今回のトピックス |
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黒船来航に続く、維新期の2番目の激動である桜田門外の変は、延岡藩のとっても重大事件であった。 井伊直弼は、現藩主のすぐ上の兄であり、先代藩主の正室は、井伊直弼の姉であるという関係なのである。 藩主は、延岡に帰っていたので、江戸から、大至急の連絡のため、二人の武士が派遣された。 その連絡用として、事件当日の1日で集められたニュースは、殆んど史実をつかんでいたが、一つだけ大きな間違いがあった。 延岡には「井伊直弼は無事である」と伝えられた。 延岡藩の資料でも、桜田門外の変の事件の息吹が感じられる。 (2013.10.30) (追加) 桜田門外の変の後の彦根藩の、生き残った家来への厳しい処罰について、書き加えた。 (2013.10.30) |
図11> 井伊掃部頭の屋敷跡の碑 | 図12> 現代の桜田門 |
図2> 桜田門付近の絵図面 | 図3> 左図の同位置の現代地図 |
図4>江戸屋敷の日記の安政7年3月3日の記録より。資料1=1/3:1-7万覚帳―148(万延元年3月3日) |
図5> 江戸屋敷の日記(安政7年3月3日)の記録より。2/3:資料1=1-7万覚帳―148(万延元年3月3日) |
図6> 江戸屋敷の日記の安政7年3月3日の記録より。3/3:資料1=1-7万覚帳―148(万延元年3月3日) |
図7> 延岡藩の日記(at 延岡): 資料3=1-6万覚書―187(万延元年3月22日) |
図8> 大成武鑑(資料4)から、内藤家の項:江戸からの距離が分かる |
図9> 桜田門から霞が関付近の大名屋敷と桜田門外の変の場所(赤い×) | 図10> 日比谷門から大名屋敷付近:狼藉者たちの経路(青色の実線) |
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