第67話:江戸城本丸の消失後の各藩への要求など 

No.67> 第67話:江戸城本丸が焼失した後の各藩への要求と延岡藩の値切り交渉

        幕府からの強い要求に対し財政の厳しい各藩の渋い対応と延岡藩のせこい値切り交渉


 
今回のトピックス


     安政の大獄の最中に江戸城本丸が焼失した。幕府は再建のために各藩へ上納金を要求する。
     延岡藩は譜代としての見栄もありながら無い袖は振れないので、分割払いをお願いする。

                                         (2019.6.16)


【1】 序


このレポートは、災害に絞ってシリーズ化していく予定である。嘉永6年に、ペリーが来航し、その対応に、江戸幕府は大混乱をし、
実際、この来航以来、幕末から維新へとつながる大事件であった。

ペリー来航以来、日本各地で大地震が起き始め、それもペリーのせいだと庶民は感じた。 そのショックが大きかったので、嘉永から安政に改元をした。

その名の通り、安定な政治を期待したのであるが、この安政期は、その年号の名前とは、 真反対の大規模な天変地異がおきた6年間であった。安政期の災害例を、第一表に示す。

まず、日本中で、大地震が集中して起きている。

参考までに、近年の大地震の絶対的な大きさを示す「マグニチュード」M(これに対して、 「震度」は場所に依存した相対的な値である)を示すと、

  関東大震災(大正12年=1923.9.1)は、M7.9
  阪神淡路大震災(平成7年=1995.1.17)は、M7.3
  東北大震災(平成23年:2011.3.11)は、M9.0であった。

これらの数値と見比べながら、この表を見てほしい。

これらに匹敵する大地震が連発しているのがわかる。当時、現代ほどの通信網が有ったら、日本はもっとパニックになっていただろう。 今後、幕末の天変地異などの災害を扱っていく予定である。

第一回目は、安政6年の江戸城本丸消失を取り上げる。

【2】 江戸城火災の歴史


天変地異とは異なるが、江戸において、江戸城が火事により焼失するというのも、大事件である。 江戸城の大火の歴史を第二表に示した。

今回は、安政6年におきた、江戸城本丸の消失に伴って、幕府からの指示と延岡藩の対応を紹介したい。

風雲怪しくなってきたとはいえ、まだ、江戸幕府の本来のしきたりが残っていた最後の時代である。 幕府による、焼けなかった藩邸の強制的な取り上げや、各藩や各寺社への上納金の強制などの生々しい証拠を示す。
  

(1)安政6年の江戸城本丸火災の前後の混乱

年表にあるように、安政6年(1859年)10月17日に、江戸城の本丸(現公園側)が炎上した。
この時、西の丸(現皇居)は類焼を免れている。

しかしながら、西の丸の下(現皇居前の広場)にあった、いくつかの藩の上屋敷が類焼している。
この火災の火元当は不明である。

ペリー来航以来、人心が騒がしい上に、表1の震災の記録を見ると、安政時代には、天変地異も頻発しており、
さぞかし、不安な時代であったことは想像できる。攘夷の機運とともに、これから幕末の動乱が始まっていくが、
井伊直弼大老の全盛期(安政の大獄)であり、江戸幕府最後の輝きの瞬間ともいえる時期でもある。

延岡藩の記録にも、翌年の安政7年(1860年)の正月に、江戸城本丸の再建が計画され、各藩への上納金の要求や、
西の丸下にあった幾つかの藩邸の消失に伴い、他藩の藩邸召し上げが行われている。

その江戸幕府の強権ぶりと、延岡藩の幕府への上納金をめぐる交渉などを紹介する。今回の記録は、安政7年の3月までの記録である。
3月3日に、桜田門外の変がおき、井伊直弼は水戸浪士によって、登城途中に殺害されてしまった。

今回の話は、本当の幕末の激動が始まる直前の話である。

【3】 延岡藩の記録にみる江戸城本丸火災のその後

(1) 幕府による江戸城再建の計画発表(安政7年元旦)

大老井伊直弼の暗殺(安政7年3月3日)の直前の正月に、江戸城再建の計画が発表になった。
その時の延岡藩の記録が右の資料である。この時の将軍は、後に(文久2年)、和宮を嫁に迎える13代将軍家茂である。
彼は、この火事の少し前の安政5年7月に、12代将軍家定の後をついで将軍になったのである。


火事の時は14才であった。この前の将軍家定は、凡庸中の凡庸(凡庸の三等級といわれた)将軍であり、
その前の12代家慶も、松平春嶽(越前藩主)の「逸時史補」によれば、「凡庸の君にして、将軍の器量無し」と評価されていた。

最も危うくなってきたときに、飛び切り無能な将軍が続いていたのである。その家慶の不思議な神の声で井伊直弼が大老になっていたのである。
安政6年10月に本丸が焼け落ちて、安政7年の正月に、本丸再建を打ち出したのである。

概訳を示す:

   「(安政7年)正月朔日(元旦)

   井伊掃部頭殿から、 御本丸の炎上の節に、消防やその他の差図(指図)で、
   行き届いた何角と骨折りがあったことについて、
   上意(将軍)から特別の言葉があった。有難いことである。

   並びに、御本丸の御普請(再建)が重立(最も大事なこと)に扱われる様にと
   仰せつけがあった。その悦びの使者を(延岡藩では)平兵衛が勤めた。 

   松平和泉守様に、御本丸の御普請の惣奉行を仰せつけ候。歓びの使者同人(平兵衛のこと)が勤めた。
 」

【4】 類焼した藩邸のために、幕府が他藩の屋敷の召し上げの命令

(1) 松平石見守の屋敷を取り上げ、西の丸下の本庄宮内少輔に与える



西丸下の屋敷御用に付き家作どもを 差し上げる様にという内容となっている。
具体的には、麻布市兵衛町にある松平石見守(松平康英)の屋敷を、西の丸下の本庄宮内少輔に与えるというものである。
@はとりあげることで、Aは提供するという内容である。

概訳を示す:

  「(安政7年)正月20日

   殿中からの御沙汰書は、左の通りである。
   @ 麻布の市兵衛町(現在の六本木と虎ノ門付近)にある松平石見守(武蔵・川越藩:松平康英)の屋敷、
    2567坪余りを家作ともども提出すること。
    右は、(西の丸の)芙蓉の間にて、(井伊)掃部頭老中が列座のもと、和泉守(後述)が申し渡した。
              堀出雲守(越後・椎谷藩第12代藩主:堀之敏) 

   A 西の丸下にある 本庄宮内少輔(丹後・宮津藩:本庄宗武)に 屋敷と家作を一緒に下されることになった。
    只今迄の屋敷と家作共を提供する(差し上げられるべき)。
    右は、において、済んだことである。  
               御座間  安藤対馬守(磐城平藩:安藤信正)

   増上寺、有章院様、惇信院様 御霊屋
           御修復惣奉行 

 

(2) もう一つの例:久世大和守の屋敷と家作共を取り上げ、西丸下の間部下総守に提供する



概訳を示す。

   「(安政7年)閏三月三日
    殿中からのお沙汰書の内、左の通り。
             間部(マナベ)下総守(越前・鯖江藩:間部詮実)

    西の丸下の屋敷が、お困りに付き、家作共を 差し出す様に。
    外桜田の久世大和守(下総・関宿藩:久世広周)の屋敷と家作共を 下されることになった。
    右、(西の丸の)芙蓉の間にて、老中が列座にて 中務大輔(龍野藩:脇坂安宅)が申し渡した。
             久世大和守 

    西丸下の間部下総守に屋敷と家作共を下されることになった。
    只今迄の屋敷と家作共を 提供する様に(差し上げられるべく候)。
    右のことは、において、済んでいる事 


(3) 実際に引っ越した例を示す。


概訳を示す:

   「2月11日
    戌下刻(朝9時)、松平時之助より、触廻状が到来した。

    即ち、左の通り、

    堀出雲守様(先述)が、今日、西丸下の屋敷より、引き移った。
    尤も、歓びは 御断のこと。よって、心得の為に 申し達する。以上。

       当番 御目付中 


家が手に入ったと言って、浮かれ騒ぐなと、幕府から注意が来ているのである。

【5】 材木調達



概訳を示す:

   「(安政7年)正月二十一日
    子上刻(夜中の11時ころ)、水野日向守(下総:結城藩:水野勝進)より、廻状が到来した。 左の通り。

    松平和泉守(三河・西尾藩:松平乗全)からのお渡しの内容を大目付より。

    この度、御本丸の御普請に付き、松の丸太を、長さ四間余り(7.2m程)から三間(5.4m)まで、
    末口(直径)は一尺八寸(55cm)より八寸(24cm)までの材木を2000本余り、

    そして、長さが二間(3.6m)より一間(1.8m)までの 
    末口(直径)が一尺六寸(49cm)より六寸(19cm)までの材木を3000本余りが 御入用に付き、
    御代官が、引き受けて、お買い上げになるので、

    関東筋の近国の寺社や、並びに、百姓が持っているものを寸間(ちょっと)相当の松材と、
    石持(の武士)の者、寸間直段(ネダン)などを、
    取り寄せるために御代官に早く申し立てる様、致すべくこと。

    右の通り、関東筋の領分や知行がある面々共や、寺社領共に、連絡する様に。以上。

【6】 延岡藩が幕府に対して、御普請のために上納金を願い出る

火事の直後から、各藩主、旗本、寺社などから、幕府へ上納金の伺いが競って出されたが、いずこも、財政は厳しい折なので、
「上納金を出したいのはやまやまなれど」という決まり文句が付いている。

(1) 延岡藩以外の例



概訳を示す:

   「(安政7年)2月15日
    殿中からの御沙汰書の内、左の通り。

    ・金五百両 : 秋田安房守(磐城・三春藩=5万石=の10代当主:秋田肥季)
      御本丸の御普請に付き、上納金を仕りたき旨を内願の趣達 御酷、尤もの儀の旨、ご機嫌に思し召し、
      よって、内外の通り、上納を仰せつけになる。左、御普請の御用途に差加えるべき旨を仰せになられた。

    ・金700両 : 土岐美濃守(上野・沼田藩=3万石=の第10代主:土岐 頼之)
    ・御屏風三双代金3百両 : 曽居丹波守(?)
    ・金300両 : 三宅備前守(三河・田原藩=1万2000石=の第12代藩主:三宅康保)

    ・金200両 : 柳澤民部少輔(越後・黒川藩=1万石=の第7代藩主:柳沢光昭)
    ・金300両 : 丹羽長門守(播磨・三草藩=1万石=の第6代藩主:丹羽 氏中)
    ・金600両 : 安部摂津守(武蔵・岡部藩=2万石=の第12代藩:安部信宝)

    ・金300両 : 松平豊後守(?)
    ・金600両 : 酒井下野守(上野・伊勢崎藩=2万石=の第8代藩主:酒井忠強)
    ・金300両 : 米津相模守(出羽・長瀞藩=1万1000石=3代藩主:米津政易)

    ・金300両 : 有馬兵庫頭(上総・五井藩=1万石=有馬氏郁)
           + 井上筑後守(下総・高岡藩=1万石=井上正和)
           + 高木主水正(河内・丹南藩=1万石=高木正坦)
           + 柳生但馬守(大和・柳生藩=1万石=の第12代藩主:柳生俊順)
           + 戸田淡路守(下野・高徳藩=1万石=戸田忠至)
           + 井上伊予守(常陸・下妻藩=1万石=井上正兼)

    ・御屏風1双: 森川出羽守(下総・生実藩=1万石=の第10代藩主:森川俊位)
    ・金300両 : 松平実之助(旗本か?)
       右、御白書院において、緑部掃部頭老中列座 対馬守 申渡し候

    ・金50両 : 寄合医師  国本玄冷

       御本丸後普請に付き、上納金仕りたき旨を願った時に、達書を提出し、御酷な寄持の事に、
       思し召しになり、よって、願の通り、上納を仰せつけた。

    ・金100両 : 寄合:水野監物+紫内松之亟
    ・金150両 : 寄合:青木源五郎+横山淳三郎
    ・金100両 : 寄合:松木加兵衛
       右、四季の間において、掃部頭老中、列座にて、和泉守が申し渡した。若年寄中侍座。

(2) 延岡藩からの申し出



概訳を示す

   「(安政7年)正月27日
    御担当である松平和泉守殿に
    御本丸炎上に付き、上納金を致したく、同願書を(延岡藩の御留守居役である)老之進が持参して、
    勝手にて、公用人に封書を差出したところ、受け取った(落手した)。

    (提出した)願書は、以下の通りである。

    先般、御本丸が炎上し、恐れ入り奉ります。右、御普請の御用途も恐れながら尊大御儀にて、おありになることですが、
    その件に付き、冥加のために(冥賀=税金)、相応の上納金を仕りたく存じ奉りますけれども、

    (延岡藩は)、従来、勝手向き(経済状態が)、不如意のところ、近来、愈々(いよいよ)、増して、
    不手廻(経済状態の悪いこと)にて、不任(できないこと)は、 心底の事(本当の事)でございますが、
    金1500両を上納したく思っております。

    御普請の御用途に、御差加えになって下さい。微心でも誠を貫きたい思いです。
    (今までの)重恵の有りがたき幸せに存じ奉ります。しかしながら、前条の幸せに付いては、一時上納の件は、何分、行き届きがたく、
    甚だ自由にできず、恐れ入り奉りますが、

    何とぞ、来る申(サル)年から、五カ年の割合でお納めしたく、この段、内願をする次第です。以上。


先ず、延岡藩は、他の藩に比べて、少なくない1500両(現在の貨幣価値で1億5000万円ほど)を上納すると見栄を張った。
ところが、手元が不如意なので、現在の安政7年(サル年)から、12年後の次のサル年から5年分割で納めたいと伺いを立てたのである。

(3) 幕府からの上納金額の指示


概訳を示す:

   「(安政7年)閏三月二日
    松平和泉守より留守居が呼び出されたので、老之進が罷り出たところ、
    公用人を以て、書付を二通、渡された。即ち左の通り。

        差表に   内藤右近将監 とあった。

    御本丸の御普請に付き上納金を仕りたいという旨の内願の趣達(願書)は、
    御酷は、尤ものことに思し召しである。よって、内願の通り、1500両を
    上納するように仰せつけるものである。右の金は、御普請の御用途に差し加えるであろう。

    御本丸の御普請に付いての上納金は、内願の通り仰せ付けたい。
    納め方に関しては、当(今年の)申(サル)年より、三か年に割合で納める様 仕るべくこと。


延岡藩の気持ちは通じず、1500両を今年から3年分割で納める様にという厳しい命令で会った。

【6】 資料

  (1) 明治大所蔵:内藤家資料=1-11-110-21:勤行日記=安政7年
   (2) 倉地克直著 「江戸の災害史」 中公新書(2016年)
   (3) 野口武彦著 「安政江戸地震」ちくま新書(1997年)
   (4) 北原糸子著 「地震の社会史」講談社学術文庫(2000年)

    

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