今回のトピックス |
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江戸時代に起きた巨大地震で、延岡は何度も被害を受けている。そして、津波の被害も受けている。 しかし、その記録はあまり残っていない。 今回、豊後水道で起きた明和地震について、延岡藩に残る記録を紹介する。 当地震によって、延岡藩には、大きな揺れによる被害と津波が記録されている。 地震と津波に対して、老人の経験に基づいた冷静な判断が際立っている。 (2020.4.30) |
大きな地震が、ある間隔で、どこかに起きている日本では、自分の住んでいるところでの地震は、考えたくない、意識したくないというのが本音である。
特に、大きな津波は、東日本大震災で嫌というほど見せられてきたので、恐怖でしかない。
しかし、目をつむっているだけではなく、我が故郷での地震の記録を調べてみようと決心をして、
過去の記録から、我が故郷の地震、特に、津波の記録を調べてみることにした。
右の第一表に、宮崎県北(延岡周辺)での、江戸時代以降の津波を伴う大きな地震を示した。
地震だけなら、このほかにも大きな地震があったが、津波を伴ったものは、4回見られる。
その中で、延岡地方で一番大きな被害を受けたのは、宝永地震だったかもしれないが、記録は少ない。
他方、記録が比較的たくさん残っているのは、豊予地震であろう。
特にこの地震は、最大レベルの安政東海地震が起き、その翌日に同程度の規模の安政南海地震のその二日後に起きている。
現代ほど、通信網が有ったら、さらに恐怖の底に投げ込まれたであろうと思われる。
ここで、注意すべきは、これらの地震は、後の人が名付けたもので、安政〇〇地震となっているが、
これらの地震は、何れも嘉永7年寅年におきたもので、嘉永から安政に年号が変わったのは、
これらの地震の悲惨さが原因で、実際の改元日は11月27日のことである。
今回は、安政の地震と宝暦地震の中間に起きた明和地震(明和6年7月28日:1769年)を報告する。
地震の規模を実感するために、日本付近で起きた最近(主に戦後)の大きな地震を示す。
ここで、大地震の規模を示すパラメータとして、マグニチュードと震度を示したが、これらの数値はある程度の相関は見えるが、完全に一致しているわけではない。
地震の規模は、被害の度合い、あるいは、地震のエネルギーによって、変わってくる。
いかに大きなエネルギーの地震でも、震源地から遠ければ、実感度(被害度)は小さくなってくる。
その各人の実感は、震度で表現され、最大値が7となっている。どんなに大きな揺れがきても、震度7以上にならない。
昔は、震度7というのは無かったのに、最近は、震度7が簡単に出るような気がする。本当に大きな地震が増えたのだろうか。
震度(実感)とは異なり、地震のエネルギーは、マグニチュードで示される。
それは、各地震の震源地から100kmの場所での実感に換算しなおしたものである。
表2でもわかるように、東北大震災のマグニチュード9.0は、日本有史以来最大のものと思われるし、観測史上世界4位の規模である。
今回は、明治大学の資料の中から、明和地震による延岡の様子を見ることにする。その記録には、その61年前の宝永地震の時の津波の様子も語られている。
特に、明和地震の記録は少なく、研究もあまりされていないようであるから、貴重な記録である。
また、宝永地震の震源地から遠い延岡での記述も、被害の様子を知る上で、参考になるのではないか。
記述の中で、両方を経験している老人による比較もなされている。
右地図に、今回の明和地震と宝永地震の震源地と、更に明和地震の80年後におきた安政豊予海峡地震の震源地(明和地震とほぼ同じ位置)を示した。
通常、明和地震というと、今回の延岡沖(佐伯沖)で起きたものではなく、その2年後(明和8年)に起きた八重山地方の地震(琉球八重山地震)の方が有名であるが、
それとは異なることに注意してほしい。その有名でない方なので、逆に、今回の資料の価値が出るともいえる。
表に示す様に、明和地震は、明和6年7月20日(西暦1769年)に、大分県佐伯市の沖合30km、豊後水道の入り口付近の海底で起きている。
延岡の沖合といってもよい場所である。マグニチュード7.4ぐらいだったと予想されている。
マグニチュード7.4というのは、阪神淡路段震災程度の地震エネルギーであった。しかも、震源が海のなかなので津波が起きている。
また、80年後に起きた豊予海峡地震も、ほぼ同じところで起きている。(同地域で同規模の地震は、150年以上起きていないことが気になる)
まず、延岡藩の資料を見よう。この資料は、いつ書かれたものかは不明だが、主に明和地震(明和6年=1769年)を扱い、
その62年前の大地震である宝永地震(宝永4年=1707年)と比較している。
ところが、この記録の中に嘉永7年の豊予地震(安政元年=1855年)の事も記述がある。これからすると、原文は安政元年(1855年)頃に書かれたもののようだ。
また、文章の文字から判断して、武士が書いたものではないと考える。その理由は、まず、ヒラガナが多いことにある。
ところが、ヒラガナといっても、現代のわれわれがイメージする文字ではなく、普通の漢字の崩し字であるが、「音」(オン)だけが重要で、
意味は無関係の使い方であるから、慣れないと、こっちの方が難しい。文章の流れで想像できない文字が突然出るからである。
もう一つの理由は、字の崩し方も、今までの武士の世界の崩し方と異なっている点が多いように感じたからである。これらの理由で、読解に苦労した。
また、この記録には、3つの地震が触れられている。明和地震が主であるが、一部、比較として宝暦地震が出てくる。
もう一つは、明和地震より、80年近く後の嘉永7年の地震についても記述している(のではないかと見られる)
明和地震以外のところは、訳の文字の色を変えた。
1) 延岡藩資料:明治大所蔵:3-31-601=明和6年地震の記録
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