第76話:延岡藩に残る福沢諭吉の中津留別の書の原著 

No.76> 第76話:延岡藩に残る福沢諭吉の中津留別の書の原著

        延岡藩に残る初版本より古い原著


今回のトピックス

    江戸から明治にかけての開明の師である福沢諭吉による著書「中津留別の書」の
    印刷前の原本に近いものが延岡藩の記録に残っていた。

    貴重な資料なので、全文を紹介する。
                                         (2020.7.3)


【1】 序:福沢諭吉の歴史

(1)中津藩の諭吉


福沢諭吉は、現大分県の中津藩(奥平家:10万石)の士族ながら下士であった福沢百助(ヒャクスケ)の次男坊として、同藩の大阪蔵屋敷にて生まれている(天保5年:西暦1835年1月10日)。

父の百助は、元締方として同藩の米を売りさばく役で、有能な経理屋として、下士では、最高位まで出世をしているが、実は、会計は大嫌いで、学者タイプの武士であった。

大阪に15年ほど勤務しており、大分への転勤が認められず、大阪で病没している。諭吉が3歳のころで、母子は、大分に戻っている。
中津市内に、福沢諭吉の幼少時の生活した住宅が残っており、大きな観光地になっている(生家の写真)。

父親が、苦労しながらも、上士に出世できなかったからか、諭吉は、中津藩に対して、そして、身分制度に対して、
「門閥制度は、親の敵」として、終生、強い反感を持つようになった。

中津には、諭吉が育った家が残っており、重要な観光地になっている。中津駅前には諭吉の大きな銅像(写真)が立っている。

中津藩は、奥平家(幕末の藩主:昌邁。大膳大夫)10万石で、延岡藩より大きな藩である。

江戸中期に同藩の藩医であった前野良沢は、杉田玄白や中川淳庵らと一緒に 「解体新書(ターヘル・アナトミヤ)」を訳している(1776年)など、蘭学に熱心な時代もあったようだが、幕末の諭吉の時代には、その流れは途絶えていたようだ。

中津に行くと、美しい中津城をみることができる(写真=中津城)。
本の中津城は、豊臣秀吉に活躍した黒田官兵衛(如水)が最初、建造したというものであるが、細川家→小笠原家をへて、1700年代に入って、丹後宮津から、奥平家が、10万石の藩主となり、幕末まで続いた。

当の城は、西南戦争で焼失してしまったが、昭和39年に、旧藩主の奥平家を中心に天守閣(コンクリート製)が建造されて、観光名所となった。

しかし、元の形を復元したものではなく、新たに設計したもので、奥平家の流れをくむ事業者が、観光として営業してきたが、経営が苦しいとして、インターネットを通じて、売却するという騒ぎが起きている(2010年)。
城の運命は、危うい状況の様だ。

(2)その後の諭吉 前半生

諭吉は、14歳ごろになって、初めて学問(四書五経)をスタートした。かなり、遅いスタートであるが、
たちまち頭角を現し、学問への欲求が強くなる。

諭吉は、21歳の時に、兄のお供で長崎に行き、彼だけ残留したが、そこでも、蘭学の勉強はできず、半ば、非合法に、兄のいる大阪に行って、
そこで、緒方洪庵の適塾に通うことができて、そこで、初めて蘭学を学ぶことができた(22歳)。

3年ほど学んだ後、江戸屋敷内で藩士に蘭学の講義をすべしという藩命で江戸に出て、鉄砲洲にある同藩の中屋敷内に蘭学の塾を開く(25歳)。
そこは、慶應大学の発祥の地ともいえるが、現在の聖路加病院のある場所である(地図中、青で囲った奥平大膳太夫の敷地)。

同地域付近の幕末時代の地図と現代の地図を下に示す。
鉄砲洲稲荷(富士塚がある;現在は当時より100mほど南西に移動している)と築地本願寺の位置が基準となる。
古地図を見ると、ベネチアみたいに、運河が張り巡らされているのが分かるが、現在は、そのほとんどが埋め立てられている。



江戸に出て、半年後の安政6年(1859)年6月に、日米修好通商条約が発効して、横浜等での貿易が開始された。
さっそく、横浜に出かけた諭吉は、オランダ語が全然通じず、又、向うの言っていることも、書いてあることもわからずショックを受けて、
英語の必要性を痛感して、英語の勉強を開始した(26歳)。

その翌年には、軍艦奉行木村摂津守喜毅(ヨシタケ)の従僕として、咸臨丸での渡米に潜り込んでいる。
その時は、サンフランシスコに1月ほどの滞在で帰国の途にたっている。

そこで、写真館の若い娘とツーショットの写真を撮っている。(右写真)
彼の茶目っ気がみえる。

翌年、諭吉(13石に人扶持)は、上士である土岐太郎(250石+役料50石)の娘(錦)と結婚している。
従来では、下士と上士の間の婚姻は極めて珍しい例である。

その年末には、遣欧使の正規の通訳として、欧州に1年ほど滞在して、フランス、イギリス、ロシア、オランダ等を視察している。
これに先立って、400両という支度金を幕府から得ている。

その内の100両を、中津にいる母親に送ったが、その時、咸臨丸での渡米時の米国人の若い娘とのツーショット写真も送っている。

それは、中津では、大評判になったらしい。よく年末、帰国して、蘭学塾を改めて、英語塾として再スタートさせている(30歳)。
欧州での見聞を「西洋事情」としてあらわした(文久元年=1864年:31歳)が、写本に次ぐ写本で、流布していった。

正式の印刷本としては、後に、明治3年(1870年)に出版され、当時としては、大ベストセラーとなった。

このころまで、諭吉は、幕臣として取り立てられ、幕府のために提言をしていた。
慶應3年(1867年)に、2度目の渡米をしているが、これを機に、幕府に見切りをつけて、新しい時代の必要性を唱えるようになってきた。

帰朝後、諭吉は、中津藩中屋敷内から、芝新銭座(現在の浜松町付近)にあった、有馬家の屋敷を355両で買い取り、新居と塾を移転している(慶應3年=34歳)。

このころ、参勤交代がなくなり、江戸に多数の武士を置いておく必要もなくなり、各藩で屋敷があまり出したという背景がある。
しかし、芝新銭座の元有馬家の屋敷がどこにあったかは、古地図を見ても見つからない。

少なくとも、巷間言われている中屋敷クラスではあるまい。抱え屋敷程度であろう。
そして、翌年(慶應4年=明治1年)に、正式に、慶應義塾と命名している。

明治3年(1870年:30歳)に、6年ぶりに中津に帰って、2か月ほど滞在している。
そこで、今回紹介する、「中津留別の書」を書き上げている。

翌、明治四年に、三田にあった島原藩の中屋敷の払い下げを受けて、現在の場所に、慶應義塾を移転させている。

【2】 延岡藩と福沢諭吉の関係



延岡藩と福沢諭吉は縁がある。まず、諭吉の生まれた中津藩の大阪蔵屋敷は、延岡藩の大阪蔵屋敷と隣同士なのである(#37報で既報)。

明治時代になって、延岡藩の最後の殿様や老中などが、慶應技術に入学している。
また、明治時代、延岡藩の藩校「亮友社」で学んで優秀だった学生は、無試験で、慶應義塾に入ることが許されている。
#9=2代目柳家小さん の所でもふれた)。

延岡藩と福沢諭吉の間に、何らかのつながりがあったのであろう。

各藩も、明治4年に版籍奉還によって、藩解体となるまでの、明治1年から4年の間は、昔の大系のままである。
そこで、各藩は、海外事情の勉学の必要性を痛感して、慶應義塾に入学が盛んとなる。

薩摩藩も、西郷隆盛が福沢諭吉に心酔したことから、学生を送っている(慶應義塾生の15%が薩摩出身)。
また、和歌山藩は、諭吉を6000石(1万石は大名である)で招こうとした(明治2年)。
諭吉が、時代の寵児であったのが分かる。

【3】 延岡藩に残る「中津留別の書」

先にも期した様に、諭吉は、明治3年に6年ぶりに2か月ほど中津に帰省している。
母(順)と亡き兄の娘(一)を東京に迎えるためであった。

(長い間、彼の恨みの対象であった)中津を本格的に去るにあたって、故郷の人に残したメッセージである。
それは、彼が、第1回の渡米(咸臨丸)、遣欧使節、第2回の渡米の直後の事である。

彼は、欧米の民主主義、議会制度、技術革新、などに強い衝撃をうけて、人は平等で機会均等であるべきという彼のその後の人生観の骨格が形成されたときである。

そこで、「中津留別の書」を書き上げたが、それが印刷されたのは、明治5年3月の事である。
現在、出回っている本は、それを基にしたものであろう。今回の延岡藩の記録は、江戸から延岡に送られた明治4年の情報集のなかに納められている。

つまり、一般に、発表される前の記録である。比べてみると、現在、流布している記録と、ところどころ、異なる所が散見される。
より原本に近い。中津に残る記録(一部公表されている)と一致していた。
今回は、延岡藩に残っている「中津留別の書」全部の記録を示す。

中で、一般に流布している「中津留別の書」と今回の著述の異なる部分を青色字で示した。
興味のある方は、比較をしてみるのも一興かもしれない。

後で引用するために、わかりやすいように、(1)〜(6)ページに分けて紹介する。

(1)



     辛未(カノトヒツジ:明治4年)3月15日、東京出便
     延岡行新聞 5冊の一
     福沢諭吉 留別の書

福沢諭吉先生 中津留別の書

人は万物の霊なりと言う。ただ耳目鼻口手足をそなえ言語・眠食するをいうにあらず。
その実は、天道にしたがって徳を脩(オサ)め、人の人たる知識・聞見を博くし、物に接し、人に交わり、
我が一身の独立を謀(ハカ)り、我が一家の活計を立ててこそ、はじめて万物の霊というべきなり。

古来、支那・日本人のあまり心付かざることなれども、人間の天性に自由という道あり。
ひと口に、自由といえば我儘(ワガママ)のように聞こゆれども、決して然(シカ)らず。
自由とは、他人の妨(サマタゲ)をなさずして、我が心のままに事を行うの義なり。

父子・君臣・夫婦・朋友、互いに相妨げずして、各、その持前の心を、自由自在に行われしめ、我が心をもって他人の身体を制せず、
各、その一身の独立をなさしむるときは、人の天然持前の性は正しき故、悪あしき方へは赴(オモム)かざるものなり。

もし心得ちがいの者ありて、自由の分限を失い、他人を害して自から利せんとする者あれば、
すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、
貴賤長幼の区別なく、これを軽蔑して可なり。これを罰して可なり。

右の如く、人の自由独立は大切なるものにて、この一義を誤るときは、徳も脩(オサ)むべからず、智も開くべからず。
家も治(オサマ)らず、国も立たず。
天下の独立も望むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立し

(2)



て一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。士農工商、互(タガイ)に相その自由独立を妨ぐべからず。

人倫の大本(タイホン)は夫婦なり。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり。
天の人を生ずるや、開闢(カイビャク)の始め、一男一女なるべし。

数千万年の久しきを経るも、その割合は同じからざるを得ず。また男といい女といい、
等しく天地間の一人にて軽重(ケイチョウ)の別あるべき理なし。

古今、支那・日本の風俗を見るに、一にて数多あまたの婦人を妻妾(サイショウ)にし、
婦人を取扱うこと下婢(カヒ)の如く、また、罪人の如くして、嘗て(カッテ)これを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。

一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚(ナラッ)て母を侮(アナド)り、その教を重んぜず。
母の教を重んぜざれば、母はあれどもなきが如し。孤子(ミナシゴ)に異ならざるなり。

いわんや男子は外を勤めて家におること稀なれば、誰かその子を教育する者あらん。哀(アワレ)というも、なおあまりあり。
『論語』に夫婦別ありと記せり。別ありと言うは、分け隔てありということにあるまじ。

夫婦の間は情なさけこそあるべきなり。他人らしく分け隔ありては、とても家は治おさまり難し。
されば別とは区別の義にて、この男女(ナンニョ)はこの夫婦、かの男女はかの夫婦と、二人ずつ区別正しく定るという義なるべし。

然るに今、多勢(タゼイ)の妾を養い、本妻にも子あり、妾にも子あるときは、兄弟同士、父は一人にて母は異ことなり。
夫婦に区別ありとはいわれまじ。男子に二女を娶(メト)るの権あらば、婦人にも二夫を私(ワタクシ)するの理なかるべからず。

試(ココロミ)に問う、天下の男子、その妻君が別に一夫を愛し、一婦二夫、家におることあらば、
主人よくこれを甘んじてその婦人に事(ツカ)うるか。

また『左伝(サデン)』にその室(シツ)を易(カウ:妻を交換する)るということあり。
これは暫時(ザンジ)「細君を交易することなり。

孔子様は世の風俗の衰うるを患れえて『春秋』を著し、夷狄(イテキ)だの中華だのと、
やかましく人を褒めたり、謗り(ソシリ)たり

(3)



せられしなれども、細君の交易はさまで、心配にもならざりしや。そしらぬ顔にてこれをとがめず。
我々どもの考には些(スコ)し、不行届のように思わるるなり。
されば、『論語』の夫婦別あるも、外(ホカ)に觧(トク)しよう、ある文句が、漢儒先生たちの説もあるべし。

親に孝行は当然のことなり。ただ一心に我が親と思い、余念なく孝行をつくすべし。三年父母の懐(フトコロ)を免れず、
ゆえに三年の喪を勤(ツトメ)るなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。

世間にて、子の孝ならざるを咎(トガ)めて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり。
人の父母たる者、その子に対して、我が生たる子と唱え、手もて造り、金もて買いし道具などの如く思うは、大なる心得ちがいなり。

天より人に授かりたる賜(タマモノ)なれば、これを大切に思わざるべからず。
子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許(テモト)に置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、
すでに学問の下地(シタジ)できれば学校に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立(シタツ)ること、父母の役目なり。

天に対しての奉公なり。子の年齢二十一、二歳にも及ぶときは、これを成人の齢と名づけ、
各、一人の了管(リョウケン)できるものなれば、
父母はこれを棄てて顧みず、独立の活計を営ましめ、その好む所に行き、その欲する事をなさしめて可なり。

ただし親子の道は、生涯変るべきにあらざれば、
子は孝行をつくし、親は慈愛を失うべからず。

前に言える棄てて顧みずとは、父子の間柄(アイダガラ)にても、その独立自由を妨げざるの趣意のみ。
西洋書の内に、子生れてすでに成人に及ぶの後は、父母なる者は子に忠告すべくして、命令すべからずとあり。

万古不易(バンコフエキ)の金言、思わざるべからず。
なお、また、子を教ゆるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば

(4)



父母の行状正しからざるべからず。口に正理を唱となうるも、身の行い鄙劣(ヒレツ)なれば、
その子は父母の言語を教とせずして、その行状を見慣うものなり。いわんや父母の言行ともに正理に戻るものをや

いかでその子の人たるを望むべき。孤子(ミナシゴ)よりもなお不幸というべし。
あるいは父母の性質、正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、
一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。

こは、罪なきに似たれども、その実は子を愛するを知て、子を愛するゆえんの道を知らざる者というべし。
結局その子をして無智無徳の不幸に陥らしめ、天理人道に背く罪人なり。
人の父母としてその子の病身なるを患(ウレエ)ざるものなし。

人に若(シカ)ざるは、身体の不具なるよりも劣るものなるに、ひとりその身体の病を患(ウレエ)て心の病を患えざるは何ぞや。
婦人の仁というべきか、あるいは畜類の愛と名づくるも可なり。

人の心の同じからざる、その面(オモテ)の相異るが如し。世の開(ヒラク)るにしたがい、不善の輩もしたがって増し、
平民一人ずつの力にては、その身を安くし、その身代を護るに足らず。

ここにおいて一国衆人の名代(ミョウダイ)なる者を設け、一般の便不便を謀(ハカッ)て政律を立て、
勧善懲悪(カンゼンチョウアク)の、はじめて世に行わる。この名代を名づけて政府という。

その首長を国君といい、附属の人を官吏という。国の安全を保ち、他の軽侮を防ぐためには、欠くべからざるものなり。
およそ、世の中に仕事の種類多しといえども、国の政事を取扱うほど難きものはなし。

骨折る者はその報むくいを取るべき天の道なれば、仕事の難きほど報も大なるはずなり。
ゆえに政府の下にいて政事の恩沢を蒙(コウム)る者は、国君・官吏の給料多しとて、これをうらやむべからず。
政府の法、正しければその給金は安きものなり。ただにこれをうらやまざるのみならず、また、したがってその

(5)



人を尊敬せざるべからず。ただし国君官吏たる者も、自から労して自から食(クラ)うの大義を失わず。
その所労の力とその所得の給料と軽重いかんを考えざるべからず。これすなわち君臣の義というなり

右は人間の交りの大略なり。その詳(ツマビラカ)なるは二、三枚の紙に尽くすべからず。
必ず書を読ざるべからず。書を読むとは、ひとり日本の書のみならず、支那の書も読み、
天竺(テンジク)の書も読み、西洋諸国の書も読ざるべからず。

このごろ世間に、皇学・漢学・洋学などいい、自家の学流を立てて、たがいに相誹謗ひぼうするよし。
もってのほかの事なり。学問とはただ紙に記したる字を読むことにて、あまりむつかしき事にあらず。

学流得失の論は、まず字を知りて後の沙汰(サタ)なれば、あらかじめ空論に時日を費やすは益なき事なり。
人間の智恵をもって、日本・支那・英仏等、わずか二、三ヶ国の語を学ぶになにほどの骨折(ホネオリ)あるや。

鄙怯(ヒキョウ)らしくもその字を知らずしてかえって己(オノ)が知らざる学問のことを誹謗するは、
男子たる者の恥ずべきことにあらずや。

学問をするには、まず学流の得失よりも、我が本国の利害を考えざるべからず。

方今、我が国に外国の交易始り、外国人の内、あるいは不正の輩のありて、我が国を貧にし我が国民を愚にし、
自己が利を営(イトナマ)んとする者多し。

されば、我が日本人の皇学・漢学など唱え、古風を慕い新法を悦ばず、
世界の人情世体に通ぜずしめ、自ら貧愚に陥るこそ、外国人の得意ならずや。

彼の策中に籠絡(ロウラク)せらるる者というべし。
この時にあたって外人の憚(ハバカ)るものは、ひとり西洋学のみ。

ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事(クジ)を談じ、
内には智徳を脩(オサメ)て人々の独立自由を逞(タクマシュウ)し、外には公法を守て一国の独立を輝(カガヤカ)し

(6)


はじめて真の大日本国ならずや。これすなわち我輩の着眼、皇漢洋、三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。

願くは我が旧里、中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食(クラ)い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、

脩徳開知、鄙吝(ヒリン)の心を却掃(キャクソウ)し、家内安全、天下富強の趣意を了解せらるべし。

人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん。発足の期、近(チカキ)にあり。

怱々(ソウソウ)筆をとって西洋書中の大意を記し、他日諸君の考案にのこすのみ。

    明治三年庚午(カノエウマ)11月27夜、
     中津留主居町(ルスイマチ)の旧宅敗窓の下に記す

【4】 「中津留別の書」と「学問のすゝめ」の類似点

福沢諭吉の代表的な本としては、「学問之すゝめ」(1編〜17編)があるが、これは、1編(明治5年)、(2-3編:明治6年)、
(4-13)(明治7年)、14編(明治8年)、15-17編(明治9年)と、4〜5年ほどかけて書かれている。

今回の「中津留別の書」(明治3年著だが、出版は明治5年)の方が、「学問のすゝめ」より早く書かれている。
中津留別の書の中には、「学問のすゝめ」の骨格となる内容がでてくる。

その意味でも、中津留別の書は、諭吉の思想の確立を知る上で、重要な書物である。
「学問のすゝめ」の1編の書出しは、有名な、 “天は人の上に人を造らず、人の下に人を作らずと言えり” であるが、
これは、米国の独立宣言からヒントを得た言葉である。

諭吉の最初の著作である「西洋事情」の中に、 “アメリカ13州独立の檄文” として、
天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、これに付与するに動かさざるべからずの通義をもってする” 
という文章が紹介されている。これを基にしたことは明らかであろう。

また、“人は同等なることを唱える”(第2編)。
当時の封建制の日本では、生まれた家系で、上下の関係も固定され、例えば、彼の父のように、生まれが下士がゆえに、学問があっても、
(本人にとっては)嫌いな仕事をしなければならなかった。それで、諭吉は、中津藩を恨んだ。

「学問のすゝめ」の3編には、 “一身独立して一国独立すること” という趣旨がある。
「中津留別の書」の(1)終わりから(2)の初めにかけて、
一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし“という記述が出てくる。

その後に、 ”士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。” という記述が、先の、 “人の上に人を作らず“ という趣旨につながる。

それは、社会の上下だけでなく、諭吉は、男女の間も平等であると主張する。
その陰には、諭吉の母親に対する思いがある。(中津留別の書の(1)、学問のすゝめの8編)。

中津留別の書では、女性の地位の低さの例として、妾を作る夫を非難する。
学問のすゝめにつながる所として、(5)に

人間の智恵をもって、日本・支那・英仏等、わずか二、三ヶ国の語を学ぶになにほどの骨折あるや”とか、

(5)から(6)にかけて、

ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事(クジ)を談じ、内には智徳を脩(オサメ)て、
人々の独立自由を逞(タクマシュウ)し、外には公法を守って一国の独立を輝(カガヤカ)して、初めて真の大日本国ならずや。

これすなわち我輩の着眼、皇漢洋、三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。

と洋学を奨励している。

2〜3か国語を勉強するのはちっとも大したことではないと明言していらっしゃる。

【5】 資料

   1) 明治大所蔵:内藤家資料:1-29-171-4:明治4年
     2) 福沢諭吉著:「学問のすゝめ」(岩波書店の「福沢諭吉選集」より)
     3) 北岡伸一著;独立自尊:福沢諭吉と明治維新:ちくま学芸文庫(2011.2.25刊)

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