が中心に、朝廷の勅許をえようとするが、 ハリスとの約束の期日内に、それが得られず、時間だけが経過する。

そこで、突然、譜代大名の最大藩である彦根藩主井伊直弼が、老中の上位となる大老に、つくことになる。

井伊直弼は、延岡藩の藩主採用試験で落ちた男である(当レポート#6参照)。

また、井伊直弼は、当時の延岡藩主(内藤政義)の兄であり、先代藩主(政順)の奥方(充真院)の弟であることから、 延岡藩とは縁の深い親戚である。彼が老中になって、歴史の歯車が急速に回転し始めるが、それは、後ほど触れよう。

今回は、ペリー来航によって、強制的に日米和親条約を結ばされた(安政元年3月)後、各国が開国を迫ってきている中で、 幕府は、恐怖を抱き、品川沖に台場を作ったり、寺の梵鐘をつぶして、大砲を作るように言ったり、各藩に、今までは禁止していた大船の建造を許可したりと、 慌てて、外国対策をとっている。

今回取り上げるのは、その翌年の安政2年である。

【2】延岡藩の資料からみる安政2年の1月

(1)安政2年の江戸屋敷の正月風景

時代は、風雲急を告げてきても、武家の正月の儀式は、恒例に従って、粛々と行われる。
正月には、江戸在所の殿さまは、江戸城に登城しなければならない。

しかし、藩邸に帰って来て、食事であるが、この異常時のため、例年とは、異なっている。



概訳を示す。

   「 安政二乙卯歳  正月朔日(1日)  
                      月番 岡本助太夫(が記す)

    1. 殿様、今暁、七時(午前四時)、お目覚め、御湯御櫛(クシ)をお済ましになる。
      御嘉例の如く、(神殿に)御高盛を差し上げになった。お引替して(引き返してきて)、
      朝食として、御膳、一汁一菜 を差し上げました。

      但し、御服紗御膳(正式の料理のこと)には、(本来なら)二汁五菜の処であるが、
      格外省略中に付き、右の通りに(簡略に)差し上げました。

    1.年頭のお祝義の為、御大致(簡略)為され、右六時(午前六時)に、
      御登城(御用席に熨斗目の麻裃着。お見立て申し上げは、今朝、御用部屋に揃い、
      御次に相廻し、御太刀目録を御参して、大広間に於いて、ご一同御禮を(将軍に)仰せ上げられた。

      その後、御前に、御出になり、お揃いで、御祝儀として、御時服を御拝領し、済みました。

      九半時(午後1時)に、お帰りになった。
      御太刀目録をお留守居の場にて、平兵衛が、持参し、坊主に渡しました。



<正月2日>

    1. 殿様(御大致を御着用)は、今朝、六時(午前六時)に、御登城に遊ばされ、
      御退出により、直に上野に行き、お宮、並びに、御奥屋に御参詣になった。

      日光御門主様(輪王寺宮)に年頭の御祝義を行いました。(その後)、信解院に御立寄りになり、
      御召替の上、お帰掛に、御老若様方、公の外、御最寄の御方様に、年頭の御禮を 御過ごし勤め遊ばされ、
      夕七半時までに お帰りになりました。


上野寛永寺は、正式には、東叡山寛永寺というが、それは、京都の鬼門(北東)を御守護するという比叡山延暦寺に倣って、
3代将軍家光の時代に、江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺を創建した。歴代、住職(東叡山門主)として、
法親王(出家した親王=天皇家出身)を迎えるのが例となる。

その上、日光山輪王寺の住職を兼務させた。そうして、寛永寺の住職は、輪王寺宮門跡と称されるようになった。
後の維新の時には、彰義隊や東北の新政府樹立の動きの時に、西の天皇に対して、東の天皇として輪王寺宮が担がれることになった。

殿さまは、朝6時に江戸城の上っているが、その時刻について、説明したい。
正月頃では、現在の時刻で日の出は、7時過ぎであるから、ここでの朝6時の登城は、早すぎる様に見えるが、大丈夫である。

江戸時代の時計は、日の出(朝6時)、日の入り(夕方6時)を基準に決めているから、夏でも、冬でも、日の出は朝6時なのである。
つまり、1時は、約2時間であるが、夏と冬で、長さが違うのである。

江戸時代に、季節によって本当の時間の長さが違うことも考慮に入れた、年間調整不要の時計を作った人がいた(東芝の創業者となる田中儀衛門)。

(2)彦根藩井伊家が京都の守護につく

正月4日には、井伊掃部頭(井伊直弼のこと)が、京都守護に向かうということが、延岡藩に知らされている。



概訳を示す。

    「 正月四日

    1.今朝五時(朝8時)に、(殿さまは)、お供揃いにて、紀州様や水戸様に、年次の御祝義のため、御出駕になりました。
      御最寄、御過ごし勤めになり、九時に、お帰りになりました。

    1.内桜田(桜田門)で、お書取りをお渡し、御受代の今村興一左衛門、藤田用差左衛門の組合せにて、滞りなく、済ました。

     尤も、例の通り、御目覚め、御意がありました。


    <井伊掃部頭=井伊直弼の事>

    1.伊掃部守様衆(家来)より、奉札をもって、掃部守様が、京都御守護筋につくことになった(という知らせ)。
      猶 この上、一際(層)手厚い御心得に成られている。

      平成なら、二番手位までは、京地に御差出置きに成られるようにと、御達しがあったに付き、
      一番手として五十騎を一備の内、先達にてより、お詰め居になり、然るべき御人数である。

      並びに、二番手として、一備兵を、旧揃いさせている。
      (1月)9日から同22日過ぎまで居させる。

     (京都に)御登りになられる為、未だ御陣屋は準備できていないので、
      御備え受け、お詰置きのために、成られるとのこと。

      御知らせのため、(延岡藩に)連絡が来た。


井伊掃部頭は、井伊直弼のことであるが、彼は、譜代大名の代表格であり、江戸城での控室の溜詰(タマリヅメ)組の代表格であるが、
この時点(安政2年)では、老中でもなかった(もちろん、大老でもない)。

井伊家は、京都のすぐ近くの彦根を拠点とするから、安政2年に、京都の守護を任されたのであろう。
この事情であるから、2つの部隊を送ることになったようだ。1番手が50騎の部隊で、2番手が1備兵(兵員数は不明)を配備させる。

陣屋ができていないので、本能寺か頂妙寺を本拠地としようというつもりである。という報告が、親類筋である延岡藩に来たのである。

(3)延岡藩も平士に武具を配る=正月7日



概訳を示す。

    「 正月七日

     1.尾州様に若菜のお祝義(正月7日)で、お使いは、平兵衛が務め、
       御口上を御用人の(尾州藩の)成田六左衛門に申し上げた。

     1.平士(下級武士)の面々に、これまでは、ご具足をお祝いとして下されたことはないが、
       猶、延岡に於いて、去る正月より、下されるべき旨が、仰せ出られたので、

       この表(江戸屋敷)でも、その砌(ミギリ:外国が攻めてくるかもしれない)に至り、
       どうしようかと相談した結果、去る二月二十六日着便に申し来ました。

       よって、この表でも、御番勤、並びに、表御中小姓の面々に、
       当年より、お祝い下されるべき旨が、仰せ出でられたので、
       然るべきにて、遂に 相談じ(結論に)達したので、御段の伺いも済ました。

       昨夕、御番頭の今村与一左衛門を、昨夕、一名、呼び出し、連絡しました。
       今夕に、御用部屋に出て、左のお書き付けを渡し、一統に、連絡しました。

                        御番頭、御番勤、表の中小姓に

       右、これまで、御具足を お祝下された例はないが、(殿の有りがたき)思し召しにより、
       当年より、お祝いを下さる旨が、仰せ出でられました。

       右の趣を、(ありがたく)受け取るよう、前段の面々に、達する(連絡する)ように。
                      卯 正月

     1.右の段を、大目付や御賄方にも書付にして、左の通り、達した(連絡した)。


安泰の江戸時代も、きな臭くなってきたので、延岡藩も平士(下級の実戦に参加する)に対して、武具を支給することにした。
延岡在住の平士だけでなく、江戸詰めの平士にも支給するのである。

(4)延岡藩も大砲を新調して江戸に運ぶ準備=正月9日



概訳を示す。

    「 今九時(正午)に、お供揃いにで、年頭の御祝儀のために、小川町辺りをお廻りになり、
      八半時(昼3時)までに、お帰りになりました。

    1.この度、大坂表にて、鋳立(ふきたて=鋳造)になった壱貫目(文目=匁を略して目)大筒 1挺、
      並びに、百目の大筒を1挺、お取り寄せになられることになったので、浦賀の御関所を無事通るように、

      御老中様の御裏印のお願いをしてもらいたいので、左の御証文を、御用番殿である紀伊守様に、
      (延岡藩の)お留守居の成瀬老之進が、持参し、差出したところ、御落手(受け取り)に成られた旨にございます。

          覚え

    1.壱貫目の王唐銅(カラガネ=銅を主体とした錫・鉛の合金)の大筒 1挺
          右箱入り筵(ムシロ)包み
    1,百目(モンメ)の唐銅製の大筒: 右同行

    1.車臺(クルマダイ):運送車 三箱付き: 右筵(ムシロ)包み
    1.野台   右同行
    1.水桶  右同行

    1.纏木(マトイ)   右同行   都合、六包になる。


延岡藩も、大坂蔵屋敷で、あらたに鋳造した大筒の2挺(1貫目と100匁)を、江戸にを送らせるために、
浦賀の関所を無事通せるように、種々の実力者の裏書の印をもらう手続きをしている。

1貫(3.75kg)とは、重要単位で、1000匁(モンメ)に相当する。筆者が、小学生の時、太った女性を“百巻デブ”と冷やかした(今なら問題になる発言である。ご免)。

1貫目の大筒とは、弾丸の重さが1貫目(3.75kg)で、砲筒の口径が84.2mm程度であったというから、まさしく、砲丸投げの玉ほどの弾を入れていた。
1貫目大筒の本体は、重量500kgほどになったという。



概訳を示す。

    「 右条、この度、大阪蔵屋敷より 江戸屋敷まで、相廻し、申したく存じ奉ります。相州(相模藩)の浦賀の御関所を、
      間違いなく通れるように、御裏印を下さる様に、お願いします。 以上

               安政二 乙卯年 正月九日

          阿部伊勢守殿
          牧野備前上殿
          松平和泉守殿
          松平伊賀守殿
          久世大和守殿
          内藤紀伊守殿

      左の御裏書の御印を済ましの上、お留守居を呼び出して お渡し下さるようにお願いします。


(四角の箱の中)
      表書の鉄砲2挺、浦賀関所を間違いなく通行できるように、本文があります。以上

          紀伊 御印
          大和 御印

       病気に付き無加印
          伊賀
          和泉 御印
          備前 御印
          伊勢 御印

     土岐 豊前守殿
     松平伊勢守殿
 」

ここで、宛先である、土岐豊前守を紹介する。

土岐 頼旨(トキ・ヨリムネ)という旗本で、初めは数百石程度であったが、
阿部正弘に認められて、最後は、7000石の大旗本になっている。

西丸目付→本丸目付→普請奉行→作事奉行→書院番頭→下田奉行となり、さらに、天保15年(1844年)には、浦賀奉行となった。
その後、大目付&海岸防禦御用掛となり、安政2年当時は、そのトップになっている。

今回の宛先に名前が出ているのは、大目付のトップという役目であるからである。

その後(安政2年2月)、ペリー来航を受けての阿部正弘の安政の改革の一環として、設立された講武所の総裁に、
8月には、大目付&海岸防禦御用掛となり、安政4年には、老中堀田正睦の命により、
ハリスと日米修好通商条約の交渉に当たった。

当時の将軍継嗣問題においては、一橋派(一橋慶喜を将軍に押す)に属して、松平慶永らと通じ、井伊直弼失脚を暗躍している。

しかし、井伊直弼が大老となって、安政5年に、突如、左遷させられ(これも、安政の大獄である)失脚して、隠居を命ぜられている。

【3】資料

    1)延岡藩資料(明治大所蔵):万覚書=1-7-143(安政2年)

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