第78話:明治元年〜4年シリーズ:(2) 

No.78> 第78話:明治元年(慶應4年)シリーズ:(2)

        体制の変動と英雄たちの動向の知らせ
        徳川の家来たちの処遇を巡って山岡鉄舟の活躍


今回のトピックス

    慶應4年(明治元年)の夏から秋にかけて、東北戦争が起きている。その情報が延岡藩にも届く。

    そして、徳川家の家来たちの処遇を巡って、新政府側と山岡鉄舟が交渉をしている。
    新政府の大狸の岩倉具視の暗躍。
                                         (2020.12.27)


【1】 序:明治元年の時代背景

慶応3年末に、王政復古の宣言がなされ、慶応4年(戊辰)は、9月から明治元年となる年である。

この年は、右の年表で見るように、年初めに、鳥羽伏見の戦いで、幕府側が、薩摩長州を中心とする朝廷側に敗北し、 幕府側のトップである徳川慶喜将軍が、謹慎の姿勢を見せた。

朝廷側(=新政府側)は、特に東日本の平定に軍隊を送り出した。
各地で小さな小競り合いはあったが、その中で、会津藩や伊達藩や長岡藩や庄内藩を中心とする東北から新潟を奥羽列藩同盟による反抗が激しかった。

1)奥羽鎮撫隊

奥羽鎮撫総督に五摂家の一つで左大臣の九条道孝に、副総督に沢為量(公卿)、そして、 傲慢でのちに仙台で暗殺される問題児の世良修蔵(長州)が参謀に任命された(同年3月1日)。

形式上、九条道孝を始め3人の公家をトップとするこの部隊は、仙台に無事に入った(3/23)。

2)奥羽越列藩同盟

一方、東北側(仙台藩や米沢藩など)は、裏で、会津藩への穏便な措置をもとめて、ひそかに会合を進めていた。

新政府側の理解が得られず、反新政府の姿勢の奥羽越列藩同盟が結成された(閏4月4日、正式調印は閏4月22日)。

東北側の中心藩は、仙台藩(62万石)、会津藩(28万石)、秋田藩(20万石)と小さくない藩が入っている。

3)秋田藩の新政府側への寝返り

東北鎮撫隊は、そのころ、まだ、仙台藩内で待機していた。軟禁状態ともいえる。

九条道孝総督を中心とする東北鎮撫隊は、別の理由をつけて、仙台を抜け出し(5/18)、盛岡経由で秋田に入り、 新庄経由できた沢副総督と合流をした(7/1)。

九条道孝が連れてきた兵力は、佐賀(753名)、小倉(142名)、そして、沢が連れてきた兵力が、 薩摩(103名)、長州(106名)、筑前(141名)で、 計1245名という大きな兵力であった。

この兵力を受け入れた秋田藩(正確には久保田藩)では、3日続けて重役会議が開かれた。

秋田出身の国学者(朝廷派)の平田 篤胤[ひらた あつたね:安永5年(=1776年)〜 天保14年(=1843年)]の影響を受けた小野崎 通亮 (神職で当時、藩校明徳館教授兼砲術頭)や同藩の藩士吉川忠安らの強い主張で、 秋田藩は、東北列藩同盟を脱退して、庄内藩への攻撃に参加することを決めた(7/4)。

東北同盟派から見ると、裏切りである。

東北同盟派であった家老(戸村十太夫)は隠居させられ、秋田藩の監視に来ていた仙台藩の使節6名は勤皇派によって殺害されている。

4)東北雄藩の仙台藩の腰砕け

仙台藩は8/15に新政府側に降伏をしている。
一方、秋田+新政府軍は、庄内攻撃を開始したが、連戦連敗で、庄内藩側が秋田城(久保田城)まで迫ってきたが、
仲間が脱落していく中で、庄内藩は突然兵を引いている(9/19)。

新政府側に寝返った米沢藩や仙台藩が自領に攻めてくる気配を感じたためである。
その時には、同盟派で戦っているのは、庄内藩と会津藩だけになっていた。

【2】延岡藩の資料

慶応4年という極めて大きな時代変革に遭遇し、京都や東京から遠く離れて情報が入りにくい地理的な条件の他に、
今まで、徳川家の譜代大名だった延岡藩は、つい数か月前に、新政府側に加わったばかりなので、いま日本で何が起きているかということに、
きわめて関心の高い状況である。種々のつてを使って、情報収集を行っている。

それは、日本で起きていることの理解であり、次に自分たちの取るべき姿勢の参考になるものである。

1)東北での戦争状況の理解=秋田戦争


東北戦争の一つとして、極秘情報として、秋田戦争の様子が延岡藩に伝えられている。

薩摩、長州、筑前、土佐、肥前などを主力とする新政府側が、秋田藩の加入にもかかわらず、秋田藩領内での庄内藩の反撃に苦しんでいた。


9/16には、庄内藩は秋田城(久保田城)にあと一歩まで迫ってきた。

その当時、米沢藩、仙台藩が新政府側に寝返って、東北同盟軍側は、会津藩と庄内藩だけになっていた。

しかし、庄内藩は、9/19に、突然、秋田藩領内から、自藩領内に退却をしている。

概訳を示す

  「 実は、秋田も今だに、決して一つとなっていない。

   日々、小野崎忠間(小野崎 通亮か吉川 忠安のことか)や 
   その他の諸有志にて、力を尽くして、説得をしてきたが、兎に角、君(朝廷を)倒そうとしている奸徒は、直言正義の賢を阻隔し、

   昨日も、三公当君侯(九条 道孝など3人の公家)にお逢いに相成り後、勤王の者となる藩士は、勿論、仮令(タトイ)、農商たりとも、
   この様な御時節なので、御採用に成り、その姓名をお調べになる様にという御沙汰があった。

   且つ、薩長筑土は、肥前に先鋒を仰せ付けになり、不日(フジツ=すぐに)、御進軍の節に御治完(征服)になったところ、
   右の君側(朝廷側)は、大いに、以後を、弁え(ワキマエ)ながら、昨日も、遠征が延期になった様子に付き、
   右有志の中では、大に、激発し、既に、殊に、敵地を目の前にして、この段の由を申し上げたが、

   火中(不満が爆発状態)になった様な事態であるが、
   必ず、不日、きっと、一完の討ち入りになるぞと告げた。

   とうとう、先般、新庄表まで、退去した時には、それに引き替え、諸隊一同は、未だ降伏に気持ちではなく、(
   逆に意気が)、盛り上がった。ご安心下さい。

   別に、薩長の奮励は、一方ならず。然るに、肥前藩の合兵になって、
   所謂、虎に翼を付けたような勢いでございます。最終的に、成功になること間違いなしと思っています。


薩長側の状況を伝えている。新庄まで退却しているが、意気軒高であることを京都の本部に伝えてきたものを、
延岡藩の情報筋が手に入れたもののようである。

2)仙台藩の降伏



概訳を示す

  「 或る藩からの聞き取り

   1>仙台藩は、四五分通り、異説が通り、最早、降伏は避けがたいと見えながら、一旦、抗敵になったがゆえに、
     今更、降伏を仕るというと、領地は、まず、とりあげになるだろう。

     大藩の事故に、広大の土地があるので、(新政府側の)市卒達は、恩賞は、この地分を頂戴できるだろうと、
     殊の外、楽しみにしている様だ。

     尤も、京地にいて、地役(現場)の指風浴雨(髪を風でとかし、雨で体を洗うほど)の苦しみをしていない者どもが、
     五位四品になるぐらいだから、戦地で、苦戦の者は、右よりは、一等分、高大の御恩賞がきっとあるだろうと、願っているとのこと。 

   1>会津藩より、越後海辺までは、二十里余りの間、四方が、高山絶壁の要害地にて、討ち入リ難く、
     是には、水府(水戸)の浪士や、幕徒千六七百人が、堅固に、分守しているので、容易に討ち入り難く、
     よって、増兵を 急速に願う事を、薩長土安肥(安=安藝、肥=肥前)に進んで、出兵を全備、待っている。

     打ち入りの手筈は、それまでに、会津にの討ち入る手当(援軍)にかかっている。
     しかるところ、賊兵より数戦に挑んできたので、大小砲を打ちかけたようだ。

     その玉に対して、いちいち、瓦石が投げられてきた、然れば、玉茶が投げられてきたこともあった。
     かつは、策略の取加えることも、計り難く、その内地は、討ち入りの兵糧道が絶え切っているようなので、

     是には、賊兵も窮し居り、その中に、いづれ、八日九日中に、落城に到らなければ、要路の口々に富兵を遣って、
     ひと先(マズ)、解兵までに、四五日ぐらいと願う見込の由、薩摩藩の留守居からの、証話があった。


仙台藩が降伏すると、この広大な土地のいくらかを、褒章として、得られるだろうと、新政府側の武士たちは楽しみにしていることがわかる。
京都の公家たちは、戦争という苦しみを味わっていないのに、褒賞にあずかるのはおかしい。

四品五品という地位だけでよいだろう。会津藩の日本海に近い地域(新潟県境付近)での抵抗の強さを伝えている。
賊軍側は、高所をおさえていて、新政府側が大砲を打つと、上から石や瓦を投げてくる。
熱湯(玉茶?)もこぼしてくるようだ。

ただ、新政府側が、兵糧の道を抑えているので、あと8日9日もすると、降伏してい来るだろうと予想している。
そのような話を、薩摩藩の留守居役から聞いた話である。

3)幕府側の武士の処分と山岡鉄舟


江戸から、木戸孝允(当時は、木戸準一郎と名乗っていた)が、京都に帰ってきた。
その時の話として、徳川家の家臣たちの処遇を巡って、新政府側では3案でた。

@官軍の兵士(朝臣)とする。A徳川慶喜の家来のまま、B帰属無しとする、つまり浪人あつかいとするというものであった。

そこで、徳川の側の代表として、山岡鉄舟(当時は、鉄太郎という名)が、交渉にきて、朝廷の家臣とするというのは大義がない、
自分を始め、慶喜についていく(最終的には、静岡に向かう)という決心を告げている。

山岡鉄舟については、最後の章で別に扱っている。

概訳を示す

   「 聞き取り秘

   1>木戸準一朗(後の木戸孝允)が、帰京後の話に、(注>木戸七月二十二日に帰京相成り候事)

     旗下(徳川家)の家臣の、此の節の所分に付き、説は三つに分かれた。
     あるいは、朝臣に帰すべき、あるいは、慶喜公に随はんという、
     また、一つは、因循改めずの説。

     勝房州門人の幕人の山岡鉄太郎という者が主張してきた。
     朝臣に召し上げられたとしても、これに大義ない、これを理解せよと言ってきたので、そうかなと思っていたところ、

     猶また、山岡が、押しかけてきた。其の元(お前の)処分は、如何か問い詰めたところ、
     自身は、よんどころなく(無拠)、子細はある。

     慶喜公に随って、尽力をする覚悟であるというのを聞いた。
     だから、徳川家の者たちも、一緒に、お供をすると申し上げたいとして、
     山岡が、あれこれ、心配していた処、その主張は、(山岡の云う通り)、決まった。

     ついに、(静岡に)ひきいることに決まったとのこと。
         (木戸の話)


木戸の話によると、山岡鉄舟が、徳川家臣群の扱いについて、猛抗議をしてきて、その案に従った様子がわかる。

【3】明治天皇の東下と岩倉具視

幕府を倒すために、幕府に同情を示す当時の孝明天皇を暗殺したと思われている岩倉具視の面目躍如の行動である。

明治天皇の東下(江戸=当時、すでに、東京という言葉が出ている)を企て、自分も付いていく。
天皇の盛大な移動に必要な費用について、東海道の諸藩から、金を借りる命令を出している。

もう一つのエピソードは、明治時代の政商といえば、土佐藩出身の岩崎弥太郎が有名であるが、
薩摩藩出身の五代才助(後の五代友厚)も、主に、関西を舞台に実業家として活躍をしている。

その五代が、新政府側の運転資金、あるいは、天皇の東下の費用として、外国から500万ドルの借金することを提案してきたが、
新政府側は、それに及ばないとして、拒否している。

小豆島を、外国に、300万ドルで売却するという話もあったようだ。



概訳を示す

   「 (明治天皇の東京への)御東下の儀に付いては、岩倉公が、殊に、御尽力、御奮発になり、
     ご自身も、御東下の思し召しを以て、弁え(ワキマエ)る事(考えている)と、御申し出になった。

     この間、仁和寺様の御下向の時分も、御発途になるはずの所、御延引になった。
     この節の処道は、御鳳輦(ホウレン)や御催奉には、御覚悟の用意が必要で、多端の上(いろいろ立て込んでいるので)、
     禁酒で女色を遠ざけて、暫くは、心に、報国の御年頭のこと。

     尤も、八月中旬の御出立の御目当にて、ご用意の由。

     但し、岩倉公は、御先供にて、 御親臨の御主意を東海道筋へ、御説諭になり、
     続いて、御出輦の其のお供より、会計官が、出立の諸勘定や支払の御仕組みを申し上げたのである。

     尤も、東海道筋の諸藩、並びに、その外共の壱の者へは、金札の借用を仰せつけられ、東京御滞在は、暫くの御見込みにて、
     お帰りには、木曽路と申す。これは、御内議のよし

   1> 横浜は、運上(税金の一種)引き当てで、五百萬ドルを御借りすることについて、
     五代才助が、談判に至ったすえに、その時になって、朝廷の御運びが変わった。

     今度、御東下の御入費や、外国の難題の対処に回すことができないとしても、差支えないとのこと、
     会計局より、大丈夫との見込みが出たので、お引き受けするとのことなので、右の、御借金の儀は、御破談に成った。

   1> 小豆島、三百万ドルにて、外国に御渡しの説あり


明治天皇の東下るという話に、行き先が東京という地名がすでに出ている。慶應4年の段階で、すでに、東京という地名が、流布していたようだ。 また、明治天皇がその道中は、不穏なことも予想されるので、禁色の令が出ているのも面白い。

【4】人物像=山岡鉄舟


山岡鉄舟という人物は、幕末から明治にかけて活躍した人物であるが、剣術を極め、禅を極め、書道家でもあり、
付き合った人間が皆、彼の人的魅力にひかれるという人間味にあふれた人物のようである。
彼を最後の武士と評価する人が多い。

落語家である三遊亭円朝は、鉄舟の禅の弟子であり、鉄舟の設立した寺にともに葬られている。
鉄舟は、自分の死に際して、皇居に向かって座禅の姿勢(結跏趺坐)をとって、絶命している(明治21年=1888年:享年53歳)。

四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まり、その時、明治天皇は、高殿から目送されたという。
葬儀は、彼が維新に殉じた人々の菩提を弔うため谷中に設立した普門山全生庵で行われている。

鉄舟を先生として慕っていた清水の次郎長が子分を引き連れて参列するなど、会葬者は5千人にも上った。

そして、彼の遺骸は、その全生庵に眠っている。鉄舟の弟子の何人か、そして、彼の身の回りを世話していた爺さんも、彼の墓の前で殉死している。

日本橋の老舗の山本海苔店の宣伝の字(現在は包装紙で使用)は鉄舟の手になるという。
彼は、勝海舟高橋泥舟と並んで、幕末の三舟の一人としてまず紹介される。高橋泥舟とは親戚関係になるが、泥舟については、別の機会に譲りたい。

歴史では、勝海舟が、江戸総攻撃に向かう西郷隆盛のもとに、山岡鉄舟を使いとしてやり、その後、西郷と直談判をして、江戸城の無血開城を実現したことになっている。

しかし、実際は少し異なる。慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋泥舟を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ないとして、
義弟である鉄舟を推薦したことで、鉄舟は慶喜から直々に使者としての命を受けた。

駿府へ行く前に、初対面ながら、勝海舟に面会している。その時、海舟は、討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書状を託した。
鉄舟は、官軍の陣営の中を、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。

写真からもうかがえるように、鉄舟は,190cmに近い身長と100kg超の体重をもち、押し出しもなかなかなので、官軍の兵は、引きさがり、自然と道ができていった。
西郷に会うことができた。鉄舟は、西郷から提示された「江戸城無血開城」などの5つの条件の内の、4つは了解したが、一つだけ拒んだ。

それは、将軍慶喜を備前藩に預けるということであった。西郷はこれは朝命であると凄んだが、これに対し、
鉄舟の、「もし貴殿の殿である島津侯が慶喜と同じ立場であったなら、貴殿は、この条件を受け入れないはずである」という反論に、西郷も納得した。

この会談で、江戸城無血開城は、ほとんど決まっていたのである。勝海舟と西郷との会談に、鉄舟も同席している。
徳川家存続と江戸城無血開城への第一の功績者が、鉄舟であることを、慶喜も認め、「来国俊」の短刀を鉄舟に与えている。

また、岩倉具視も、勝海舟が歴史に名を残したが、鉄舟を本当の功績者として認めている。
維新後、徳川家達に従い、駿府に移り住んでいる。その時、先の清水の次郎長と意気投合をしている。

明治5年から、西郷のたっての依頼で、宮中に出仕して、10年間侍従として、明治天皇に仕えている。
海舟の方が年長であったが、長生きしている(明治32年没)。

【5】資料

     1) 延岡藩資料: 1-29-222:新聞秘
     2) 延岡藩資料: 1-29-222-4:新聞秘
     3) 小島英記 著: “山岡鉄舟” (日本経済新聞出版社:2018年)
     4) 佐々木克 著: “戊辰戦争“(中公新書:1977年)
     6) 高橋正明 著: “武士の日本史”(岩波新書:2018年)

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