今回のトピックス |
---|
安政時代は、日本史でも有数の大地震が集中した稀有な時期である。 今回は、江戸に甚大な被害を起こし、維新への一つのきっかけともなった安政江戸地震の様子を、 延岡藩の江戸藩邸に残る記録から、見直してみたい。 安政江戸地震の武家屋敷からの記録は、珍しいので、貴重である。 (2020.6.1) |
安政の江戸大地震を扱う。安政時代は、江戸幕府の最期を決定づける事件が相次いで起きている。
まず、嘉永6年6月3日(1853年)米国のペリー提督が4隻の軍艦を率いてが浦賀を通って羽田沖に来て、日本海国を迫った黒船事件が起きている。
同年7月18日にロシア軍官が長崎に来ている。幕府は、羽田沖に5基の砲台を突貫工事で築いている。
同年7月22日に、(凡庸の君といわれた)12代将軍家慶が薨去している。
13代将軍には、凡庸中の極3等といわれた家定がついている。
日本の不幸な時である(今の日本にそっくりである)。
ペリー提督は、予想より早く半年後となる嘉永7年(安政元年)1月16日に、軍艦7隻を率いて神奈川沖に現れた。
その結果、3月3日に、日米和親条約を結ぶことになった。
そして、8月にイギリスと、9月にオランダと、そして12月にロシアと条約を結ぶことになった。
国内では、外圧に恐怖して、嘉永7年11月に、元号を安政と変えている。
安らかな年を願ったのであろうが、安政年間ほど、天変地異の多かった時期は無かったのではないか。
安政年間の最期は、桜田門外の変で、時の最高権力者である井伊直弼が暗殺されて、年号を実質5年ほどで、文久に変えることになっている。
右年表を見てもわかるように、安政時代の日本中で、マグニチュード7レベルの大地震が立て続けに起きている。
もしも、今の様な情報網が有ったら、日本中がパニックになっていただろう。
安政時代に、起きた大地震の中から、最初に、江戸大地震を報告したい。安政江戸大地震は、安政2年10月2日(1855年)の夜10時頃(四つ頃=亥の刻頃)に起きている。
安政2年といっても、元号を安政に変えてから1年もたっていない時である。当時は、陰暦2日であるから、月もほとんど出ていない闇の時である。
そこで、マグニチュード7程度、震源地は、横浜沖である。ほぼ直下型と思われので、大きな震度になったと思われる。
記録によると、全死者数が4,293人、倒壊した家屋数14,346軒とある。江戸城本丸は大した被害はなかった。
老中の内藤紀伊守は、地震が起きて1時間後に登城しているが、よほど慌てたようで、袴無しの非礼な服装で、草履取りの一人だけつれての登城であった。
若年寄の遠藤但馬守や本多越中守は、寝間着で登城してきたという。
強い揺れよって、多くの家が崩壊し、被害者も出たが、当時の家屋状況から最も怖いのは、火事である。
当時の記録によると、当時の江戸の中心といえる日本橋南、京橋北、そして、大名小路で火事が起きている。
現在の東京駅の周辺である。
右に示す地図は、地震当時の絵地図をもとにしたものである。赤で囲われている大名屋敷は、時の権力者の屋敷を示している。
例えば、久世大和守(老中)、阿部伊勢守(老中)、牧野備後守(老中)、内藤紀伊守(老中)、遠藤但馬守(若年寄)、鳥居丹波守(若年寄)、本多越中守(若年寄)、本庄安藝守(若年寄)、酒井右京亮(若年寄)などの名がわかる。
この地域には、この当時の老中や若年寄の屋敷が集中していることがわかる。大名小路などは現在のどこ付近に相当するだろうか。
目安として、緑で囲った地域が、現在の東京駅のおおよその位置である。
東京駅の北端と南に、北町奉行所と南町奉行所がある。当時、江戸名物としてうたわれた、「武士、鰹、大名小路、広小路、茶店、紫、錦絵・・・」の中でも挙げられた大名小路は、現在の丸の内の中通り付近であろうか。
この大名小路周辺で火事が起きている(後述)。
地図中の赤炎で示した屋敷は火事となっており、青炎模様はすくなくとも家屋倒壊の屋敷である。
この地震の記録は、民間レベルではかなり残っているが、大名家の記録は公表されなかったので、公式の大名家の被害の詳細は不明という。
今回、延岡藩の被害の様子が詳しく残っているので、今回の報告は貴重なものと思われる。
1) 明治大所蔵の内藤家資料:万覚書=安政2年=1-7-143
2) 野口武彦著:安政江戸地震(ちくま新書:1997年)
3) 倉地克直著:江戸の災害史(中公新書:2016年)
4) 北原糸子:地震の社会史(講談社学術文庫:2000年)
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|