第72話:御朱印(3):御朱印状の形式 

No.72> 第72話:御朱印(3):御朱印状の形式

        藩の存続を新将軍から保証してもらう御朱印改めの出席者と書類の形式


今回のトピックス


    数十年に一度の御朱印改めの儀式はほとんどの当事者にとって、初めてのことで緊張する。
    失敗は許されない。藩主に変わって江戸家老が勤め、留守居が活躍する。

    御朱印改めの儀式は、今までほとんど紹介されていないので、今回の報告は貴重である。

                                         (2019.12.1)


【1】 序=:今までの経緯

将軍の代が代わるごとに、徳川幕府が全国の諸大名や有力旗本や寺社に対して、知行を安堵(保証)する御朱印を出してきた。
安政5年(1858)年に、14代将軍:家茂が将軍についている。

延岡藩に限らず、知行安堵の御朱印が下るのが近いことは予想し、
その準備は怠りなくしていたことであろう。

ここで、阻喪があると、知行召し換えにもなりかねないから、江戸屋敷では最大の配慮をしていたはずである。

その中で、安政6年(1959年)11月1日に、寺社奉行の松平右京丞(高崎藩主:松平輝聴)と
老中の松平対馬守(陸奥磐城平藩の第5代藩主:安藤 信正)の連名で、延岡藩の留守居役の成瀬老之進宛てに、
翌11月2日の五時(現在の朝8時)に、一人、松平右京丞の藩邸に罷り出る様にという内容の召喚状が届いた。

成瀬老之進が、約束の時間に赴くと、翌11月3日の6半時(現在の朝7時)に、右近将監殿(内藤家藩主の事)が所持の御朱印と、
その写しを右京丞宅へ、使者を以て差し出す様に、そして、その時、御領知目録とその写し、さらに、郷村帳も出来ているだろうから、
それも持参する様にというものであった。

差出人は、松平対馬守、松平右京丞の連名で、あて先は、内藤右近将監殿と 留守居殿となっている。
延岡藩の藩主は、在所(延岡)にいるので、藩主の代わりに江戸藩邸家老の大嶋味膳が勤めることになる。

そして、其11月3日に、江戸藩邸の人員だけでは不足なので、人や道具を借り出して盛大な大名行列をなして、松平右京丞の屋敷へ赴いている。

道中や、右京丞宅での儀式については、前回(#2)で示したが、御朱印関係では、最終回となる今回は、その出席者名簿と、
御朱印状そのものの形式を記したものが延岡藩に残っているので、それを示す。

【2】出席者名簿

11月3日の御朱印状の改め、つまり、今までの御朱印の束を幕府へ提出し、今回は、それに新しいものが重なって帰されてくるのである。
この儀式には、延岡藩だけではなく、多くの藩の大名自身かその代わりの者が、広間にそろって、御朱印を提出するのである。

それ以前の場合の会場が不明なのでよくわからないが、今回の会場が、江戸城ではなく、寺社奉行の松平右京丞の邸宅で行われているのは、
異常なことではないか。

当日の出席者の名簿を示す。



名前をだらだら示すのも、この儀式の盛大さを示す意味で、必ずしも無意味ではないだろうと考える。

まず、概訳を示す。

「1> 今日、ご出席の御方様は左(以下)の通りである。

(幕府側)
     松平対馬守様(老中:陸奥磐城平藩の第5代藩主:安藤 信正)
     松平右京丞様(寺社奉行:高崎藩主の松平右京丞=松平輝聴=大河内輝聴)

   御儒者
     林図書助様(=林 学斎 大学頭)
     林民部様

   表御右筆御組頭
     湯浅伴右衛門様

   表御右筆
     佐久間三郎様
     川井寝太郎様
     大橋久右衛門様

 1> 右正面に対馬様と右京丞様が、御着座になられた。その右の方に、
林図書助様より、大橋久右衛門まで,指向に、御着座になられている。

御銘々の御前に御文臺があるが、その委細の末に、絵図面がある。

今日、御改めお済候御列 左の通り
   松平陸奥守様(宮城・仙台藩:伊達慶邦:62万石)
    細川越中守様(熊本:細川斉護:54万石)
    松平相模守様(鳥取:池田慶徳:32万石

    松平越前守様(福井:松平茂昭:32万石)
    松平肥前守様(佐賀:鍋島直正:35万石)
    松平下総守(埼玉・忍藩:奥平忠国:10万石)
    佐竹右京大夫様(秋田:佐竹義堯:20万石)

 着座 
    丹羽右京大夫様(福島・二本松藩:丹羽長国:10万石)
    松平安藝守様(広島:浅野長訓:42万石)
    松平大蔵大輔(オオクラタイフ)様(加賀藩支藩=越中富山藩12代藩主:前田利聲:10万石)

    大久保加賀守様(小田原:大久保忠礼:11万石)
    堀田鴻之惣様(不明)
    此の方様(延岡藩の事:7万石)
    松平周防守様(岡山備中松山藩:板倉勝静:5万石)

    加藤越中守(滋賀・水口藩:加藤明軌:2万石)
    京極佐渡守(香川・丸亀藩:京極朗徹:5万石)
    織田万寿九郎様(奈良・柳本藩:1万石)
    伊達若狭守(愛媛・伊予吉田藩:伊達宗孝:3万石)

    堀長門守(長野・須坂藩:堀直虎:1万石)
    京極於鬼之助様
    安藤対馬守(福島・磐城平藩:安藤信正:3万石)
    本多越中守(福島・泉藩:本多忠徳:2万石)

      牧野遠江守様(長野・小師藩:1万石)
    酒井右京亮(福井・敦賀藩:1万石)
    稲垣長門守(滋賀・山上藩:稲垣長明:1万石)
    永井肥前守(岐阜・加納藩:永井尚服:3万石)

    米津相模守(山形・長瀞藩:米津政易:1万石)
    大岡越前守(愛知・西大平藩:大岡 忠敬:1万石)
    松平駿河守(愛媛・今治藩:久松勝道:3万石)
    増山河内守(三重・長嶋藩:増山正修:2万石) 」

以上の名簿の中で、注釈の必要な人物がいる。

1) 松平越前守(松平茂昭)は、16代藩主松平慶永(=春嶽)の次代である。
  先代となる松平春嶽は、前年、将軍敬嗣問題で、一ツ橋慶喜を押したり、
  幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると慶永は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したことで、
  大老井伊直弼の逆鱗に触れ、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、
  謹慎の処罰を受けたので、今回(安政6年)時点では、隠居している。

2) 富山藩は、大国加賀藩の支藩であるが、準国主扱いである。藩主は前田家で10万石を領した。
  しかし、幕末(安政4年)に、御家騒動を起こして、宗家の加賀藩主の前田斉泰が介入して、
  今回の御朱印改めの直後(安政6年11月22日)、前田斉泰の息子の利同に藩主を譲り、前田利聲は、隠居させられている。
  それ以来、加賀本藩から富山詰家老が派遣され、藩政を監督されることとなった。

3) 大岡越前守は、お話で有名な江戸南町奉行で享保の改革を実行しようとした大岡大岡忠相越前守の末裔である。
  西大平藩1万石(現在の愛知県岡崎市大平町=三河国額田郡西大平)を領した。
  江戸町奉行から大名になったのは、大岡忠相のみである。

4) 当時の記録を見ると、寺社奉行の松平信篤(豊前守:丹波亀山藩主)が取り仕切る筈だったが、
  かれの大阪城代への転出によって、急きょ、寺社奉行の松平右京丞(大河内輝聴)が代行することになった様だ。

【3】書類の様式について

1)書類の種類

幕府からの最重要の書類ともいえる御朱印状の書式は、歴史上の証拠としても重要であるが、意外に、残っているものは少ない様である。
中々、その形式を見る機会もない。延岡藩の記録は貴重だと思うので、記録を、出来るだけ詳細に示したい。
図中の数字は、当方で記入したものである。



1> 今日、差し出された品々は、左(以下)の通り。
    御朱印、その御写、これに加えて、小札で、左(以下)の通りである。
     (但し)、小札は、上下に折りを付け、此の事により、小札紙には厚請が付いている。

  @ : 繹は檀紙である。小札部にて真本。認印。
      (図中の書類表面)「何(?)様 御朱印写 :当主 内藤右近将監
     惇信院様 御朱印二通があるので、小札によって、1と2をつけた。
        左(以下)の通り。 総て (藩主が)在邑の事について思し召しあり。
   説明>
     檀紙(ダンシ)とは、楮を原料として作られた縮緬状のしわを有する高級和紙のこと。
     厚手で美しい白色が特徴であり、主として包装・文書・表具などに用いられる。
     古くは主に弓を作る材料であったニシキギ科の落葉亜喬木であるマユミ(檀/真弓)の若い枝の樹皮繊維を
     原料として作られたためにこの名がある。
     また、陸奥国を主産地としたために「みちのくのまゆみ紙」後に転じて陸奥紙(みちのくがみ)とも呼ばれた。
         (ウィキペディアから引用)

  A : 同御上包に小札は、左の通り。小札には、原請付。
     檀紙。
    (図中の書類表面)「何(?)様 御朱印写し 内藤帯刀(?):当主 内藤右近将監

  B : 御朱印と御写しは、全て、上包に折り付き書で、左の通り。
     檀紙。
     (図中の書類表面)「御朱印写し 拾通 :当主 内藤右近将監

  C : 御領知御目録と御写しは、小包表に小札があり、左の通り。
     小札紙には、厚請附き。
     大廣奉書は、六枚半譴、譴用表毎に、御印が二つ押してある処に、印も満ちている。
     (図中の書類表面)「当主 内藤右近将監
      御目録の末に、御据判のところに判と認め印。
      お名前書きの通りに書かれている。

   説明>大廣奉書とは
      奉書紙には、小奉書、中奉書、大奉書、大広奉書がある。奉書紙は、昔から官府の公文書などに用いられてきた格式高い紙である。
      奉書紙は、現代でも、伝統的な手漉きの手法で作られている。
      大広奉書紙は、1.92尺×1.45尺(=582mm×439mm)のサイズである。

  D : 同上下折り付き書は、左の通り。
     大廣奉書: 御領知目録の文字 御本書の通り(認印)
     (図中の書類表面)「御領知目録写し   内藤右近将監

  E : 御朱印御写し箱上書 左の通り。
     但し、御朱印入りの箱には、御朱印と年直字。 認印
     御名も不(認) 未だにこれ有りの箱 寸法の処、上書きこれ有り
    (図中の書類表面)「御朱印 並び、領知目録写し  内藤右近将監

  F : 御朱印は、御代の順に 重ねて、中を一カ所紙にて認
     大美濃紙の六つ切り。三つ継が四つ有る。五分程になっている。これにて認印。
     御本書は、総て上包み、そのまま、重ねて、箱に入れる事

  G : 同御写しも同様に、上下二所、紙にて、依り紙するように。上に同じ
     御写しはこれを全て、上包で包み、箱に入れる事

2)様式(続き):書類等の寸法等



概訳を示す。

「1> 御朱印箱:袷(アワセ)服紗。その寸法 : 紫 加賀   4尺5寸4分(137.6 cm)
    御写し方:           : 浅黄 加賀  4尺5寸4分(137.6 cm)

  1>御朱印入り箱と御写し入り箱の寸法について

   H (図中の書類表面)「御朱印
     右箱、嶋相錦布は好ましく、きちやうめんで銀黄黒一
     紐:袍(ワタイレ)黄古田で、長さ:1尺8寸1分(54.8cm)、幅:5寸5分(=16.7cm)、高さ:5寸5分(=16.7cm)

   I ご朱印箱の臺
     樅引曲げ寸法 内法 
      幅=6寸5分(19.7cm)、高さ=5寸5分(=16.7cm)、長さ=1尺9寸1分(=57.9cm)

   J 御長持の臺(二)
     樅黒 うき合わせの寸法
      高さ=3尺(90.9cm)、長さ=2尺(60.6cm)、幅=7寸(21.2cm)
      足程 1寸1分余り(〜3.3cm)」

  1> 御長持の臺 漆塗:お名札 左右に張り、大奉書
  1> 同 ゆたん 花色絹 御紋所 左右に一づつ
  1> 同相油黒 御紋所 一づつ
  1> 同臺 2つ
  1> 今日御用席に、 始め一統がそろって、結んだ。

【4】手控えの記録について

手目録というのがある。これは、多分、延岡藩による手控え記録だろうと思われるものを示す。



これの概訳を示す。但し、図中の洋数字は当方で書き込んだものである。

「手目録左の通り 行字の認

      覚
   @ 厳有院様 ご朱印 
     (十一代先)内藤帯刀頂戴候
     寛文四年(1664)四月五日(4代:家綱)

   A 常憲院様 ご朱印 
     (十代先)内藤左京亮 頂戴候
     貞享元年(1684)九月二十一日(5代:綱吉)

   B 文昭院様 ご朱印 
     (九代先)内藤能登守 頂戴候
     正徳二年(1712)四月十一日(6代:家宣)

   C 有徳院様 ご朱印 
     (八代先)内藤右京亮 頂戴候
     享保二年(1717)八月十一日(8代:吉宗)

   D 惇信院様 御朱印 (七代先)内藤備後守
     延享三年(1746)十月十一日(9代:家重)

   E 惇信院様 御朱印 (同)右同人
     寛延四年(1750)三月十一日(???)

   F 駿明院様 ご朱印 (六代先)内藤能登守
     宝暦十一年(1761)十月二十一日(10代:家治)

   G 文慕院様 ご朱印 
     (高祖父)内藤右京亮
     天明八年(1788)三月五日(11代:家斉)

   H 慎徳院様 ご朱印 
     (当主)内藤能登守(後 右近将監)
     天保十年(1839)三月五日(12代:家慶)

   I 温慕院様 ご朱印 (同)内藤右近将監
     安政二年(1855)三月五日(13代:家定)
     領知目録を差出します。郷村帳は、追って、差出す予定であります。
           以上

    11月3日
     内藤右近将監 使者  大嶋味膳
            案内  成瀬老之進 
     上包み 上下折りで、のけ大直し。
     美濃紙。 上書は、左の通り
     図中の書類中「手目録  内藤右近将監 使者 大嶋味膳
                        案内   成瀬老之進



これは、延岡藩が受領した御朱印の記録であろうが、まず、〇〇院というのは、先代の藩主の未亡人と思われる。
それぞれの藩主の未亡人が保管しているということだろうか。未亡人の名前と対応できない。

もう一つ不思議なのが、Eで示す記録である)。寛延4年には、将軍の代代わりが起きていないのに、御朱印の記録が残っている。
また、公式の幕府側の記録と思われる歴代御朱印の記録の表をしめすが、DとEの間に相当する記録がない。これは謎である。

【5】その後

 1) 延岡から資料を持ってきていた藩士二人(加藤蔵六、長瀬宅右衛門)に御祝儀として、金300と500疋を送っている。    2) 11月6日、延岡藩の御留守居の成瀬老之進が呼び出しにより、松平対馬守を訪問したところ、
     改めて、御領知御目録を相違なしとして本書を御戻しなられた。
     在所中の延岡藩主の右近将監へ申し達してよいということであった。
     箱に御目録を入れ、封印をして藩邸へ帰った。

     その時も、そうそうたる藩主が列席していた。その一分を示すと、細川越中守、松平肥前守、松平周防守、加藤周防守、
     加藤越中守、京極於鬼之助、酒井右京丞、京極信濃守、大岡越前守等々が列席していた。

   3)12月8日、延岡藩の江戸藩邸で、家老、留守居、大目付、月番、そして、加藤義六、長瀬宅右衛門がそろって、
     御朱印を封印して、使者二人が、合対印をして、延岡に向けて出立した。

【6】資料

  1)明治大所蔵の延岡藩資料=1-7-147:万覚帳(安政6年)

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