第79話:明治元年〜4年シリーズ:(3) 

No.79> 第79話:明治元年(慶應4年)シリーズ:(3)

        奥羽戦争の終結せ
        会津城の陥落と東京遷都を延岡に報告


今回のトピックス

    延岡藩の情報担当者から奥羽戦争の終結の様子が伝わると同時に、
    新政府側は、それを見込んで、江戸遷都を検討するために、

    木戸孝允を、江戸へ遣わし、その結果、遷都は妥当であるという報告を受けた。
                                         (2021.4.16)


【1】 序:明治元年の時代背景

慶應4年(明治元年)は、激動の年である。
慶應4年9月8日に、明治元年に改元されている。

その時、「 慶應4年をもって、明治元年とする」と宣言されているので、 正確には、1月1日から明治元年とすべきであるが、この時点では、太陰暦のままで、 月日は、変わらないので、ここでは、どちらでもよいようにしている。

ちなみに、太陽暦(グレゴリオ暦)への変更は、明治5年である。 この変更では、月日にずれが生じている。

今回は、戊辰の役の最大の決戦である会津城の落城と、東京遷都を延岡藩に残る資料から報告したい。

【2】会津城落城まで

新政府は、1月10日に、徳川慶喜、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬の官位をはく奪し、朝敵扱いをした。

徳川慶喜は、1月12日に江戸城に入り、あいまいな姿勢を見せたのち、2月12日に、上野東叡山寛永寺に謹慎した。
松平容保は、慶喜と一緒に江戸に来たが、後に、慶喜から拒否されて、江戸を発った(2月16日)。
その時、同行する会津藩士たちは、江戸城から武器を運び出して、一行は、会津に2月22日に到着している。
4月11日に、江戸城が新政府側に、明け渡され、慶喜は水戸に向かって出発した。

奥州(東北)地方では、反新政府組織=奥羽列藩同盟が出来上がった(閏4月後半)。

仙台伊達陸奥守(62万石)、米沢上杉弾正大弼(18万石)、盛岡南部美濃守(20万石)、 秋田佐竹右京太夫(20万石)、弘前津軽越中守(10万石)、二本松丹波左京太夫(10万石)、 守山松平大学頭(2万石)、新庄戸沢中務大輔(6万石)、八戸南部遠江守(2万石)、 棚倉阿部美濃守(6万石)、中村相馬因幡守(6万石)、三春秋田万之助(5万石)、 山形水野真次郎(5万石)、平安藤理三郎(三万石)、松前松前志摩守(2万石)、 福島板倉甲斐守(3万石)、本庄六郷兵庫頭(2万石)、泉本多能登守(2万石)、 亀田岩城左京太夫(2万石)、湯長谷内藤長寿丸(1万石)、矢島生駒大内蔵(8千石)、 一ノ関田村右京太夫(3万石)、上ノ山藤井伊豆守(3万石)、天童織田兵部大輔(2万石)が加わっている。

さらにその後、新発田溝口誠ノ進(10万石)、村上内藤紀伊守(6万石)、村松堀右京亮(1万石)、 三根山牧野伊勢守(1万石)、長岡牧野備中守(7万石)、黒川柳沢伊勢守(1万石)が加わっている。

この中には、会津藩の名はない。会津藩を守るための連合という意味合いがある。

それにしても、これだけが集まれば、かなりの戦力になりそうに見えるが、こけおどしの集団であった。

この中で、湯長屋(ゆながや)藩の藩主内藤長寿丸は、延岡内藤家の分家である。
彼は、当時12歳ながら血気盛んで、奥羽列藩同盟に参加し、6月24日に、新政府によって、 攻撃をうけ、館が落ちると、すぐに、仙台に逃げているが、9月27日に新政府軍に降伏し、1 0月に、延岡藩江戸藩邸に幽閉されている(当報告の第56話)。

これらの中で、新政府軍と真剣に戦ったのは、長岡藩、二本松藩、庄内藩と、最後に残った会津藩だけであった。
二本松藩の抵抗戦は、ここで簡単に紹介するのは申し訳ないので、別の機会に行いたい。

秋田藩の裏切脱落(7/4)、盛岡藩脱落(7/27)、二本松藩陥落(7/29)、長岡藩陥落(7/29)、米沢藩降伏(9/4)、
仙台藩降伏(9/15)と奥羽同盟側は脱落、裏切り、敗北が続き、この頃には、同盟軍は、庄内藩と会津藩だけになっていた。

終に新政府軍が会津に迫った(8/22)。
会津藩主の松平容保は、会津に戻ってすぐに、軍制の近代化を行っている。

軍を4つに分けて、朱雀隊(18歳〜35歳:1200名)、青竜隊(36歳〜49歳:900名)、玄武隊(50歳以上:400名)
そして有名な白虎隊(16歳〜17歳:300名)である。

これに砲兵隊や遊撃隊などが加わり、戦力は3000名ほどで、さらに町農兵隊が3000名ほどが加わっている。
8月22日ごろから、会津城付近での戦になった。熾烈な戦いの後、会津藩は、9月22日に降伏の意思を示した。

【3】東京遷都会津城落城まで

明治天皇が即位したのは、慶應4年8月22日である。
7月17日には、不自然にも江戸を東京に名前を変えるという詔書が発生されている。

9月8日に、元号が明治に改められた。そして、9月20日に、公式に明治天皇の東京行きが発表されている。
天皇は、10月13日に東京に到着している。江戸城(その時は東京城)が皇居となっている。

天皇は、12月8日に、京都に戻っているが、翌年、明治2年3月7日に、再度、東京の行幸し、そのまま、京都に戻ることはなかった。
これが、大衆が知る歴史である。

鳥羽伏見の戦いの直後の1月17日に、参与の大久保利通は、新政府設立のためには、 因循姑息な朝廷周辺の一新する必要性から、京都から大阪(浪花)への遷都の建白書を出している。

これには、公家達が猛反対をしている。大阪行幸という形で、天皇を大阪にいったん移している。
4月11日に江戸城が無傷で開城されて、新政府の要人の中では、江戸への遷都が検討対象になっている。

薩摩藩洋学校の教授の前島密は、江戸開城前に江戸遷都論を唱える建白書を出している。
また、閏4月1日に、江藤新平が佐賀藩の意見として、東西両都論を提出している。

5月24日に、徳川氏が江戸から駿府70万石に、移されることが決まった。
新政府は、6月19日に、参与の木戸孝允に江戸の帝都としての妥当性を検討させることで派遣している。

7月7日に、京都に帰り、遷都が可能であることを報告している。
そのあとに、江戸を東京と改めることが発表されているのである。

【4】会津陥落=延岡藩に残る記録より

延岡藩の京都に残っている情報係から、会津戦争のことが、延岡へ新聞(新しく聞いた=新情報)として報告されたものを紹介する。
延岡藩は、徳川家譜代、それは、延岡藩自身が自分たちを「我ら旗本」と呼ぶこともあるように、徳川の家来を自任してきた。

しかし、鳥羽伏見の戦後、徳川を見捨てて、急に、新政府側についた。
そこの心情の変化を示す資料にはまだ出会っていないので、正直なところは不明のままである。

しかし、その後の資料では、当然ながら新政府側を味方としている。
会津城の陥落は、どのような気持ちであったのだろうか。今回の資料では、残念ながら、それは伺えない。

    

概訳を示す。

   「9月22日、総督府参謀 長州藩の大(木は間違い)村益次郎をして、左の様に、近情を言上なされた。
    その次第は、

   1)奥羽列藩の慎実(実情)は、発端より合従固結というところは、決してなく、
     会津より兵隊を以て、列藩を廻り説得し、脅し強引に、同盟せし免(メ)て、仙台、庄内を、首藩として、

     いつまでにと日定めをしたので、奥羽の列藩は、止むを得ずして、一旦は、盟約血誓をいたし、
     随って 東北諸国と越後等、会津と庄内の隣様の小藩は、止むを得ずして、官軍に抵抗したが、

     追って、官軍進撃に随い、盟約は自然解散し、しかる中、佐竹(秋田)は最初より独立盟約を放(ハナ)れ、
     九条殿(官軍の総督)のお始め(先兵)と警衛を奉り、四隣の頡(カツ=入り乱れ)を防御いたし、

     氏iレキ=激しい)戦争があったので、近隣の小藩である本庄藩、亀田藩(現秋田県由利本荘市)、
     新庄藩などは、君侯(殿様)が、久保田城(秋田城)に、勤仕致されたが、藩中の半ばは、賊軍に応えて、

     実は、両道(官軍と奥羽列藩側)に就く向きもあった。確かに、白川口の諸藩の、守山、三春藩、
     下手渡藩(陸奥国伊達郡下手渡の藩)、中村藩などは、早(疾)くから、官軍に属して出兵して戦争をしていた。

     会(津)の近情は、先便で申し上げた通りになっている。裸城に必死に立て篭もり(楯篭り)、越後などの余りの敗兵が、
     若松城の搦め手(裏門)から四里程を隔てた高田と申す所に屯集して、
     (会津)城兵と通じて、寡兵(兵が少ない)ことを内外ともに、

     悩んでいたところ、十日前後に、越後口より、官軍が攻め入り、米沢藩も、降伏謝罪して、
     実効をたてようとして、二大隊を出兵してきた。官軍に属し16日に至り、城中より、打ち出してきて、劇戦になった。

     互いに、死傷者があったが、17日に、終に、若松城の搦め手を断切して、高田からの応援の道が、閉ざされるにいたって、」


    

   概訳を続ける。

   「最早、必ず落城に至るといる状況になった。

       米沢藩は、その前より、(官軍に)謝罪を申し出て、仙台に降伏を必ず説得するから、進撃を見合わせてくれる様と、
     二本松藩まで申し出てきたが、米(沢藩)の訴罪は、越後にいる御総督府に申し出るべきだとして、
     若(松藩)と仙台藩の周旋は、そのままにして、まずは、自分の実効を示すべきといわれてしまった。

     即ち、米(沢藩)の世子は、越後の総督府へ謝罪として、参居して、申し上げた。
     即ち、前顧の出兵もあるゆえに、仙台も謝罪を申し出て来ているが、中村口の防御の模様等が言行一致していない、

     兼て、藩論は、二つ三つにも分れて、一定にならなかったについて、官軍からの攻撃は、
     しないわけにはいかないが、追〃、国内へ進入いたし、最早、降伏は間違いない。

     福島城には、二本松侯を始め、桑名、板倉、林、水野、その他、奥羽藩の小藩侯が十名計りも、
     お寄合をして、降伏謝罪を申し出られ、候得共、孰れ(イズレ)面縛(両手を後ろ手にして縛り、
     顔を前に突き出してさらすこと)出府の上、諸家へお預かり位に、なるだろうとの御評議があった。

     佐竹も先月十日頃には、南部藩、津軽藩の兵が 弘前口より、攻め入り、大舘と申す所を攻め落とし、
     仙台口より、院内、及位(ノゾキ:山形県最上郡真室川町)等の険を陥れ、庄内藩よりは、

     新屋(久保田城の西三里)まで、逼(せま)り、すでに、(茨銘)に相及び、最早、城を捨て、
     大平山の険に楯篭り、防御すべきとの軍議の所、十一日、鍋島上総の援兵が海路より、到着につき、

     一藩に割振って、奥三道の頡(カツ=入り乱れ)を)を逐退け、直に、庄内へ攻め入り、

     越後の官軍と挟み打ちにすべきとの報告が、先達であった。

     南部、津軽なども、訴罪に及び、正に、やってきた。
     然り、最早、当月を出ず、平完(完全平定)になるだろう。

     各、併せて、平完後の御処、至当(当然の事)を為され得ずしては、
     守成の義実もって、御難事にて、この後の御処置は、心痛、仕り候。以上。」

    
     ここで、おもしろい、崩し字があるので簡単に紹介したい。この段の最初の3文字である。
     この字は、何と読むだろうか。かなの崩し字の原型である。「いたし」と読む。

     この文字の原型は、「以(イ)」+「多(タ)」+「し」である。
     かなの読み方は、崩し字の練習で最初のとりかかるが、文章中に突然出てくると、
     難しい漢字の崩し字ではないかと、動揺する。意外に、かなと気づくのに時間がかかることがある。

     しかも、ひらがなに対応する漢字が、5種以上ある場合もあって、必ずしも容易ではない。

    

 概訳を続ける。

   「1)9月19日、会藩手(家来)の城木負右衛門、秋月貞次郎 外壱人が、軍門より罷り出て、訴罪した。
      君侯父子は、これまでの所業を承知していない。

      畢竟、家来共の心得違いより、云々(ウンヌン)に成り行きましたことを申し出たようだ。

    1)君侯、並びに、婦女子丈(だけ)は、助命の義を、願い出る。
      家来の者共は、如何様の御所置を命じられても、苦しまずとのよし。

    1)同20日、君侯が 軍門へ出頭し、訴罪の由。

    1)同23日、開城した。 器械等を残らず、官軍へ指出した。
      君侯父子は、並び附いて、婦人二十人余りが、寺院へ入り、謹慎した。
      同日、城中の人数は残らず、外出す。

    1)婦女子老人などは、猪苗代に、立退きの趣にて、 人数、大凡(オオヨソ)、5200余りの由。

    1)会(津)藩より、庄内に脱走せし者共、余祀(暗殺?)があった趣にて、(官軍の)勢いは、ますますのよし。

      会津藩降伏
         総人員  
       1)  130人   諸官士中  但し 軍事員共
       1)  68人    役人
           646人   兵卒の他  下下まで
       1)  746人   士中兵隊
       1)  1609人   士中以下 同行の者あり
       1)  570人   病者
       1)  42人    士中の従僕
       1)  20人    鳶の者
       1)  460人   他領脱走上下
       1)  64人    奥女中
       1)  575人   婦女子

     惣て、〆て、5,225人

    右の外、城外 出張の人員は、追って、取り調べ差し上げ申すべき候 以上

               九月
             覚え
          51挺    大砲    但し 弾薬 付き
          2845挺   小銃
          18箱    胴乱
          22,000発  小銃弾薬」

【5】東京遷都=延岡藩に残る記録より

延岡藩の情報係の井上貞太郎からの署名入りの情報として延岡にもたらされている。
これは、「聞取り秘」という表題からもわかる様に、特に重要という認識であったことが伺われる。

    

概訳を示す

   「聞き取り秘:井上貞太郎 出し

    1)長州藩の木戸準一郎(木戸孝允の事)、先達で、東下の主意は、奥羽模様に寄っては、

      聖上(=天皇)は、 御遣るになるかもしれないとの 御覚悟につき、
      その辺の打ち合わせ置く時機を失わないようとの主意にて、(江戸に)罷り下り居りました処、

      同人(木戸孝允)は、7月21〜2日頃に、帰京し、同日か翌日に、参内し、
      主上へ、暫くの間、申し上げることがある。

      右の、奥羽は、不日(=近い内に)成功を奏ることができると思いますが、
      何分、辺土(辺境)の事ゆえに、皇化が十分に、及び難き処より、
      西国と違い、人心の居合せ方は、その難しいところがありますが、

      唯、患うる処のものは、東国に御啓(オイデマシ)の間、江(戸)城に遷都の上、覆育の御仁徳を御施行になり、
      不良の輩に、敢えて(文句を)言うに及ばないとすることでしょうという由。

    1)京師は、勿論、地形は寛(ヒロ)からずにつき、或いは、大坂や、或いは、
      志賀に御遷都を致すべきがよいという趣の議論もあり得ますが、

      両所とも、莫大のご入費がなくてはできないことで、
      江(戸)城は、その西丸へお移り御座いますれば、御手軽で、且つ、大坂や志賀の両所にては、十歩百歩なりとて、
      江城に御内決の由。

    1)遷都の義、是まで長州は、大いに嫌い居りますが、この度は、専ら主張した由。 

          御東行のお掛(=係)
            議定  越前中納言
            参与  福岡四位
            同   田中四位
            弁事  坊城右大弁
            権弁事 戸田大和守
            お取次 土山淡路守
            御代官焚(フン)出御賦掛   小堀数間
      右八月十日頃 発足(出発)の積り」


   

 概訳を続ける。

    1)右の方〃、 既に御内命は、あるといっても、前文の名前の書入れは、尚、手仕る事
    1)表は、前文の通り。皇化の及び難い処より、遷都を申しあげるとしても、その実は、奥羽が、ますます、連合中です。

      当年中抔(ナド)に、成功の見当も、更に、これ無く、
      この上、長引いて、追々(やっと)、征閉に及びということがあれば、
      時を失う上、諸藩衛手も、永く、在陳にて、大いに、鈍りますので、一端、引き上げて、再挙をしない手はないので、

      このようにやった日には、諸藩も疲弊の中で、相再挙の義は、王命といえども、
      何かに事つけて、奉命に応えることになるだろう。
      その隙に、乗る奥羽連合の諸藩が、押て、上京の義もないとは言えない。

      よって、天子をして、江(戸暸)城に在らしめ、諸侯諸藩兵を御募りなされば、
      御膝下(シッカ=慈愛)よりのお召につき応ぜざるを得ず、
      是乎(ヤ)、手始めに、御再挙の策も立てることができるでしょう。

      その中、奥羽は、不日(近いうちに)成功するとはいえない。天子をして、東行を促すの策にては、
      実は、大いに、難しいので、再挙を計る策だという風聞があると聞いています。」


    

 概訳を続ける。

    1) 聖上御東行の義は、余程の大事行なるか、どうかは、言うべからず。

    1)7月23日、薩藩藩の京詰より、国許に急ぎ、差し遣られ多様だ。
      右は、二大隊、急に出兵を為し致すべき候の急用ということでございます。

    1)久賀卿、来月朔日より、北越より、(関東、東北に)御下向なさる。右に付属の藩は、左の通り、
       薩(鹿児島) 長(山口) 筑(佐賀) 藝(広島) 因(鳥取)

    1) 越後柏嵜(カシワザキ)を7月24日立った者が、同27日に京都に着いた。
      右仁(=人)の咄の由。 伝聞は、 左の通り。

     北越筋、当月朔日後も日々、小競り合いがあった。毎度、賊より発砲し、官軍をおびき出したので、
     止む得ず、防戦となった様な勢いであった。

     これといった死傷も無いところ、当月下旬より、官軍が、追って進撃の勢いとなった。
     都合よいことである(宜敷=ヨロシキ)。
     但し、仁和寺卿は、柏崎に御在陳の由。

    1)7月14〜5日の頃、岩倉卿、御殿に刺客が来たが、御無難にて、その後、菊亭に御避けなされた由である。
      西洞院中立売の角(地名=御所の西側地域:上京区西洞院通り中立売 下る菊屋町付近か)
      旧幕?服所   後藤縫殿助
      右同人方に潜伏していた 池田播磨守。
      旧幕江戸町奉行の 嫡子某

      右は、7月16日 鞠獄方にて、召し捕ったようである。
      縫殿助は、江戸表より、先達として同道して、上京してきたそうだ。
      年齢は、24〜5歳と申すようであります。加藤丁人の倅と申し立て、木屋藤兵衛と名乗っています。

      縫殿助方にも、伯父壱人、手代が両人(二人)、同じく召し捕られた様子です。
      藤兵衛には、同類(仲間)が300人計りもあり、追々、召し捕られるであろう。

    1)右 木屋藤兵衛なるものが、岩倉卿刺客の手掛となったということです。」


      明治維新の業師、悪人といえる岩倉具視の暗殺未遂事件があった様子がわかる。

【6】資料

  1) 延岡藩資料(明治大所蔵):井上貞太郎書立:1-29-186
    2) 戊辰戦争:佐々木克著(中公新書:1977年)
    3) 戊辰戦争から西南戦争:小島慶三著(中公新書:1996年)

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