第73話:彰義隊との上野戦争を延岡へ報告 

No.73> 第73話:彰義隊との上野戦争を延岡へ報告

        江戸における幕府側の反抗勢力を官軍が制圧の様子を延岡へ急報


今回のトピックス

    将軍のおひざ元の江戸には、多数の幕臣がおり、市民の反官軍感情も強くて、
    官軍側も強硬路線がとりにくい状況である。

    そこで、勝海舟による江戸城の返還要求の策動もある中で、徳川家への処分決定された。
    不満暴発の先手を打って、彰義隊がこもる上野山への官軍の一斉攻撃が始まる。

    延岡藩は、江戸藩邸を閉じた直後であるが、延岡へ上野戦争を報告している。

                                         (2020.3.18)


【1】 序=:今までの経緯


上野での彰義隊と官軍の戦い(慶應4年=明治元年5月15日=1868年)についての延岡藩の記録を紹介する。

最初に、右の年表を見ながら、この年の1月初めから、彰義隊による上野戦争の勃発までを振り返る。

1月3日〜5日に大阪から進軍した幕府軍と京都からの官軍(薩摩+長州藩が主流の軍)がぶつかり、鳥羽伏見の戦がおきた。

しかし、幕府軍が一方的に敗走し、ついには、6日早朝には、幕府側の総大将である将軍慶喜が、
大阪からこっそり脱出して江戸に向かって(12日に江戸城に入城)幕府側の負けが決定的となった。

15日には、官軍側=新政府側が王政復古を発表した。
そして、2月9日に、有栖川宮を大総督として、江戸に向けて進軍を開始する。

慶喜は、上野寛永寺に謹慎する。

官軍による江戸城への総攻撃直前に、旧幕府側代表の勝海舟西郷隆盛との交渉(3月13日)が行われ、
官軍の江戸総攻撃は一旦休止の上、西郷隆盛が江戸と京都を往復して、最終的に中止となったのは4月2日であった。

4月11日に、官軍が江戸城に入っている。同時に、慶喜は水戸へ向かっている。

しかし、奥州を中心に反新政府勢力が奥羽列藩同盟を結んで、新政府への対抗姿勢を示している。
彰義隊の誕生を見ていこう。

慶喜が寛永寺に謹慎したその日(2月12日)、雑司ヶ谷にある鬼子母神の門前にある当時は有名な茶屋である茗荷屋の十数名が集まった。
その後、四谷鮫ヶ橋の近くにある臨済宗円応寺で、会合を繰り返し3度目となる2月21日に、
後に、彰義隊の中心人物となる渋沢成一郎天野八郎が加わっている。

ここで、渋沢成一郎は、武蔵国榛澤郡血洗島村の豪農の出である。
彼は、来年の大河ドラマの主人公となる、いとこの渋沢栄一とともに、
明治維新の4年前(元治元年=1864年2月)に一橋家の家臣に取り立てられていた。

新参者であるが、一橋家に特別の恩顧を感じていた人物である。
2月21日に67名の参加のもと、薩摩を撃退する趣旨で血誓状を作り、数日後に、彰義隊の名前をつけている。

この時の頭取には、豪農とはいえ百姓出身であった渋沢成一郎がついている。

西郷が最終的な結論を以て京都から江戸に帰ってきて、江戸城攻撃が正式に中止となった(4月2日)の翌日、
彰義隊は、参加者が急増してきたこともあった浅草本願寺から上野寛永寺に本拠地を移動している。

その頃、寛永寺に「三舟」の一人である山岡鉄舟もいた。

そこへ、徳川家からの脱走兵の集団である彰義隊が加わったのである。

遊撃隊と彰義隊との衝突や暴走が懸念される中、慶喜が寵愛する渋川成一郎を呼び、過激な行動をしないようにと念を押している。
その頃、彰義隊は千人以上に増えていた。

4月11日に、慶喜は、水戸へ向けて出発している。
護衛していた幕臣の内200名が水戸まで送り届けているが、彰義隊も千住まで送っている。
渋川成一郎は、松戸まで身送っている。

慶喜がいなくなった寛永寺に残る必要がなくなった、また、 慶喜の身に不利益な結果を起こしたくないという渋川成一郎とあくまでも新政府軍と近い位置でにらみ合う重要性を
主張する天野八郎との意見が合わなくなってきた。

ここで、彰義隊は分裂して、渋川成一郎派は、田無までひきさがり、「振武軍」を名乗る。
また、新政府軍が江戸城攻撃を注視する条件に、幕府側の軍艦や武器を新政府軍に引き渡す約束があった。

しかし、新政府軍が江戸城に入城する直前には、榎本武明が率いる海軍は、安房の館山沖へ、
そして、陸軍歩兵奉行であった大鳥圭介率いる陸軍は下総国府台(現、千葉県市川市)へと、
幕府側の代表である勝海舟の命令に従わずに脱走したのである。

ただ、薩摩、長州、尾張、熊本、岡山、大村、佐土原(宮崎県)の七藩からなる新政府軍は江戸城に問題なく入城している(4月11日)。
江戸市中での彰義隊の人気は上がり続け、また、徳川家の家臣だけでなく、
他藩からも有志の藩士が集団で彰義隊に加わって、最盛期には、数千人の規模に上っている。

これらの人々が、現在の上野の山に相当する寛永寺の境内に駐屯して、黒門を含めて計8つの門(地図参照)を守った。

寛永寺の北にある谷中の天王寺(地図参照)にも駐屯をしていた。

【2】 なぜ彰義隊は暴発したか

この段階で、徳川幕府は、滅びたが、徳川家が滅びたわけではない。
延岡藩をはじめ、どこの藩でも藩主がいて家臣がいるという封建制度が崩れたわけではない。
最大の藩である徳川家をどうするか。

徳川家には、御目見である旗本、それ以下の御家人、そして、それらの家臣も含めると8万人ほどが、徳川家側の武士になる。

とにかく、江戸で徳川一派全体が反旗を翻せば、江戸に進出した官軍側より圧倒的に多い数になる。
その一つの過激な勢力の一つが彰義隊である。江戸に進駐した新政府側にとって、徳川家の処遇をどうするかが最大の課題であった。

徳川側の勝海舟が、彰義隊や榎本武揚が率いる脱走海軍力を背景に、実質、西郷をトップとする新政府側と交渉し、徳川家の保存を図っている。

直前まで、徳川家は田安亀之助が相続し、江戸城を徳川家に変換し、徳川は100万石程度の禄高になるという所で合意寸前になっていた。
それで、徳川家の家臣群をなだめていたのである。 

ところが、岩倉具視大久保利通の意見により、相続人は田安亀之助ではあるが、所領は駿府で、70万石程度とし、
しかも、江戸城は返還しないという、徳川家家臣団には厳しい結論になった (閏4月29日)。

彰義隊をはじめ、徳川家臣団の不満が爆発する寸前になってきた。
彰義隊による薩摩藩士の殺害など不穏な動きが目に見えてきた。

勝海舟は、信頼できる盟友の山岡鉄舟に依頼し、彰義隊の形式的なよりどころである寛永寺の覚王院義観に、
彰義隊の解散を頼みに行かせたが、それは、拒否されている(5月5日)。

新政府側は、長州の大村益次郎を中心に彰義隊討伐の計画が進んでいた。

【3】 上野戦争


朝から雨模様であった慶應四年(明治元年)5月15日、戦争が起きた。
総指揮の大村益次郎の作戦では、彰義隊が立てこもる上野の山の正門となる黒門攻撃には、
西郷隆盛とトップとして、薩摩、熊本、鳥取藩兵が向かう。西郷隆盛は、現松坂屋の場所に構えている。

上野の山の裏門となる団子坂方面には、長州、肥前、佐土原藩を配置し谷中門に向かう。
現東大のある本郷の加賀藩前田家(地図では加州)の藩邸に不忍池を超えて上野を攻撃できる佐賀藩の強力なアームストロング砲を配置した。

戦いが始まったのは、午前7時頃、薩摩藩を中心とする部隊が黒門を攻撃開始した。
彰義隊は、8つの門(黒門、穴稲荷門、清水門、谷中門、坂本門、屏風坂門、車坂門)の防備についた。

その当日、彰義隊は上野の陣地には、1000人ほどしかいなかったという見込みもある(延岡藩の記録では2500名という噂を報告している)。
一進一退が続いた、正午ごろ、加賀藩の本郷屋敷からアームストロング砲の砲撃が始まった。

その距離は、彰義隊が持つ大砲では反撃できない距離であった。
この砲撃で、彰義隊は一気に動揺が走って、及び腰になったところで、西郷が総突撃を命じている。

彰義隊は、寛永寺の堂塔などに火をつけ敗走し、戦は終わった。
黒門付近で最も激しい戦いが起きた。黒門(地図参照)があったのは、上野の山の南端、広小路から交番の横を緩やかに登る入り口付近である。
激戦の有った場所が、現在、西郷隆盛の銅像が立っているあたりであろう。

ここ付近は、かって、黒門町という地名であった。あの有名な名人(先代)桂文楽がここに住んでおり、
“黒門町”の師匠といわれたことで有名である。江戸時代の往時の黒門の様子を示す浮世絵の一つを右に示す。

黒門は、現在、南千住の円通寺に保存されている。その門を見ると弾痕がたくさん残っているのがわかる(写真参照)。

 
     円通寺に残る黒門    上野戦争の時の弾痕が見える

【4】 延岡藩による報告

彰義隊と新政府による上野戦争が起きたのは、5月15日である。延岡藩の江戸での体制はどうなっていたか。
当報告のNo-57No-58にあるように、大殿様(先代殿様)をはじめ、江戸藩邸に残っていた大半の武士とその家族は、
4月4日にチャーター船で延岡に発っている。

延岡藩の江戸藩邸の記録も3月30日に記録が終わっている。
また、延岡藩は鳥羽伏見の戦で徳川方についたということで、厳罰が下るかもしれないとして謹慎をしていた。

4月4日に京都に呼び出し後、改めて謹慎処分が出ている。
その後、家臣の苦労で、延岡藩の行動は、反官軍ではなかったとして、上野戦争が勃発する直前の5月10日に、
謹慎免除が出ている(参照:当報告No-56報)。

その情報は江戸までは届いていないだろう。江戸に、どれだけの家臣が残っているかは不明であるが、
確かに、ある数の藩士がいたのは事実である。
その延岡藩の誰かから、延岡へ、彰義隊と新政府との上野戦争の様子が報告されている。

1) 延岡藩に残る上野戦争の報告記録



概訳を示す。

     「 6月16日 夜に達する。

     (飛脚屋)蔵野屋より、差出したもの。出面の写しである。
     江戸を6月16日に出したもので、(延岡に)29日の申下刻(昼4時)に到来した。

       <報告内容>
     5月15日 暁より上野の山門に屯集していた彰義隊への討伐(御討手)に
     よりて、官軍方が(軍隊を)御出張した。 広小路にて、双方が戦争を相始めた。

     同所の西側より 放火があり、折節、 一雨切れて、乱南風があったので、
     池の端や沖町辺りが、残らず、焼失した。
     広小路の東側の中程より山下上野丁(以下、町と表す)、竹町、車坂の下が残らず、消失した。

     下谷、柳稲荷等を焼き、五坂の東辺りは、1、2 町、乾の辻まで、焼き、谷中、団子坂にて、戦争があった。
     同所の門前より 三崎町の寺院を、所々、焼き払い、
     未刻(昼2時)頃に、官軍方が、御山門に、惣勢乱入し、大合戦となった。

     御山門、中御堂、御本坊を放火にて、焼き、内寺院の5か所計りを、焼き払った。
     山王下寺は 無難であった。

     彰義隊勢は、火中を、皆々、退散した。
     此の夜、子刻(夜中12時)頃に、鎮火した。
     双方、死人が500人計りという風聞がある。

     その同日朝より、諸目付とその他の方々が、橋々の御固めに相成った。
     柳橋は、焼き払い、千住大橋は、切落とし、依って、宿々は継立(ツギタテ:次の宿へ移動)をした。

     出船等は、三日の内は、御差し(出港)毎に、申しでること。
     又、官軍の御大名様方は、全部で、十七藩程度になるだろう。

     その内、軍人の方々様は、3000人計りとなった。
     彰義隊方は、2500人計りということで、勢いで、同日、根岸の御隠殿を焼き払ったということ。


上野の山の周辺で、大規模な火事が起きていることがわかる。

今回の延岡藩の報告で、分かったことであるが、
官軍側の意向を受けた徳川家の旧目付たちが、彰義隊を味方するものが江戸に集まらないように、
江戸への入り口となる橋をとりしまり、代表的な橋を破壊していることがわかる。

2) 新政府から発表された徳川家の後継と処遇について



概訳を示す。

   「 蔵野屋より差出たもので、出面の写しである。

     閏4月29日
     丹波守殿から御渡しのものである。

     (徳川家の後継は)田安亀之助殿
     名代が一ツ橋大納言殿(一橋茂栄=モチハル)

   1. 慶喜の件で、罪の上は、徳川家名の相続の件に関して、祖家以来 功労を 思召され、
     格別の叡慮(天皇の配慮)を以て、田安亀之助に 仰せ付けられたこと。
     但し 城地や禄高の類は、追って、仰出られるだるう。

     右の通り、大総督宮(=大総督府)より仰せ渡された。
     同日、御同人に 御渡しになった。

   1. 当地に いる御旗本や御家人は、明朔日より、月代を剃るように申しつける。

   1. 亀之助様の御事、上様の奉禄、上様の御事、前上様の奉禄のことなど、
     右の通り、(官軍側から)御発表があったので、(延岡藩の)面々に連絡するものである。

     右の通り、江戸表より、連絡があった。
     辰(1868年)五月二十九日
     道中、御助支(スケガウ=助力)があった。


新政府から徳川家への処遇に関して、勝海舟からの要望に沿った西郷隆盛を中心とする江戸において大総督府の意向は、
江戸城を徳川家に変換することや、徳川家の禄高が100万石程度であったが、
最終的には、京都に残っている岩倉具視と大久保利通の意向の通りとなった。

その内容は、田安亀之助が徳川家を相続することの他、江戸城は徳川家には返還しない、
そして、禄高70万石でだけが、城地は駿府なのである(閏4月24日)が、その決定を発表するのは、
彰義隊など江戸での不満分子が暴発する可能性があるので、正式に発表になったのでは、後継者の指名だけで、その他の事は未定となっている。

延岡藩等への通達は、閏4月29日になっている。

ここで、分かりにくい、通達がある。

幕府の幕臣の内、所領を与えられている旗本は、その所領を没収することが示されている。
実はこの後で、朝廷側の朝臣にすることが発表されるのである。

幕臣には、お目見え格の旗本と、それ以下の御家人に分かれる。
また、旗本も、1万石以下の所領をもらっている上級者と、俸禄米が支給される格に分かれる。御家人は俸禄米が支給される。
今回の所領没収の対象は、最上級の旗本連中である。

もう一つは、旗本や御家人に月代(サカヤキ)を剃るようにという命令も出ている。
これは、当時、武士は、不幸が起きると、月代を剃るのをやめて喪に服す習慣があった。徳川幕府が滅びたために月代を伸ばしていたのだろう。
幕府は終わったのだから、あきらめて、幕臣も月代を剃るようにという意味だろう。

【5】 浮世絵にみる彰義隊と上野戦争

江戸では、徳川幕府の御膝元ということもあって、江戸庶民には官軍側は極めて不人気であった。
その代わりに、彰義隊は、大人気であった。そのため、上野戦争に関する浮世絵は、多く残っている。

 
        円通寺所蔵    春永本能寺合戦ー上野戦争:黒門前の激戦図

【6】 資料

   1) 延岡藩資料:明治大所蔵:1-29-305-10
     2) 安藤優一郎著:”江戸のいちばん長い日:彰義隊始末記”(文春新書:2018年)

【6】資料

  1)明治大所蔵の延岡藩資料=1-7-147:万覚帳(安政6年)

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