第65話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(5)=胤康の最期 

No.65> 第65話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(5)=胤康の最期

        勤王の胤康が京都町奉行所に送られ延岡藩からも見捨てられ獄死した


 
今回のトピックス


     延岡藩は、勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師を召し捕りはしたが、丁重に扱ってきた。
     しかし、幕府の命令で京都町奉行所へ差し出すことになった。

     奪還を怖れて35名ほどの人員で延岡から京都まで連れてきて、京都町扶持行書へ引き渡しをした。
     胤康は、その1年後に獄死をした。


                                         (2018.11.19)


【1】 序:胤康の召捕り


胤康は、隣国の岡藩(竹田藩)の尊王攘夷の志士たちだけでなく、延岡藩内でも同志をもとめ、ついには、延岡藩の幹部(家老級)も義挙(クーデター)に誘おうという動きを見せたため、延岡藩は、遂に召し捕りを決断した(文久2年=1862年=3月10日)。

それから、1月後の4月23日、胤康の唱えた尊皇攘夷の義挙のために京都伏見の寺田屋に集まった同志たちが、薩摩藩に急襲された寺田屋事件がおきている。

そこで、岡藩の同志である小河弥右衛門広瀬健吉らも捕らえられたが、国へ戻され謹慎程度の軽い処罰がでている。そこが、問題である。

その後、京都では、長州藩による、禁門の変がおき、そして、第一次長州征伐へと幕末の大きなうねりへと続く一連の流れの最初の大きな事件であった。

それに胤康は、発端的な位置づけで関係したのである。

捕まった胤康は、延岡城内の揚屋(未決囚用牢屋)に閉じ込められたが、扱いは、ひどくはなく、むしろ、ほぼ、客人同様の扱いであった。

揚屋生活時の食事の内容も残っているが、それを見ると、立派な食事(ごはん2杯、煮〆等つき)であり、毎日、酒もついている。

その一方で、延岡藩は、彼の最終的処置をどうしようかと、迷ってもおり、幕府に対応を相談し、結局、京都町奉行所送りとなり、そこで獄死をする運命となる。

その彼の最期の所を報告する。
そして、これが、胤康に関する報告の最後でもある。

【2】 捕縛直後には断食の抗議=文久2年(1862)4月

胤康は、捕縛後、客人同様の扱いであったが、身の潔白を証明する機会となる御吟味(取り調べ)の無いことが不満であり、
このままでは、単なる犯罪者となってしまうと考え、断食の抗議行動を起こしたのである。

最終的に、捕縛の責任者である佐々木軍七が自ら出てきて、取り調べをすることになった。その経緯を調べよう。



概訳を示す。

   「当月(文久2年4月)8日、佐々木軍七を以て扱われた(取り調べた)。

    胤康の申し立てを聞くために、出かけた。
    1. 当月(4月)6日朝、胤康が、食事を仕らずという旨を、同心が言ってきたので、
      食事をの差急(早急)に取らせる様に申しつけた。

      そのように取り扱いをなさったけれども、
      一円に(一切)、承引(=承知)せずということを、申し聞いたので、
      その旨を、同日、言ってきたので、断食担当の同心が、食事の度(タビ)に、扱わうように申しつけた。

    1. 同七日  同断食に付き、猶またも、同心を以て取り扱う様に申しつけたけれども、承引せず。

    1.同八日 同断食に付き、頭取の佐々木軍七を以て、食事を対処させることにし、
      食事を(責任をもって)勤める様に、申しつけた。

      同僧が申す分の趣旨は、御召捕りに成り、今日にて、
      最早28日になるけれども、一度も御吟味(お調べ)がなされない。
      全くの御なぶり殺しになっていると思う。それなので、絶食をして、一日も早く




    「死に去ることができれば、12か月目には、生まれ帰ると言った。
     1日、食事をすれば、1日生き延びるので、食事をとらないのだと押し張ったので、
     とても、私には、扱いかねると軍七が、申してきたので、猶また、存分に、扱われる様に、申しつけた。

     未だ、御吟味が仰せ付けられていないのは、先日、白洲において、
     お奉行衆に申し達し、筋をもって、定めて(きっと)、
     御隣国に隠密人を差出し、御探索をしているだろう。

     どのように、探索がなろうとも、納得がいくとはいえない。
     それよりは、私を御吟味してもらえば、直に理解できるでしょう。
     かつ、岡表より私に来ている書状が有るでしょうから、
     それを見て頂ければ、私が申さなくても、その書状にて理解できるでしょう。




    「その状に、何々か、断っているといえども、覚えていません。
     私に警護の人を4〜50人ほどをつけ、慈眼寺に差し遣り下されば、

     書状を探し出し、差し上げようと思うという趣旨を、
     奉行に申し立てるべきではあるが、人命大切のことについては、同僧も死にたくはないだろう。

     そこで、先々も食事をとるようにと勧めたところ、私も死にたくはないけれど、御なぶり殺しになるよりは、
     食を絶ち、死ぬ方がよろしいと思っているので、絶食をしようと思っているけれども、
     私が寺に居りました時に、同様のことが起きたならば、その時は、食事をしようと思っていました。

     揚屋は勘弁願いたいけれども、警護の方の話を承ると、
     薪(マキ)は、十日に1把、1日に1本ぐらいにあたると言っていた。

     また、味噌も少ないと聞いておりますので、何分、食事もできないで、
     寺に居ります時は、おこることは無かったけれど、醤油は、4年の




    「品を使っていたと申しました処、塩水のようにあって、塩辛い醤油にて何分にも続けることができなかった。
     汁など、御中間が仕立てるのをみると、味噌は股ぐらの下に差し置き、何ともしょうがないと思って、
     から汁、或いは、味噌菜などをもらったが、

     脳が悪くなるが、他方、なんとも、食事は、止まず、来続けることを、申し立て、軍七が聞いたので、
     その節に申し達したけれども、一昨夜、御沙汰につき、猶また、書き取って、差し上げた。

   4月18日
     軍七が、胤康を取り扱っている時に、同僧の髪の月代(サカヤキ)が延び昇りと申したので、
     髪月代(サカヤキ)を当たってほしいと聞いたので、
     早速、奉行に申し達しをしたけれども、御太法の義につき如何、すべきか。
     精々、申し達すべき旨、及び、挨拶を置いたと聞いたので、同日、申し上げたのである。

【3】 京都護送命令

 (1) 胤康の処分について幕府との裏交渉

胤康は、尊王攘夷の行動を起こそうとして京都に終結した薩摩藩を中心にしたの志士達が、
その騒動の直前に伏見の寺田屋で薩摩藩によって抑えられた事件(文久2年=1862年=4月23日)の直前に、
不穏な雰囲気を察知した延岡藩によって捕らえられた(文久2年3月10日)。

それから、3年ほど、延岡藩にて拘束はされているが、ある程度、尊重されて揚屋(牢獄)生活を送ってきた。
しかし、延岡藩は、元治1年(1864年)には、江戸に在住する先代の殿さまである右近将監・能登守(内藤正義)が中心になって、
江戸幕府に、御用番の有馬遠江(トオトウミ)守を通して胤康問題をどう対処すべきか、相談に動いていた。

その過程で、現殿さまの父親で老中も務めた、遠江藩の前藩主の太田資始(スケモト:道醇)にも相談している。
その途中の案として、元治1年8月には、藝州の尾道の西芳寺の物外(モノゲ:竹田物外和尚)と偽名を
使って延岡藩から貰い受けるという案が出して、幕府に相談している。

この物外は、実在の人物で、勤労志士の曹洞宗の坊主として有名な人物である。
当時、69才のはずで、年齢はだいぶ違うが、物外として、延岡藩から外に助け出そうという案であった。

あるいは、江戸に差し出すという案も検討されたが、長州征伐前で江戸が不穏になっていることで、それは、却下された。
少なくとも、右近将監は、彼を助けようとして動いていたのだろう。

当事国である隣国である岡藩の藩主である中川修理大夫(久昭)も気の毒だといったようだが、結果はそうならなかった。
元治1年の12月9日、御用番の水野和泉守京都町奉行所に差し出す様にという沙汰書(命令書)が延岡藩の江戸屋敷の届いている。

 (2) 竹田藩の同胞の二人は胤康の処分を希望

この頃は、第一次長州征伐の直前で、戦争の気配が濃厚となってきていた頃である。
胤康の同志であり、寺田屋事件で捕まっていた竹田藩の小河弥右衛門広瀬健吉は、親戚預かりという(超甘い)処分が決定していた。

これに対して、胤康をどう処分するかを、薩摩藩の重役連で評議をしている。
そこで、胤康は、小河や広瀬の口車の乗っただけだろうという話も出た。胤康は、小河などからの手紙を受け取っていた。
ところが、小河と広瀬は、胤康がどのようにして手にいれたかは分からないと答えている。

そして、二人は胤康の処分を心配して、現在、牢獄にあるが、胤康が解放されることは、公辺(幕府)にとって好ましくない、
牢獄で処置してくれという希望を出している。二人の希望もあって、胤康の京都町奉行所送りが決まったのである。

 (3) 胤康を京都へ護送し京都町奉行所に送り届ける

そして、延岡藩では、江戸からの命令書が届いて、2月1日に延岡の東海(トウミ)港から出港する予定となった。
ところが、その直前に江戸から内密の達書が届いた。内容は不明ながら、文脈からすると、胤康の差出は不本意であるという右近将監の意思があったのだろう。

太田道醇様の意見もあるが、内密であるから限られたもののみ読むことというものであった。
しかし、胤康は、差し出すことが決まって、延岡を出港している。

大阪に着いた一行(胤康の外、警護の者と、胤康の主寺である臺雲寺の関係者も同行)は、船を避けて、陸路(竹田街道)、京都に3月12についた。
早速、滝川讃岐守の同心に用向きを伝えるために訪問したが、与力に行って聞いてくれという話だった。

翌日は、与力だけでなく、同心に赴き手紙を渡している。手紙と同時に金を渡している。
与力の三浦諦次郎には、金300疋(〜3分〜7万5千円程)、同心に金200疋を送っている。

日時を指定された3月18日に、胤康を駕籠に乗せて京都奉行所に行くと、
籠のまま内部に入るならば、受取前に打小手をするのが規則(定法)だと言われたので、
胤康を小手のまま北の端に置いた(小手を打つとは、手を縛ること)。

お使者の間で待っていると、よりの三浦諦次郎がやってきて、胤康の受け渡しの儀があった。
それが済むと、滝川讃岐守が登場し、直々に、挨拶があった。

胤康は、受け取り候間(ので)、その段、主人へ申し聞くべき候。途中、警衛、滞りなく引き連れ候段、御大儀に存じ候”と述べている。

やはり、このような侍言葉を使うのかと感慨深い。
胤康の引き渡しの際の延岡藩の召し連れ人は、

安井田作夫を筆頭に、三松百助(郡奉行)、佐々木軍七(寺社奉行)、赤坂準蔵(自社下役)、竹村恒夫(医師)、
加藤助之丞(御者頭)、磯貝左十郎(平士)、加藤喜兵衛、今西忠四郎、三井茂里(番金)と他に足軽25人だから、計35名が延岡から来ている。

最後の交渉に立っている幹部の小林祐蔵は、別のルートで上京し、竹田街道で合流している。

 (4) 胤康処分について京都町奉行所と延岡藩の意図が一致

受け渡しのあった翌日(3月19日)、小林祐蔵は、三浦諦次郎宅を訪問して、一問一答を記録している。
実はこの時も、三浦諦次郎に改めて、金1000疋(〜25万5000円)を手渡している。袖の下である。

その一問一答を示す。

 「(小林の問)胤康を差出し、引き渡したことについて、どう考えるかと聞く
  (三浦の答)町奉行前までお召し連れになって、差し出されただけのこと。

  (問)本寺の臺雲寺も同伴してきて、引き渡しを済ませたので、直接に引き取りをして、当然ではないか。
  (答)臺雲寺が付き添いをする必要はない。事前に、そのような相談が有ったら、その節に返事していただろう。両3日も御留め置きも当然の事

  (問)胤康の密謀の書面もあるので、差し出すべきか
  (答)書面の件は、当役が吟味係につき、指図はできかねるが、胤康が申し立てをする気配につき、的書が、無くては、困ることもあるので、
     兎も角、今回の件は、胤康一分の吟味をしたいと考えているので、役外にて、そのような話がでたらば、
     萬一、そのような書類があったとしても、お預かりするか、焼き捨てるかは、口外できない。極、内々の話の事。

  (問)胤康の吟味の見込みはどうか
  (答)まず、当人だけを吟味する。もっとも、江戸からは、悉くを尽くして吟味する様にという沙汰があったけれども、
     成るだけ、簡単に取り計らいたいと考えている。あまり、手を広げたくない。胤康は、江戸にも話が届いている人物なので、
     今回の吟味の命令書があるのだろう。中川家にも、そのような話が言っている趣にあるけれども、
     その辺については、申すわけには行かない。

  (問)胤康の罪の次第によって、萬一も、またまた、内藤家に引き渡すということは、決してない様に願いたい。
  (答)まず、左様の儀は、当分ないだろう。もっとも、胤康が死去した場合は、その節は連絡する。」

つまり、京都町奉行所は、胤康を始末することを決めている(吟味用の資料は不要であると答えている)。
彼を抹殺することを、竹田藩(中川家)も望んでいる。延岡藩も、胤康を払い下げにすることは決して無い様にと念を押し、
奉行所も、それはあり得ないと答えている。両者、そして、中川家も胤康の死を望んでいるのである。

この辺は、今までの胤康に対する議論と全く異なる部分であるが、これが真実である。三浦は、胤康が死去した場合は連絡すると答えている。

 (5) 岡藩の御留守居で京都詰の熊田万八が小林祐蔵を訪ねてきている(3月19日)

延岡藩から京都町奉行所へ引き渡しの行われた日の翌日、岡藩の幹部が小林祐蔵を訪ねてきた。
そして言うことに、胤康の差出の件は聞き及んでいる。同藩の小河弥右衛門ほかのメンバーも心配している。

(何をか?)。万一、胤康が異議申し立てをして、弥右衛門他に、改めて上京せよということになったら面倒なことになる。
修理大夫様もその点を心配している。胤康は、今までも、申し立てをしてきたと聞いている。(何とかしてくれという意味か?)

それに答えて、小林は、胤康は、町奉行所に差し出しただけで、それ以上の詳しいことは、答えなかったと延岡に書き送っている。

【4】 胤康死亡情報=京都での探索結果報告

第二次長州征伐直前で、延岡藩の主力部隊が1年近く大阪に滞留していた時期である。
殿さまも大阪屋敷に滞在している。

延岡藩の家老である原小太郎は、京都における胤康のその後を何とか探ろうと手を尽くしていたが、
やっと、聞きだしたら、胤康はすでに死亡している時だった。

概訳を示す。

   「追啓

    公儀に御差出になった胤康の事に付き、三月末に、加藤左門伯、又、有栖川宮家
    養子にいっている祥津靭屓(シンキまたはニンキ)より、聞いたところでは、
    御殿緒大夫栗津駿河守が、 胤康一同を幽閉させた。

    駿河守は、先ごろ、御免(幽閉解除)にしたことで、靭屓に聞いた処では、
    胤康は、それに応じて、読書の力も有しており、人のための立とうとして、
    ?謀にても廻すような人とは、とても見えない。

    もとより、延岡にては一度も吟味も無く取り扱い、よろしかったのに、
    京家に通ったとやらで、召し捕られたとのこと。
    京に行き、口をきく迄ぐらいの事はあるだろうと考えられる。

    揚屋中の御賂(マカナイ)斗(マス)にて、衣類も
    金もないので、食べ物は、常に、分遣り、着物も 

    二、三枚遣ったこともある。至極、窮居しているので、
    話御免(なかったことにする)になる




   「事は、あってはならないと聞いたので、拙者も
    お役目ながら、名面を告げ、何が様の者が参り居るので、

    そのような話を告げることに至ったとの事を、
    申し聞いたので、面倒なことになることに付き、
    靭屓に会いたいと訪問したが、

    先方、至って、多事の事が多く、外出が多いとの(当方に)覚悟はなく、
    私宅にも、一向に訪れることもなく、
    答えが得られなかったが、先月末になって、あまり

    延引に付き、靭屓に言い伝えたところ、
    この間、面会をして、話をしたところ
    良席にて、互いに挨拶し、訴えたところ、
    答をする段に、言った。

    何とか調べたところ、(胤康は)、近頃、死去致したという内容を、
    お出入りの与力より言い出した。

    このことは、皆様に仰せ付けられ、連絡をされるのがよろしいでしょう。
    与力よりの聞いた話をそのまま伝えます。以上

     五月二十九日        小太郎
    治部左衛門殿(延岡藩家老)
    玄免殿(臺雲寺関係者か?)


この手紙では、4月末か5月に死去していたことになる。

ところが、この手紙だけでは、慶應1年から慶應3年まで可能性があるが、前後の資料から、慶應2年であろう。
そうすると、胤康は、(慶應2年)4月に亡くなっていることになる。

【5】 胤康獄死=京都町奉行所からの連絡

京都で胤康を引き渡した京都町奉行所の与力である三浦諦次郎から、
胤康の死亡を伝える手紙が延岡藩の京都滞在中(京都二条上ル恵須町)の小野嘉七宛に届いている。

この差出し日も5月26日になっている。



概訳を示す。

   「手紙を以て啓上いたします。向暑の節でございますが、ますます、御安康に御過ごしと存じます。
    平常の御無沙汰を御免捨て下さるようお願いします。

    然らば、先だって、御屋敷より、引き渡しになりました胤康のことです。
    病気や寿生は、何ともならないもので、ここに極まり、病死いたしました

    右は、御引き渡しに、なりましたので、御(???)を以て、
    御内々に、申し上げます。若し、小林祐蔵殿が 御上京になるなら、
    御演達を置き成してください。

    右の談、役に立ちたく思っております。

    5月26日
              三浦諦次郎
    小野嘉七様


この手紙により、胤康が、(慶應2年)5月26日前に亡くなっていることがわかる。

【6】 その後

胤康の最期の日について、「僧胤康伝」には、慶應2年月5月18日、「勤王義烈伝」には、慶應3年4月とある。
京都霊山にある胤康禅師招魂碑の文(小河弥右衛門と広瀬健吉による)には、慶應3年5月17日とあるが、後日、小河弥右衛門が慶應2年4月17日だったと修正している。
そうだとすると、第2次長州征伐の直前になる。

胤康が京都町奉行所に引き渡されたのが、慶應1年3月18日であるから、ほぼ1年後に死去していることになる。
徳川幕府末期になり、京都町奉行所では、胤康を抱える余裕がいよいよ無くなってきたのであろう。
毒殺であったといわれている。胤康の辞世の歌といわれるものを示す。

みじか世の夢と思えば悪しきなき
覚めし後だに語る葉も無し


明治になってすぐ、広瀬健吉によって、東山に招魂碑が建てられた。当レポートの61話(胤康(1))を再度、ご覧ください。
京都に集まり、実際に行動に出ようとした小河弥右衛門や広瀬健吉が、謹慎程度の罪で、胤康が獄死というのは、
やはり、彼らが岡藩所属の武士であり、胤康が、一介の小寺の僧という身分の差が最大の理由であろう。

また、岡藩から、胤康が裏話をすると、小河等に不利益が生じるという抗議がきているが、小林祐蔵は、それは、自分たちの知ったことではないと突っぱねている。
(小河と広瀬個人の意見ではなく、藩の事情が表に出ていたと考えられる。小河と広瀬は、心より、胤康を信頼し、彼の死を望まなかったと考えたい。)
延岡藩と岡藩の腹の探り合いは、引き渡し後も続いて面白い話もあるが、これは割愛する。

【7】 資料

 (1) 延岡藩資料:3-20-320-32:佐々木軍七取り調べ
   (2) 延岡藩資料:3-20-159:京都での様子:原小太郎の手紙
   (3) 延岡藩資料:3−22159:三浦諦次郎から小野嘉七への手紙
   (4) 宮崎県通史=維新期の日向諸藩=P1055〜1087
   (5) (勤王史譚)=胤康和尚

    

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