第74話:明和地震の延岡での記録 

No.74> 第74話:明和地震の延岡での記録

        明和地震の震度と津波の情報と住民の経験による行動


今回のトピックス

    江戸時代に起きた巨大地震で、延岡は何度も被害を受けている。そして、津波の被害も受けている。
    しかし、その記録はあまり残っていない。

    今回、豊後水道で起きた明和地震について、延岡藩に残る記録を紹介する。
    当地震によって、延岡藩には、大きな揺れによる被害と津波が記録されている。

    地震と津波に対して、老人の経験に基づいた冷静な判断が際立っている。

                                         (2020.4.30)


【1】 序=:江戸時代の地震


大きな地震が、ある間隔で、どこかに起きている日本では、自分の住んでいるところでの地震は、考えたくない、意識したくないというのが本音である。

特に、大きな津波は、東日本大震災で嫌というほど見せられてきたので、恐怖でしかない。

しかし、目をつむっているだけではなく、我が故郷での地震の記録を調べてみようと決心をして、 過去の記録から、我が故郷の地震、特に、津波の記録を調べてみることにした。

右の第一表に、宮崎県北(延岡周辺)での、江戸時代以降の津波を伴う大きな地震を示した。
地震だけなら、このほかにも大きな地震があったが、津波を伴ったものは、4回見られる。

その中で、延岡地方で一番大きな被害を受けたのは、宝永地震だったかもしれないが、記録は少ない。
他方、記録が比較的たくさん残っているのは、豊予地震であろう。

特にこの地震は、最大レベルの安政東海地震が起き、その翌日に同程度の規模の安政南海地震のその二日後に起きている。
現代ほど、通信網が有ったら、さらに恐怖の底に投げ込まれたであろうと思われる。

ここで、注意すべきは、これらの地震は、後の人が名付けたもので、安政〇〇地震となっているが、
これらの地震は、何れも嘉永7年寅年におきたもので、嘉永から安政に年号が変わったのは、
これらの地震の悲惨さが原因で、実際の改元日は11月27日のことである。

今回は、安政の地震と宝暦地震の中間に起きた明和地震(明和6年7月28日:1769年)を報告する。
地震の規模を実感するために、日本付近で起きた最近(主に戦後)の大きな地震を示す。

ここで、大地震の規模を示すパラメータとして、マグニチュードと震度を示したが、これらの数値はある程度の相関は見えるが、完全に一致しているわけではない。
地震の規模は、被害の度合い、あるいは、地震のエネルギーによって、変わってくる。

いかに大きなエネルギーの地震でも、震源地から遠ければ、実感度(被害度)は小さくなってくる。
その各人の実感は、震度で表現され、最大値が7となっている。どんなに大きな揺れがきても、震度7以上にならない。
昔は、震度7というのは無かったのに、最近は、震度7が簡単に出るような気がする。本当に大きな地震が増えたのだろうか。

震度(実感)とは異なり、地震のエネルギーは、マグニチュードで示される。
それは、各地震の震源地から100kmの場所での実感に換算しなおしたものである。
表2でもわかるように、東北大震災のマグニチュード9.0は、日本有史以来最大のものと思われるし、観測史上世界4位の規模である。

【2】 明和地震


今回は、明治大学の資料の中から、明和地震による延岡の様子を見ることにする。その記録には、その61年前の宝永地震の時の津波の様子も語られている。
特に、明和地震の記録は少なく、研究もあまりされていないようであるから、貴重な記録である。

また、宝永地震の震源地から遠い延岡での記述も、被害の様子を知る上で、参考になるのではないか。
記述の中で、両方を経験している老人による比較もなされている。
右地図に、今回の明和地震と宝永地震の震源地と、更に明和地震の80年後におきた安政豊予海峡地震の震源地(明和地震とほぼ同じ位置)を示した。

通常、明和地震というと、今回の延岡沖(佐伯沖)で起きたものではなく、その2年後(明和8年)に起きた八重山地方の地震(琉球八重山地震)の方が有名であるが、
それとは異なることに注意してほしい。その有名でない方なので、逆に、今回の資料の価値が出るともいえる。

表に示す様に、明和地震は、明和6年7月20日(西暦1769年)に、大分県佐伯市の沖合30km、豊後水道の入り口付近の海底で起きている。
延岡の沖合といってもよい場所である。マグニチュード7.4ぐらいだったと予想されている。
マグニチュード7.4というのは、阪神淡路段震災程度の地震エネルギーであった。しかも、震源が海のなかなので津波が起きている。

また、80年後に起きた豊予海峡地震も、ほぼ同じところで起きている。(同地域で同規模の地震は、150年以上起きていないことが気になる)

【3】 延岡藩に残る記録

まず、延岡藩の資料を見よう。この資料は、いつ書かれたものかは不明だが、主に明和地震(明和6年=1769年)を扱い、
その62年前の大地震である宝永地震(宝永4年=1707年)と比較している。

ところが、この記録の中に嘉永7年の豊予地震(安政元年=1855年)の事も記述がある。これからすると、原文は安政元年(1855年)頃に書かれたもののようだ。

また、文章の文字から判断して、武士が書いたものではないと考える。その理由は、まず、ヒラガナが多いことにある。
ところが、ヒラガナといっても、現代のわれわれがイメージする文字ではなく、普通の漢字の崩し字であるが、「音」(オン)だけが重要で、
意味は無関係の使い方であるから、慣れないと、こっちの方が難しい。文章の流れで想像できない文字が突然出るからである。

もう一つの理由は、字の崩し方も、今までの武士の世界の崩し方と異なっている点が多いように感じたからである。これらの理由で、読解に苦労した。

また、この記録には、3つの地震が触れられている。明和地震が主であるが、一部、比較として宝暦地震が出てくる。
もう一つは、明和地震より、80年近く後の嘉永7年の地震についても記述している(のではないかと見られる)
明和地震以外のところは、訳の文字の色を変えた。

第1部



概訳を示す。中でも、宝永地震に関しての記述部分は、色を変えて示した。

   「明和6丑年(1769年)7月28日に大地震があった。(地震前の)7月上旬の頃は、
    例年、野分(ノワキ:秋の台風)を催す事が多く、雲が、丑寅(北東)より起こり、
    又時には、卯(東)の方や、辰巳(南東)も方にも、所を替えて、黒雲が夕方に飛び起きて、
    風荒れて、吹きやまないことがあった。 

    6月中は、夕立を、毎日、催せども一向に、減らず。
    7月中旬下の白星(星占いか)を見る人々は、挙て、是を見る。
    白瀬氏(揚州伝)は、雲気論を以って、説明する時、

   「時は今、秋になれば、陰気が上昇して、
    天も請免(ウケメン:豊凶にかかわらず、年々定まった免で年貢を課す制度)を考える。 

    然れども、秋は、いまだに、わづかに深きに非ず(初秋である)。
    これ、御大白星と云う。順当な故に、地に付いて、騒ぎがきっとあるだろうという。」

    7月26日より辰巳(南東)の雲が烈しく登り、その雲の色は、
    夕日の如く画の褐赤色に焼けて中は黒くもあって、正常の色ではない。
    下戸が酔に苦しむの如し。世間の風気は晴気なり。

    28日、午の八刻(昼一時)頃、沖の方、夥(オビタダシ)く、
    昭黒(赤黒く)帯びて、直後に、地震が起きる。

    未の半刻頃(昼三時)までに、家の尾は落ち、壁崩れ日さし落ち、
    水湧き、小屋たおれ、人怪しい(生死不明の)家多く、人は皆、家を出て、外に居るといえども、

    (揺れで)足本は不確かで、小児を抱き、老を助け、争い泣き叫ぶ声が、
    地震の声と打ち交りて、物の区別がつかない。

    漸く震れて、静かになりて、沖より、汐さし来たるを恐れて、多くは、大武寺、
    近辺者のある人は、米を持ち、濡菜(銚?)等を持ち、
    老人を背負い 子供を助け中にも、病人など大いに、窘(クルシ=苦し)んだ。

    年旧き人(老人)は、支塞(フサガ)りて、言うには、60年昔の地震は、是より大きかった。
    然れども、汐差し来て死んだ者はいなかった。
    かえって、逃げた者は、過ぎてから、皆、我が家に静かに帰ってきた。


    (今回は)それ程高い波にならないだろう。あやまちて(失敗して)、
    怪我をするぞと制したのは、いとたのしかりけり(なるほどと思った)。


    明和地震が起きた当時は、地震の数か月前から、不気味な天候不順が続いていたようだ。
    当時、星占い等でその状況を理解していた様だ。

第2部


概訳を示す。

   「地震が止み、 二時(4時間)ばかり経った時に、一人が進み出して、大音声に、
   「只今、方財の沖の遥に、山の如く汐さし上がり、この所にある家は、一軒も助らないだろう。」

    ある人は、かの山に向かって逃げ、多くは、船にのって、色々、騒ぎ、止まず。
    表に、又、老人が、今度の津浪は、東御山(現在の東海山)を半分、濡らしながら来る(半分はぶつかって来る)という。

    この所の家は、怪我(壊されること)は、無いから、静まれ静まれと制す。
    又、古(=昔)の地震は、この町の夷(エビス神社)の石檀ぐらいまでだった。

    今度の地震は、それより小さいと、此の老人は、請合うなり。
    又、大げさに騒ぐ者の怪我を恐れ、家の火の用人を恐れ(心配して)、

    大声にて、皆々、我家の一所で死ぬんだと覚悟して騒ぐなと制し
    家々にはしごをかけて、もし床の上に波来れば、
    家根に昇るべしと触(フレ)があった。
    稀なる太騒動するも道理なれ。
    又、年古き人が、昔を思い出して、制したる事は、
    必ず(決して)、老人を無視してはならない事例だ。

    さて、汐は、差し来たが、然れども、町通ることなく、Mに入り、
    高くに来たのは、一折り、おって、打ちあげたり。御高札の下に、

    立浪が去り来た。追って来る浪は、次第ゝに、小さくなった。
      此の度、井戸の水は、一向に減らず。

    古の津浪の時は、井戸井戸の水が一ツも無く成ったという。
    その譬(タトエ)は、大きな桶の水を動かすと、始めの一つは、大に波立ち、次第に小さくなるのと同じだ。

    昔の地震61年(前)、常にその時の地震は始め静かに、そして、暫くして、
    中頃から終わりまで、軒も地につく払りに東海山は見えぬと言えば、

    行縢(ムカバキ)やその外の山々上までさしあがる様子だった。
    その様に、凡そ、一時(=2時間)の大震いだったが、


    今度の動きは、始めより、火急にして力強き、凡そ、半時(=1時間)の動きですんだ。

    ● この地震が起きる直前、東御(東海)辺の魚類は、すさまじく、踊るかの様子だった。

    ● 田畑の人、この地震の始め、土中より泥、多く吹き出し、地震は天地(上下)に揺れ、後に、左右に、動いたという。

    ● 地震が止み、小地震が、長く、夜、四五度程、時に動く。
      その年中、小地震、折々動いた。怪事(心配)に思ったが、老人が言う。
      これも、又、古から、あったぞと云い、人々、安心せり。

    ● 28日、夜に入り。稲妻、行間もなく、雷神の方より、
      はり渡って、飛参に随(従)った。夜中、波止まず。

    ● 29日、南は曇天で、雨風、時々、来た。地震によって挽き壊れた野坂などを修覆しようと思ったが、
      心が伏して気になって、落付かず、夜に入り、雷が数声。老若男女等が、含めて、落ち着かなかった。


地震が起きて、数時間後に津波が来ている。ここで、懐かしい地名が出てくる。
東海山(ここでは、東御山と表している)は、延岡市の湾を覆うように東部に張り出した岬である。

津波は、その奥(北東)から来るので、東海山が、防波堤のようになって、津波の被害を抑えてくれている。
行縢山(ムカバキヤマと読む)というのも、延岡人でないと読めない文字である。
山の形態が、昔の馬上の股を武士が股部をカバーした武具である行縢に似ているから名付けられた山であり、
延岡のどこからでも望むことができる。

方財は、私のペンネームにも使っている地名で、延岡湾内にある島である(今は陸続きになっている)。
今回の地震(明和地震)は、1時間(半時)ほど続いたが、先の大地震である宝永地震では、2時間ほど続いたと老人が述べている。

今回の地震が起きる直前に、東海の海で、魚が気が狂ったように踊っていたという記述は面白い。
そして、この地震で、延岡の田畑で、泥の湧出が起きていることが記されている。

第3部


概訳を示す。

   「 ● 8月1日、 東の方より雲しげく、雨すさまじい。
       己の上刻(朝9時近く)、風は、辰巳の方向に変わりて、大風雨になり昼より雨止み、土手の風はすさまじい。

       水は、出て行きそうで、遠くて夕汐に、洪水が、起きようとする。
       此の風は、沖で、今少し、高々に吹くなら、大洪水となる。

       しかしながら、沖近き故に、たちまちに、止むだろうと言った老人がいた。
       日が、西山に傾く頃、西に軽く天気が晴れたり。尤も、(日は)出なかった。

       二日現わして、日天の出るを得て、悦びは、大事なり。

     ● 地震は、八つの頃(昼二時頃)なれば、此の風は、強くはなかった。(昔の地震では、いつも大風だった。)

     ● 隣国の、豊後、日向、大隅、薩摩、強かった。我が国抔(ナド)は、死人多かった。
       日向山、付いては、軽かったと言えども重事だった。
       四五の地方では軽く、京大阪も軽かった。これは、九州地震である。

     同年8月14日ごろより、朝夕潮の満ちる事、常に倍近かった。
     大武浜は、皆、足を濡らしながら渡った。

     地をゆりさげたであろう潮地震で、あるまじき動きで、非常であった。
     10月頃より、(地震が)段々、少なく成り、追々、常のごとくになったが、小地震は、いまだ、止まらず。
     後には、人は、別に、注意しなくなった。

     61年以前の大地震では、津浪は引き続いた。
     嘉永七寅年(1854年)は、11月11日の午刻に乱れ、此の朝より地震うすく、前日の10日の朝に、一震すこし。
     此の夜から暁の丑正刻である。一震は少し浅く、

     然れども明和の例を見るに、これは、よくある事で、常にあるものである。
 
     恐れるに足らず。宝永4亥年より明和6丑年は、その間63年である。
     61年の前にかけては、大牧(のんびり)である。この明和6丑年は、常に寅年まで86年なり。


年号は嘉永と読むと思われるが、嘉永7年(1854)の豊予海峡地震の本震は11月7日に起きているはずだが、
ここでは、11月10日と11日の記録しかないのが不思議である。
嘉永7年11月7日(1854年)と明和6年7月28日では、85年と3か月超になるから、86年と計算したのだろう。

他方、宝永4年10月4日(1707年)と明和6年7月28日(1769年)では、61年と9か月超だから62年という計算になる。
63年という記述はどこから出たのか不明である。とはいえ、嘉永7年の地震も記載した記録となる。

【4】 資料

   1) 延岡藩資料:明治大所蔵:3-31-601=明和6年地震の記録

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