第64話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(4)=胤康の召捕り 

No.64> 第64話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(4)=胤康召し捕り

        延岡藩の胤康禅師が反幕府活動をしたとして延岡藩で召し捕られる


 
今回のトピックス


     勤王派のリーダーの一人であった胤康禅師が、延岡藩の手で遂に召し捕られた。
     延岡藩の内部では、対応に苦慮した。幕府への内密に報告をした結果である。

     しかしながら、捕らえられた胤康は、揚屋(牢屋)では、客人のような対応を受けている。


                                         (2018.8.31)


【1】 序:胤康の召捕り


今までの報告でも示したが、右年表を見ると、
胤康が捕縛された直後の文久2年4月(1862年)に京都伏見で寺田屋事件が起きている。

この事件の数年前から、寺田屋事件を挟んで、 元治元年(1864年)に長州藩によって起こされた禁門の変までが、
尊王攘夷運動が日本中を席巻した時代であった。

寺田屋事件につながる勤王志士たちを鼓舞した理論的リーダーであった胤康が、 寺田屋事件の直前に延岡藩の手により捕縛された。

胤康は、元は武蔵国のうまれであるが、延岡に住んで30年余になっていた。

いつのころからか、勤王の志を育ててきて、何度も全国漫遊を行い、 各地の勤王志士とも接触しながら、意見を交換し、人的つながりとそだて、 勤王の考えを研ぎ澄ましていった。

各地で、胤康を接した人物は、直ぐに、彼の理路整然とした論理と知識に圧倒され、 彼に一目を置くようになった。

その中で、勤王の意識の高かった、延岡藩の隣国になる岡藩(現大分県竹田市)の家老や、高位の藩士がこぞって、 彼に師事するようになった。

胤康は、延岡にありながら、岡藩の勤王の志士を指導(扇動?)するなかで、 薩摩藩の国父が大軍を率いて上京し、倒幕への活動を開始するという噂が日本中に広がり、 各地の勤王志士たちが時機到来と京都に集まりだした。

その最初の動きが、寺田屋事件となった(前回報告)。
岡藩の指導者である小河弥右衛門は、寺田屋に向かったが、 到着が遅れたため、事件には巻き込まれなかった。

当初の計画では、第一隊が小河の一派で、第2隊が、胤康率いる予定であった。

胤康は、兵隊集めのため、岡藩だけでは足りないと考えたのか、 遂に、譜代大名である延岡藩の藩士もオルグをすることにして、 間接的に家老のところまで話がいき、延岡藩内でも、 見捨てておけない危険人物と見なされ、遂に、胤康の召し捕りとなった。

しかし、その途中では、彼の暗殺案も検討されている。また、幕府への内密での相談も行っている。
今回は、そのような、維新史の片隅での動きを紹介したい。

【2】 召し捕りに至った事情:江戸同席への報告連絡

胤康は、延岡在住ながら、諸国漫遊の時の、隣国である大分の岡藩(現竹田市)で、勤王の同志に出会い、岡藩の志士と攘夷、
倒幕の企てをしていた。

第一部隊として、岡藩の小河弥右衛門らが進行し、胤康がその2番手の軍を率いる計画であり、
胤康は、その兵士として、延岡藩を説得して兵を集めようと考えたのであろう。

胤康は、延岡藩の下級武士である松崎進士を通じて、藩のトップクラス(家老)の原小太郎への働きかけを行った。
延岡藩でも、彼の活動の偵察はしていたが、他藩の扇動ということで、無視していたが、胤康の活動が延岡藩に及んできたことで、
それが直接の召し捕りのきっかけになった。

しかし、延岡藩内では、第3者をつかって胤康を暗殺するか、正式に召し捕りをするかと迷っていた。
幕府の要人との接触を繰り返して、召し捕りに踏み切っている。

その背景のよくわかる資料を見つけた。

延岡から、江戸の延岡藩邸へ胤康捕縛に至った事情を説明した文書を送っている。
そこに、胤康召し捕りをせざるを得なくなった延岡藩の苦渋の様子がよくわかる文書である。

文久2年(1862年)に延岡藩江戸屋敷へ送った手紙である。

(1)延岡藩内の決心



概訳を示す。

 「胤康は、隠謀の企てが有るかの噂が流布し、それを聞いたので、探りを入れたところ、
  疑わしい点もあり、手おくれになりかねず。他所(の国)から来ていることも、難しいばかりで、
  相談の上、急に、召し取ることになった。

  右の件は、深く心をめぐらし、考えれば、
  不容易なことに推移し、また、そのことは、
  多分、胤康の虚の談(話)から出たことでだと思い、格別の事柄とも思わないが、
  近来、人気が隠れないところまで来ていて、

  兎に角、異変の話を好むようで、その上、体(命)を捧げると言っている様子で、
  その様なところ、胤康一条について、(岡藩の)中川様のご家中で、
  右僧を深く信じている面々がある。度々、岡藩まで往来していること。

  右の様に、召捕りとなったので、以後は、人情の癖で、ご家中や町在り(町人)が、
  これを聞き、あれこれを考え、軽々に、風評をいたす連中の中には、

  今にも戦争になるべきだと騒ぎ立て、少々、足早に歩行している者も見かけ、
  何事だろうと言っている様子が、様々の中、

  今回、重役が、仰せ付けになられたことは、どんなことになるかは分からない。
  第一、 御隣国(岡藩のこと)に触れ響いているところなので、どれほど、
  誇張されて聞いたとしても、なかなか、難しいと(しようがないと)考えるあまり、

  流布が広がってしまっては、自然、公辺(幕府)の聞くところとなり、
  どんなことになるかも、これまた、難しい問題なので、
  重役が、(江戸に)出府することは、控えている。


(2)岡藩との戦争が起きるかも:対処について幕府に内密に接触し相談



概訳を示す。

 「1.右一件は、御内分ではあるが、御達になった上は、公儀の御体法に触れることもあるので、
  自然、胤康を、(幕府に)差出せということになり、萬一、胤康が、申し立てをしたら、

  この件を知っている中川様のご家中に、胤康を信仰して、
  深い交わりをしている諸面々の陰謀が露見するのは必定である。

  (延岡藩としては)御不審筋(第3者)を使って、呼び出し、殺害するか、
  または、召捕りをするならば、必死に、覚悟を決めた上は、
  いかなる異変が、到来しても、難しいことばかりである。

  もとより、公儀(幕府)の御為筋(タメスジ=利益になる)なことなので、
  既に、厚くお考えになってのことのことなので、
  ほじくり返されて、公辺(幕府)が御不為(フタメ=つまらない)のお考えが、
  生まれては、無限に、御心痛で苦心である。

  御内達(内内の手紙)で、連絡していたとはいえ、
  (正式の)御達で、文字を加えては、公儀でも、聞き捨てがたいことになり、
  道理に落ちることは、自然の事表である。

  万一、申すべきこれなどのことは、
  上でも、深く、御心を悩ませておられるだろう。

  よって、(内藤)紀伊守様(越後村上藩)の御用人である江坂正之助には、
  急いで、御内密に、お願いの件があるので、渡辺平兵衛を行かせて、
  右、胤康の一件を、具(ツブサ)に理解させ、
  幹部御一統が、心痛至極の次第を打ちあけ、密談をしたことは、
  同人が、紀伊守様に内々に報告し、意見を伺ったことと思う。

  すべて、江坂と渡辺が差し向かい、内談したことであるので、
  お恐れながら、公辺近くに行くことがあっても、
  取り計らいについて、考慮するということは、密のことなので、
  よく理解しておいていただきたい。


ここで、紀伊守とは、越後村上藩5万石の第7代藩主で、
当時、老中を務めていた内藤紀伊守・信親(ノブチカ:信思ともいう)の事である。
同じ内藤姓であるが、親戚関係ではない。

幕府の要人に、胤康の扱いについて、こっそり報告をしていた様だ。
しかし、こうせよという命令は得ていない。

召捕った時点では、将来、胤康を江戸に護送する可能性を想定していたが、
実際は、2年後に京都町奉行所へ送還することになる。

(3)召捕り後は江戸へ送還する時がその時の警護はどうするか

警護と延岡藩内のひっ迫した経済面での問題がある。



概訳を示す。

 「こうすべきだという意見を、急ぎ、御相談なさって、
  そのままに指図を欲しい。おおそれながら、今回の処置は、
  都合よく、便利で、良いものである。

  この方様は(延岡藩は)、公儀に厚く重ねてきたという考えも成り立つであろう。

 1.胤康を(幕府に)差し出すということになった場合、
  万一、当の囚人を遠路道中において、
  同類のものが、胤康を奪い執るつもりで、多人数が、申し合わせて
  乱暴に及び、万一、警護の面々が戦死するとしたら、是非に及ばないが(残念だが仕方がない)、
  逃がされなどしたら、公儀に対して、すまないことになる。

 1.胤康を、滞りなく、江戸についたとしても、道中、お手当など、
  全て、物入りが軽くはなく、ご家中では、給料(御扶助)も御届けが難しくなってきている。

  嘆かわしい事態である。

  胤康を召捕りの件は、ことに、やむを得ない次第であるが、
  台所事情は、益々、立ち行かなくなってきた。

  思えば、彼は、よくわからない人物であるが、胤康が申し立てたことは、
  右、やむを得ず、諸国の同志の事は、別紙に認めたが、

  万万一、同僧の舌頭に乗り、
  公儀が、お疑いの種を蒔くようなことがおきたのでは、
  恐れ入る事態である。


別の資料では、延岡藩内では、当時の日本でその名を知られていた志士である清川八郎、吉田寅次郎、不藤本鉄石などが、
胤康を取り返しに来るという噂があった。

胤康を召し捕りに行った連中は、腕に自信のある若手であった。

(4)大変革の時代のこれからどうするか?



概訳を示す。

 「胤康の陰謀の次第が、届けられて
  お召し捕りになったお考えは、異常なことに
  相当するが、当今の世上の様子の不穏の事を聞いているので、

  この末が、どのようになるかなと実に不容易な時代と考えるので、
  文武の引きたては、勿論の事、士気を揮(フル)いたてるつもりで、
  公儀には、御高恩に、御報いなられる御心がけ無しでは、
  理解できないご時勢である。

  その様なところで、胤康の差出しとなっては、
  常体の囚人の御取り扱いで差し出すのはできないので、
  大切な囚人に付き、如何様にもお手当で、お差出は、勿論のことであるが、

  それぞれ、免じた雑徴もますます増え、何の御手当ても得られなくなってきているのは、
  お国中は、その守護もままならない場合になってきて、
  これもまた、嘆かわしい次第である。

  よって、極まった状況は、御内密に耳に入れるので、
  その分で済ます様に、御内談をするように。


胤康を江戸に送るも、延岡藩の経済状態では、厳しいのである。
通常の囚人の様な護送はできないとも述べている。その分、護送の費用はかさむ。

【3】 いざ召し捕り

(1)召捕りの命令書

(原文は示さないが)、概訳のみを示す。

 「壬戌(文久2年=1863年)3月10日
   臺雲寺末曽木門慈眼寺
            看主 胤康

  右の僧、御不審の筋があるので、ただ今より、急の都合で、召し捕りをするように、御用番より沙汰があった。
  尤も、御家老より、内々の沙汰筋(極秘裡にやるように)もあったことなので、
  左の通り、差配をする様に、御用番より申し聞く。

  1) 慈眼寺の本寺である臺雲寺に内沙汰のこと(秘密であること)、
      但し、召し捕りの時は、本寺に差し添えをやるべきこと(付き添えをさせること)。

  2) 町方同心(町人を取り締まる警察官のようなもの)を2名を差配するべき事
  3) 町方より佐々木軍七を差し遣るべきこと

  4) 警護用の足軽を選んで15人を差配すべき事

  右の通り、御用番の書面を渡す。右に付き、役所より
    佐々木軍七


  同心 渡部秀治、太田平治、甲斐安治。他に警護用の足軽15人

  同断につき、郡方より
  下役(磯貝善右衛門)、御代官(岡野若衛)、御勘定人(松崎左十郎)、他に同心(2名)、警護足軽(10名)


という記録がある。

大正9年に書かれた胤康伝「勤王史譚胤康和尚」(若山甲蔵著)にも、召捕りの状況が詳しく書かれているが、
そこにある召し捕り側の氏名が今回の資料と全く一致しないのはなぜだろう。

大正9年には、最後の殿さまである内藤政挙公をはじめ、まだ存命の関係者も少なくなかった頃であるのに不思議である。

(2)召捕りの様子を記した文書



概訳を示す

 「慈眼寺に夜明けに行着き、それぞれ、手分けをして、四方に、
  取り方を配置し、台所口より、2人、中の口より2人、
  見つけ(見張り)のため、玄関に1人、いずれも戸をあけ、

  立ち入ったところ、胤康は、まだ寝ていたので、「上意」という声をかけ、
  帯を締めるように伝えたところ、それを聞いて、帯を示させたところ
  どういう訳か、「訳が分からない」という。

  便所に行きたいというが、それはできないと答えた。
  縄をかけた上で、(本寺である)台雲寺の役僧から召捕りになった理由を聞かせ、
  引き立てて、北方村の大庄屋の家へ連れて行った。

  そこで、休ませ、飯を取らせたところ
  罪人の様な扱いの中で、最後まで、一切、何も言わず、
  それから、山駕籠に乗せて、警護に8人、勘定人が付き添い

  昼九つ(正午)に、延岡城の日向門から、御用所、不浄門から入り
  そこで、身を預け、揚屋にいる様に申しつけた。

 1.踏み込み、その他、新規の仕立てなどの品を取り上げた。


ここで、揚屋(アガリヤ)とは、江戸時代法制用語で,大名や旗本の臣,武士,僧侶など身分のある未決囚を入れたところである。
江戸府内では、小伝馬町にあった牢屋敷の一部に設置されていたものが有名であるが、各藩にも同様のものがあった。

文字は同じで、別の読み方である揚屋(アゲヤ) は、江戸時代の、吉原等で、客が、置屋から太夫、天神、花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のことである。
意味は全く異なる。

胤康が入った揚屋は、当時の城内で、現在の岡富中学校の校庭脇にあり、それを示す小さな記念碑が堤防のそばにひっそりと建っている(昭和59年建立:右写真)。

  胤康の部屋に押し入る時、「上意」と告げている。捕縛は、殿さまの意思であるという宣言である。

【4】 召し捕り後の取り調べ

胤康は、自分が捕まる事について、覚悟はしていたが、いざ、その段になると、囚人扱いにたいしては、絶食を以て、強く抗議をしている。その後、揚屋における胤康の扱いは、犯罪者としてではなく、丁重に扱われているのがわかる。

1)文久2年3月13日

  胤康の抵抗>
  @ 無罪の私、在任同様の入牢を申しつけるという扱いは、同意できない。
    穢い処にて、食事をするというのは、死後、骨まで、穢くなってしまうので、食事は絶やすと主張した。
  A 無罪の私が、威力を以て、牢に押し込め、今日まで御吟味もなく、
    且つ、天子の尊号をも安置している場所に土足にて踏み込み、罪人同様、縄をかけたのは、承服できない。
    無体に威力を以て、威圧倒されることは、是非(理由)なき旨を主張した。

2)同年3月16日

   揚屋が新たに、建設された。今日、胤康引き移る。

3)同年3月25日

   胤康の申し立てにより、家老が聞くと伝えて、御用人が意見を聞くため、3奉行が一緒に夕方7ツ時に、白洲へ呼び出す。

4)同年4月6日

   胤康、食事を拒否。この日は、昼に茶1杯。

5)同年4月8日

   胤康、7日は、飲まず、8日に、茶1杯。
   色々あったが、食事をとるようになった。

6)同年4月15日

   朝と夕、汁と香のもの。昼:汁、香の物、猪口。汁の実、煮〆、露の物、日々、品に偏らない様に気を付けている。
   は、日々、茶碗2杯。これには、煮〆をつけている。また、養生の為、魚類は、5日目位につける(5日に1回)。
   菓子は好き次第に5日位に提供。醤油や味噌は、宜しき品をつける。梅なども宜しく心付け。

7)同年8月16日

   胤康の申し立ての聞き取り書>

   昨年4月20日ごろ、岡藩の子弟契約の者から手紙がきた。
   1大事があり、岡へ罷り越願うという趣旨。拙僧は、本寺(臺雲寺)に対し、よんどころ無き理由で岡へ行くと連絡して、
   5月まで岡に滞在した。
   5月10日頃、岡藩へ来て、岡藩の門弟に聞いた処、薩摩の藩士である是田柳右衛門が、攘夷の志の者、
   薩摩だけで600人ほどが京都へ上るという。

   拙僧が答えて、600人同志の者があると言えども、君公がご承知でなければ、臣下の身分の者が、勝手に済まじき、
   600人がいるというだけでは、決断でき兼ねる。
   もし、打ち出すというなら、君公の承認が無ければ、即座に進退窮まる。その辺を、各の思慮はどうかと尋ねた。

   拙僧の申し分は、尤もである。
   薩摩の600人が日置というところに集まっているというが、事実は疑わしい。
   心中は、彼らと苦労を共にしたい。昨年6月初め頃に、彗星が現われた。うまくいくかと思った。

   昨年8月、延岡藩に30年も居る恩もある。(延岡藩の)ご家中の松崎進士なる者が寺へ訪ねてきた。
   延岡藩内の活動を促し、家老・穂高への接触を試みる。

   今年(文久2年)2月5日、岡藩より使者。京都の田中河内介が来て、天皇の御印を岡藩へ持ってきた。
   薩摩と岡藩は全員、肥後も多数が、加わるという。
   この頃、(延岡藩の家老格)中老の原小太郎の探索の者が寺を訪ねている。

8)文久2年3月:

  「薩州の江戸屋敷の焼き払いについて、右の通り、報告があり、最初は、聞いた通りに信じ、
   皆で意見交換した時の話では、京都(朝廷)や薩摩が、関東(幕府)に恨みを持つ様子で、
   薩摩が1番手、岡藩が2番手、肥後が3番手、

   その他、九州の過半数が含まれるというが、夷船打ち払いの同志なら、外様、譜代の違い無いはずなのに、
   延岡藩は御譜代に付き、九州内でも延岡藩を除いた様だ。

   全部で立ち上がるというのは表むきで、実際は、関東征伐が本音ではないかと、拙僧も怪しいと思った。
   そこで、懸念すべき点ありと申し立てた。その時、証書などが全くなかった。」

9)岡藩の人物評価

  延岡藩の聞き取りの中で、岡藩の小河弥右衛門に関して、「彼は、読書もし、才知も人に勝り。
  竹田の1人にて、是まで、7度も御咎めを受けたにもかかわらず、志を曲げず、どんな場でも、人の心を動かす人で、
  水戸、越前、長州、その他九州の諸所の人を知る。」と示している。

【5】 資料

   1) 明治大学所蔵資料: 資料3-20-320-5:江戸同席
   2) 明治大学所蔵資料:資料3-20-320-1:召捕り手続き
   3) 勤王史譚胤康和尚
   4) 宮崎県通史:別編:維新期の日向諸藩
    

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