今回のトピックス |
---|
戊辰戦争の後半である東北戦争と北陸戦争の情報が頻繁に延岡に送られる。 遠い地方の戦いであるが、延岡藩でも最大の関心事である。 忍者や情報担当者が活躍する。 (2020.9.1) |
明治維新は、徳川幕府の終焉という意味では、若干の抵抗はあったものの、
明治元年(実際は慶應4年)初めに宣告された王政復古宣言で終了ともいえる。
しかし、明治維新が、革命であったというとらえ方では、王政復古宣言や廃藩置県よりは、
武士政権、武士文化の終焉である、版籍奉還こそ、真の革命であったと思う。
例えば、延岡藩でいうと、王政復古とその後に出された、廃藩置県では、延岡藩から延岡県への名前の変更でしかなく、
徳川家から朝廷に支配層が変わっただけで、これからも、延岡藩内の支配関係は、変わらないと考えていただろう。
武士は、ちょんまげを結い、刀を差して道の真ん中を歩いていただろう。
ところが、明治4年の版籍奉還で、殿様はトップ(知事)ではなくなり、武士という階級そのものが、無くなることになったのである。
最高の特権と、文化レベルを持っていただろう武士が、否定されたのであるから、そのショックは、想像できないほど大きいものであっただろう。
今回のシリーズでは、この明治4年までの短い間の延岡藩を中心に、支配層である殿さまから武士たちまでが、
どう考えて生活していたかを探りたいと思って、資料集めをしようと思っている。
近代史では、明治時代の近代化だけが教科書の対象となっているが、実は、生活文化の一翼を担ってきた武士の消える運命には、
殆ど注意が払われていない。
そこの一端でも探ることができたらと思っている。
延岡藩に残る試料から、この劇的であり、悲しい革命の時代を垣間見たい。
日本での太陽暦の採用は、明治5年11月からであるから、それまでの、記録は、当然、太陰暦に従っている。
当報告で採用しているこの時期の記録も、すべて太陰暦であるから、月日は、太陰暦のまま使用する。
ただし、目安として示している、西暦年では、年初と年末でずれる可能性があることを、事前に示しておきたい。
明治元年(=慶應4年=1868年)正月3日から5日にかけて、京都への入り口である鳥羽と伏見で起きた、
幕府軍と新政府軍との間の戦争(鳥羽伏見の戦い)は、将軍慶喜の逃亡という意外な展開で終戦となった。
その最中の正月4日に、既に、新政府側は、山陰道鎮撫総督に西園寺公望を、そして、翌日に、東海道鎮撫総督に橋本実梁を任命し、
2月9日に、有栖川宮仁親王が東征大総督に任ぜられている。
有栖川大総督の部隊は、2月15日に、京都を発って、3月5日に、駿府城に到着した。
そこで、3月15日の江戸総攻撃の日が決まっている。
その直前に、勝海舟や山岡鉄舟の働きで、有名な西郷と勝の会談(3月13日)が行われ、そこで、江戸総攻撃は回避された。
結果、江戸城も無血開城されて(4月11日)、慶喜は水戸へ移った。
しかし、新政府軍に不満な、旧幕府側の家臣達は、江戸市中では彰義隊結成(2月23日)や、
幕府の陸軍奉行を勤めた大鳥圭介を中心とする集団や、幕府海軍のリーダーであった榎本武揚を中心とする集団ができている。
新選組の残党もその一つである。
2月の段階で、新政府側では、会津藩征伐は決まっていた。
このころ、仙台藩主から新政府側に、会津を朝敵として罰するのはおかしいという建白書が届いている。
その建白書は、仙台伊達藩の分家であるが、新政府では要人の宇和島藩主(伊達宗城)も見たが、
時期既に遅しとして、積極的には動いていない(建白書を握りつぶした)。
しかし、その直後に、九条道隆(公家)を形式上のトップ(総督)とし、実質上のトップ(参謀)に世良修蔵(長州)を据えた奥羽鎮撫隊は、
錦旗とともに、3月2日に京都を発っている。
鎮撫隊は、海路、松島湾の寒風沢に3月18日に到着して、3月22日に、仙台に入っている。
鎮撫隊による、仙台藩の会津出兵への強い要求に対して、仙台藩がぐずぐずして時間稼ぎをしている間に、
陰で、仙台藩士と米沢藩士が会津若松で、会津藩の救済案が練られていた。
その相談は、鎮撫隊が到着する前からなされていたが、鎮撫隊が来たことで、仙台藩も動きにくくなっていた。
3月末に、庄内藩が転領地の村山(山形県)を預かることになって出軍した際に、隣藩の天童藩とぶつかる事件が起きている。
会津藩内では、戦闘の準備を進める一方で、同じく新政府側から敵とみなされている庄内藩が同盟を結んだ(4月10日)。
それは、白石列藩会議(閏4月11日) を経て、奥羽列藩同盟となった(5月3日)。
その間に、鎮撫隊の事実上のトップでありながら、傍若無人の非礼な男であった世良修蔵が暗殺されている(閏4月20日)。
奥羽同盟には、上野から逃れてきた輪王寺宮を盟主に据えて、仙台藩中心の王国を築こうとした魂胆があった。
東北地方の入り口として白河の関で有名な白河城の攻防は、戊辰戦争最大の犠牲者が出ている。
世良修蔵が暗殺された同日に、仙台藩は、白河城を攻撃して奪取した(閏4月20日)。
しかし、新政府軍は、兵力をまとめて5月1日に、激しい戦闘の後、奪回している。
その後、仙台藩、会津藩、棚倉藩、二本松藩、相馬藩がそろって、7度ほど奪回を目指して攻撃したが、
大きな犠牲を払いながら、いずれも、押し返されている。
彰義隊を制した(5月15日)政府軍は、福島県と茨城県の県境にある平潟に上陸して、陸路、東北に向かった。
勿来の関を越えると、泉藩(2万石)、湯長谷(ゆながや)藩(1万5000石)、平藩(3万石)などの小さい藩が続く。
その中の、湯長谷藩は、延岡藩内藤家の分家である。
この藩は、最近は、映画「超高速!参勤交代」のモデルとなった藩として脚光を浴びている。
新政府軍は、泉藩を攻略した翌6月29日に、湯長谷藩の陣屋を落としている。
この時の第13代藩主(内藤政養)は、当時、12歳ながら、あくまでも奥羽同盟側にたち、落城後、仙台城に逃げて、
あくまでも新政府側に抵抗する姿勢を見せた。会津藩落城(9月22日)後、新政府に降伏している(9月24日)。
その後、延岡藩の預かりとなり、12月7日に、養子の政憲に家督を譲って、隠居させられている(12歳)。
新潟の長岡でも、新政府側に盾突く男がいた。長岡藩の家老の河合継之助である。
彼は、江戸藩邸から長岡に引き上げるときに、家財をすべて売り払い、
武器を購入している(機関銃の一種であるガトリング砲もこの時購入している)。
当初は、東北同盟にも新政府側にも、組しない中立を守ろうとしたが、新政府側の軍監岩村誠一郎と直接交渉(5月2日)したが、
相手にされず、反政府側につかざるを得なくなった。
新政府軍の急襲を受けて、長岡城を奪われてしまった(5月19日)。
2か月後、今度は、河井側が夜襲をして長岡城を奪い返した(7月24日)。
しかし、この戦いで、河井は深傷を負った。その後、新政府側に、再度、長岡城を奪い返された(7月29日)。
河合は、長岡藩士たちと会津に逃げる途中で絶命している(8月13日:43歳)。
これらの新潟での戦いを北越戦争という。
1) 明治大所蔵の延岡藩資料:新聞秘:1-29-222
2) 佐々木克著:戊辰戦争(中公新書1977年刊)
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|