桜田門外の変(2):延岡へ連絡

No.7> 桜田門外の変(2):延岡への急報告
     一つだけ事実と異なる報告

今回のトピックス

  黒船来航に続く、維新期の2番目の激動である桜田門外の変は、延岡藩のとっても重大事件であった。
  井伊直弼は、現藩主のすぐ上の兄であり、先代藩主の正室は、井伊直弼の姉であるという関係なのである。
  藩主は、延岡に帰っていたので、江戸から、大至急の連絡のため、二人の武士が派遣された。

  その連絡用として、事件当日の1日で集められたニュースは、殆んど史実をつかんでいたが、一つだけ大きな間違いがあった。
  延岡には「井伊直弼は無事である」と伝えられた。

  延岡藩の資料でも、桜田門外の変の事件の息吹が感じられる。  (2013.10.30)

 (追加) 桜田門外の変の後の彦根藩の、生き残った家来への厳しい処罰について、書き加えた。  (2013.10.30)


【1】桜田門外の変の原因

(1) 激動の安政時代

後の時代人である我々から見ると、安政時代は、他に類を見ない程の不安の時代であった。
鎖国中に巨大な黒い軍艦が開国を迫られ、終に鎖国を止めざるを得ない状況となり、異国人により、日本が蹂躙される脅迫観念にさいなまれる日々が始まった。そして、天変地異が荒れ狂った時代である。

安政時代は、近世まれにみる「不安の時代」である。マグニチュード7以上の地震が東京から九州まで何度も襲っている。極めつけは、安政1年の11/4と11/5の2日続いての近年では最大級の東南海地震が起きている。江戸、京都では大火があり、又、江戸を大きな台風も襲っている。この時、江戸の代表的な建物が大被害を受けた記録が残っている。 そして、政治的な大事件が続く。

天皇の勅諭もなしに、米国との日米修好通商条約を結んだことが、最初の激動であった。時の天皇が、偏執的なまでに異国人嫌いの孝明天皇であったから、時の大老、井伊直弼への非難が集中した。彼への種々の抗議に対し、井伊直弼は強権発動で抑え込むことで対処した。それが安政の大獄である。次期、将軍の選択も紛争に火を付けた。それも、大老の思い通りに、家茂を将軍に決定した。

水戸家を中心に反井伊直弼への不満が集中して、終に、安政7年3月3日に、桜田門の前での、直弼の暗殺事件となって爆発した。
桜田門外の変である。

この安政時代を、今回のレポートに関係する事項を中心に年表にまとめた。

【2】桜田門外の変

  
 図11> 井伊掃部頭の屋敷跡の碑    図12> 現代の桜田門

安政7年3月3日(旧暦)は、上巳の祝儀(御雛祭り)であり、江戸にいる各藩主が江戸城に登城する日である。当日、は雪の降っている寒い日であった。

朝9時ごろ(現代の時刻表示)、彦根藩邸から出た井伊直弼の乗った駕籠を60名近い御付の者を従えた行列は、桜田門の手前、松平大隅守(大分県杵築藩)の門の前の広場に差しかかった時、関鉄之助(行動隊には含まれない)をリーダーとする水戸藩浪人を中心に、一人の薩摩藩浪人(有村次左衛門)を含む18名が、大名行列の多くの見学者の中に紛れていた。

武鑑(大名の紹介図鑑)をもったひとりの武士が飛び出してきて、駕籠を狙って拳銃を放った。それを合図に、隠れていた同士が一斉に切りこんできた。先ず、駕籠かき(六尺、あるいは、陸尺)を狙って切り倒した。井伊家の護衛の武士たちは、当日、雪が降っていたので、刀を油紙で覆い、袋に入れて腰にさしていたので、すぐには抜けない。その瞬間の遅れを笠にかかって、狼藉者が最初、有利に切り進んだ。中の一人が駕籠に襲いかかった。そして、一人(薩摩藩士の有村次左衛門)が、井伊直弼の首を切り落とし、自身も不可傷を負いながらも、首を抱えて逃亡した。

しかし、井伊家も連中も必死に反撃し、狼藉者も殆んどが傷を受け、僅か1分かそこらの切り合いで、彼らは、いろんな方向に逃げて行った。一方、井伊家の屋敷からも応援の武士が来て、狼藉者を追い払い、駕籠を急いで屋敷内に運び込んだ。それが、この事件のあらましである。
皮肉なことに、事件の起きた場所の目の前、元杵築藩邸の位置には、現在、警視庁の庁舎が建っている。
  
 図2> 桜田門付近の絵図面    図3> 左図の同位置の現代地図

【3】 延岡藩上屋敷では

井伊直弼の実弟であり、当時、藩主である政義は、延岡に居て、江戸の虎ノ門の上屋敷には不在であった。
当日は、上巳の祝儀の日なので、親戚等に、互いに挨拶に出向くのが習慣であった。今では、せいぜい、新年の挨拶に、上司宅、親戚等を訪問するだけであるが、当時の大名屋敷では、種々の日に互いに挨拶に出向いていた。当日朝も、延岡藩主の代わりに、御留守居役の成瀬老之進が、井伊家を訪問した。

すると、門番が門を開けない。そして、奥で何かがというだけで、何を尋ねても答えない。それで、老之進は、噂を聞いて回って、再度、井伊家に行き尋ねるが、内々でお願いします。というだけで詳しくは教えてくれない。それで、延岡藩の屋敷に帰ってきた。そして、充真院(現藩主の姉で、先代藩主の正室)に報告している。そのことが、当日の日記に詳しく残っている(資料1中)。当然ながら、他の日の記述とは全く違う詳しさである。

 充真院は、早速、延岡に居る殿様にご報告せよという。それで、御小姓の松本庄司と、御側役に野口久兵衛をつけて、翌日(4日)朝に、延岡へ向かう様に指示が出た。それとは別に、大阪と延岡に向けて早飛脚を向かわせた。

延岡への報告内容を、家老の大島味膳が書にして渡した。松本と野口には、大阪まで早駕籠で行き。大阪からは、延岡藩の蔵船で行くようにとのことである。大島味膳が手渡した事件の顛末を示す手紙を示す。

 図4>江戸屋敷の日記の安政7年3月3日の記録より。資料1=1/3:1-7万覚帳―148(万延元年3月3日)

大意は、
「口演の控え
三月三日 狼藉者が、外桜田御門近くで、蓑笠、合羽、頭巾を着用し、通りに他の観衆と一緒にいたが、松平大隅守屋敷前を通りかかった時に、一行の警備に鉄砲を打掛かり、30人程の人数が同時に蓑笠等を脱ぎ捨て、皆、白袴を着ていて、いきなり、陸尺(駕籠かきのこと)2人を切り捨てた。他の陸尺は、駕籠を置いて逃げた。警護の連中も応戦し、狼藉者が引き下がった時に、駕籠の周りが手薄になった。そこへ、狼藉者の一人が、駕籠に切りかかり、駕籠を突き差した。双方切り合った。井伊側から切られた者、捕まったものもでた。辻番所によって捕まえられたものもいた。井伊掃部頭様の御供の」


 図5> 江戸屋敷の日記(安政7年3月3日)の記録より。2/3:資料1=1-7万覚帳―148(万延元年3月3日)

大意は、
「人出が増えてきて、屋敷に引き取り、治療をした。本日は、ご報告できないものもある。  龍の口(辰ノ口)の堀端で、一人の狼藉者が、腹を切った。その側に1つの首があった。それは、井伊直弼(一行)の御供頭のものであったようだ。
日比谷門外の辻番所で、井伊家の武士が、狼藉者一人を切った。辻番所へ引き揚げ、今日の狼藉の理由を聞いた。請け書を持っていた。それによると、水戸藩浪人と薩摩藩浪人であった。

1. 狼藉者は、井伊家の家来により9人程が捕縛された。他6人が、辻番所で捕まった。更に6人が、細川家上屋敷に駆け込んだ。脇坂家にも駆け込んだものが居る。井伊家の恨みを買ったが、渡さなかった。

1. 井伊家屋敷内では、堅固な配置で、大事な事として、騎馬で見廻っていた。足軽は、いずれも鉄砲で固めていた。町火消しが、屋敷の外を固めていた。」


史実では、井伊直弼の首をとったのは、メンバー中、唯一の薩摩藩浪人である有村次左衛門であった。彼は逃げる途中、井伊家の武士に後から切られており、辰ノ口付近(図10参照)で息切れているのは事実である。しかし、内藤家の資料では、御供頭の首だとしている。杵築藩の記録でも、首を切られたのは、井伊家の御供の、脇子三郎右衛門と名前も明記してある。この資料は、短くしか触れていないが、細川家、脇坂家に、狼藉者がかくまわれていることを知った井伊家の武士が、押し寄せてきて、差し出せと要求したらしく、両家では、厳戒態勢をとっていた様だ。また、井伊家の外を町火消しが固めているというのも面白い。
 図6> 江戸屋敷の日記の安政7年3月3日の記録より。3/3:資料1=1-7万覚帳―148(万延元年3月3日)

大意は、
「1.外桜田門の変が起きた時、大人数が通りに居た。通行する者には、その理由を聞いた。夕方には、門の通行止めは無くなった。江戸城内(内曲輪)の門は開かれたと聞いている。
公儀の役人の見回りがある。
3月4日の朝の様子は、以下の通り。
外桜田御門外の上杉様辻番所、昨日の通り、4〜5人も詰めていた。

1. 外桜田御門から西の丸の方へ行く者は、通行理由を聞かれてたが、通行できていた。
1.御曲輪内、平日の通り、通行はできた。
1.井伊家の森御門は開かれていた。御客、使者を受け入る様だった。
1. 半蔵御門通り、竹橋御門、大官町(現在の代官町)の通りは、平日の通り。
1. 日比谷御門、平日の通り。八代洲河岸(図10参照)にある、因州様(鳥取藩池田公:図10参照) の御持ちの辻番所では、給人の番人が3人と足軽が十人ほどが詰めていた。
1. 御本丸の御普請に付き、()の控えの人が来ていた様だ。
1. 御曲輪内では、役人が、騎馬にて見廻りしている様子だ。」


事件当日(3日)、その翌日(4日)の、江戸城の内外の雰囲気が分かって面白い。それほどの緊張感はない様に見える。

この報告書で示されていることは、後の歴史でも確認されていることと変わらないが、先の訳文内でも示したが、一つだけ大きく違っていることがある。それは、奪われた首が、駕籠一行の警備のトップ(御供頭)のものとなっている点である。事実は、誰でも知っているように、井伊直弼の首だったのである。その間違いは、意図的かどうか。事件の日か、その翌日には、幕府からか、或いは、井伊家の思惑かで、井伊直弼は死んでいないと、行きわたっていたのか。延岡藩の上屋敷は、井伊家にその後、何度も、御見舞に行っているのである。本当に信じているとしか思えない念の入れようである。それとも、口裏を合わせてやって、見舞いなどの茶番をやっているのか?

 この事件を、目の当たりに見た連中の報告がいくつも残っている。その中で、事件の起きたすぐそばにある杵築藩の人間による報告が残っているが、それも、首を切りとられた人は、井伊家の御供頭の脇子三郎右衛門となっている。そして、杵築藩の報告書には、この事件について、いろいろな間違った話もでているがあるが、自分は目撃したので、自分の話が最も正しい。」とわざわざの記入がある。(資料2)。

御供の人間の首という話の出所が、杵築藩か、それとも幕府からの指示なのか。

 延岡への報告にも、井伊掃部頭は、大丈夫だと明言してあるし、江戸藩邸でも、何度も御見舞に行き、種々の御見舞品をもっていっている。朝鮮ニンジンも持って行ってもいる。後日の、居る日には、江戸城から、明日は、掃部頭が登城するとわざわざ申達があり、その日になると、井伊家から、掃部頭はひどい頭痛がするので名代が登城すると連絡をするという念の入れようである。  当時の井伊直弼は45才であるが、後継ぎを決めていなかったのである。井伊家では、この後、あわてて、継嗣を決め、幕府へ願書を出して、その後に、直弼がなくなったという手続きをしたのである。井伊家も御家断絶の危機であった。

 吉村昭の小説「桜田門外の変」(新潮社)には、幕府が、当日、すぐに、井伊家を呼びつけ、事実を確認の上、井伊直弼はけがをしたが無事で、いることにするよう口裏を合わせるようにしたとある。水戸家にも御咎めなしで、両方に波風を立てないように、老中たちが解決を図った形跡がある。その可能性は高い。強いかん口令を敷いたのであろう。延岡藩は、親戚ではありながら、事実を知らされていなかったのであろう。当時地、目撃者は多くいたので、井伊直弼の首をとられたというのは、江戸内に広がっていたとも考えられるが、延岡藩は、それを知らなかった。

【4】延岡に到着した武士が伝えた内容は? 事実とは異なる報告になった。

野口等は、当初は、4日にも江戸を立つはずであったのに、実際に、江戸を発ったのは、3月8日であった。急ぐはずなのになぜ遅らせたのか?
 この4日程の間に、大きなことがあったのではないか。3日段階で、延岡に連絡するはずの内容と、実際、延岡に伝えられた内容に少し違いがある。緊張感もなくなっているし、調子がよすぎるのである。なぜか?それを示す前に、延岡での日記を見てみよう。彼らは、3月22日に到着していた。

図7> 延岡藩の日記(at 延岡): 資料3=1-6万覚書―187(万延元年3月22日)

22日の日記中の青い四角で囲われたところを訳す。

  1.“掃部頭様は、 去る 三日の朝、 御登城の掛に、 外桜田の松平大隅の守様の御門より
  上杉弾正大弼様の辻番所までの間にて 狼藉者が、鉄砲で打ち掛かり、凡そ、二十人余りが、  
   抜き連れ、掃部頭様の御駕籠を目掛けて 切り込み候に付き、御供方の者ども、防戦いたし、
  狼藉者の一人を 討ち留め、 その体に 手疵(きず)や深手等を 負わせ候に付き、
  悉く 逃げ去り、掃部頭様の御儀、 御捕り押さえ方にお指揮の処、 御怪我をなされ候に付き、
  ひと先に、御帰城を遊ばされ候う段、お届けを、差し出し成され候の旨“


この最後の文章は、「井伊直弼自身が、公儀に報告書を書いて届けた」という意味で、襲われた時の様子を幕府へ報告していて、それが残っているのだが、その文章が、実は、上の四角の中の文書と全く同じなのである。上記文章中の「掃部頭」「拙者」と書き換えたら、オリジナルの報告書のままなのである。(資料5:参照)。
事件の直後に、幕府と彦根藩で、作文をして、事件の顛末の正式報告書としたのである。延岡藩は、それをそのまま、延岡の殿様へ報告をしたのである。そのために、江戸の出発が、4日も遅れたのである。

また、上の記録の次に、井伊家の話が載っている。原文は示さないが、
「5日に、公儀から井伊家に御見舞が来た。そして御容態はどうですかと尋ねた。すると、家来は、直弼の寝床までに聞きに行って、“変わりも有りません”とのことですと返事をした。」とある。
また、「同5日に、井伊家では、奥方、御妾ともに男子がいなかったので、奥方が養子をとることにして、御嫡子の届をした」との報告もしている。
井伊家では、あわてて。養子の縁組をしたのである。

【5】延岡から江戸まで、連絡にどれだけかかるか? 距離は?

早飛脚は、3月4日に江戸を発ち、3月16日に延岡に着いている(12日かかっている)。
武士たちは、8日に発って、22日に着いている。(14日間

同時期の記録から、通常の連絡の為の、飛脚便の記録が見つかった。
一つは、3月2日に発って、3月25日到着(23日間)。
また、2月12日に発って、3月18日着いた(36日間)というのもあった。
早飛脚がいかに速いか、そして、武士たちも相当の無理をしたに違いない。

現代の鉄道での延岡―東京間距離は、1280km。昔風に言えば、300里である。この”里”というのは、感覚的によくわかりやすい便利な単位である。1里は約4kmであるから、普通の人の歩く速度が、時速4kmであることから、1里は1時間で行ける距離なのだ。歩いて、何時間かが計算しやすいのである。この陸路300里を、歩いて行くと、延べで300時間かかる。1日も休まず、毎日、10時間(つまり40km)歩くとして、30日かかる距離なのである。多分、実際は、これ以上かかるであろう。川を渡ったり、天気が悪かったりと、計算速度は維持できないだろう。
武鑑(各藩の種々の情報が書いている、当時の情報誌)によると、延岡は、江戸から、海陸293里,内海上165里とある。江戸から、延岡へは、完全陸路ではなく、大阪からは、船に乗るのが普通だったのであろう。
 図8> 大成武鑑(資料4)から、内藤家の項:江戸からの距離が分かる

【6】事件後の狼藉者たちの逃亡は

井伊直弼一行は彦根藩の上屋敷を出て、桜田門の近くまで来た、そして、水戸藩浪士を中心とする狼藉者たちは、愛宕山に集結した後、地図上に青破線で示す様に、延岡藩の上屋敷前を通り、虎ノ門を通って、桜田門に到着した。事件後、狼藉者の多くは手負いながら、地図上の青実線に示す様に、日比谷門に向かい、そこを通過後、八代洲河岸(図10参照)にそってを北に進み、馬場先門、和田倉蔵に達し、辰の口(資料中では龍ノ口)で、薩摩藩士の有村が、切腹した。

辰ノ口に向かう途中の、八代洲河岸上に、因州(鳥取藩)の池田邸とその向かいに辻番所が見える(図10参照)。残りの傷の浅い者達は、辰ノ口の近くの脇坂邸と細川邸に逃げ込んでいる。その後のいきさつは、上記の小説でも読んでほしい。
  
 図9> 桜田門から霞が関付近の大名屋敷と桜田門外の変の場所(赤い×)  図10> 日比谷門から大名屋敷付近:狼藉者たちの経路(青色の実線)


【7】(参考)その後の彦根藩

 桜田門外の変の後、彦根藩井伊家は、35万石から25万石に減封されている。世の中を騒がしたということであろう。彦根藩内では、これだけでは済まない、厳しい処断が武士たちに下されているのである。今からでは、決して理解できない、武士の世界の厳しさが伝わる。

 井伊直弼の右腕、左腕となって、江戸、京都を何度も行き来し井伊直弼の意を体しようと努めてきた腹心中の腹心である長野主膳や宇津木景福は、斬首・打ち捨てに処せられている。そして、両家は、減封されている。

また、桜田門外の変では、井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。
死亡した家来の家では、跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。

ところが、軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。

主を守れなかった家来への極めて厳しい処分である。

【8】資料

資料1 : 1-7万覚帳―148(万延元年3月3日)(江戸屋敷、政治、対外関係)
資料2 : 江戸状之写=出典: 大分県立先哲史料館
        注>キーワード、「杵築藩」&「桜田門外の変」でグーグルで検索すれば当たる
      https://sites.google.com/site/komonzyokai/sakuradamon
資料3 : 1-6万覚書―187(万延元年3月22日)(at 延岡)
資料4 : 大成武鑑(弘化2年=1845年:当時の藩主は、内藤能登守政義)(国会図書館所蔵)
資料5 : 吉村昭 著「桜田門外ノ変」(新潮社)


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