第75話:安政江戸大地震の延岡藩江戸藩邸の記録 

No.75> 第75話:安政江戸大地震の延岡藩江戸藩邸の記録

        延岡藩邸は大損傷を受け江戸城周辺の老中たちの屋敷では火事が勃発


今回のトピックス

    安政時代は、日本史でも有数の大地震が集中した稀有な時期である。
    今回は、江戸に甚大な被害を起こし、維新への一つのきっかけともなった安政江戸地震の様子を、
    延岡藩の江戸藩邸に残る記録から、見直してみたい。

    安政江戸地震の武家屋敷からの記録は、珍しいので、貴重である。                                          (2020.6.1)


【1】 序=:安政時代の天変地異


安政の江戸大地震を扱う。安政時代は、江戸幕府の最期を決定づける事件が相次いで起きている。

まず、嘉永6年6月3日(1853年)米国のペリー提督が4隻の軍艦を率いてが浦賀を通って羽田沖に来て、日本海国を迫った黒船事件が起きている。

同年7月18日にロシア軍官が長崎に来ている。幕府は、羽田沖に5基の砲台を突貫工事で築いている。
同年7月22日に、(凡庸の君といわれた)12代将軍家慶が薨去している。

13代将軍には、凡庸中の極3等といわれた家定がついている。
日本の不幸な時である(今の日本にそっくりである)。

ペリー提督は、予想より早く半年後となる嘉永7年(安政元年)1月16日に、軍艦7隻を率いて神奈川沖に現れた。
その結果、3月3日に、日米和親条約を結ぶことになった。

そして、8月にイギリスと、9月にオランダと、そして12月にロシアと条約を結ぶことになった。

国内では、外圧に恐怖して、嘉永7年11月に、元号を安政と変えている。
安らかな年を願ったのであろうが、安政年間ほど、天変地異の多かった時期は無かったのではないか。

安政年間の最期は、桜田門外の変で、時の最高権力者である井伊直弼が暗殺されて、年号を実質5年ほどで、文久に変えることになっている。

右年表を見てもわかるように、安政時代の日本中で、マグニチュード7レベルの大地震が立て続けに起きている。
もしも、今の様な情報網が有ったら、日本中がパニックになっていただろう。

【2】 安政江戸地震

安政時代に、起きた大地震の中から、最初に、江戸大地震を報告したい。安政江戸大地震は、安政2年10月2日(1855年)の夜10時頃(四つ頃=亥の刻頃)に起きている。

安政2年といっても、元号を安政に変えてから1年もたっていない時である。当時は、陰暦2日であるから、月もほとんど出ていない闇の時である。

そこで、マグニチュード7程度、震源地は、横浜沖である。ほぼ直下型と思われので、大きな震度になったと思われる。

記録によると、全死者数が4,293人、倒壊した家屋数14,346軒とある。江戸城本丸は大した被害はなかった。
老中の内藤紀伊守は、地震が起きて1時間後に登城しているが、よほど慌てたようで、袴無しの非礼な服装で、草履取りの一人だけつれての登城であった。

若年寄の遠藤但馬守や本多越中守は、寝間着で登城してきたという。
強い揺れよって、多くの家が崩壊し、被害者も出たが、当時の家屋状況から最も怖いのは、火事である。

当時の記録によると、当時の江戸の中心といえる日本橋南京橋北、そして、大名小路で火事が起きている。
現在の東京駅の周辺である。

右に示す地図は、地震当時の絵地図をもとにしたものである。赤で囲われている大名屋敷は、時の権力者の屋敷を示している。

例えば、久世大和守(老中)、阿部伊勢守(老中)、牧野備後守(老中)、内藤紀伊守(老中)、遠藤但馬守(若年寄)、鳥居丹波守(若年寄)、本多越中守(若年寄)、本庄安藝守(若年寄)、酒井右京亮(若年寄)などの名がわかる。

この地域には、この当時の老中や若年寄の屋敷が集中していることがわかる。大名小路などは現在のどこ付近に相当するだろうか。

目安として、緑で囲った地域が、現在の東京駅のおおよその位置である。
東京駅の北端と南に、北町奉行所南町奉行所がある。当時、江戸名物としてうたわれた、「武士、鰹、大名小路、広小路、茶店、紫、錦絵・・・」の中でも挙げられた大名小路は、現在の丸の内の中通り付近であろうか。

この大名小路周辺で火事が起きている(後述)。
地図中の赤炎で示した屋敷は火事となっており、青炎模様はすくなくとも家屋倒壊の屋敷である。

この地震の記録は、民間レベルではかなり残っているが、大名家の記録は公表されなかったので、公式の大名家の被害の詳細は不明という。
今回、延岡藩の被害の様子が詳しく残っているので、今回の報告は貴重なものと思われる。

【3】 延岡藩に残る記録

10月2日の記録

大地震が起きた(安政2年10月2日の、夜間10時ごろ)時の、延岡藩の江戸藩邸の日誌の記録を見てみよう。



まず、概訳を示す。

   「1.今夜、亥の上刻(夜10時頃)、稀なる大地震にて、御上屋敷、御殿向を始め、
      ご家中の御長屋は、破損する所は、夥しく、別けても、御土蔵の分は、何れも大破しており、

      その外、(上屋敷の隣との)御境目の土塀の奥、
      御殿の外囲の土塀、竹門脇の土塀は、残らず、震で潰れ、目菱(ひしゃげている)、

      御廊下の屋根の中程より、折れて、それだけでなく、表御門内、並びに、
      御殿下の石垣の所々が崩れている。

      六本木御屋敷の方も、御破損所はあるけれども、御上屋敷程には、ひどくない。
      右に付き、充真院様(現殿さまの姉、先代の妻)は、早速、外御庭に、御立ち退きに
      遊ばされて、ご家中、末々まで、一人も、怪我人など出ていない。

      右、地震の折柄、和田倉(門)あたり、大名小路、辰の口あたり、西丸下越、
      外桜田
での新しい櫓内、その外、数か所で出火して、大火になってしまった。

      (延岡藩の)御屋敷にとって、風筋(北西の風)は、宜しくて、当御屋敷共には、別条、不都合はない。

        但し、右御破損所の件は、当四日に公辺(幕府)にお届けをせよと仰せがあった。

    1.御用番の安倍伊勢守様(老中)に、大地震、並びに、西丸下あたりや、大手前での火事に付き、
      御機嫌伺いの御使者として、御留守居の成瀬老之進が勤めた。

    1.右に付き、長坂平左衛門は、早速、六本木の御屋敷(下屋敷)に罷り越して、諸事の差配をおこなった。

    1.右に付き、当御屋敷と(隣との)堺目である土堀が、震れで崩れたので、早速、幕張に申しつけ、足軽建て番役に、申しつけさせた。
      今夜分、臺張提灯(台提灯)の差配をした。

    1.右に付き、当御屋敷での、火の元が、分けても、大切に付き、
      御徒目付役が、警らの見回りを、大目付に申しつけた。

    1.右に付き、(両)御屋敷のご家中の御一統に対して、部屋まで、今暁に、(慰安のための)粥が下された。



大地震では、まず、火事を心配する。西丸下や大名小路のある曲輪内で火の手が見えているが、
当時、北西の風であったので、延岡藩邸(現文部省)の方には来ないと安心をしている。

現金な対応であるが、当時としては当然のことである。上屋敷(虎ノ門付近:現文部省)の方は、怪我人はゼロであり、
火事は出ていないが、屋敷や土塀などの破損は大きいことがわかる。

隣との境になっている土塀が壊れたので、土建担当の建番役の足軽に早急の修理を命じている。隣とは、幕臣の小倉太郎助か村瀬平四郎のことであろう。
徹夜で、警護に当たるので、彼らに見舞いのが支給されている。

ここで、臺張提灯とは、台、つまり脚のついた提灯で、右図のようなものである。
左図では、徳川の家紋になっているが、延岡藩の家紋は横に示した「下り藤」である(武鑑より)。

和田倉門の近く、辰の口近く、西丸下、大名小路、外桜田で大火となっていることがわかる。

延岡藩の殿様(7代目:政義)は、井伊直弼の実の弟であるが、地震の時は、延岡藩に帰っていたので、江戸藩邸には不在である。
そのため、上屋敷の主は、政義の実の姉で、先代(6代政順)の妻であった充真院である。
先ずは、充真院の安全確保が大事であることがわかる。

10月3日の記録



地震が起きた翌日(10月3日)の記録をみる。
この記録の黄色の四角枠内は、当方の写真の取り方がまずくて、不鮮明である。

本来なら、再度、記録の取り直しに明治大に伺うのであるが、今回のコロナ騒動で、いけなかったので、正確に読み取れていない可能性がある。
この部分に対しては、大体の意味でお許しをお願いした。(後日、再度、挑戦したい)。

概訳を示す。

   「1.今朝、六時まで、御使者番の(?)と、長島弥之助(助番=補助役)が、上辺(幕府)に入ろうとしたが、
      ご重役の番にて、渡辺平兵衛が、罷り出たところ、昨夜の地震に付き、延岡藩では、家中、怪我人等は無かった旨を報告した。
        (以上、四角内)

      能登守(延岡藩主)は、(参勤交代の都合で)、在邑(在延岡)なので、早々、ご挨拶すべきところの旨を申し上げたところ、
      御請け(お答えを受ける)の時、(延岡藩は徳川家の)臣の筈だから、(どんな仕事も)仕るのは苦しからず旨を告げ、

      (徳川の)御差図に付き、御破損所などを廉々(カドカド=あれこれ)、凡そ、繕われ(まずいところは隠して?)申し上げて、
      (延岡藩の)家中、末末まで、怪我人等はないことを、御請(お答え)申し上げたところ、ただちに、ご理解下さった。

      但し、右、御上使(幕府からのお使い)を御出しの節に、それぞれの、手当等を
      差配すべきところ、御達し等が無く、(本来なら)差付かえがあるはずだが、その都度のお手当なども無くて済んだ。

    1.昨夜、大地震後、引き続き、少しずつの時間での震れは、止まず、火の元が別けても、大切に付き、御屋敷のご家中は、
      今朝、消火留のために従事するべきように、その段を、大目付に申しつけた。

    1.右に付き、ご家中一統の面々に対して、部屋迄に、焚出し粥を支給した

    1.昨夜出火の処、次第に大火に及び、今朝の四時頃に、鎮火となった。

    1.(隣家との)御境目あたりの土塀が、崩れたので、当御屋敷は仮固めをするように、
      昨日の通り、建番の足軽に命じ、夜分、臺張提灯を差出すように命じた。

    1.右に付き、御屋敷門は、御閉められて、御徒目付が、警らのために見回りをするように、大目付に申しつけた。

    1.右に付き、御徒目付は、五人不足して、差支えたので、御徒士にも、御屋敷内を、夜分、警ら見回りする様にと命令が下った。

      六本木御屋敷の方は、御徒の組の小泉軍太、大平差六に、見回りを命じられた。
      これを致すべき、その段、大目付に申しつけの為、申し渡した。


延岡藩は、まず、幕府へ、自藩の被害報告に伺っている。幕府に対して、何でもやりますという、意思表明をしている。

10月3日の記録(続き)



更に続けて、概訳を示す。

   「1.昨夜、大地震にて、御破損所などがあったことを、延岡に連絡するために、今日より、大阪までは五日切で、仕立飛脚に申しつけて、
      それより、陸路八日切をもって、右御用状差し達した。

    1.火の元の取り締まりのことに付き、先の達しの中でも、お世話(詳しく述べた)もあった時、
      都度、取り締まり、備えも行き届いてはいたが、この節、追って、火事沙汰もあるとのことで、

      諸事は、寅年(今年)の通り、心得て、組の者どもは、見回り方等は、警らや見回りを十分にするように、
      町奉行に達したところ、武家屋敷にても、猶更、火の元に入念に、申しつけるようにと、
      大御目付中様(幕府の大目付)よりの御廻状が到来した。

      委細は、御触れ帳面にある。

    1.御類御用付きの、鵜殿民部少助(幕末の幕臣:鵜殿 鳩翁)様に 左の御届け書を、
      御留守居の成瀬老之進が、持参し、差出したところ、落手(受領)してくれた。

      虎御門外での、京極佐渡守様(丸亀藩主)と内藤能登守(延岡藩)による、日割組合での辻番所の持ち場内で、
      虎御門より、新たの橋通りでの、御堀の石垣の中程が、昨二日夜の地震にて、高さ三間程、横六間余が飛び出し、

      並びに、能登守居屋敷通りでは、御堀の石垣所の通りが飛び出していることについて、辻番人が申し出でてきたので、
      早速、罷り出て、見分をしたところ、間違いないので、この段を御届け申し上げます。

               日割当番 内藤能登守家来
               十月三日   成瀬老之進


大地震の報告を、延岡の殿様にしなければならない。飛脚を仕立て、かつ、到着のための日数を約束させている。
大阪まで、5日で、延岡までは、それから陸路で8日としている。延岡まで13日という。

東京―延岡間の距離は、1380km(鉄道)であるから、1日約100kmの移動距離である。
途中、川などもあり、止められることもあるだろうに、相当の速度である。
参考までに、数年後に起きる桜田門外の変を、江戸から延岡に知らせるためには、12日で到着している(参考:当報告:第7号)。

延岡藩と京極佐渡守(丸亀藩)と共同で管理している外堀沿いの辻番所(参考:当レポート:第45号に詳しい)付近の外堀の石垣が崩れているのを見付けたので、
幕府に届けている。

10月4日の記録



10月4日に、延岡藩屋敷の被害状況を幕府へ報告している。留守居役の成瀬老之進が、
御用番である老中の久世大和守の屋敷(場所は、第2図参照)の勝手口を訪問したが通じないので、
正門に回り、御用人(垣内津助)を呼び出して、報告書を手渡した(受け取ってくれた=落手)。

概訳を続ける。

   「1.助(補助の)御用番である久世大和守様(老中)の御勝手(財務担当)に左の御届書を、(延岡藩の)御留守居の成瀬老之進が、
      持参し、御用人の垣内津助方に面会を申し出たが、 答えが無かったので、
      直に御表に廻って、取次を通して、差出したところ、御落手になった。

      能登守の居屋敷(上屋敷)、並びに、麻布の本木の下屋敷が、一昨二日夜の地震にて、破損所など、左の通りでございます。

    1.広間向き屋根:大破
    1.同所塀が、大破
    1.住居向き屋根:大破が、数か所
    1.同所で、壁落ちや大破が、数か所
    1.表門番所の屋根が大破
    1.表玄関前、馬建裏通りの石組崩れ
    1.東の方の表長屋と下家通り、並びに、内長屋の家作の屋根と奥体が大破
    1.南の方、表長屋と下家通りが、惣体、崩れ落ち
    1.馬見所の損が、一か所
    1.作事方屋根が、大破
    1.大蔵の大破が、八か所
    1.表廻りの練塀側:175間(319m)
    1.稲荷社の屋根が大破、並びに、鳥居が折損
    1.地割が、二カ所

   <麻布六本木の下屋敷>
    1.能登守の御母の住居向き:大損
    1.長屋向き破損
    1.大蔵の大破が四カ所
    1.弁天社門の倒れが、1か所
    1.同所の鳥居と、並びに、石燈籠が倒損
    1.同所の拝殿の屋根が損壊
    1.稲荷社の鳥居が倒れ
    1.東南の方、持ち廻りの練塀(ネリベイ)が、倒れ。80間(146m)
    1.地割が1カ所

      右の通りでございます。

      能登守は在邑に付き、この段、御届け申し上げ候。 以上

            十月四日 内藤能登守家来 成瀬老之進


延岡藩の屋敷の被害状況がわかる。屋根や塀が壊れている。敷地内の稲荷社の屋根が壊れ、鳥居や石燈籠が倒れている。
地割れも起きている。

【4】資料

   1) 明治大所蔵の内藤家資料:万覚書=安政2年=1-7-143
     2) 野口武彦著:安政江戸地震(ちくま新書:1997年)
     3) 倉地克直著:江戸の災害史(中公新書:2016年)
     4) 北原糸子:地震の社会史(講談社学術文庫:2000年)

このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

       このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。

         内容に反映させたいと思います。

         また、御了解を頂けたら、
         御意見のコーナーを作りたいと思います。

         どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
       メールはこちらから御願いします。

     e-mail : ここをクリックして下さい
      




inserted by FC2 system