今回のトピックス |
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江戸から明治にかけての開明の師である福沢諭吉による著書「中津留別の書」の 印刷前の原本に近いものが延岡藩の記録に残っていた。 貴重な資料なので、全文を紹介する。 (2020.7.3) |
辛未(カノトヒツジ:明治4年)3月15日、東京出便
延岡行新聞 5冊の一
福沢諭吉 留別の書
福沢諭吉先生 中津留別の書
人は万物の霊なりと言う。ただ耳目鼻口手足をそなえ言語・眠食するをいうにあらず。
その実は、天道にしたがって徳を脩(オサ)め、人の人たる知識・聞見を博くし、物に接し、人に交わり、
我が一身の独立を謀(ハカ)り、我が一家の活計を立ててこそ、はじめて万物の霊というべきなり。
古来、支那・日本人のあまり心付かざることなれども、人間の天性に自由という道あり。
ひと口に、自由といえば我儘(ワガママ)のように聞こゆれども、決して然(シカ)らず。
自由とは、他人の妨(サマタゲ)をなさずして、我が心のままに事を行うの義なり。
父子・君臣・夫婦・朋友、互いに相妨げずして、各、その持前の心を、自由自在に行われしめ、我が心をもって他人の身体を制せず、
各、その一身の独立をなさしむるときは、人の天然持前の性は正しき故、悪あしき方へは赴(オモム)かざるものなり。
もし心得ちがいの者ありて、自由の分限を失い、他人を害して自から利せんとする者あれば、
すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、
貴賤長幼の区別なく、これを軽蔑して可なり。これを罰して可なり。
右の如く、人の自由独立は大切なるものにて、この一義を誤るときは、徳も脩(オサ)むべからず、智も開くべからず。
家も治(オサマ)らず、国も立たず。
天下の独立も望むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立し
て一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。士農工商、互(タガイ)に相その自由独立を妨ぐべからず。
人倫の大本(タイホン)は夫婦なり。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり。
天の人を生ずるや、開闢(カイビャク)の始め、一男一女なるべし。
数千万年の久しきを経るも、その割合は同じからざるを得ず。また男といい女といい、
等しく天地間の一人にて軽重(ケイチョウ)の別あるべき理なし。
古今、支那・日本の風俗を見るに、一男にて数多あまたの婦人を妻妾(サイショウ)にし、
婦人を取扱うこと下婢(カヒ)の如く、また、罪人の如くして、嘗て(カッテ)これを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。
一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚(ナラッ)て母を侮(アナド)り、その教を重んぜず。
母の教を重んぜざれば、母はあれどもなきが如し。孤子(ミナシゴ)に異ならざるなり。
いわんや男子は外を勤めて家におること稀なれば、誰かその子を教育する者あらん。哀(アワレ)というも、なおあまりあり。
『論語』に夫婦別ありと記せり。別ありと言うは、分け隔てありということにあるまじ。
夫婦の間は情なさけこそあるべきなり。他人らしく分け隔ありては、とても家は治おさまり難し。
されば別とは区別の義にて、この男女(ナンニョ)はこの夫婦、かの男女はかの夫婦と、二人ずつ区別正しく定るという義なるべし。
然るに今、多勢(タゼイ)の妾を養い、本妻にも子あり、妾にも子あるときは、兄弟同士、父は一人にて母は異ことなり。
夫婦に区別ありとはいわれまじ。男子に二女を娶(メト)るの権あらば、婦人にも二夫を私(ワタクシ)するの理なかるべからず。
試(ココロミ)に問う、天下の男子、その妻君が別に一夫を愛し、一婦二夫、家におることあらば、
主人よくこれを甘んじてその婦人に事(ツカ)うるか。
また『左伝(サデン)』にその室(シツ)を易(カウ:妻を交換する)るということあり。
これは暫時(ザンジ)「細君を交易することなり。
孔子様は世の風俗の衰うるを患れえて『春秋』を著し、夷狄(イテキ)だの中華だのと、
やかましく人を褒めたり、謗り(ソシリ)たり
せられしなれども、細君の交易はさまで、心配にもならざりしや。そしらぬ顔にてこれをとがめず。
我々どもの考には些(スコ)し、不行届のように思わるるなり。
されば、『論語』の夫婦別あるも、外(ホカ)に觧(トク)しようが、ある文句が、漢儒先生たちの説もあるべし。
親に孝行は当然のことなり。ただ一心に我が親と思い、余念なく孝行をつくすべし。三年父母の懐(フトコロ)を免れず、
ゆえに三年の喪を勤(ツトメ)るなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。
世間にて、子の孝ならざるを咎(トガ)めて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり。
人の父母たる者、その子に対して、我が生たる子と唱え、手もて造り、金もて買いし道具などの如く思うは、大なる心得ちがいなり。
天より人に授かりたる賜(タマモノ)なれば、これを大切に思わざるべからず。
子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許(テモト)に置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、
すでに学問の下地(シタジ)できれば学校に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立(シタツ)ること、父母の役目なり。
天に対しての奉公なり。子の年齢二十一、二歳にも及ぶときは、これを成人の齢と名づけ、
各、一人の了管(リョウケン)できるものなれば、
父母はこれを棄てて顧みず、独立の活計を営ましめ、その好む所に行き、その欲する事をなさしめて可なり。
ただし親子の道は、生涯変るべきにあらざれば、
子は孝行をつくし、親は慈愛を失うべからず。
前に言える棄てて顧みずとは、父子の間柄(アイダガラ)にても、その独立自由を妨げざるの趣意のみ。
西洋書の内に、子生れてすでに成人に及ぶの後は、父母なる者は子に忠告すべくして、命令すべからずとあり。
万古不易(バンコフエキ)の金言、思わざるべからず。
なお、また、子を教ゆるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば
父母の行状正しからざるべからず。口に正理を唱となうるも、身の行い鄙劣(ヒレツ)なれば、
その子は父母の言語を教とせずして、その行状を見慣うものなり。いわんや父母の言行ともに正理に戻るものをや。
いかでその子の人たるを望むべき。孤子(ミナシゴ)よりもなお不幸というべし。
あるいは父母の性質、正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、
一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。
こは、罪なきに似たれども、その実は子を愛するを知て、子を愛するゆえんの道を知らざる者というべし。
結局その子をして無智無徳の不幸に陥らしめ、天理人道に背く罪人なり。
人の父母としてその子の病身なるを患(ウレエ)ざるものなし。
心に人に若(シカ)ざるは、身体の不具なるよりも劣るものなるに、ひとりその身体の病を患(ウレエ)て心の病を患えざるは何ぞや。
婦人の仁というべきか、あるいは畜類の愛と名づくるも可なり。
人の心の同じからざる、その面(オモテ)の相異るが如し。世の開(ヒラク)るにしたがい、不善の輩もしたがって増し、
平民一人ずつの力にては、その身を安くし、その身代を護るに足らず。
ここにおいて一国衆人の名代(ミョウダイ)なる者を設け、一般の便不便を謀(ハカッ)て政律を立て、
勧善懲悪(カンゼンチョウアク)の位、はじめて世に行わる。この名代を名づけて政府という。
その首長を国君といい、附属の人を官吏という。国の安全を保ち、他の軽侮を防ぐためには、欠くべからざるものなり。
およそ、世の中に仕事の種類多しといえども、国の政事を取扱うほど難きものはなし。
骨折る者はその報むくいを取るべき天の道なれば、仕事の難きほど報も大なるはずなり。
ゆえに政府の下にいて政事の恩沢を蒙(コウム)る者は、国君・官吏の給料多しとて、これをうらやむべからず。
政府の法、正しければその給金は安きものなり。ただにこれをうらやまざるのみならず、また、したがってその
人を尊敬せざるべからず。ただし国君官吏たる者も、自から労して自から食(クラ)うの大義を失わず。
その所労の力とその所得の給料と軽重いかんを考えざるべからず。これすなわち君臣の義というなり。
右は人間の交りの大略なり。その詳(ツマビラカ)なるは二、三枚の紙に尽くすべからず。
必ず書を読ざるべからず。書を読むとは、ひとり日本の書のみならず、支那の書も読み、
天竺(テンジク)の書も読み、西洋諸国の書も読ざるべからず。
このごろ世間に、皇学・漢学・洋学などいい、自家の学流を立てて、たがいに相誹謗ひぼうするよし。
もってのほかの事なり。学問とはただ紙に記したる字を読むことにて、あまりむつかしき事にあらず。
学流得失の論は、まず字を知りて後の沙汰(サタ)なれば、あらかじめ空論に時日を費やすは益なき事なり。
人間の智恵をもって、日本・支那・英仏等、わずか二、三ヶ国の語を学ぶになにほどの骨折(ホネオリ)あるや。
鄙怯(ヒキョウ)らしくもその字を知らずしてかえって己(オノ)が知らざる学問のことを誹謗するは、
男子たる者の恥ずべきことにあらずや。
学問をするには、まず学流の得失よりも、我が本国の利害を考えざるべからず。
方今、我が国に外国の交易始り、外国人の内、あるいは不正の輩のありて、我が国を貧にし我が国民を愚にし、
自己が利を営(イトナマ)んとする者多し。
されば、我が日本人の皇学・漢学など唱え、古風を慕い新法を悦ばず、
世界の人情世体に通ぜずしめ、自ら貧愚に陥るこそ、外国人の得意ならずや。
彼の策中に籠絡(ロウラク)せらるる者というべし。
この時にあたって外人の憚(ハバカ)るものは、ひとり西洋学のみ。
ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事(クジ)を談じ、
内には智徳を脩(オサメ)て人々の独立自由を逞(タクマシュウ)し、外には公法を守て一国の独立を輝(カガヤカ)し
はじめて真の大日本国ならずや。これすなわち我輩の着眼、皇漢洋、三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。
願くは我が旧里、中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食(クラ)い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、
脩徳開知、鄙吝(ヒリン)の心を却掃(キャクソウ)し、家内安全、天下富強の趣意を了解せらるべし。
人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん。発足の期、近(チカキ)にあり。
怱々(ソウソウ)筆をとって西洋書中の大意を記し、他日諸君の考案にのこすのみ。
明治三年庚午(カノエウマ)11月27夜、
中津留主居町(ルスイマチ)の旧宅敗窓の下に記す
福沢諭吉の代表的な本としては、「学問之すゝめ」(1編〜17編)があるが、これは、1編(明治5年)、(2-3編:明治6年)、
(4-13)(明治7年)、14編(明治8年)、15-17編(明治9年)と、4〜5年ほどかけて書かれている。
今回の「中津留別の書」(明治3年著だが、出版は明治5年)の方が、「学問のすゝめ」より早く書かれている。
中津留別の書の中には、「学問のすゝめ」の骨格となる内容がでてくる。
その意味でも、中津留別の書は、諭吉の思想の確立を知る上で、重要な書物である。
「学問のすゝめ」の1編の書出しは、有名な、 “天は人の上に人を造らず、人の下に人を作らずと言えり” であるが、
これは、米国の独立宣言からヒントを得た言葉である。
諭吉の最初の著作である「西洋事情」の中に、 “アメリカ13州独立の檄文” として、
“天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、これに付与するに動かさざるべからずの通義をもってする”
という文章が紹介されている。これを基にしたことは明らかであろう。
また、“人は同等なることを唱える”(第2編)。
当時の封建制の日本では、生まれた家系で、上下の関係も固定され、例えば、彼の父のように、生まれが下士がゆえに、学問があっても、
(本人にとっては)嫌いな仕事をしなければならなかった。それで、諭吉は、中津藩を恨んだ。
「学問のすゝめ」の3編には、 “一身独立して一国独立すること” という趣旨がある。
「中津留別の書」の(1)終わりから(2)の初めにかけて、
“一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし“という記述が出てくる。
その後に、 ”士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。” という記述が、先の、 “人の上に人を作らず“ という趣旨につながる。
それは、社会の上下だけでなく、諭吉は、男女の間も平等であると主張する。
その陰には、諭吉の母親に対する思いがある。(中津留別の書の(1)、学問のすゝめの8編)。
中津留別の書では、女性の地位の低さの例として、妾を作る夫を非難する。
学問のすゝめにつながる所として、(5)に
“人間の智恵をもって、日本・支那・英仏等、わずか二、三ヶ国の語を学ぶになにほどの骨折あるや”とか、
(5)から(6)にかけて、
“ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事(クジ)を談じ、内には智徳を脩(オサメ)て、
人々の独立自由を逞(タクマシュウ)し、外には公法を守って一国の独立を輝(カガヤカ)して、初めて真の大日本国ならずや。
これすなわち我輩の着眼、皇漢洋、三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。“
と洋学を奨励している。
2〜3か国語を勉強するのはちっとも大したことではないと明言していらっしゃる。
1) 明治大所蔵:内藤家資料:1-29-171-4:明治4年
2) 福沢諭吉著:「学問のすゝめ」(岩波書店の「福沢諭吉選集」より)
3) 北岡伸一著;独立自尊:福沢諭吉と明治維新:ちくま学芸文庫(2011.2.25刊)
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