第69話:延岡藩士が町民や寺社奉行から借金返済を迫られる 

No.69> 第69話:延岡藩士が町民や寺社から借金返済を迫られる

        借金を返せと延岡藩士を町奉行所や寺社奉行所に訴えた例


 
今回のトピックス


     懐事情が苦しくなった延岡藩士が町民や寺社から借金をして、返却できなくなった。
     それぞれ、町奉行所、寺社奉行所に訴えられた。個人の借金問題から藩の関係する問題となった。
     藩が借金の肩代わりをせざるを得なくなった。

                                         (2019.8.26)


【1】 序

安政六年(1859年)の事である。
実は、これから、2度の長州征伐と鳥羽伏見の戦とそれに続く官軍側の戦でもっと大きな出費が続くのであるが、
もうすでに、延岡藩の財政は火の車であった。

そして、当然、藩士、特に、江戸詰め藩士は、苦しい生活を強いられていたのだろう。
藩士が、町民等に借金をしたが、返却できず、町民が、御恐れながらと町奉行や、寺社奉行に訴えた資料が見つかった。

武士は、強い立場だから、町民からの借金などは、踏み倒せるのかと思いきや、町民は強い財力を背景に、既に、弱い立場ではなくなっていたのである。
落語では、町民が町民を相手取って、町奉行に訴える話は、たくさんあるが、武士を訴えた話は無いのではないか。

その意味で、珍しい資料となるのではないか。
第一部は、町民(家主)から金と衣類を借りて、返さないために、町奉行へ訴えられ出頭命令が出た例である。
第二部は、寺社から金を借りたが、返せなくなり、寺社は、寺社奉行へ訴えた例である。

【2】 町奉行とお白州

1) 町奉行とは

江戸町奉行所は、江戸の行政と司法を取り仕切る部署である。
そのトップである奉行は、現在で例えると、東京都知事であり、警視庁長官であり、裁判所長官でもある。

寺社奉行勘定奉行と並んで三奉行といわれ、評定所を形成し幕政にも参加する重要な立場である。
種々の奉行は、寺社奉行を除いて、通常は、3000石程度の旗本が付く場合が多い。

芝居の世界で有名な、大岡越前(正確には大岡越前守忠相=タダスケ)は、8代将軍吉宗の時代の南町奉行であった。
彼は、享保2年(1717年)2月3日 から 元文元年(1736年)8月12日まで、20年近く在籍した。通常は数年程度なので、異例である。

そしてもう一人が、遠山金四郎こと、遠山左衛門尉(サエモンノジョウ) 景元(カゲモト)は、北町奉行から、南町奉行の両方を経験して、
弘化2年(1845年)3月15日 から 嘉永5年(1852年)3月24日)まで在籍していた。
ペリーの来航の前年までその職にあったのである。

南町奉行所は、現在の、有楽町の駅前にあった。そして、北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口付近にあった。
北町奉行と南町奉行は、1月交代で任務にあたる月番制である。

町奉行の組織は、奉行の下に、南北の奉行所に各25名、合わせて50名の与力と、その下にそれぞれ100名の同心がいた。
(参考>当シリーズ:#24)

2) 裁判、つまり、通称“お白州”について


江戸時代の江戸において、裁判数を示す。
享保3年(1718年)の1年間に、3奉行所が受けつけた裁判数は、3万5千件以上あった。そしてその内、3万3千件が、借金がらみの訴えであった。

現在の日本での裁判数は30万件ほどというから、人口から考えて、異常に多い数である。
これらは、今でいう民事裁判であるが、なぜこれだけ数が多いのか。それは、訴えることに関しては、費用が発生しないのである。
敗訴した側が諸費用を負担する規則であった。

武士は、士農工商の頂点に立ち、切り捨て御免という特権もあるというので(実際は、この特権を行使するのは難しい)、
町民が武士を訴えるのはご法度のように思えるが実際は、逆で、町民が武士を訴えることは日常的で、殆どの場合、町民が勝訴したのである。

世事見聞録』(文化文政の時代評)によると、「双方に五分ずつの失がある時は、先ず、武士が負け町人が勝なり。
もちろん、武士は十の内、9ツまで理屈がよろしくとも、最後の1つに私欲が見えたらば、その一つにして負けるなり」(一部現代風に書き換え)。

町人が武士の行列に割り込んで借金の取立をしたり、門前や玄関に詰め寄ってまで催促していたこともあった様だ。
奉行所は右第一図に示す様になっていた。最上段に、奉行、次段に吟味与力と秘書役の目安方がならぶ。
通常の裁判では、殆どは、吟味与力が罪状や訴訟文を読み上げ、質問をする。

落語や映画と異なり、奉行は、最終的な判決のみである。
地面には、砂利つまり白州が敷いてあり、原告や被告、そして、町役などの関係者は、砂利の上に敷かれた筵(ムシロ)の上に座る。
図にはないが、砂利の上には、蹲踞(ツクバイ)同心や、警護の者もいる。これは、第2図参照(インターネット内で探した図。ドラマ等のシーンか)。

町奉行が扱う裁判の対象は、町人や百姓だけでなく、武士も対象になるが、大名や旗本は対象外で、それらの家来(陪臣という)や、浪人までに関する裁判を扱った。

今回の例では、延岡藩の藩士も対象内である。原告、被告が、武士の場合は、砂利の上の筵上ではなく、板の段に座った。


落語でも、大岡越前がらみのお白州のシーンは多い。例えば、「大工調べ」もその一つである。
原告、被告は、待機室にいて、呼び出しがかかると、白州に進む。奉行が登場する間に、先触れの「シー」という声がかかる。
これを、警蹕(ケイヒツ)という。

そこで、(落語では)奉行が発言する。

   「 神田三河町 町役 家主 源六
     願人 源六店 大工職 与太郎
     差し添え人 神田堅大工町(タテダイクチョウ)矢本金兵衛地借(ジカリ) 大工職 政五郎、
     ”付き添いの者、一同そろったか?” 
     ”そろいましてございます”」      と続く。

【3】 延岡藩の藩士が町民から訴えられて町奉行へ出頭

延岡藩の武士が、家主から借りた借金を返済しないということで、家主から町奉行所へ訴えが出て、
当の延岡藩士に呼び出しが来た。
まず、訴える側は、家主と五人組の連署で訴える。

ここで、家主というのは、借家の大家という意味ではなく、ある地域の責任者であり、今でいう区長さんのようなものである。
町人相手の統治組織として、江戸に3名しかいない町年寄をトップに、町名主、その下に大家がおり、これらを町の3役と呼ぶが、
町奉行からの布令は、この3役を順に伝わり、大家から一般町民へつたわるのである。

このように、大家は町人への連絡網の重要な責を担っていた。
今回は、原告(願人)が家主であるから、重複している。

訴状は、目安というが、それが町奉行に受理されると、
町奉行所は、何月何日に出頭するようにという日付けを裏書きした書状を被告に出す。

今回の例は、被告本人と、延岡藩の留守居役である成瀬老之進が同道して、出頭し、裁判の日時と条件等を聞いたのである。
被告は、白州へ出頭する時は、共番(番となっている従者)と草履取を連れてきてよいとある。
また、それまでに、示談(熟談)するように促している。



概訳をしめす。

   「1.朔日(1日)の場であったように、橋本忠蔵の儀について、町奉行の池田播磨守様(南町奉行)より、
     御呼び出しに付き、御留守居の成瀬老之進が同道し、四時までに 役宅に罷り出た。


    1.右に付き、着服人等、左の通り、
        麻布
            橋本忠蔵
            供番   壱人
            草履取  壱人

    1.右に付いての通り、罷り出た処、目安方と与力が 出席にて
      今般、橋本忠蔵に、掛け(貸し)た 本所林町三丁目の家主の治兵衛より 出訴があった。 
       預け金=五両と
       品物壱ツ 

      訴状の通り、相違いないか。当十一日までに熟談いたすように。
      若し、それまで、 不行き届きがあったならば、十二日まで 答書を、持参し、差し添えて出す様に。

      一同 罷り出るべき旨を申しわたされたので、右の者を引き合わせ 
      相違無く、御座候に付き差し済まし(金等を返却したか)、調印にて、御請け書を 差出して、(
      奉行所を)引き取ってきたことを、月番まで、申し達した(報告書を作った)。

    1.右 願人よりの訴状は 左の通りである。

      古いことではありますが、書付をもって、御訴詔を達し申し上げます。

    1.本所林町四丁目の 家主 治兵衛 申し上げ奉ります。

    1.去る午年(安政5年)11月中に、内藤右近将監様の家来 
      橋本忠蔵様に、木綿小紋男布子(ヌノコ:木綿の綿入れ)を1枚
      並びに 金五両を相預け置き、右一札(証文)を取っております処、

      右金子に物が、当三月中に、入り用(必要)になりましたので、
      相渡し呉れるように、度々、催促仕りましたが、
      彼是、品をよく(色々)申し延べて、言い逃れをした。

      更に、埒(ラチ)が明かないので、これから、取り詰め(直談判)に及び、掛け合いましたらば、
      不当の挨拶(言葉)を言ってきたので、
      恐れながら、難渋至極になりましたので、是非も無く、今般、御訴詔を申し上げ奉るしだいです。

      何卒(ナニトゾ)、御慈悲をいただき、理にかなうとして、
      (被告を)召し出され、右に預けておいた金 並びに、品物を 早々に
      渡して呉れる様に、御利解(理解)を 仰せつけられ、(品物を)下し置き成されます様に、
      ひとえに、願い上げ奉ります。以上

         本所林町四丁目
              家主
         安政6未年11月5日   

           願人   浩兵衛
           五人組  作兵衛

         内藤右近将監様家来
           相手  橋本忠蔵 様

      安政5午年11月15日
        1.金 5両也
        1. 木綿小紋男布子一枚

     御奉行所様 


後半は、願人からの奉行所への訴状そのままの写しとなる。当時の訴状の書き方がよくわかる例である。
延岡藩士の橋本忠蔵は、1年ほど前に、家主の作兵衛から、金5両と木綿小紋の男布子の着物1着を拝借したが、
催促に応じず、返却しなかったのであろう。家主が返せと訴えると、言を左右し、最後は、罵詈雑言を浴びせたという。

貸した金、借りた金とは、「預け金」、「預り金」なのである。延岡藩士が訴えられたので、延岡藩が代替して、支払って、和解したようである。

この時の町奉行は、池田播磨守(正確には池田播磨守頼方(ヨリマサ))である。
彼は、安政5年(1858年)10月9日 から文久元年(1861年)5月26日まで在任している。

安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も受けている。
当時、寺社奉行:松平宗秀、北町奉行:石谷穆清、大目付:久貝正典、目付:神保長興らと共に勤王の志士の裁断を担当した現場の指揮官である。
彼は、江戸町奉行を3度も歴任している。他者に例のないことである。

【4】 寺社奉行の役割と、寺社による金貸し

1) 寺社奉行とは

将軍直属の組織で、定員は4名前後、自邸が役宅となり、月番制である。
原則として一万石以上の譜代大名が任命され、奏者番を兼任していた。
3奉行と言っても、他の奉行は、旗本が担当するのに対して、寺社奉行は大名が担当するので、格の上では、3奉行中、寺社奉行が筆頭格である。

寺社奉行に任ぜられた者は、その後、大阪城代や京都所司代といった重役につくこともあり、
最終的に老中まで昇り詰めるなどエリートのコースとなる。

社寺領以外にも、関八州以外の複数の知行地にまたがる訴訟も担当した。
主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制であるが、門前町民や社寺領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。

寺請制度の下、当時の庶民の戸籍ともいうべき宗門人別改帳は社寺が全て管理していたため、
結婚と離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)の管理、移住、旅行(通行手形の発行)という点については、
現在の法務省が担う行政も担当していた役職である。

1) 寺社絡みの借金とは

近世における寺社の金融事業(利貸事業)は、寺社維持のために朝廷や幕府から下賜された修復料、祈祷料、祠堂金(銀)や、
寺社が勧進などによって募った金銭、あるいは、檀信徒・氏子などから、寺社へ喜捨された供養料、祈祷料などを運用原資として、
名目金貸付、祠堂金貸付という名称で幕府の保護のもとに行われていた。

熊野三山とか、芝増上寺とか上野寛永寺など超有名寺社だけでなく、名もない小さな寺社でも少額金を元手に貸し付けを行っていた。
自社による金融事業は、主に、寺社の修復金調達の手段として行われていた。

幕府による寺社助成策という側面も持っていたので、返済が滞ると、厳しい処置が下された。
名目を逸脱して、私利をむさぼるものも少なくなかったので、庶民からは厳しい目で見られた例も少なくない様だ。

寺社による貸付先は、檀家や近隣の百姓などが多いが、今回の例の様に武士も対象になったのだろう。
寺社の金融事業での貸付先からの回収では、まずは、寺社が厳しい取り立てを行うが、
それでも、解決を見ない時は、寺社奉行へ訴えるのである。

【5】 延岡藩の藩士が、寺社奉行を介して督促を受けた



概訳を示す。

   「 11月7日

     1.朔日の場であった通り、荒木小伝次、大平蓮大夫、猪狩銀蔵の儀について、
      今日、寺社奉行である松平伊豆守様より、御呼び出しの処、小伝次と銀蔵については、
      痛所に付き、両人の名代を兼ねて、蓮大夫が罷り出たところ、

      藤里遠魔謔閨A借用金について 直済方に 相済み候という一条を(収めるために)、
      直済方と 対談する様にとのことであった。

      それについて、(延岡藩の)寺社役の石井右門が 申し聞いた処、願人と 対談の上、
      来る25日までを目途に仕るように、その点を右同人に 申し達し、
      且つ亦、小伝次と銀蔵については、

      金を連印の上、一ト通りにて、分借はせずに、蓮大夫が一人にて、
      亦、用を仕りという点も、申し達して、引き取ってきたことを 報告しました。


ここでも、延岡藩が3藩士の借金を肩代わりしたのであろう。その時、3人別々ではなく、一人にまとめて、支払った。

寺社奉行である松平伊豆守とは、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主である松平信古(ノブヒサ)(=大河内信古。在任期間=1859年-1862年)のことである。
先にも紹介した様に、町奉行や勘定奉行と異なり、寺社奉行である彼は、ただの旗本ではなく、7万石の大名である。

同家は、もとは、大河内家であり、維新途中から、大河内家へ変えている。
彼は、越前鯖江藩主間部詮勝の次男(間部詮信)として江戸で生まれたが、嘉永2年に吉田藩主松平信璋の没後婿養子に迎えられ、
同26日に信古と名乗る。同年11月15日に家督を相続した。上記の寺社奉行の後、文久2年(1862年)6月30日に大坂城代に登用され大坂に向かう。

大坂城代在任中は幕末の動乱期で、約200年ぶりの将軍上洛や生野の変、第一次長州征討など様々な難問が山積していた時期であった。
慶応元年(1865年)1月に江戸に召し出され、2月15日に溜間詰格となる。
老中を経験していない信古が溜間詰格に任命されたのは異例の抜擢である。

慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、同行していた慶喜がひそかに大坂を脱出すると信古も大坂を離れ、
陸路を経て吉田城へ帰城する。その後、新政府軍に加わり、家名も「松平」から「大河内」に復姓した。

【6】 資料

   1) 延岡藩資料:明治大所蔵:万覚帳1-7-2-147(安政6年=1859年)
     2) 武陽隠士著:世事見聞録(岩波文庫)のp-210
     3) 横倉辰次著:「江戸町奉行」(雄山閣)

    

このページの先頭に戻る→ 

メインページへ戻る

       このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。

         内容に反映させたいと思います。

         また、御了解を頂けたら、
         御意見のコーナーを作りたいと思います。

         どのレポートについての御意見なのか一筆の上、
       メールはこちらから御願いします。

     e-mail : ここをクリックして下さい
      




inserted by FC2 system