第70話:延岡藩に領地安堵の御朱印が下る 

No.70> 第70話:幕府から延岡藩に領地安堵の御朱印が下る

        将軍の代替わりに伴う領地安堵の御朱印を受けるのは藩を上げての大行事


今回のトピックス


     延岡藩の領地安堵の証明書である御朱印が幕府から配布される。
     それは、藩存亡に関わる重大行事である。行列も他所から人を借りて盛大に行う。
     手順ミスは許されない。その緊張を報告する。

                                         (2019.10.31)


【1】 序=御朱印とは


昨今、有名な寺や神社を詣でると、必ずというほど、若い女性や中年女性が、 御朱印をもらうべく並んでいるのを見かける。
いつから、このブームができたのだろうか。

本来は、写経を奉納したあかしとしてお寺からいただく証書だったが、
寺名と御本尊名と期日が記されていることから、スタンプラリー的収集の喜びと、 宗教的安堵を目的として流行したのだろう。

これが“御朱印”と呼ばれるのは、当然、朱の印が押してあるからである。

歴史上、「御朱印」あるいは「朱印状」は、戦国時代以来、
戦国大名や藩主や将軍からの正式文書として、
当初は、必ず花押であったが、簡略化の意味もあってか、朱の印が押されたものを指すようになった。

朱印の代わりに黒印を使う大名もいた。織田信長は、朱印黒印も併用した。
江戸時代の将軍の私的な書状や軽微な事項では黒印状として発給されている。
徳川家康が、海外貿易の許可を示すために出した“御朱印”が有名で、その許可を得た船を朱印船とよんだ。
その貿易を“朱印船貿易”と教科書にも載っているものである。

江戸時代になると、家康以来、10万石もしくは四位以上の大名・摂関家及び清華家・大臣家・従一位の公家に対して、
その領知や知行の承認(安堵という)をするために、花押を記した判物、そして、
10万石以下の武士の知行安堵や寺社領の寄進・安堵には朱印状が発給された。

将軍の代が変わると、殆ど、その都度、大名に対して、領知安堵の朱印状が発行されている。
右の表に、歴代将軍と、領知安堵の通知が出された年を示した。ほとんどが、将軍になった年の2年以内に行われている。
この表は、インターネットから引用したが、家茂については、領知安堵年は正しいかどうか。

今回紹介する、延岡藩の記録では、安政6年1。1月に告知されているからである。
領地安堵ではなく、領知安堵という文字が使用されている。当方が、間違っていることではないことを注意したい。

【2】延岡藩に対する領知安堵

延岡藩に対する領地安堵とは、内藤家が、延岡藩の領地、具体的には、各村とその石高を記した一覧表の領地を、
領土としてよいというお墨付きである。この領地一覧を、領知目録という。領地判物、領知朱印状と一緒に発給される。

延岡藩にとって、将軍の代が代わったのだから、近々、御朱印が出されるのを期待し、その準備はしている。
そして、御朱印をもらい受けの儀式が仰々しいのである。その様子を複数回に分けて紹介したい。
第1話は、古い御朱印を差し出すための行列を行う前日の様子である。

【3】 御朱印の改めの通知が延岡藩邸に届く

安政5年(1858)年に、14代将軍:家茂が将軍についた。

その翌年の安政6年11月1日に、寺社奉行の松平右京丞(高崎藩主:松平輝聴)と老中の松平対馬守(陸奥磐城平藩の第5代藩主:安藤 信正)名での 御達しが延岡藩の御留守居役の成瀬老之進に届いた。

それには、明日11月2日五時(現在の朝8時)に、一人、松平右京丞の藩邸に罷り出る様にという内容であった。
そのため、翌2日、指定時間に成瀬老之進が松平右京丞宅(日比谷門内大名小路 現在の「新有楽町ビル」)に伺うと、
松平家の伊谷隼太なる家来が、一通の書付を渡した。

それには、明11月3日6半時(現在の朝7時)に、右近将監殿(内藤家藩主の事)が所持の御朱印と、その写しを右京丞宅へ、使者を以て差し出す様に。
そして、その時、御領知目録とその写し、さらに、郷村帳も出来ているだろうから、それも持参する様にというものであった。

差出人は、松平対馬守、松平右京丞の連名で、あて先は、内藤右近将監殿と 留守居殿となっている。
また、その書付を渡す際に、伊谷隼太が、成瀬に対して、明日の使者名を教える様にとの話もあった。

成瀬老之進が、虎ノ門の延岡藩邸に帰ってきて、かねて決めていた様に、使者は、江戸藩邸の家老:大嶋味膳であり、
成瀬老之進が案内役としてすぐに通知をした。

そして、延岡藩邸内では、明日、朝七半時(現在の朝5時)に、御朱印を差し出すために、延岡藩邸を出立するので、その準備に取り掛かる。
まず、最大規模での大名行列をする必要がある。藩邸の人員だけでは不足なので、どこの藩でもやっているように、人を借りだして、外見だけ整えるのである。

かねて打ち合わせていたように、体制を確認する。11月2日のことである。

【4】 明日の行列の確認



概訳を示す。

   「1)右に付き、御使者 供人 左の通り、行う

          覚

       1.供番  4人 この内2人どもは、前に延岡よりの貸人と前に雇っていた者共
       1.駕籠の者 4人
       1.鑓持(槍持ち)  1人、延岡からの貸人  前に雇っていた者
       1.挟み箱対  1人
       1.長柄傘持  1人
       1.草履取り  1人
       1.合羽籠弐荷 2人
       1.提灯持ち  2人 

           (家老の)大島味膳へ
     右は、明三日、松平右京亮様のお宅において、御朱印の御改に付き、明暁七半時
     出宅、お使者を勤めるので、御貸人、御貸物など、前々の通りに心得るように。

        11月2日   長坂(?)兵衛門より
           御賄方(財務担当)、 御人割方(人の調達掛)へ


     <通達内容>
         明日(11月3日)は、御朱印のお改めに付き、差し添え人(付き添の人)、並びに、惣御人数(総人手)のために、
         御貸人等のことは、左の通り、面々に、書付に締めて、行うこと。
           大目付、金沢此面、御賄方、御武具方、御馬方、御人割方へ

     明3日、松平右京丞様のお宅において、御朱印の御改めに付き、御差出しの節の行列は、左の通りである。



   (先頭から)

     足軽壱人、(麻裃)御徒士、(麻裃)御徒士、足軽壱人、(麻裃)御徒士、
     (麻裃)御徒御役、 御朱印、御中間4人、(麻裃)御徒目付、 御臺持(ダイモチ)1人、

     服紗小袖麻裃)金沢此面、若(光?)黒2人、槍持ち1人、挟み箱持ち1人、
     合羽籠持ち1人、草履取り1人、馬(索?)口取り 
     御徒小役、御徒目付、草履2人、惣供雨具釣敷(?)1荷3人、当掛1荷 1人

   右の通り、明三日暁正七半時、出宅に付き、出来る限り、御貸物等を、

   前々の通りに心得ておくように。


大変な行列である。人や道具の足りない分は、大名行列用の人貸業者や、道具貸業者があるので、そこで調達するのである。
あくまでも、体面を繕うのである。また、徒士の服装(麻の裃)も指定されている。
ここで示されている行列の構成を図示した。

【5】 肝心の御朱印の扱いも慎重である



   概訳を示す

   「明3日、御朱印の御差出しに付き、差し添えの面々に、正手当を支給する様に、御賄方に、指示する。

      <指示の内容> 
         御賄方へ
       御朱印の差し添えの面々は、末々迄、並びに、大島味膳と成瀬老之進の供人に
       正手当を、仕出する様にすべきである。
       但し、味膳、老之進、此面には、下される必要はない。

   1)明日、御朱印の御差出しに付き、御使番代理を金沢此面に仰せつけられ、それに従事すべき其の段を、
     月番に、手紙をもって、申し達した。


         <手紙の内容>
       明三日、御朱印の御差出しに付き、その儀、御使番代理をお雇い仰せ付けられた。 
       それは、この期間のみのこと。

   1)明日、御朱印お改めに付き、御用部屋において、御用席始め、御留守居、大目付は、罷り出ること。
     そして、御朱印の御長持のお取次ぎと御番士を差し添えて、御用部屋に差出し、勝五郎が、対印切の錠を明け、
     老之進が、御朱印御領知御目録を、当御代御頂戴すること。

     並びに、御写も同様にして、味膳前に、>服紗を敷き、御朱印一通。
    (延岡より参った上包みは、合紙ども痛みがあるので取り換える)

     御写を引き合わせ、御領地御目録も同様に引合せ改めてから、
     以上の 御朱印が十通、御代々の順に重ね、中を一つにして、結ぶこと。

    (大美濃紙六つ切りを三通り。四通りで、幅四分あまりになった。)
     新規の箱に入れ御領知御目録は、これまた、御朱印入れたその脇に入れて、紐で結うこと。

     服紗に包み、台に戴き、御朱印の御写も十通、御代々の順に重ね、上下、二ヶ所、紙にて結うこと。
     (大美濃は前と同様)惣上包に包み、新規の箱に入れその上に、御領知御御目録御写しを入れ、紐で結ぶこと。

     御目録は、(月日を認め入れ改め済である)、紐にはさみ服紗に包み、酒塗(?)御長持ちに右2箱、
     並びに、据台共に、入れて、勝五郎が錠を卸ろす。

     御用番の平兵衛と勝五郎が合対印して、絹油を多く掛けること(花色緒が、古は有った。御紋所は、2つある。)
     お取次ぎ御番士が、渡して、御広間に差し置くこと。
    (御長持の採り台に、二つ同じように、納めて、それを、御広間に置き廻すこと。)

   1)明日、御朱印の御差出しなので、百姓町様(六本木付近)に、御付の使者をだすこと。
     御留守居一人は、品是(ココ)に付きっ切りなので、お取次ぎの内、相木森之助が、
     明日付けで、御留守居代理にお雇い仰せ付けられ、

     然るべき、その段を、今日呼び掛け、御用部屋に伝言した。

     但し、森之助は、外出しており、帰宅が延引している(遅れている)ので、月番宅にて、言い渡した。


      <伝言内容>
          相木森之助へ
        明日付け、御留守居代理の お雇いを仰せつけられた。


前日に、本番の手順を確認する。領土安堵する御朱印は、歴代将軍からの10通あって、それぞれに、写しがある。
それらをすべて、幕府に提出するのである。今日確認した後、長持ちにいれておくが、そこで間違いがあってはならない。

長持ちの鍵は、御用番の平兵衛と勝五郎の2人の鍵が無ければ明かない仕組みになっている。
最も大事な領地安堵の証である。失うわけにはいかない。これを失っては、御領地の取り上げになるのは間違いない。
藩士たちの緊張が伝わってくる。 金沢此面という武士の名が突然出てきた(彼はそれほどの上級武士ではないと思われる)。
彼は、使者代理に任命されていることから、式典担当者だと思われる。彼の服装は、服紗(絹の2重になったもの)の小袖で麻の裃姿である。今回の儀式では、特に重要な役割を担う様だ。

百姓町様という地名(百姓町)が出ている。これは、現在の六本木付近の旧地名である。
延岡藩の下屋敷がある地域であることから、そちらへも行列が通行をするのかもしれない。
町内会への気配りをするのであろうが、それにしても、地名に様をつけている点は奇異に思われるかもしれないが、
延岡藩の記録ではよく見る表現である。

【6】 資料

(1)内藤家資料:明治大所蔵:安政6年万覚書=1-7-147

    

このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

       このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。

         内容に反映させたいと思います。

         また、御了解を頂けたら、
         御意見のコーナーを作りたいと思います。

         どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
       メールはこちらから御願いします。

     e-mail : ここをクリックして下さい
      




inserted by FC2 system