今回のトピックス |
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数十年に一度の御朱印改めの儀式はほとんどの当事者にとって、初めてのことで緊張する。 失敗は許されない。藩主に変わって江戸家老が勤め、留守居が活躍する。 御朱印改めの儀式は、今までほとんど紹介されていないので、今回の報告は貴重である。 (2019.12.1) |
徳川の将軍の代替わりがあるたびに、日本中の大名に対し、各人の知行を安安堵(保証)する証明書として、御朱印状を発行した。
安政5年(1858)年に、14代将軍:家茂が将軍についている。延岡藩に限らず、知行安堵の御朱印が下るのが近いことは予想し、
その準備は怠りなくしていたことであろう。
ここで、阻喪があると、知行召し換えにもなりかねないから、江戸屋敷では最大の配慮をしていたはずである。
安政6年(1959年)11月1日に、寺社奉行の松平右京丞(高崎藩主:松平輝聴)と老中の松平対馬守(陸奥磐城平藩の第5代藩主:
安藤 信正)の連名で、延岡藩の留守居役の成瀬老之進宛てに、翌11月2日の五時(現在の朝8時)に、
一人、松平右京丞の藩邸に罷り出る様にという内容の召喚状が届いた。
成瀬老之進が、約束の時間に赴くと、翌11月3日の6半時(現在の朝7時)に、右近将監殿(内藤家藩主の事)が所持の御朱印と、
その写しを右京丞宅へ、使者を以て差し出す様に、そして、その時、御領知目録とその写し、さらに、郷村帳も出来ているだろうから、
それも持参する様にというものであった。
御朱印改めは幕府による公的な仕事と思われるが、その儀式の会場が、寺社奉行の松平右京丞の私宅というのは不思議である。
差出人は、松平対馬守、松平右京丞の連名で、あて先は、内藤右近将監殿と 留守居殿となっている。
延岡藩の藩主は、在所(延岡)にいるので、藩主の代わりに江戸藩邸家老の大嶋味膳が勤める。
そして、明日のために、最大の大名行列の準備をしなければならない。
藩邸の人員だけでは不足なので、どこの藩でもやっているように、人や道具を借りだして、外見だけ整える準備をする。
そして、肝心の御朱印状、御領知目録、写し、郷村帳などを確認し、新規の箱に入れ、紐で結わえ、服紗で包み、臺に載せ、
また、御朱印の写も十通、御代々の順に重ね、上下、二ヶ所、紙にて結っている。
御目録は、(月日を認め入れ改め済である)、紐にはさみ服紗に包み、酒塗(?)の御長持ちに右2箱、並びに、据台共に、入れて、
勝五郎が錠を卸ろす。御用番の平兵衛と勝五郎が2人の印を打つ(合対印)して、絹紐をかけて、延岡藩の御広間に厳重に保管し、明日に備える。
当日の延岡藩の行列 | 延岡藩の大名行列の特徴 |
(1) 内藤家資料:明治大所蔵:安政6年万覚書=1-7-147
(2) 大成武鑑:延岡藩
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