今回のトピックス |
---|
慶應4年(明治元年)の夏から秋にかけて、東北戦争が起きている。その情報が延岡藩にも届く。 そして、徳川家の家来たちの処遇を巡って、新政府側と山岡鉄舟が交渉をしている。 新政府の大狸の岩倉具視の暗躍。 (2020.12.27) |
慶応3年末に、王政復古の宣言がなされ、慶応4年(戊辰)は、9月から明治元年となる年である。
この年は、右の年表で見るように、年初めに、鳥羽伏見の戦いで、幕府側が、薩摩長州を中心とする朝廷側に敗北し、
幕府側のトップである徳川慶喜将軍が、謹慎の姿勢を見せた。
朝廷側(=新政府側)は、特に東日本の平定に軍隊を送り出した。
各地で小さな小競り合いはあったが、その中で、会津藩や伊達藩や長岡藩や庄内藩を中心とする東北から新潟を奥羽列藩同盟による反抗が激しかった。
慶応4年という極めて大きな時代変革に遭遇し、京都や東京から遠く離れて情報が入りにくい地理的な条件の他に、
今まで、徳川家の譜代大名だった延岡藩は、つい数か月前に、新政府側に加わったばかりなので、いま日本で何が起きているかということに、
きわめて関心の高い状況である。種々のつてを使って、情報収集を行っている。
それは、日本で起きていることの理解であり、次に自分たちの取るべき姿勢の参考になるものである。
幕府を倒すために、幕府に同情を示す当時の孝明天皇を暗殺したと思われている岩倉具視の面目躍如の行動である。
明治天皇の東下(江戸=当時、すでに、東京という言葉が出ている)を企て、自分も付いていく。
天皇の盛大な移動に必要な費用について、東海道の諸藩から、金を借りる命令を出している。
もう一つのエピソードは、明治時代の政商といえば、土佐藩出身の岩崎弥太郎が有名であるが、
薩摩藩出身の五代才助(後の五代友厚)も、主に、関西を舞台に実業家として活躍をしている。
その五代が、新政府側の運転資金、あるいは、天皇の東下の費用として、外国から500万ドルの借金することを提案してきたが、
新政府側は、それに及ばないとして、拒否している。
小豆島を、外国に、300万ドルで売却するという話もあったようだ。
概訳を示す
「 (明治天皇の東京への)御東下の儀に付いては、岩倉公が、殊に、御尽力、御奮発になり、
ご自身も、御東下の思し召しを以て、弁え(ワキマエ)る事(考えている)と、御申し出になった。
この間、仁和寺様の御下向の時分も、御発途になるはずの所、御延引になった。
この節の処道は、御鳳輦(ホウレン)や御催奉には、御覚悟の用意が必要で、多端の上(いろいろ立て込んでいるので)、
禁酒で女色を遠ざけて、暫くは、心に、報国の御年頭のこと。
尤も、八月中旬の御出立の御目当にて、ご用意の由。
但し、岩倉公は、御先供にて、 御親臨の御主意を東海道筋へ、御説諭になり、
続いて、御出輦の其のお供より、会計官が、出立の諸勘定や支払の御仕組みを申し上げたのである。
尤も、東海道筋の諸藩、並びに、その外共の壱の者へは、金札の借用を仰せつけられ、東京御滞在は、暫くの御見込みにて、
お帰りには、木曽路と申す。これは、御内議のよし
1> 横浜は、運上(税金の一種)引き当てで、五百萬ドルを御借りすることについて、
五代才助が、談判に至ったすえに、その時になって、朝廷の御運びが変わった。
今度、御東下の御入費や、外国の難題の対処に回すことができないとしても、差支えないとのこと、
会計局より、大丈夫との見込みが出たので、お引き受けするとのことなので、右の、御借金の儀は、御破談に成った。
1> 小豆島、三百万ドルにて、外国に御渡しの説あり」
明治天皇の東下るという話に、行き先が東京という地名がすでに出ている。慶應4年の段階で、すでに、東京という地名が、流布していたようだ。
また、明治天皇がその道中は、不穏なことも予想されるので、禁色の令が出ているのも面白い。
1) 延岡藩資料: 1-29-222:新聞秘
2) 延岡藩資料: 1-29-222-4:新聞秘
3) 小島英記 著: “山岡鉄舟” (日本経済新聞出版社:2018年)
4) 佐々木克 著: “戊辰戦争“(中公新書:1977年)
6) 高橋正明 著: “武士の日本史”(岩波新書:2018年)
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|