今回のトピックス |
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勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師が、延岡藩の手で遂に召し捕られた。 延岡藩の内部では、対応に苦慮した。幕府への内密に報告をした結果である。 しかしながら、捕らえられた胤康は、揚屋(牢屋)では、客人のような対応を受けている。 (2018.8.31) |
今までの報告でも示したが、右年表を見ると、
胤康が捕縛された直後の文久2年4月(1862年)に京都伏見で寺田屋事件が起きている。
この事件の数年前から、寺田屋事件を挟んで、
元治元年(1864年)に長州藩によって起こされた禁門の変までが、
尊王攘夷運動が日本中を席巻した時代であった。
寺田屋事件につながる勤王志士たちを鼓舞した理論的リーダーであった胤康が、
寺田屋事件の直前に延岡藩の手により捕縛された。
胤康は、元は武蔵国のうまれであるが、延岡に住んで30年余になっていた。
いつのころからか、勤王の志を育ててきて、何度も全国漫遊を行い、
各地の勤王志士とも接触しながら、意見を交換し、人的つながりとそだて、
勤王の考えを研ぎ澄ましていった。
各地で、胤康を接した人物は、直ぐに、彼の理路整然とした論理と知識に圧倒され、
彼に一目を置くようになった。
その中で、勤王の意識の高かった、延岡藩の隣国になる岡藩(現大分県竹田市)の家老や、高位の藩士がこぞって、
彼に師事するようになった。
胤康は、延岡にありながら、岡藩の勤王の志士を指導(扇動?)するなかで、
薩摩藩の国父が大軍を率いて上京し、倒幕への活動を開始するという噂が日本中に広がり、
各地の勤王志士たちが時機到来と京都に集まりだした。
その最初の動きが、寺田屋事件となった(前回報告)。
岡藩の指導者である小河弥右衛門は、寺田屋に向かったが、
到着が遅れたため、事件には巻き込まれなかった。
当初の計画では、第一隊が小河の一派で、第2隊が、胤康率いる予定であった。
胤康は、兵隊集めのため、岡藩だけでは足りないと考えたのか、
遂に、譜代大名である延岡藩の藩士もオルグをすることにして、
間接的に家老のところまで話がいき、延岡藩内でも、
見捨てておけない危険人物と見なされ、遂に、胤康の召し捕りとなった。
しかし、その途中では、彼の暗殺案も検討されている。また、幕府への内密での相談も行っている。
今回は、そのような、維新史の片隅での動きを紹介したい。
胤康は、延岡在住ながら、諸国漫遊の時の、隣国である大分の岡藩(現竹田市)で、勤王の同志に出会い、岡藩の志士と攘夷、
倒幕の企てをしていた。
第一部隊として、岡藩の小河弥右衛門らが進行し、胤康がその2番手の軍を率いる計画であり、
胤康は、その兵士として、延岡藩を説得して兵を集めようと考えたのであろう。
胤康は、延岡藩の下級武士である松崎進士を通じて、藩のトップクラス(家老)の原小太郎への働きかけを行った。
延岡藩でも、彼の活動の偵察はしていたが、他藩の扇動ということで、無視していたが、胤康の活動が延岡藩に及んできたことで、
それが直接の召し捕りのきっかけになった。
しかし、延岡藩内では、第3者をつかって胤康を暗殺するか、正式に召し捕りをするかと迷っていた。
幕府の要人との接触を繰り返して、召し捕りに踏み切っている。
その背景のよくわかる資料を見つけた。
延岡から、江戸の延岡藩邸へ胤康捕縛に至った事情を説明した文書を送っている。
そこに、胤康召し捕りをせざるを得なくなった延岡藩の苦渋の様子がよくわかる文書である。
文久2年(1862年)に延岡藩江戸屋敷へ送った手紙である。
胤康は、自分が捕まる事について、覚悟はしていたが、いざ、その段になると、囚人扱いにたいしては、絶食を以て、強く抗議をしている。その後、揚屋における胤康の扱いは、犯罪者としてではなく、丁重に扱われているのがわかる。
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