今回のトピックス |
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将軍のおひざ元の江戸には、多数の幕臣がおり、市民の反官軍感情も強くて、 官軍側も強硬路線がとりにくい状況である。 そこで、勝海舟による江戸城の返還要求の策動もある中で、徳川家への処分決定された。 不満暴発の先手を打って、彰義隊がこもる上野山への官軍の一斉攻撃が始まる。 延岡藩は、江戸藩邸を閉じた直後であるが、延岡へ上野戦争を報告している。 (2020.3.18) |
上野での彰義隊と官軍の戦い(慶應4年=明治元年5月15日=1868年)についての延岡藩の記録を紹介する。
最初に、右の年表を見ながら、この年の1月初めから、彰義隊による上野戦争の勃発までを振り返る。
1月3日〜5日に大阪から進軍した幕府軍と京都からの官軍(薩摩+長州藩が主流の軍)がぶつかり、鳥羽伏見の戦がおきた。
しかし、幕府軍が一方的に敗走し、ついには、6日早朝には、幕府側の総大将である将軍慶喜が、
大阪からこっそり脱出して江戸に向かって(12日に江戸城に入城)幕府側の負けが決定的となった。
15日には、官軍側=新政府側が王政復古を発表した。
そして、2月9日に、有栖川宮を大総督として、江戸に向けて進軍を開始する。
慶喜は、上野寛永寺に謹慎する。
官軍による江戸城への総攻撃直前に、旧幕府側代表の勝海舟と西郷隆盛との交渉(3月13日)が行われ、
官軍の江戸総攻撃は一旦休止の上、西郷隆盛が江戸と京都を往復して、最終的に中止となったのは4月2日であった。
4月11日に、官軍が江戸城に入っている。同時に、慶喜は水戸へ向かっている。
しかし、奥州を中心に反新政府勢力が奥羽列藩同盟を結んで、新政府への対抗姿勢を示している。
彰義隊の誕生を見ていこう。
慶喜が寛永寺に謹慎したその日(2月12日)、雑司ヶ谷にある鬼子母神の門前にある当時は有名な茶屋である茗荷屋の十数名が集まった。
その後、四谷鮫ヶ橋の近くにある臨済宗円応寺で、会合を繰り返し3度目となる2月21日に、
後に、彰義隊の中心人物となる渋沢成一郎と天野八郎が加わっている。
ここで、渋沢成一郎は、武蔵国榛澤郡血洗島村の豪農の出である。
彼は、来年の大河ドラマの主人公となる、いとこの渋沢栄一とともに、
明治維新の4年前(元治元年=1864年2月)に一橋家の家臣に取り立てられていた。
新参者であるが、一橋家に特別の恩顧を感じていた人物である。
2月21日に67名の参加のもと、薩摩を撃退する趣旨で血誓状を作り、数日後に、彰義隊の名前をつけている。
この時の頭取には、豪農とはいえ百姓出身であった渋沢成一郎がついている。
西郷が最終的な結論を以て京都から江戸に帰ってきて、江戸城攻撃が正式に中止となった(4月2日)の翌日、
彰義隊は、参加者が急増してきたこともあった浅草本願寺から上野寛永寺に本拠地を移動している。
その頃、寛永寺に「三舟」の一人である山岡鉄舟もいた。
そこへ、徳川家からの脱走兵の集団である彰義隊が加わったのである。
遊撃隊と彰義隊との衝突や暴走が懸念される中、慶喜が寵愛する渋川成一郎を呼び、過激な行動をしないようにと念を押している。
その頃、彰義隊は千人以上に増えていた。
4月11日に、慶喜は、水戸へ向けて出発している。
護衛していた幕臣の内200名が水戸まで送り届けているが、彰義隊も千住まで送っている。
渋川成一郎は、松戸まで身送っている。
慶喜がいなくなった寛永寺に残る必要がなくなった、また、
慶喜の身に不利益な結果を起こしたくないという渋川成一郎とあくまでも新政府軍と近い位置でにらみ合う重要性を
主張する天野八郎との意見が合わなくなってきた。
ここで、彰義隊は分裂して、渋川成一郎派は、田無までひきさがり、「振武軍」を名乗る。
また、新政府軍が江戸城攻撃を注視する条件に、幕府側の軍艦や武器を新政府軍に引き渡す約束があった。
しかし、新政府軍が江戸城に入城する直前には、榎本武明が率いる海軍は、安房の館山沖へ、
そして、陸軍歩兵奉行であった大鳥圭介率いる陸軍は下総国府台(現、千葉県市川市)へと、
幕府側の代表である勝海舟の命令に従わずに脱走したのである。
ただ、薩摩、長州、尾張、熊本、岡山、大村、佐土原(宮崎県)の七藩からなる新政府軍は江戸城に問題なく入城している(4月11日)。
江戸市中での彰義隊の人気は上がり続け、また、徳川家の家臣だけでなく、
他藩からも有志の藩士が集団で彰義隊に加わって、最盛期には、数千人の規模に上っている。
これらの人々が、現在の上野の山に相当する寛永寺の境内に駐屯して、黒門を含めて計8つの門(地図参照)を守った。
寛永寺の北にある谷中の天王寺(地図参照)にも駐屯をしていた。
この段階で、徳川幕府は、滅びたが、徳川家が滅びたわけではない。
延岡藩をはじめ、どこの藩でも藩主がいて家臣がいるという封建制度が崩れたわけではない。
最大の藩である徳川家をどうするか。
徳川家には、御目見である旗本、それ以下の御家人、そして、それらの家臣も含めると8万人ほどが、徳川家側の武士になる。
とにかく、江戸で徳川一派全体が反旗を翻せば、江戸に進出した官軍側より圧倒的に多い数になる。
その一つの過激な勢力の一つが彰義隊である。江戸に進駐した新政府側にとって、徳川家の処遇をどうするかが最大の課題であった。
徳川側の勝海舟が、彰義隊や榎本武揚が率いる脱走海軍力を背景に、実質、西郷をトップとする新政府側と交渉し、徳川家の保存を図っている。
直前まで、徳川家は田安亀之助が相続し、江戸城を徳川家に変換し、徳川は100万石程度の禄高になるという所で合意寸前になっていた。
それで、徳川家の家臣群をなだめていたのである。
ところが、岩倉具視や大久保利通の意見により、相続人は田安亀之助ではあるが、所領は駿府で、70万石程度とし、
しかも、江戸城は返還しないという、徳川家家臣団には厳しい結論になった (閏4月29日)。
彰義隊をはじめ、徳川家臣団の不満が爆発する寸前になってきた。
彰義隊による薩摩藩士の殺害など不穏な動きが目に見えてきた。
勝海舟は、信頼できる盟友の山岡鉄舟に依頼し、彰義隊の形式的なよりどころである寛永寺の覚王院義観に、
彰義隊の解散を頼みに行かせたが、それは、拒否されている(5月5日)。
新政府側は、長州の大村益次郎を中心に彰義隊討伐の計画が進んでいた。
朝から雨模様であった慶應四年(明治元年)5月15日、戦争が起きた。
総指揮の大村益次郎の作戦では、彰義隊が立てこもる上野の山の正門となる黒門攻撃には、
西郷隆盛とトップとして、薩摩、熊本、鳥取藩兵が向かう。西郷隆盛は、現松坂屋の場所に構えている。
上野の山の裏門となる団子坂方面には、長州、肥前、佐土原藩を配置し谷中門に向かう。
現東大のある本郷の加賀藩前田家(地図では加州)の藩邸に不忍池を超えて上野を攻撃できる佐賀藩の強力なアームストロング砲を配置した。
戦いが始まったのは、午前7時頃、薩摩藩を中心とする部隊が黒門を攻撃開始した。
彰義隊は、8つの門(黒門、穴稲荷門、清水門、谷中門、坂本門、屏風坂門、車坂門)の防備についた。
その当日、彰義隊は上野の陣地には、1000人ほどしかいなかったという見込みもある(延岡藩の記録では2500名という噂を報告している)。
一進一退が続いた、正午ごろ、加賀藩の本郷屋敷からアームストロング砲の砲撃が始まった。
その距離は、彰義隊が持つ大砲では反撃できない距離であった。
この砲撃で、彰義隊は一気に動揺が走って、及び腰になったところで、西郷が総突撃を命じている。
彰義隊は、寛永寺の堂塔などに火をつけ敗走し、戦は終わった。
黒門付近で最も激しい戦いが起きた。黒門(地図参照)があったのは、上野の山の南端、広小路から交番の横を緩やかに登る入り口付近である。
激戦の有った場所が、現在、西郷隆盛の銅像が立っているあたりであろう。
ここ付近は、かって、黒門町という地名であった。あの有名な名人(先代)桂文楽がここに住んでおり、
“黒門町”の師匠といわれたことで有名である。江戸時代の往時の黒門の様子を示す浮世絵の一つを右に示す。
黒門は、現在、南千住の円通寺に保存されている。その門を見ると弾痕がたくさん残っているのがわかる(写真参照)。
円通寺に残る黒門 | 上野戦争の時の弾痕が見える |
彰義隊と新政府による上野戦争が起きたのは、5月15日である。延岡藩の江戸での体制はどうなっていたか。
当報告のNo-57とNo-58にあるように、大殿様(先代殿様)をはじめ、江戸藩邸に残っていた大半の武士とその家族は、
4月4日にチャーター船で延岡に発っている。
延岡藩の江戸藩邸の記録も3月30日に記録が終わっている。
また、延岡藩は鳥羽伏見の戦で徳川方についたということで、厳罰が下るかもしれないとして謹慎をしていた。
4月4日に京都に呼び出し後、改めて謹慎処分が出ている。
その後、家臣の苦労で、延岡藩の行動は、反官軍ではなかったとして、上野戦争が勃発する直前の5月10日に、
謹慎免除が出ている(参照:当報告No-56報)。
その情報は江戸までは届いていないだろう。江戸に、どれだけの家臣が残っているかは不明であるが、
確かに、ある数の藩士がいたのは事実である。
その延岡藩の誰かから、延岡へ、彰義隊と新政府との上野戦争の様子が報告されている。
江戸では、徳川幕府の御膝元ということもあって、江戸庶民には官軍側は極めて不人気であった。
その代わりに、彰義隊は、大人気であった。そのため、上野戦争に関する浮世絵は、多く残っている。
円通寺所蔵 | 春永本能寺合戦ー上野戦争:黒門前の激戦図 |
1) 延岡藩資料:明治大所蔵:1-29-305-10
2) 安藤優一郎著:”江戸のいちばん長い日:彰義隊始末記”(文春新書:2018年)
1)明治大所蔵の延岡藩資料=1-7-147:万覚帳(安政6年)
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