今回のトピックス |
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安政の大獄の最中に江戸城本丸が焼失した。幕府は再建のために各藩へ上納金を要求する。 延岡藩は譜代としての見栄もありながら無い袖は振れないので、分割払いをお願いする。 (2019.6.16) |
このレポートは、災害に絞ってシリーズ化していく予定である。嘉永6年に、ペリーが来航し、その対応に、江戸幕府は大混乱をし、
実際、この来航以来、幕末から維新へとつながる大事件であった。
ペリー来航以来、日本各地で大地震が起き始め、それもペリーのせいだと庶民は感じた。
そのショックが大きかったので、嘉永から安政に改元をした。
その名の通り、安定な政治を期待したのであるが、この安政期は、その年号の名前とは、
真反対の大規模な天変地異がおきた6年間であった。安政期の災害例を、第一表に示す。
まず、日本中で、大地震が集中して起きている。
参考までに、近年の大地震の絶対的な大きさを示す「マグニチュード」M(これに対して、
「震度」は場所に依存した相対的な値である)を示すと、
関東大震災(大正12年=1923.9.1)は、M7.9、
阪神淡路大震災(平成7年=1995.1.17)は、M7.3、
東北大震災(平成23年:2011.3.11)は、M9.0であった。
これらの数値と見比べながら、この表を見てほしい。
これらに匹敵する大地震が連発しているのがわかる。当時、現代ほどの通信網が有ったら、日本はもっとパニックになっていただろう。
今後、幕末の天変地異などの災害を扱っていく予定である。
第一回目は、安政6年の江戸城本丸消失を取り上げる。
天変地異とは異なるが、江戸において、江戸城が火事により焼失するというのも、大事件である。
江戸城の大火の歴史を第二表に示した。
今回は、安政6年におきた、江戸城本丸の消失に伴って、幕府からの指示と延岡藩の対応を紹介したい。
風雲怪しくなってきたとはいえ、まだ、江戸幕府の本来のしきたりが残っていた最後の時代である。
幕府による、焼けなかった藩邸の強制的な取り上げや、各藩や各寺社への上納金の強制などの生々しい証拠を示す。
概訳を示す:
「(安政7年)正月二十一日
子上刻(夜中の11時ころ)、水野日向守(下総:結城藩:水野勝進)より、廻状が到来した。 左の通り。
松平和泉守(三河・西尾藩:松平乗全)からのお渡しの内容を大目付より。
この度、御本丸の御普請に付き、松の丸太を、長さ四間余り(7.2m程)から三間(5.4m)まで、
末口(直径)は一尺八寸(55cm)より八寸(24cm)までの材木を2000本余り、
そして、長さが二間(3.6m)より一間(1.8m)までの
末口(直径)が一尺六寸(49cm)より六寸(19cm)までの材木を3000本余りが 御入用に付き、
御代官が、引き受けて、お買い上げになるので、
関東筋の近国の寺社や、並びに、百姓が持っているものを寸間(ちょっと)相当の松材と、
石持(の武士)の者、寸間直段(ネダン)などを、
取り寄せるために御代官に早く申し立てる様、致すべくこと。
右の通り、関東筋の領分や知行がある面々共や、寺社領共に、連絡する様に。以上。」
火事の直後から、各藩主、旗本、寺社などから、幕府へ上納金の伺いが競って出されたが、いずこも、財政は厳しい折なので、
「上納金を出したいのはやまやまなれど」という決まり文句が付いている。
(1) 明治大所蔵:内藤家資料=1-11-110-21:勤行日記=安政7年
(2) 倉地克直著 「江戸の災害史」 中公新書(2016年)
(3) 野口武彦著 「安政江戸地震」ちくま新書(1997年)
(4) 北原糸子著 「地震の社会史」講談社学術文庫(2000年)
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