桜田門外の変(1):井伊家からの急養子

No.6> 桜田門外の変(1):井伊家からの急養子
   井伊直弼は延岡藩主になれなかった

今回のトピックス

  延岡藩の6代藩主-政順の容態が悪くなって、急に養子を決め井伊家14男-直弼15-男直恭(幼名 銓之助)を天秤に載せて、
  いずれが次期延岡藩主にふさわしいかの面接をしたのである。そして、直弼は落選してしまった

  ところが、直弼は、その後、彦根藩井伊家の藩主が転がり込んできて、井伊家であるがゆえに大老にまでなってしまったのである。
  延岡藩主にもなれなかった男が、大老という、幕府のトップに立ったのである。

  それとも、延岡藩に見る目が無かったのか?
  延岡藩では、急いで、養子を決める必要があった。検討する前から、延岡では、弟の方に決めていたのである。

  延岡藩の資料から初めて分かった新事実である。  (2013.10.8)


【1】序:延岡の判断が日本史を変えた

その後の日本の歴史に大きな影響を与える判断が、延岡藩で行われていた。
桜田門外之変(1960年)の最大の当事者である井伊直弼が、もしも、大老になっていなかったら、日本の歴史がどう変わっていたか、それを考えて頂きたい。歴史上の“if”を考えてみても、歴史をもう一度変えることは無いのだけれど、反省を含めて無意味ではない。

もちろん、不確定要素は残るが、安政の大獄桜田門外の変は、起きなかったのは間違いないだろうし、開国は遅れたかもしれない。偏狭な攘夷論者である孝明天皇に引きずられたことも想像に難くない。その“if”が成立していたら、日本史は少なからず変わっていただろうし、少なくとも、延岡は大きく変わっていただろう。

 その、“if”が、延岡が原因で起きていたかもしれないのである。また、井伊直弼が、大老になり、結果、桜田門外之変が起きたことで、延岡藩は、その後、大きな影響を受けていたのである。維新直前、そして、維新後の延岡は、つらい目にあうことになる大きな原因であると、私は考える。それらは互いに連結しているが、見かけ上、4つの不幸が繋がったように見える。

延岡の不幸連鎖とは、

1) 井伊直弼が延岡藩主にならなかったこと。もし、井伊直弼が延岡藩主になっていれば、安政の大獄は起きなかった。そして、桜田門外之変も起きなかった。日本は違う歴史を歩んだろう。そして以下の不幸の連鎖は起きなかったかもしれないという意味で、延岡史も変わったであろう。

2) 井伊直弼が延岡藩主になれなかったが故に、彦根藩主になれ、その結果、大老になってしまった。そして、桜田門外之変が起き、その結果、実弟である延岡藩主が、働き盛りに、引退せざるを得ないことに巻き込まれた。

3) その結果、万延、元治、文久、慶応までの激動期を迎える時に、10歳の殿様(8代-政挙)がつかざるを得なくなった。井伊直弼が延岡藩主であったなら、激動期に、延岡を違う方向に導いたろう。また、桜田門外之変が起きなかったら、藩主政順は、その地位にあり、もっとましな判断を示せたのではないだろうか。幼君とその周囲の判断力の無さから、第一次征長、第二次征長、鳥羽伏見の戦で、徳川側についてしまった。何とか、言い逃れをして、新政府側につかせてもらったが、そこで、従順さを強調するために、身を切って、痛々しい努力をするのである。延岡に、堀などの城の雰囲気が残っていないことの原因である。

4) その痛々しい努力の歪故に、旧藩士たちが、明治10年の、西南の役で、西郷隆盛側に着いてしまい、延岡の最後の戦での西郷側の1/3は旧延岡藩士ということになった。そこで、大敗し、西郷軍は鹿児島へ逃げ帰って行った。延岡から加わった兵士は、残され、そこで降伏した。多くの若者が傷つき、そして指導者であった旧家老は、数年の獄に繋がれたのである。またもや、反明治政府の立場をとってしまった。

複合的に延岡に大きな影響を与えることになる桜田門外之変をその前段階から、延岡史を顧みよう。そのことは、日本史を見直すことにもなる。
  ここで、最後の藩主、政挙の名誉のために、記しておきたい。彼は、激動期は、幼すぎて、的確な判断ができなかった。しかし、明治23年に、住居を、東京から延岡に完全に移し、延岡で、教育のための私学を作り、鉱山事業、電気事業を興し、今の旭化成を起こす基を作ったのである。延岡の中興の祖である。 今回のレポートは、桜田門外之変の当事者である井伊直弼が延岡藩主になりかけたところを、内藤家の資料をきちんと読んで正確に紹介しよう。

【2】天保5年(1834年)の春から夏

(1) 当時の延岡藩では

その時、藩主は、第6代、内藤政順(まさより)の代であった。政順は、先代 政和が20歳で急逝したため、10歳の時に6代藩主として家督を継いだ(文化3年=1806年)。そして、文化8年(1811年)に、彦根藩主 井伊直中の娘(井伊直弼の姉である!)、充姫 しげ子(1800〜1880)("しげる"という漢字が表せないので、平仮名にする)を正室として迎えている。当時、政順は、15才、しげ子は、11歳であった。しげ子は、出産記録はある(文政2年=1819年=19才)が、その子は大きく育たなかったようで、結果的には、実子の後継者はなく、いつか養子をとらざるを得ない状況であった。
 肝心の天保5年(1834年)のことである。延岡藩主の政順は、39歳であったが、体調を崩し、危険状態になった。ところが、延岡藩は、まだ後継を幕府に届けていなかったのである。このまま、後継者が決まらず、政順が死去すると、延岡内藤藩は取りつぶしなる。
緊急に、後継ぎを決める必要が出てきた。それで、結果的に、政順の妻であるしげ子の末弟である、銓之助(井伊直恭=後の政義)が養子に急遽決まったのである。

(2)急養子の嘆願書

まず、延岡藩は、天保8年8月に、幕府に対して、正式に養子の手続きをしている。養子には、彦根藩13代藩主-井伊直中の15男-銓之助(幼名)であった。当時の彦根藩では、直中の3男-直亮が14代藩主となっていた。延岡藩から公儀への、急養子の奉願書を最初に見よう。(資料1)
   図2> 資料1:「急養子奉願覚」(天保5年8月)
大意は、
「急養子嘆願書
急養子 井伊銓之助 年 15才
私儀、去年6月、在所(延岡)への御暇以後、八月中旬より、杓病の疝癪がでたので、木江雲悦 また 多記安叔 その外 手医師ども 薬を用い、少々,快方にはなりましたが、いい時悪い時(出来不出来)があり、今年6月に、また、疝癪がでてきました。その上、差込み後の疲労があって難儀しました。

野間廣春院の薬を用いて、差込みは、少々良くなりましたが、とにかく、心臓の下に瘤?、動気が強く、抑えることができず、 先月下旬より、野本宗春院の薬をもらって、少しよくなったが、この節の秋の暑さ、障り、気分閉塞、食餌は進まず、杉本忠温や野間玄縁にも 容態をみるため、診断をしてもらったが、疲労、甚だ強く、本復 する体になりません。

しかし、男子がないので、もし、死去すれば、由緒の問題も有り、井伊掃部頭様の弟、銓之助を急養子に指名し、家督を継ぐことに間違いありません。
右の者以外に、同姓、実姓、親類、遠類の内、両方の思いの相当する者がいませんでした。
銓之助を急養子にする件を、お願い奉ります。以上。 天保5年8月」


ここで、注意すべきことは、この正式嘆願書が、天保5年8月であることである。これは、後述するように、とても微妙な時期で、八月の何日だったのかが重要なのである。もう一つは、医師の一人の野間廣春院は、徳川幕府の御抱え医師であることである。幕府から派遣されてきたのであろう。この嘆願書には、書いてないが、天保5年の5月ごろには、参勤交代で、既に江戸に到着していたのである。廣春院は、延岡藩の江戸屋敷に来て診察をし、薬を調合したのであるが、それが、天保5年6月のことである。多分、幕府からの指示で、病状の深刻さを調査しに来たのであろう。
第3に、親類、同姓等に打診したが、よい養子が見つからなかったとある。実際、別の資料によると、内藤家の分家である挙母藩(現在の愛知県豊田市を領地とする)に、養子対象者について、何度も問い合わせをしているのであるが、見つからなかったのであろう。

(3)井伊直弼は延岡藩の藩主になる目はあったのか?

当時の井伊家では、第13代藩藩主-直中の3男の直亮が、第14代藩主となっていた。直弼の異母兄にあたる。他の兄たちは、死去するか、他藩へ養子として出ていっており、井伊家では、直亮の後継者である 11男―直元 を除くと、残っている男子は、14男-直弼(当時19歳)15男-直恭(なおやす=幼名 銓之助、当時14才)だけである。直弼と直恭としげ子は、ともに、直中の側室 お富の方の子供であり、同じ母をもつ本当の兄弟である。直弼と直恭は、年齢も最も近い、最も若い兄弟二人である。(しげ子は、正室の子であるとの説もある)。直弼は、17歳の時、井伊家のしきたりで、300俵の宛扶持をもらって、彦根城を出て、屋敷を構え“埋木舎”(うもれぎのやかた)と称して、不遇をかこっている最中であった。

問題の天保5年7月に、江戸にいる藩主である兄の直亮から、直弼と直恭の2人に急に江戸へ上がってくるようにとの指示が届く。 延岡藩の次期藩主が約束される養子縁組のための面接である。そして、直弼の期待に反して、延岡藩は、次期藩主として、直恭(14歳)を選んだのである。
井伊直弼はなぜ選ばれなかったのか、銓之助の方が優秀だったのか?
井伊家側の資料では、直弼(幼名 鉄之助)と直恭(幼名 銓之助)は、対等に選考に上がっているよう扱われて、小説等にそのように扱われているが、延岡側の資料では、直弼は、最初から、全然、目が無かったのである。このことは、このレポートが初めて明かす事ではあるまいか。
天保5年の3月の段階で、井伊家との間で、養子の話が内内に進んでいたのである。(資料2)

    図3> 資料2:「掃部頭様内内相談」(天保5年3月)
大意は、
「備後守は、御養子をとりたいと兼ねて思ってはいたけれど、まだ、壮年なので、御見合は据え置きにしてきたが、御家の事を大事と考えて、この度、井伊掃部頭様の御末弟 銓之助様の事、御養子に取結びたく、御考えながら(・・)、いまだ、御相続もしておりませんが、御前に御願を進めましたところ、掃部頭様()、御相続をさせるべく 御振合もあるかと、このたび、御二方様に御願申し上げます」

ここで、御振合とは、面接でどちらがよいかを決定することである。どうも、最初は、養子をとるなら銓之助と決まっていた節があるが、どういう理由か、二人という話が突然出てきたように見える。 この話が、天保5年の3月なのである。直弼の方は、名前すら出てこない。他の資料をみても、最初から、養子の選考には銓之助の名前しか出てこないのである。もともと、井伊直弼の可能性は低かったのであろう。
面接の評価を記したものは見つかっていない。

(4)その後の井伊直弼の運命は?

直弼は、翌年8月まで江戸に滞在し、傷心のまま彦根へ下がっていったのである。
彦根の片隅で、不遇をかこち、唯一残っていた男子である直弼は、次期藩主候補だった直元が、家督を継ぐ前に急逝したので、直弼が、兄直亮の養子となり、後継者に指名され、その後、1850年にようやく、彦根藩15代藩主になり、ついに日の目を見ることになった(当時、45歳)。代々の井伊家藩主がそうであったように、直弼も、家筋によって、周知のように、大老となって、安政の大獄、桜田門外の変へと駆け抜けていくことになる。

(5)銓之助は養子に決まったが

天保5年8月に、養子縁組が正式に決定し、別の資料から、手続きは、8月16日に行われたと思われる。銓之助は、その後、内藤政義と名前をかえ、天保5年10月13日に、養父政順の死去に伴い、家督を継いだと公にはなっている。急養子の願書がタッチの差で先に出され受理されたことで、滑り込みセーフで延岡藩は取りつぶしにあわなかった。

政順は、同年8月22日に亡くなっていたのである。8月23日には、50日後(10月13日)に家督相続を行うと宣言している。8月26日に出棺し、大々的に葬式をしているから公になっていたはずである。そのところの話は、別のレポートで触れようと思う。天保5年の6代目から7代目への交代のどたばたを整理する。小説を含め、巷間では、急養子の手続きをした時は、政順は亡くなっていたのではないかという話がされているが、余裕ある手続きの時間を見ると、このレポートに述べるように、手続きは間に合った事に間違いないと結論する。どうしても、小説は面白い話の方を好むのである。

このいきさつを見ていて、不思議に思うことは、藩主政順が、なかなか養子を決定しないことである。家来たちが、はらはらしながら、殿様の決心を待っている。

井伊家の銓之助の名前が上がり、井伊家も養子に納得しているという状況で、銓之助の面接をした後でも、政順が、最終的決断をしないのである。日にちは、不明なのであるが、政順が、やっと銓之助に決めたことを示す資料がある。彼の病気の進行状態から、7月末ごろの資料と思われる。家来たちは、奥様(?子、後の充真院)に、養子はだれがよいかと尋ねてもいるが、?子は、「御意(殿の意思)のまま」と答えている。

政順は、できたら、井伊家からは養子をとりたくなかったのであろう。自分の病気が回復することを願ったし、自分の子供を持つことを期待もしていたろう。ここからは私の想像であるが、自分が亡くなった後、井伊家から養子をとったら、自分の妻が、藩主の養母として権力を持ち、井伊家の支配下になることを心配したのではあるまいか。
8月16日の別の資料では、
「今日、養子が銓之助様に決まった。表向き、今日初めて聞いた振りをせよ。部下にもそうふるまう様に」と幹部に指示を出している。8月26日の別の資料では、
「家督相続の事を、外で、兎に角、話しなさい」と指示を出している。

【3】 その後の政義

延岡藩は、面接で、年下の直恭(銓之助)の方を、藩主としてふさわしいと選んだのである。延岡藩の資料を見ると、先述したように、井伊直弼に延岡藩主になる可能性は皆無だった。
直恭は、内藤政順の養子となり、政義と改名した。天保5年(1834年)10月13日、養父 政順の死去により、家督を継ぎ、7代藩主となった(当時、14才)。同年12月に、従五位下能登守に叙任された。次のレポートで述べるように、桜田門外之変の責任をとって、壮年期に、家督を10歳の養子に譲って退く。そして、明治21年(1888年)11月18日まで、長生き(享年69才)をしている。

【4】充真院

政順の死去により、?子は、34歳にして、未亡人となり、充真院と称する。その後、自分の弟が、延岡藩主になり、しかも、もう一人の弟、直弼が、時の大老になっているのだから、延岡藩内での、充真院の発言権は当然増していく。江戸屋敷内では、充真院が、種々、指示している様子が、内藤藩資料内に見受けられる。直弼、政義、充真院の兄弟は、文化的レベルが高く、彼女も、文才に長け、その後、延岡-江戸間を2往復し、その紀行文や、延岡滞在中の記録など面白い文を残しており、最近、江戸時代の物言う女性として注目を集め始めた女性である。

【5】資料

  資料1>2-1家-61:「急養子奉願覚」(天保5年8月)
  資料2>2-1家-58-7-(オ):「掃部頭様内内相談」(天保5年3月)


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