第77話:明治元年〜4年シリーズ:(1) 

No.77> 第77話:明治元年〜4年シリーズ:(1)

        武士階層と藩体制の滅ぶまで
        東北と北越の征討の経過を延岡に報告


今回のトピックス

    戊辰戦争の後半である東北戦争と北陸戦争の情報が頻繁に延岡に送られる。
    遠い地方の戦いであるが、延岡藩でも最大の関心事である。

    忍者や情報担当者が活躍する。
                                         (2020.9.1)


【1】 序:明治元年から4年までの意味

明治維新は、徳川幕府の終焉という意味では、若干の抵抗はあったものの、 明治元年(実際は慶應4年)初めに宣告された王政復古宣言で終了ともいえる。

しかし、明治維新が、革命であったというとらえ方では、王政復古宣言や廃藩置県よりは、
武士政権、武士文化の終焉である、版籍奉還こそ、真の革命であったと思う。

例えば、延岡藩でいうと、王政復古とその後に出された、廃藩置県では、延岡藩から延岡県への名前の変更でしかなく、 徳川家から朝廷に支配層が変わっただけで、これからも、延岡藩内の支配関係は、変わらないと考えていただろう。

武士は、ちょんまげを結い、刀を差して道の真ん中を歩いていただろう。

ところが、明治4年の版籍奉還で、殿様はトップ(知事)ではなくなり、武士という階級そのものが、無くなることになったのである。

最高の特権と、文化レベルを持っていただろう武士が、否定されたのであるから、そのショックは、想像できないほど大きいものであっただろう。

今回のシリーズでは、この明治4年までの短い間の延岡藩を中心に、支配層である殿さまから武士たちまでが、 どう考えて生活していたかを探りたいと思って、資料集めをしようと思っている。

近代史では、明治時代の近代化だけが教科書の対象となっているが、実は、生活文化の一翼を担ってきた武士の消える運命には、 殆ど注意が払われていない。

そこの一端でも探ることができたらと思っている。

延岡藩に残る試料から、この劇的であり、悲しい革命の時代を垣間見たい。

【2】 新潟と東北地方の新政府への抵抗をみる

日本での太陽暦の採用は、明治5年11月からであるから、それまでの、記録は、当然、太陰暦に従っている。
当報告で採用しているこの時期の記録も、すべて太陰暦であるから、月日は、太陰暦のまま使用する。

ただし、目安として示している、西暦年では、年初と年末でずれる可能性があることを、事前に示しておきたい。

明治元年(=慶應4年=1868年)正月3日から5日にかけて、京都への入り口である鳥羽と伏見で起きた、 幕府軍と新政府軍との間の戦争(鳥羽伏見の戦い)は、将軍慶喜の逃亡という意外な展開で終戦となった。

その最中の正月4日に、既に、新政府側は、山陰道鎮撫総督西園寺公望を、そして、翌日に、東海道鎮撫総督橋本実梁を任命し、 2月9日に、有栖川宮仁親王が東征大総督に任ぜられている。

有栖川大総督の部隊は、2月15日に、京都を発って、3月5日に、駿府城に到着した。
そこで、3月15日の江戸総攻撃の日が決まっている。

その直前に、勝海舟や山岡鉄舟の働きで、有名な西郷と勝の会談(3月13日)が行われ、そこで、江戸総攻撃は回避された。
結果、江戸城も無血開城されて(4月11日)、慶喜は水戸へ移った。

しかし、新政府軍に不満な、旧幕府側の家臣達は、江戸市中では彰義隊結成(2月23日)や、
幕府の陸軍奉行を勤めた大鳥圭介を中心とする集団や、幕府海軍のリーダーであった榎本武揚を中心とする集団ができている。
新選組の残党もその一つである。

2月の段階で、新政府側では、会津藩征伐は決まっていた。
このころ、仙台藩主から新政府側に、会津を朝敵として罰するのはおかしいという建白書が届いている。

その建白書は、仙台伊達藩の分家であるが、新政府では要人の宇和島藩主(伊達宗城)も見たが、
時期既に遅しとして、積極的には動いていない(建白書を握りつぶした)。

しかし、その直後に、九条道隆(公家)を形式上のトップ(総督)とし、実質上のトップ(参謀)に世良修蔵(長州)を据えた奥羽鎮撫隊は、
錦旗とともに、3月2日に京都を発っている。
鎮撫隊は、海路、松島湾の寒風沢に3月18日に到着して、3月22日に、仙台に入っている。

鎮撫隊による、仙台藩の会津出兵への強い要求に対して、仙台藩がぐずぐずして時間稼ぎをしている間に、
陰で、仙台藩士と米沢藩士が会津若松で、会津藩の救済案が練られていた。

その相談は、鎮撫隊が到着する前からなされていたが、鎮撫隊が来たことで、仙台藩も動きにくくなっていた。
3月末に、庄内藩が転領地の村山(山形県)を預かることになって出軍した際に、隣藩の天童藩とぶつかる事件が起きている。

会津藩内では、戦闘の準備を進める一方で、同じく新政府側から敵とみなされている庄内藩が同盟を結んだ(4月10日)。
それは、白石列藩会議(閏4月11日) を経て、奥羽列藩同盟となった(5月3日)。

その間に、鎮撫隊の事実上のトップでありながら、傍若無人の非礼な男であった世良修蔵が暗殺されている(閏4月20日)。
奥羽同盟には、上野から逃れてきた輪王寺宮を盟主に据えて、仙台藩中心の王国を築こうとした魂胆があった。


東北地方の入り口として白河の関で有名な白河城の攻防は、戊辰戦争最大の犠牲者が出ている。
世良修蔵が暗殺された同日に、仙台藩は、白河城を攻撃して奪取した(閏4月20日)。

しかし、新政府軍は、兵力をまとめて5月1日に、激しい戦闘の後、奪回している。
その後、仙台藩、会津藩、棚倉藩、二本松藩、相馬藩がそろって、7度ほど奪回を目指して攻撃したが、
大きな犠牲を払いながら、いずれも、押し返されている。

彰義隊を制した(5月15日)政府軍は、福島県と茨城県の県境にある平潟に上陸して、陸路、東北に向かった。
勿来の関を越えると、泉藩(2万石)、湯長谷(ゆながや)藩(1万5000石)、平藩(3万石)などの小さい藩が続く。

その中の、湯長谷藩は、延岡藩内藤家の分家である。
この藩は、最近は、映画「超高速!参勤交代」のモデルとなった藩として脚光を浴びている。

新政府軍は、泉藩を攻略した翌6月29日に、湯長谷藩の陣屋を落としている。
この時の第13代藩主(内藤政養)は、当時、12歳ながら、あくまでも奥羽同盟側にたち、落城後、仙台城に逃げて、
あくまでも新政府側に抵抗する姿勢を見せた。会津藩落城(9月22日)後、新政府に降伏している(9月24日)。

その後、延岡藩の預かりとなり、12月7日に、養子の政憲に家督を譲って、隠居させられている(12歳)。


新潟の長岡でも、新政府側に盾突く男がいた。長岡藩の家老の河合継之助である。
彼は、江戸藩邸から長岡に引き上げるときに、家財をすべて売り払い、
武器を購入している(機関銃の一種であるガトリング砲もこの時購入している)。

当初は、東北同盟にも新政府側にも、組しない中立を守ろうとしたが、新政府側の軍監岩村誠一郎と直接交渉(5月2日)したが、
相手にされず、反政府側につかざるを得なくなった。

新政府軍の急襲を受けて、長岡城を奪われてしまった(5月19日)。
2か月後、今度は、河井側が夜襲をして長岡城を奪い返した(7月24日)。

しかし、この戦いで、河井は深傷を負った。その後、新政府側に、再度、長岡城を奪い返された(7月29日)。
河合は、長岡藩士たちと会津に逃げる途中で絶命している(8月13日:43歳)。
これらの新潟での戦いを北越戦争という。

【3】 延岡藩の記録

(1) 明治元年の夏頃の延岡藩の状況

鳥羽伏見の戦いで、当初、譜代大名である延岡藩は、殿様は延岡に留まったままで、家老の原小太郎率いる部隊が、幕府側につき、
大阪と京都の中間地点の野田口の警備を仰せつかった。

しかし、朝廷に逆らうのは理不尽であるとして、大阪にいた幕府側の老中である板倉伊賀守に抗議して、結局、大阪城の守備についた。
ところが、幕府側の敗北となり、延岡藩は、朝敵5藩の中に入れられてしまった。殿さまは、4月4日に京都に来たが、謹慎処分となる。

そこで、原小太郎ほか京都に残った少数の藩士が、延岡藩の無罪を訴える為に種々の努力をした結果、5月10日に無罪となる。
この経緯は、当レポート55〜56に述べたとおりである。

その直後から、政府軍の一員として、日本各地へ出兵命令がでる。そして、東北への出軍命令が出たが、それはすぐに、免除された。
それは、内藤家の分家である湯長谷藩の藩主が、政府軍に盾突いて、仙台藩に逃げてしまったからであると思われる。
その7月ごろの日本の情勢を、延岡藩の情報網が集めた情報から探りたい。

(2) 新聞


幕末の延岡藩の資料に、新聞という膨大な資料がある。この「新聞」というには、文字通り、新しく聞いたことを意味して、
今のニュースと語源は同じであるが、現在の新聞紙とは大きく異なる。

延岡藩の情報収集係が、市中の情報を集めたものであるが、多くは、各藩の同じような仕事をしている者からの情報交換で得た情報とみられる。
右に示すような秘密と付いた情報が延岡に届けられるのである。

中には、長州征伐時の時のように、スパイ、つまり、忍者が集めた情報も含まれている。
今回は、明治元年(慶應4年)に出来たばかりの新政府による東北征伐に関して、延岡藩の情報関係の幹部の井上貞太郎が、
江戸や京都で集めた情報集から選抜して報告する。

新政府はできたが、まだ、逆転覆する可能性もあり、早く正確な情報が望まれるときである。
延岡でも、江戸や京都だけでなく、東北での戦争の情報も重要とみなしているのである。

(3) 白河辺りでの攻防に関して新聞

延岡藩の資料から示す。合わせて、白河付近の地図も参考として示す。




これは、東国から北越を経由して京師(京都)に到着したばかりの薩摩藩の藩士2人から聞き取ったもので、 延岡に向けて8月5日発の飛脚に託された報告である。

先ず、概訳を示す。

  「 白河へ官軍の大熟練の人気(気風)を振りまいている由である。
    その上で、 無謀にも合戦の事は、ありえない。

    至密に、軍議を擬した上で、これ無しにては、相掛り申さず由にて、
    大いに勝利を得て、既に、白河より、棚倉まで、
    五里程を残すところまで来る間に、
    二カ所の戦いで、官軍が、悉(ことごと)く、打ち敗る。

    直ちに、(棚倉の)城下に、詰めている、敵軍の八百余を、撃戦に及び、
    棚倉城を乗取り、賊は悉く退散した。
    当時、官軍は、棚倉城を根城としたようです。

    薩長の軍補佐の大村(益次郎)の兵軍の乗った艦を廻して、タイラ(磐城平)
    とか申すところに、上陸した。

    (不思議なことに)仙台の兵一隊(がいたが、彼らは)戦わずして、
    逃げて、猶又、一ケ処、四百余の賊兵が集まっているところに、
    押寄せて、戦争に及びました。

    賊軍は、敗走し、そのまま、官軍が、同所を堅め居るとのこと。

  1.仙台藩は、国論が二つに分れに成って、始めは、家老の一人と儒者の一人が、
    会を援し、倫を配し、皷動(鼓舞)したところ、藩全体が、心服し、場に反論できず、

    そのまま、出兵になったところ、遂に、戦争に及んで、敗けてしまった。
    その段、沸騰し、苦しき中も難しい勢いとなったとの事です。

    仙台藩より、宇和島藩へ内使を送ろうとしたが、未だに出ていない。
    その後、宇和島の老侯が、仙台へ説得のために、御発行を待って、

    既に、去る二日、京師を御出立の筈であるところ、御用が差さわりが出て、
    暫く、延引いたし、御船は、未だ、整わずとか。
    但し、遠からず内に、愈々(いよいよ)もって、御出立には、相違なしとのこと。

  1.越後路の賊軍は、嶮に拠り、横二十里ほどの間、障台場を八十余カ所を築き、
    官軍も、虚をうかがう(すきを狙う)為に探りを入れている段階で、暫くは、油断しがたい状況。

    官軍は、長岡城を根城として、互いに、百眼合い、余程の徒労の体と見えるとの事。
    但し、この程は、仁和寺殿が、御着になり、越前と肥前の兵も
    加わり、このように、官軍の方は勢いを備えているとの話。

  1.吉井幸輔は、越後表に到着したところ、前条の次第に付き、薩州表への要請として、
    二大隊を操出して、直ちに、北国へ、進入なさるようにと、昨三日に、飛脚を京師へ発足との事。
 」

(4) 長岡城の攻防に関して




これは、井上貞太郎が書き出して、八月七日に延岡に向けて達したものである。概訳を示す。

   「 8月4日に、京に着いた北越に出ていた薩藩士よりの急報で特別の秘である。

     昨(時)機、切迫しており、他言を不要。一昨日の24日暁の二字(=2時)過ぎ、
     長岡表へ、賊徒が襲来し、本営始め、市中一体に放火し、何分にも不意で、

     殊に大至急の義に付き、官軍も、余程苦戦に及んだが、逐に、長岡は、
     こたえ出来兼ねて、昨日中に、追って、
     多人数が関ケ原(関原)まで引き上げたとのことであります。

     右については、討ち死や手負いに等も、余程、多くでて、只今の模様にては、
     とても、もり返すことも、覚束なく、甚しく難議な事でありますので、
     何卒、早々、強兵の五六隊を、大繰り出しに成ります様、御取はかりをくださるように。

     委細は、薩藩の仙藤新八郎と為川八百助の両人が正出状を持参していますので、
     右両人より、戦争の模様やその外の萬ずのことを御聞取り下される様お願いします。

     何分にも、呉〃の急の御出兵が無くては、実に、御大事が切迫の場になっております。
     既に二十五日には、御軍一同、進軍の手配にて、且は、兵隊も繰り出し、

     尚又、前始の都合にて、少しの兵も繰り出したが、御本営は、
     すでに、御旗本隊の七十余人が来ております。

     既に、同所も、随分、手広の土地で、その海岸を巡邏も、行き届き難く、
     御本営に残り居る者までも、近所を(警戒のため)廻っています。

     実に、大心痛で、御推察を、してください。
     先ずは、急事にてお知らせします。なお、近く取調べ、委細を申し上げます。早々 以上。

        7月26日。六字(=6時)

     先の報告で、申し上げ真下通り、ハトロンが出来しだい、近く、急ぎ、お送り下される様。
     右は、この度の大変にて、実に、不都合なことでございます。なるべく拵(コシラ)えて、お送り下さい。


この文章で、二字とか、六字という表現があるが、これは、幕末には、西洋式の時計時刻による時刻が普及し出したため、
日本式の時刻での「」と区別するため、「」という表現を使った。

日本式時刻は、日の出から日の入りを6等分(日没から日の出までを6等分)したものを1時(約2時間)としていいたため、
夜と日中の1時の長さも、冬と夏の一刻の長さも異なる。

長岡藩は、現在の長岡市と新潟市を領地とした譜代の牧野家7万4000石の規模である。
見かけ上の石高は延岡藩(7万石)と同規模であるが、実際の石高はもっと多かったようで、見かけよりは裕福だったのかもしれない。

幕末に、これだけ有名になったのは、家老の河井継之助の活躍のおかげである。
しかし、その後、新政府によって減封にされ、そのため、藩財政が立ち行かなくなり、
版籍奉還より前の明治3年に廃藩を申し出て、受理されている。

この文の中に、旗本隊という表現がある。もちろん、錦の御旗を指す。
正式の天皇の軍隊ということで、京都を発つときに、各本隊は、錦の御旗を渡されている。

また、ハトロンとはハトロン紙のことか、どういう意味があるのかは不明である。

(5) 長岡城の攻防(続)



概訳を続ける。

   「 三日月藩(播磨国佐用郡三日月:現、兵庫県佐用郡佐用町三日月周辺)の藩士である塚田半助が、
     上越行より、急用にて、上京し、話してくれたのを聞き取りました秘事であります。

     7月24日、長岡藩中の婦女子は、寛大な思し召を以て、城中に、留まることの許された者は、
     兼ねて、話し合っての事のようですが、右婦人等は、専ら、城中に火を放ち、これを合図に、

     長岡城より、二里余り東北の方の台場で、富山勢の持ち場へ、賊徒が押し寄せてきたので、
     一里余り前で備え、加州勢(加賀藩)からの応援で出兵していた。

     しかし、同所へも賊が押し寄せ、閑道より、長岡に、押し寄せ、内の方は火勢が起き、外では、砲戦。
     頗る(スコブ)る苦戦で、長岡城より三里ばかり、北の方、十二潟と申すところで、
     薩州勢が、台場にいますところ、同所より、長岡での火の手を見受け、応援、出掛けました。

     海へ賊が、押し寄せ、この地も放火された。

   1. 25日には、官軍が、し返しをしようとしたところ、同夕方より、又又、大戦争になり、
     終に、長岡城は、賊方へ取り返されました様です。

     是より先は、与板藩に付き、追って、同所の方を廻り勢にて、
     長岡は、至る所、(当方の)勢いが無い状態です。

     その様な状況を、長岡の西岡寺様の兵粮方の宿の一人成る者が、兼ねてより、賊方へ内通しているかもしれない。
     長岡は、見たこともない勢いがあることも、申し上げた通り。

     是、家中に残っている婦人等が申し合わせたために、右様のことになったとの風説です。

   1. 同時に、与板の、金ヶ崎と出雲ヶ崎も同様で、賊が、押し寄せた様です。
     22日までも、元、与板辺で、炮声が響き渡っている様です。

   1. 西園寺様は、柏崎へ御転体、仁和寺様も同所へ御滞体になっている様です。

   1. 長岡より、東南の、千曲川上より、与板、金ヶ崎、出雲ヶ崎まで、十二里ほどの間、
     双方が、数か所に台場を、築き立て、対体の状態です。相方、応戦できるほどの距離で、対立しているそうです。

   1.官軍は、未だ、御進撃に成らず。賊軍は、虚を窺(ウカガ)っている様子です。

     土地人民は、実に、共に、困っている様子。
     何とも、官軍に、帰順して、一日も早く、賊軍退散してほしいと渇望している様子です。

     そうは申すのは、彼の地は、季節早く、稲刈りの真最中で、農民共は、田刈を致していましたので、
     賊兵が、砲発している間は、目前の稲刈をできず、難渋している様子であります。

     前件の荒増(アラマシ)を申し上げました。 以上。 


以上の報告を見ると、現在の、記録と変わらないほどの、正確で膨大な情報を得ていることが分かる。
それほど、上方に飢えていて、必死で情報収集をしていたことが分かる。

【4】 資料

   1) 明治大所蔵の延岡藩資料:新聞秘:1-29-222
     2) 佐々木克著:戊辰戦争(中公新書1977年刊)

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