今回のトピックス |
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延岡藩は、勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師を召し捕りはしたが、丁重に扱ってきた。 しかし、幕府の命令で京都町奉行所へ差し出すことになった。 奪還を怖れて35名ほどの人員で延岡から京都まで連れてきて、京都町扶持行書へ引き渡しをした。 胤康は、その1年後に獄死をした。 (2018.11.19) |
胤康は、隣国の岡藩(竹田藩)の尊王攘夷の志士たちだけでなく、延岡藩内でも同志をもとめ、ついには、延岡藩の幹部(家老級)も義挙(クーデター)に誘おうという動きを見せたため、延岡藩は、遂に召し捕りを決断した(文久2年=1862年=3月10日)。
それから、1月後の4月23日、胤康の唱えた尊皇攘夷の義挙のために京都伏見の寺田屋に集まった同志たちが、薩摩藩に急襲された寺田屋事件がおきている。
そこで、岡藩の同志である小河弥右衛門や広瀬健吉らも捕らえられたが、国へ戻され謹慎程度の軽い処罰がでている。そこが、問題である。
その後、京都では、長州藩による、禁門の変がおき、そして、第一次長州征伐へと幕末の大きなうねりへと続く一連の流れの最初の大きな事件であった。
それに胤康は、発端的な位置づけで関係したのである。
捕まった胤康は、延岡城内の揚屋(未決囚用牢屋)に閉じ込められたが、扱いは、ひどくはなく、むしろ、ほぼ、客人同様の扱いであった。
揚屋生活時の食事の内容も残っているが、それを見ると、立派な食事(ごはん2杯、煮〆等つき)であり、毎日、酒もついている。
その一方で、延岡藩は、彼の最終的処置をどうしようかと、迷ってもおり、幕府に対応を相談し、結局、京都町奉行所送りとなり、そこで獄死をする運命となる。
その彼の最期の所を報告する。
そして、これが、胤康に関する報告の最後でもある。
胤康は、捕縛後、客人同様の扱いであったが、身の潔白を証明する機会となる御吟味(取り調べ)の無いことが不満であり、
このままでは、単なる犯罪者となってしまうと考え、断食の抗議行動を起こしたのである。
最終的に、捕縛の責任者である佐々木軍七が自ら出てきて、取り調べをすることになった。その経緯を調べよう。
概訳を示す。
「当月(文久2年4月)8日、佐々木軍七を以て扱われた(取り調べた)。
胤康の申し立てを聞くために、出かけた。
1. 当月(4月)6日朝、胤康が、食事を仕らずという旨を、同心が言ってきたので、
食事をの差急(早急)に取らせる様に申しつけた。
そのように取り扱いをなさったけれども、
一円に(一切)、承引(=承知)せずということを、申し聞いたので、
その旨を、同日、言ってきたので、断食担当の同心が、食事の度(タビ)に、扱わうように申しつけた。
1. 同七日 同断食に付き、猶またも、同心を以て取り扱う様に申しつけたけれども、承引せず。
1.同八日 同断食に付き、頭取の佐々木軍七を以て、食事を対処させることにし、
食事を(責任をもって)勤める様に、申しつけた。
同僧が申す分の趣旨は、御召捕りに成り、今日にて、
最早28日になるけれども、一度も御吟味(お調べ)がなされない。
全くの御なぶり殺しになっていると思う。それなので、絶食をして、一日も早く」
「死に去ることができれば、12か月目には、生まれ帰ると言った。
1日、食事をすれば、1日生き延びるので、食事をとらないのだと押し張ったので、
とても、私には、扱いかねると軍七が、申してきたので、猶また、存分に、扱われる様に、申しつけた。
未だ、御吟味が仰せ付けられていないのは、先日、白洲において、
お奉行衆に申し達し、筋をもって、定めて(きっと)、
御隣国に隠密人を差出し、御探索をしているだろう。
どのように、探索がなろうとも、納得がいくとはいえない。
それよりは、私を御吟味してもらえば、直に理解できるでしょう。
かつ、岡表より私に来ている書状が有るでしょうから、
それを見て頂ければ、私が申さなくても、その書状にて理解できるでしょう。」
「その状に、何々か、断っているといえども、覚えていません。
私に警護の人を4〜50人ほどをつけ、慈眼寺に差し遣り下されば、
書状を探し出し、差し上げようと思うという趣旨を、
奉行に申し立てるべきではあるが、人命大切のことについては、同僧も死にたくはないだろう。
そこで、先々も食事をとるようにと勧めたところ、私も死にたくはないけれど、御なぶり殺しになるよりは、
食を絶ち、死ぬ方がよろしいと思っているので、絶食をしようと思っているけれども、
私が寺に居りました時に、同様のことが起きたならば、その時は、食事をしようと思っていました。
揚屋は勘弁願いたいけれども、警護の方の話を承ると、
薪(マキ)は、十日に1把、1日に1本ぐらいにあたると言っていた。
また、味噌も少ないと聞いておりますので、何分、食事もできないで、
寺に居ります時は、おこることは無かったけれど、醤油は、4年の」
「品を使っていたと申しました処、塩水のようにあって、塩辛い醤油にて何分にも続けることができなかった。
汁など、御中間が仕立てるのをみると、味噌は股ぐらの下に差し置き、何ともしょうがないと思って、
から汁、或いは、味噌菜などをもらったが、
脳が悪くなるが、他方、なんとも、食事は、止まず、来続けることを、申し立て、軍七が聞いたので、
その節に申し達したけれども、一昨夜、御沙汰につき、猶また、書き取って、差し上げた。
4月18日
軍七が、胤康を取り扱っている時に、同僧の髪の月代(サカヤキ)が延び昇りと申したので、
髪月代(サカヤキ)を当たってほしいと聞いたので、
早速、奉行に申し達しをしたけれども、御太法の義につき如何、すべきか。
精々、申し達すべき旨、及び、挨拶を置いたと聞いたので、同日、申し上げたのである。」
第二次長州征伐直前で、延岡藩の主力部隊が1年近く大阪に滞留していた時期である。
殿さまも大阪屋敷に滞在している。
延岡藩の家老である原小太郎は、京都における胤康のその後を何とか探ろうと手を尽くしていたが、
やっと、聞きだしたら、胤康はすでに死亡している時だった。
概訳を示す。
「追啓
公儀に御差出になった胤康の事に付き、三月末に、加藤左門伯、又、有栖川宮家に
養子にいっている祥津靭屓(シンキまたはニンキ)より、聞いたところでは、
御殿緒大夫栗津駿河守が、 胤康一同を幽閉させた。
駿河守は、先ごろ、御免(幽閉解除)にしたことで、靭屓に聞いた処では、
胤康は、それに応じて、読書の力も有しており、人のための立とうとして、
?謀にても廻すような人とは、とても見えない。
もとより、延岡にては一度も吟味も無く取り扱い、よろしかったのに、
京家に通ったとやらで、召し捕られたとのこと。
京に行き、口をきく迄ぐらいの事はあるだろうと考えられる。
揚屋中の御賂(マカナイ)斗(マス)にて、衣類も
金もないので、食べ物は、常に、分遣り、着物も
二、三枚遣ったこともある。至極、窮居しているので、
話御免(なかったことにする)になる」
「事は、あってはならないと聞いたので、拙者も
お役目ながら、名面を告げ、何が様の者が参り居るので、
そのような話を告げることに至ったとの事を、
申し聞いたので、面倒なことになることに付き、
靭屓に会いたいと訪問したが、
先方、至って、多事の事が多く、外出が多いとの(当方に)覚悟はなく、
私宅にも、一向に訪れることもなく、
答えが得られなかったが、先月末になって、あまり
延引に付き、靭屓に言い伝えたところ、
この間、面会をして、話をしたところ
良席にて、互いに挨拶し、訴えたところ、
答をする段に、言った。
何とか調べたところ、(胤康は)、近頃、死去致したという内容を、
お出入りの与力より言い出した。
このことは、皆様に仰せ付けられ、連絡をされるのがよろしいでしょう。
与力よりの聞いた話をそのまま伝えます。以上
五月二十九日 小太郎
治部左衛門殿(延岡藩家老)
玄免殿(臺雲寺関係者か?)」
この手紙では、4月末か5月に死去していたことになる。
ところが、この手紙だけでは、慶應1年から慶應3年まで可能性があるが、前後の資料から、慶應2年であろう。
そうすると、胤康は、(慶應2年)4月に亡くなっていることになる。
京都で胤康を引き渡した京都町奉行所の与力である三浦諦次郎から、
胤康の死亡を伝える手紙が延岡藩の京都滞在中(京都二条上ル恵須町)の小野嘉七宛に届いている。
この差出し日も5月26日になっている。
概訳を示す。
「手紙を以て啓上いたします。向暑の節でございますが、ますます、御安康に御過ごしと存じます。
平常の御無沙汰を御免捨て下さるようお願いします。
然らば、先だって、御屋敷より、引き渡しになりました胤康のことです。
病気や寿生は、何ともならないもので、ここに極まり、病死いたしました。
右は、御引き渡しに、なりましたので、御(???)を以て、
御内々に、申し上げます。若し、小林祐蔵殿が 御上京になるなら、
御演達を置き成してください。
右の談、役に立ちたく思っております。
5月26日
三浦諦次郎
小野嘉七様」
この手紙により、胤康が、(慶應2年)5月26日前に亡くなっていることがわかる。
胤康の最期の日について、「僧胤康伝」には、慶應2年月5月18日、「勤王義烈伝」には、慶應3年4月とある。
京都霊山にある胤康禅師招魂碑の文(小河弥右衛門と広瀬健吉による)には、慶應3年5月17日とあるが、後日、小河弥右衛門が慶應2年4月17日だったと修正している。
そうだとすると、第2次長州征伐の直前になる。
胤康が京都町奉行所に引き渡されたのが、慶應1年3月18日であるから、ほぼ1年後に死去していることになる。
徳川幕府末期になり、京都町奉行所では、胤康を抱える余裕がいよいよ無くなってきたのであろう。
毒殺であったといわれている。胤康の辞世の歌といわれるものを示す。
「みじか世の夢と思えば悪しきなき
覚めし後だに語る葉も無し」
明治になってすぐ、広瀬健吉によって、東山に招魂碑が建てられた。当レポートの61話(胤康(1))を再度、ご覧ください。
京都に集まり、実際に行動に出ようとした小河弥右衛門や広瀬健吉が、謹慎程度の罪で、胤康が獄死というのは、
やはり、彼らが岡藩所属の武士であり、胤康が、一介の小寺の僧という身分の差が最大の理由であろう。
また、岡藩から、胤康が裏話をすると、小河等に不利益が生じるという抗議がきているが、小林祐蔵は、それは、自分たちの知ったことではないと突っぱねている。
(小河と広瀬個人の意見ではなく、藩の事情が表に出ていたと考えられる。小河と広瀬は、心より、胤康を信頼し、彼の死を望まなかったと考えたい。)
延岡藩と岡藩の腹の探り合いは、引き渡し後も続いて面白い話もあるが、これは割愛する。
(1) 延岡藩資料:3-20-320-32:佐々木軍七取り調べ
(2) 延岡藩資料:3-20-159:京都での様子:原小太郎の手紙
(3) 延岡藩資料:3−22159:三浦諦次郎から小野嘉七への手紙
(4) 宮崎県通史=維新期の日向諸藩=P1055〜1087
(5) (勤王史譚)=胤康和尚
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