第66話:長崎での幕末の隠れキリシタン弾圧の記録 

No.66> 第66話:長崎での幕末の隠れキリシタン弾圧の記録

        世界遺産認定の理由となるキリシタン弾圧の幕府側の記録


 
今回のトピックス


     長崎等の隠れキリシタン遺跡(浦上天主堂は除く)が世界遺産に登録された。
     その長崎の浦上地区で幕末から明治にかけて6年間の悲惨な弾圧があった。

     それを4番崩れという。
     はれやかな世界遺産認定騒ぎの本当の悲惨な事実を紹介する。当時の長崎奉行所の記録である.

                                         (2019.2.16)


【1】 序

江戸時代に長崎や天草地方に隠れキリシタンがいたという知識はもっていた。
そして、それらの証ともいうべき建物等が世界遺産に2018年6月末に認定されたのも知っている。

しかし、正直、隠れキリシタンという事実の重みを理解していなかったように思う。
今回、延岡藩の江戸時代の資料に残る幕末の長崎奉行所の記録(多分、何らかの意図があって写したものと思われる)の中に、
長崎の隠れキリシタンの命を懸けた壮絶な抵抗の記録を見付けた。それは、幕府側から見た記録である。それはそれで価値がある。

正直、その情念の強さは心底から理解した自信はないが、世界遺産に値する江戸時代の隠れキリシタンの壮絶な信仰心を紹介したい。

【2】 長崎におけるキリシタンの歴史

(1)キリスト教の日本伝来

@ フランシスコ・ザビエルのキリスト伝来(1549年)

室町時代の末期(1549年)に、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが、薩摩藩に来て、時の藩主島津貴久に面談している。
翌1550年、長崎の平戸に移り、ザビエルは、日本での布教の許可を得るため、京都に上がったが、
応仁の乱で京都は焼け野原になっていた時代で、布教には確とした実績は残せなかった。

翌1551年、その当時の大実力者である山口の大内義隆を訪ね、領内での布教をの許可を得ている。同年、大分の大友宗麟を訪問している。
ザビエル自身は、2年ほど日本に滞在し、後、インドに戻り、中国への布教を試みたが、その途中、立ち寄った日本で没している。
しかし、彼以外にも一緒に宣教師は日本に来ており、例えば、イルマン・ロレンソは、1592年まで日本に滞在し没している。
彼らが本当に意味での宣教をしている。

この時期、筆者の先祖である伊東祐益マンショ等がローマ法王グレゴリウス13世を訪問している(1585年3月25日。
当時マンショは20才。日本出立時は13才)。

当時の世界の果てから来た少年たちをローマの市民は大歓迎をした
(それは、後に延べる江戸幕末250年の隠れキリシタン発見のヨーロッパ報道と共通するキリスト世界の快挙である)。

伊東マンショは、1590年日本に帰ってきて、豊臣秀吉に謁見しているが、その後は、恵まれず、1612年没している。

A日本でのキリスト禁止時代

日本でのキリスト教の公式の布教活動は、江戸時代の家康時代1614年に禁止されるまでの65年間だけであった。
それ以後、布教用の教会も国内から一掃され、更に、死罪や拷問も含む強硬な禁止(家光時代以降)となっていく。
幕末までの250年間、それでも、熱心なキリスト信者は、命をかけながらひっそりと繋がっていくのである。

江戸時代、20万人から30万人ほどのキリシタンがいると、当時の新井白石は予想している。
その程度の多数の隠れキリシタンが九州を中心に潜んでいたのであろう。

江戸幕府は、隠れキリシタンの大規模一斉検挙を4回行っている。この一斉検挙を“崩れ”という表現をしている。
今回報告する第4回目の崩れまでに、第一番崩れが寛政3年(1791年)、第二番崩れが天保13年(1842年)、第三番崩れが安政6年(1859年)。
そして、今回の主題である第四番崩れが、慶應3年(1857年)なのである。

 (2) 幕末の長崎でのキリスト教

長崎だけでなく、九州のキリスタンは、表向き仏教徒を装いながら、こっそりキリスト教を信仰してきた。
しかし、幕末になって事情が変わってくる。

ペリー来航(1853年)後、1858年(安政5年)に5か国と修好条約が結ばれて以来、長崎だけでなく5つの港が解放され、
外国人が日本に多く住み込むようになる。

フランスとの間には、「日本にいるフランス人は、自国の宗旨を勝手に信仰いたし、その居留の場所へ宮柱を建てるも妨げなし」という条項が規定されている。
これは、他の4か国の条約にも規定されており、在日外国人とはいえ、日本国内でのキリスト教が公認されたことになる。
244年間のキリスト禁止令の一部解除である。

ここで、日本のキリスト教の歴史では、フランスからの宣教師ベルナール・ダデー・プチジャン(1828-1884)を抜きにして語れない。
彼は、海外、特に極東での伝道を希望してパリ外国船協会に入会した。その時、極東での布教には捕まって拷問もあるという警告を受けている。
彼は、1862年、日本での布教の命を受け、当時の琉球で日本語の訓練をして、横浜を経由して1863年、長崎についている。

その頃、長崎では、1863年に大浦天主堂の建設が計画され始め、り、1865年1月に完成した。
“天主”は、キリストを意味する(キリスト教を天主教と表している)から、天主堂は、現代では、キリスト教会という意味になる。


右の写真は、現在の大浦天主堂(同天主堂のHPから転載)である。
当然、当時の天主堂は、第二次大戦の原爆で大打撃を受け、現在の天主堂は、1952年に再建されたものである。

幕末時の最初の天主堂の建設時には、多くの日本人の見学者がきた。単なる物見遊山もいたが、その中には、隠れキリシタンもいただろう。
この天主堂は、フランス人のための教会なので、フランス渡来のサンタマリア像が安置されていた。当時の日本人はこの教会を「フランス寺」と呼んでいた。

この教会には、一般の日本人の見学を許されていたが、ある時(1865年3月17日)、その中に、浦上地区の百姓達10名余がいた。
プチジャン神父が説明している時、日本人の中の40歳くらいの女性(家野郷川上の住人でキリシタン名=クララてる=という者)が、
神父に、サンタマリア像を見たいと求めて、自分たちはクリスチャンであることを告白した。

プチジャン神父は、直ぐに、本国パリの新学校の校長に、日本に隠れキリシタンがいたと報告して、ヨーロッパで大騒ぎになった。
これが、有名が「潜伏キリシタン発見」事件である。

これから、宣教師たちは、幕府にはこっそりながら、隠れキリシタンへの洗礼などを行い出した。


長崎の隠れキリシタン達も、今までは、表面的ながら葬式などの表向きの交際のあった仏教の寺との交渉を絶ち、こっそり秘密の教会を建てるようになった。
浦上地域には、当時、4つの秘密の教会が作られた。

表向きは、なんともない小さな小屋であるが、中は信者のための教会なのである。
右にその地図を示す(印で記した)。幕末期になった、浦上地域の百姓たちは、急に、大胆になってきた。
そして、今回の本題である第4回目の浦上四番崩れが起きることになる。

其れの直接の原因は、1867年4月5日(慶應3年3月1日)である。戊辰戦争まで、10か月前のことである。
本源郷のあるクリスチャンである年寄りが死去し、葬式を行おうとするときであった。

本来なら、現在の誕生と死去を公式に記録する旦那寺に依頼しなければならないが、そこを飛ばして、しかも、現在の村長に相当する庄屋にも知らせず自葬をした。
このような事例が続いて、長崎奉行所の知る所となった。長崎奉行所は、密かに内定工作を続けた。

そして、江戸幕府最後の一斉捜査:4番崩れになる。

【3】 延岡藩に残る浦上四番崩れの幕府側の記録

延岡藩に残る長崎奉行所の記録を紹介する。
徳永石見守が長崎奉行の時に起きた事件であるが、この事件とその後の農民への拷問等が、海外公使等の非難を受けたためか、
すぐ後に、河津伊豆守に代わり、彼が江戸幕府最後の長崎奉行となる。

慶應3年(1867年)6月14日早朝、激しい雨の中、長崎奉行所側は公事方掛の安藤鋒之助(弥之助?)、谷津勘之助、小峯利五郎を先頭に、
本原郷に会った秘密教会である聖マリア堂(地図参照)に踏み込んだ。以後、その他の教会に踏み込んでいる。
中にいた信者は。逃げる者もいたが、多くは捕縛されている。

竹やり等で抵抗する農民もいた。
本原郷辻にあった聖ヨゼフ教会の所有者でもある高木仙右エ門は、捕縛後も最後まで抵抗して、改宗に応じなかった。



概訳を示す。

    丁卯(慶應3年)6月13日夜、お召し捕りをすることになった。
    長崎山里村浦上のキリシタン一条の抜き書きである。

    浦上は、兼ねてより、百姓ども 最近のキリシタン宗旨について、専ら、伝習し、
    四カ所の増天子臺の参詣なども烈しくなってきた。
    当時 伝習は、実に夥しく成り上がり事の、岩石も打ち礫くような勢いが有り、且又、家業の農行をなども打ち捨て、
    壱夜、宗旨に信仰して、農作業が、自然に疎になってきた。

    二取(二つ取り)は、早、1700人余りあり、との風聞(うわさ)が取沙汰されており、
    よって、捨て置き難く、天子の件につき、

    七月十三日夜二時ごろ、大風雨を見込んでの事で、 
    方掛りは、安藤鋒之助、谷津勧四郎、小峯利五郎、定役、且つ、手附や町司 残らず、
    その外 及、武館(道場)の 釼鉄隊 残らず 砲隊組、差し向け、不役の萱野彦三郎始め、
    残らず総勢大は、970人である。

    増々、風雨が強く成り、大橋流れる憂いがでてきたので、よって、砲隊、次の面々、馬込脇より、浦手へ廻り、残り兵、
    この川へ飛び込み無事に着いて、人、流れずに 渡川がうまくいった人は、或いは、二十人を一組に定め、
    又、手向かい致す者があれば、切り捨てるようにとの旨の指揮があった。

    結刀を抜き、鞘を外し(抜き身で)手付ども、一勢に取り囲み、家々へ飛び込む折り、
    壱々、召し捕り、または、戸を蹴倒し、一同声を発して、縄をかけ、床下より引き出し、召し捕りもして、
    手付け共の働き方は、語る等越えていた。

    此の夜 召し捕り人数は、73人、女12人、都合、85人であった。
    右召し捕りの最中、北の方より、48〜49人、何れも竹やり、或いは、斧などの得物を取り携え、打ち寄せてきた時、
    最前の、馬込より、まわりたる砲隊組が、横合より、砲を出してきた。

    集勢は、これを見て、鉄砲にて、打ち立てられたので、計られたと思い見て、四方八面へ散り乱れ、
    そこで、四人召し捕り、働きの最中事につき、手付の者、二人、行方の分からない処も有り、二人とも分からないままで、

    翌十四日に至り、ようやく、庄屋の裏に、備えて(隠れて)いた一人は,面体は目より耳近くまで 切られていた様子で、
    悪い血が衣を濯き壱人は、腰居りで、立つことができず、一命には、別条なく、手付の働き、深く感心である。

   1.それより、砲隊半分、釼鉄隊半分は警固の為に、残し置き、その余り(以外)は、残らず引き取り、
    第一番に、安藤鋒之助、谷津勧四郎、小峯利五郎、引き続き、召し捕り人数85人、左右へ、手付、釼砲方、砲隊組が引き去り、

    定役や町司や道守衛が、やってきて、桜町牢屋へ、残らず押し込め、砲隊組、
    及び、警衛が、牢屋を取り囲み、〆役に引き取りの上、
    左の通り、御届をし、次に思召(褒賞)は左の通り。

         越後縮み三つ と金二千疋ずつ = 安藤鋒之助 谷津勧四郎
         同 二つと 金子五百疋    = 定役四人
         後付け折子と金子五百疋    = 手付頭取
         同一つと金子五百疋      =   


信者の中には、自分は信者であるから捕縛してくれと自分から進み出て来る者もいた。
農民の抵抗は激しく、防衛線が突破されることも起きている。牢屋が不足し、防備上も不安が有るので、
長崎にいる大工全員を集めて、一晩で、牢屋を拡充補強をしている。



概訳を示す

    両役処は、警衛の為に、砲隊組、及び、武館を、跣(はだし)で直様(¬=大急ぎ)で、引き返し、
    調べ役を、初め、一同、浦上へやってきて、程ほどに及んだところで応接したところ、
    四百人余りが、やってきて、

    その中から、頭取の人三人が、出てきて、怪しい雰囲気に、及び、応接した処、
    右三人の申すのには、然らば、(我々)一同は、昨夜に、召し捕りになった人民と同様の信行をしておりますから、
    同罪の御処置を承りたいです。

    依って、速やかに、お召し捕りを下される様に、強く主張したが、そうではなくて、お召し捕りにならないなら、
    昨夜、お召し捕りの全員を残らず、御助命を下さるようにお願いしたいと、申し立ててきたこと。

    それらの連中の主張することは、その連中は、心得違いの申し立てなので、一同を改めて同罪に処されたい旨なので、
    然る右罪人共も、未だ、どのような処置になるのだろうか。

    且、その方々も、申し立てているのは、大いに、相違している。拙者どもが、召し捕ったのは、
    (さまざま)調べ上げた上のことに附き、(今回の)そ連中共は、召し捕りに及ばず。
    一同は退散するように、申し達したところ、何れも、帰り退いた。

    右に付き、安藤、定役どもは、参殿し、右の通り、御届けになった。
    且つ、鎮静もした中、如何様のことも、件の様に出来ないだろうとにつき、それぞれにお手当向き致そうと、
    評儀をしていた最中に、注進があった。

   1.夜一時頃になって、またまた、注進があって、。浦上人民共が、不容易な企てをしているようで、守衛が難しくなって、
    (守衛)役が打ち破られ、上町辺より真寄町へ、押し移り、その人数は、一向に、分からず、市中が動揺し、
    大方とはいえない老若男女が、寺へ、駆け寄り、それより、桜町牢屋へ、
    大を掛け奉行処へ押し寄せている趣旨の注進があったので、

    よき打ち手を差し向け、安藤を初め、砲隊組、且つ、釼鉄方、賊にむけ、
    銘々、速やかに、交替し、それぞれへ、鉄砲などを与え、
    厳密に人数を揃えるようにとの、(指令が)届いた処、未だ、何らの沙汰もなく、但し、押し寄せてくるという風聞だけにて、
    四時ごろに及び、警衛の人数(大勢)が引き取り、右にて、ひと先ず、安躰である。

   1.桜町牢屋は、何分に、手狭につき、今夜にて、(改造が)出来る様にということになったので、
    当湊(長崎港)の近くの村の、大工残らず、召し集めたところ、篝火(=カガリビ)を焚き、鑿(ノミ)、鋤(スキ)の音が、
    実に震動し、目覚ましい事件にて、六つ時までに出来あがったという。(その牢屋は)長さ八間余りで、横幅六間ほど。

         御用達兼務御免・指様仰せ付けられ   沢木(徳永の間違い)石見守
         御用為聞・御用達同様心得       太田丹波守
         大寄合上疵御用達           松平安房
         大寄合格足子四百石都合七百石     中山小四郎
         若年寄                藤田(?)
         寺社奉行兼職再病御役料百石      中村(次?)四郎
         御馬廻 差出             小四郎方 小山大?小郎 

       

【4】その後:明治新政府による幕府時代より悲惨な拷問時代

翌日の7月15日になると、居留外国人から、キリスト教を信仰するだけで、捕縛するという幕府の行動に非難が寄せられた。
最初にプロシア領事が抗議をしている。翌16日には、フランス領事が奉行所役人に抗議している。

翌17日は、長崎奉行の徳永石見守と会見し、弾圧緩和を申し入れをしているが、日本では、異教はかねてより禁止されていて、今回、特別珍しいことではないと答えている
その後、幕府側の外国総奉行の小笠原壱岐守と公使団との交渉がつづき、終に、フランス公使と将軍慶喜との談判が大阪城で行われている(同年8月24日)。

そこで、今回捕縛された日本人キリスト信仰者の開放が決まっている。将軍慶喜はフランスの皇帝ナポレオン3世に書状を送った。
そこで、振興の自由と宗教に寛容(拷問はしない)になることを約束している。

しかし、長崎奉行所の牢に閉じ込められていた日本人は、拷問により回収を迫られ、一人を除いて全員が改宗をして解放された。
高木仙右衛門だけが、改宗を拒んで牢屋に残った。しかし、この問題が解決する前に、幕府が倒れてしまった(同年11月7日)

慶應4年1月25日(陽暦1868年2月18日。以後、陽暦を採用)に、新政府側から長崎鎮撫相監督兼外国事務総督が任じられ、長崎裁判所総督も兼ねている。
最初の仕事は、浦上キリシタンの処分である。浦上キリシタンの受難は、これで解決したのではなく、明治新政府による更に強い弾圧が続いた。

明治新政府は、社会がまだ落ち着いていない時に、キリスト教を許すと、江戸幕府初期におきた天草の乱と同じようになると考えた。
そこで、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ほか、明治維新の立役者全員が、浦上キリシタンの絶滅を決定した

そして、浦上地域のキリシタンの中心人物だけでなく、信者とその家族全員という村全体に近い人間を、日本中の各藩に分配して、改宗を迫ることを決めた。
明治元年から、配流が始まった。総勢3000名近くに上る大移動である。この時、延岡藩にも50名近くが割り振られた(その後、延岡藩への割り当てはなくなっている)。

預かった各藩では、拷問による改宗を迫り、殺しても構わない趣旨が見える。
その後、各国からのキリシタン擁護の声は上がったが、新政府は拒否し続けたが、不利益条約の改定交渉で、キリシタン弾圧が常に話題にされることから、
新政府は、不本意ながら、捕縛した浦上キリシタンの開放を決め、信仰の自由をうたうようになる。

そして、やっと、明治6年2月に、「長崎県下異宗徒帰籍」が命令されている。
これは、1614年に始まり、362年続いたキリスト教禁止令の、正式の終焉である。

これによって、明治6年4月に、浦上から強制的に移送された3380名の内、
死者562名、落伍者(改宗者)1213名を除く約1600名に上る浦上のキリシタンが故郷に帰ってきたのである。

帰村した村民たちは、神の家を求めて行動を起こし、明治13年には、かって、自分達に対して踏み絵を迫った庄屋の家を買収して、
そこに、仮天主堂を建てた。

そして、明治28年に、浦上天主堂の建立が始まったが、20年の歳月をかけて、大正3年に赤レンガの浦上天主堂が完成し、献堂式が催された(下図)。
しかし、第二次大戦の原爆投下により、破壊消失した。昭和34年に、原爆被災前の天主堂を模した鉄コンクリート製の現在の浦上天主堂が再建されている(下写真:筆者写)。

浦上は現在信徒数が8,500人で、日本でも一番、信徒数の多い小教区であるという。

 
  創立当時の浦上天主堂  戦後復興された現在の浦上天主堂(筆者写)

そして、2018年6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、長崎県と熊本県に残る12件の構成資産から成るUNESCOの世界遺産リスト登録物件が決まった。
その中に、大浦天主堂(国宝)の他、外海の出津集落の出津教会堂(重要文化財)や、長崎市外海の石積集落景観(重要文化的景観)、
外海の大野集落の大野教会堂(重要文化財)、長崎市外海の石積集落景観(重文景)、南島原市の原城跡、佐世保市の黒島など、指定されている。

ところが、浦上天主堂は含まれていない。
潜伏キリシタンというなら最大の犠牲者を出し、それでも信仰を死守した浦上の人たちの精神的支柱である浦上天主堂が含まれていない。
それは、爆心地に近かったため、元の天主堂は破壊され、戦後新しく建築されたということであろう。
世界遺産というのが、目に見える観光施設に限るためであり、本当の精神的支柱を評価していないからである。
浦上の人たちへの無理解がまだ続いている。

しかし、世界遺産になって、軽い観光客が来ることが信仰の幸せとは無関係であるから、落ち着いた信仰生活が維持できる方が幸せであろう。

【5】資料

  @ 延岡藩記録(明治大所蔵):1-29維新-305-5=長崎奉行所記録
    A 浦上四番崩れ:片岡弥吉著(ちくま文庫:1991年刊)

    

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