第68話:江戸城本丸の消失時と将軍の引越しの記録 

No.68> 第68話:江戸城本丸が焼失時とその直後の幕府の対応

        出火時の記録と将軍の西丸への引っ越しと各藩からの御機嫌伺のルール


 
今回のトピックス


     安政の大獄の最中に江戸城本丸が焼失した。将軍は西の丸へ退散した。
     延岡藩の屋敷の近くの大名屋敷から火が出た。

     延岡藩の対応はいかに。江戸城の防火体制と火消し組織も紹介する。

                                         (2019.7.28)


【1】 序

政治的にもそして、天変地異においても激動の時代になった安政時代の、安政の大獄の真っただ中の時代である安政6年10月17日に、江戸城本丸が全焼した。

江戸城内で火事が起きた場合、誰が消火活動にあたるのか、大名たちが支援に来るのか、そして、我が延岡藩はどのように対処したのか、
などに興味を持って、今回の報告とする。

丁度、この頃、延岡藩の下屋敷の有る麻布にある別の大名屋敷から出火するという事件がおきている。
この時、延岡藩の消防組織だけでなく、縁戚の大名家からの救援の消防組織が来ている。

この時は、延岡藩の下屋敷への延焼はなかったが、そこでの、救援隊へのお礼の儀式も面白い。
今回の資料には、井伊直弼掃部頭がよく登場するが、彼は、この4か月ちょっと後に、桜田門外の変で暗殺される。

【2】 火消しの組織:大名火消と定火消


江戸時代の江戸は、時々、江戸の町をほぼ焼き尽くすような大きな火事がおきている。
それは、大名にとっても、庶民にとっても大きな損失である。

右に、江戸城だけで記録に残っている延焼の歴史を示した。

そのため、火事には特に神経質になっており、そのための消防組織が出来上がっている。
江戸の消防組織には、大きく分けて、3種類の消防組織がある。

幕府直轄の定火消、大名が抱える自衛消防組織である大名火消、そして、町民相手の火消しである町火消である。
町火消は、町奉行であった大岡越前の時代に、「いろは48組」として形成されているが、今回は、対象外である。

幕府直轄の消防隊である定火消は、最大時には、15組となったこともあるが、町火消が充実してきたこともあって、
次第に縮小され、10組の時代が長く続いていたが、今回の江戸城炎上(安政6年)の直前の、安政2年に2組が廃止されていたので、
今回の事件時には、8組で構成されていた。

1組は、5000石級の旗本をトップに、下に与力、その下に実働部隊として、1組100名程の臥煙(ガエン)がいた。
落語の「火事息子」の主人公は、この臥煙である。

実際の火事場では、武士嫌いの町火消と臥煙の衝突がしょっちゅう起きた様だ。
定火消は、江戸城を取り巻くように、飯田町、佐内坂、お茶の水、麹町、駿河台、八重洲などに火消し屋敷をおいて、そこで生活をしていた。

また、大名が抱える大名火消は、基本、自分の屋敷を守るためのものである。
譜代大名(多くは10万石以上)の中には、江戸城や寛永寺など幕府の大事な施設の消防を割り振られることもあった(それらを所々火消という)。

また、各大名屋敷は、自分の屋敷周辺(例えば8丁など)の範囲の消防(これを8丁火消という)と、ある方角を担当する(方角火消)等の義務も追っていた。
守備範囲の火事なら、各大名の火消しは出動しなければならないが、自分の屋敷が火元の風下である場合は、自分の屋敷防御のために出動しなくてよかった。
各大名は、自前の火消しを自慢する意味もあって、藩ごとに派手な装束をしていた。
中でも、加賀藩の火消しは有名で、「加賀鳶(カガトビ)」といわれた。各藩邸には火の見櫓があった。

延岡藩の屋敷を描いた浮世絵にも火の見櫓が見える。(レポート1を参照)

【3】 江戸城内の防火体制


江戸城内の防火体制はどうなっていたか。本丸は、幕府の成務を行う表と、将軍の寝屋である中奥と女どものいる大奥があるが、
表と裏それぞれに防火体制があった。裏は女による「お火の番」がある。表には、「表火之番詰め所」があった。

出火の時は、半鐘や太鼓をたたいて火事を知らせる。これらの知らせによって、寝ずの番の坊主が目付に知らせる。
将軍がたとえ大奥に居ても起こすことになる。通常は大奥には男は入れないから、大奥へのカギを開けるのにも大変な手続きがある。

正門である大手門で火事を知らせる太鼓の報告を聞いて、大手門の前にある酒井雅楽頭の上屋敷の辻番所へ留守居が出向いて、
定火消の到着を待つことになっている。江戸城の火事には、定火消の他に、近隣の町火消も駆けつけることになっている。

【4】 江戸城炎上


先の江戸城炎上を記した表にもあるように、安政6年10月17日に、本丸の中央部から出火した火は、
広敷、玄関、櫓、多門を全て焼き尽くした。

江戸城の概略は、当レポート20でも報告したが、全体をイメージするために改めてここで示す
(但し、安政時代には、天守閣は存在しなかった)。

江戸城の火事の様子を記す延岡藩の上屋敷の安政6年10月17日の日誌を見る。

概訳を示す。

   「   10月17日(安政6年)

    今夕、八半時辺りに、御本丸の御中のあたりより、出火いたしたところ、
    御座所向きのほか、御玄関、御広敷、残らず(燃えて)、
    御櫓、多門等、炎上した。夜に入り、四時ごろ鎮火した。 

    右に付き、御機嫌伺いの為に、
    御用番の内藤紀伊守様(越後国村上藩主:老中)の御留守居の場に、(延岡藩の)平兵衛が使者を勤めた。


そして、前年の安政5年に第14代将軍となっていた当時の将軍である家茂(後に和宮を正妻に迎える将軍)は、
この本丸の火事によって、隣にある西丸(現皇居)に退散している。

江戸城の図面にあるうような、お櫓(ヤグラ)や多門(タモン)等が焼け落ちたのである。
今は、櫓としては、富士見3重櫓と小さな多門が残っているだけである。もったいない。



その事実を延岡藩の記録でみる。

    「   10月18日

    今朝、大目付中様よりの御廻状御同席触れを以て、御到来。左の通りである。

    (各藩の)大目付へ
    御本丸の炎上に付き、
    お方様は、西丸に御立ち退きに、遊ばされたに付き、

    明十八日に、ご機嫌伺いの為、(各藩とも)惣出仕(全員、挨拶に出て来る)であろうから
    西丸に、四時に、登城に、これ有るべきこと。

    但し、病気や幼少の面々は、(井伊)掃部守か、月番の老中に、使者を以て、
    御機嫌を伺われるべきこと。在国在邑の面々(殿さまが領地にいる面々)は、
    飛札(急用の手紙)を差し越されるべきこと。

    右の通り、相触れられるべき候。

           10月17日

       大目付へ

    御本丸炎上に付き、公方様、西丸に入りなされ候に付き、
    お礼事など、散らして、是まで、御本丸にて、掃部守と老中が、謁するぶんは、
    西丸において、謁し候。

  1. 璋院様(篤姫=家定の正室)と本寿院様(12代将軍・徳川家慶の側室で、13代将軍・徳川家定の生母)には、
    西丸御広敷にお入りなされ候。

       10月


ここで、将軍のことを「お方様」や「公方様」と使い分けている。
幕府組織側からは、「御方様」、各藩からは「公方様」としているのか。

【5】 江戸城の火消への大名の参加と将軍からのねぎらい

江戸城が火事だということで、定火消などが飛び込んだが、それ以外に、風の上流側にある藩邸の大名火消も飛び込んだと思われるが、
その点の記録は見つからない。延岡藩は江戸城に行った形跡がない。

通常の大名家の火事の場合に救援に行った記録があることから、今回は特別の記録が無いことは、行っていないのだろう。
また、どの藩が火消しに駆け付けたかも不明である。但し、以下の記録から、救援隊が入っているのは間違いない。

救援隊に対し、将軍が労をねぎらい感謝しているのである。その記録を見てみよう。



   「   11月朔日(1日)

    井伊掃部頭様の宿衆(屋敷の人)より、昨日付けの奉札がきた。

    掃部頭様が、御登城に成られ御座の間において、(将軍に)お目見えしたところ、
    去る十七日の御本丸の炎上の節に、早速、御登城して、

    消防その他、御差図(さしず)が行き届き、何角、お骨折り
    成られ候趣に対して、上意を蒙られ候段(将軍が感謝していること)を、お知らせの為、送ってきた。

  1.奥平大膳大夫様(中津藩)、阿部伊豫守様(福山藩)より、廻状がきた。
    (それによると)大膳大夫と伊豫守様が、御登城したところ、

    (将軍の)御表に おいでなさらず、御機嫌伺ができなかったことについて、 
    大目付の平賀駿河守様に、お達(書面)が 成られて、その後、

    少々、御改病気にて、御表にお出に為られなかったとのこと。
    掃部頭様と御座中様方が御列座された。

    中務大輔様は、当日、御祝儀を、御謁しなされた。かつまた、
    お席に、平賀駿河守様が、お越しに成られ、

    当分の内、月並のお礼(日頃のあいさつ)は、四品(シホン)以下と居付からは、
    請け為されるとのこと。中勢大輔様が、御達し(連絡)の旨を、仰せになったとのことを伝えてきた。

    委細は、御触れ帳にある

【6】 江戸城の火消への大名の参加と将軍からのねぎらい

江戸城の炎上から半月後の安政6年11月1日に、延岡藩の下屋敷(現六本木)の数百mほど西にあった、
宇和島藩の上屋敷(麻布龍土町)から出火した。

麻布龍土町という地名は、1967年まで残っていた。宇和島藩の屋敷跡は、現在の、国立新美術館である。

ところで、その当時の宇和島藩の藩主は幼少の宗徳であり、先代の伊達宗城(ムネナリ)遠江守が実質上の権限をもっていた。
彼は、前年(安政5年)の安政大獄で蟄居謹慎を強いられている。
その宇和島藩の屋敷が火事だということで、延岡藩の下屋敷には親戚から援軍や見回り挨拶がきている。

その中で特に、時の最高権力者である井伊直弼掃部頭から、多数の火消し部隊や見回りが来ている。
それは、当時の延岡藩の先々代の正室(充真院様)は、直弼の実の姉であり、先代の大殿様は、直弼の実の弟であるという親密さによる。
二人とも、延岡藩の下屋敷にいたはずである。

幸い、風向きが延岡藩邸の方に向かっていなかった(風脇=カザワキ)ので、類焼は免れている。
消火(防火)に努めた人員に、粥と餅菓子をふるまっている。通常の火事場見舞いでも粥を振舞っている。

火事場への手伝に来てくれた者へは丁重にお礼をするのが習わしである。
落語の「富久」でも火事場見舞いは重要な仁義であることと、
それらの人へのお礼も低調であることがわかる。

当報告書のレポート43でも、火事場見舞いや、他藩邸への救援に延岡藩の火消しが向かった例を詳しく触れているので、
そちらを参考にして頂きたい。

今回の近場での火事騒ぎでの延岡藩での様子を示す。



概訳を示す。

   「今夕七半時頃、麻布龍土町の伊達遠江守(宇和島藩:上屋敷:現国立新美術館)様の
    御屋敷より出火した。

    (延岡藩の)六本木屋敷が、風脇(風の吹いてくる方向からそれた)になったけれども、風が烈しくなり、
    御近火であったので、(延岡藩の)平兵衛が、早速、六本木に罷り越した。

    御留守居の成瀬老之進も、御人数(多数の人)を召し連れて、詰めた。
    その他、御作事奉行を、始め、御勘定人改め付きの、御勘定人達が、

    追々にやってきたところ、御屋敷は、御別条なく、夜に入り、六半時頃に、鎮火した。

  1.本に御近火に付き、充真院様にお見せいたしたのは左の通り。

    重役に月番が、奉札をもって、進めなさった。 
      御餅菓子  一重ね

  1.右に付き、早速、六本木御屋敷に(粥を)送り、
    働きになった面々に下された。

  1.右、出火に付き、六本木近所の火消が御人数(多人数)を、 
    平士の加藤鉦吉が 召し連れて罷り出てきた。
    御使番の落合将監様に、(事態の説明の)御届をして、申し達しをしたことを、大目付が連絡してきた。

  1.右に付き、六本木、御屋敷に、御見回りに、使者や人数等、
    来られた人の全ては左の通り。




  概訳を続ける。

   「@ 井伊掃部守様
        御人数(=大勢)を召し連れ、御使者=松原十之進

   A 内藤鎮若様
        右同様(御人数を召し連れ)  御使者=竹中與三郎

   B 井伊掃部頭様
        見回りに、 御使者

   C 御同不様と奥方様
        御見回りに  御直使=辻村十右衛門

   D 内藤金一郎様
        御見回り=御使者

   E 内藤兵部少輔様
        御見回り=御使者

   F 内藤鎮若様
        御見回り=御使者=渡部與八郎

   G 藤堂佐渡守様
        御見回り=御役伺

   H 内藤久八郎様
      御見回り=御使者

   I 天徳寺地中(虎ノ門)
      御見回り=摂故院

   六本木に奉札をもって、御極飯その前に進んだ   井伊掃部頭様

   1.内藤鎮若様 御屋敷 御出火に付き、御用人 奉札を以て、粥を遣られ候
            粥(カユ)一荷          内藤鎮若様に  
 」

【7】 資料

  1) 延岡藩資料(明治大所蔵):万覚帳(安政6年):1-7-147
    2) 山本純美著:“江戸の火事と火消し”(河出書房:1993年刊)

    

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