第61話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(1)=誕生―活躍―終焉の地 

No.62> 第62話:延岡藩の幕末の志士胤康禅師(2)=胤康の思想の原点と骨格

        田舎坊主の胤康禅師が倒幕につながる勤王の志士になぜなりえたか。
          その彼の思想の骨格を探る


 
今回のトピックス


      勤王の志士である胤康禅師が田舎の坊主でありながら日本中の勤王志士の中心人物の一人になりえたか。
      それは彼の思想にある。

      彼の思想の原点と骨格を探る。



                                         (2018.5.15)


【1】 序:胤康の3期


幕末の勤王志士の一人で、当時、延岡藩内の現北方町の曽木にある慈眼寺の住職であった禅僧・胤康(1821-1866) の紹介をしていきたい。

幕末の勤王という基本姿勢を基軸に、胤康禅師の行動を考える時、3つの時代区分で考えるべきであろう。

第1期は、ペリー来航(1853年=嘉永6年)以前である。

第2期は、勤王の考え方の対局として和宮の将軍家への降嫁を中心とした公武合体の流れが出てくる時代で、
藩の考えとは独立に個人レベルで尊王攘夷の思想で集った若者の行動の行きつく末としての寺田屋事件の起き、 胤康が捕えられる文久2年(1862年)までである。

第3期は、胤康が捕えられながらも何とか赦免にこぎつけたい延岡藩の苦闘が続くなかでの京都所司代に移管され牢死して、 明治維新を迎えるまでで、世の中が急に尊王攘夷から、尊王倒幕へ急展開をする時期である。

勤皇の動きに着目する史観は、幕末を理解する別の基軸である。
明治維新は、ペリー来航によって、初めて作られた流れではないのである。

胤康に関して考えるなら、九州の田舎にいながら、武士でもない一介の坊主が勤王のなかで大きな存在となる経緯で、
誰の影響を受けて、勤王の考えに染まり、倒幕を考えるようになったかが、最大の関心事である。
それをできるだけ探りたいというのが今回のレポートである。

【2】 胤康の年譜と草莽の志士

(1)成人前

当報告の胤康(1)と、少し重複する点はお許しを願う。

胤康は、文政4年(1821年)に、武蔵国豊島郡赤塚村(現東京都北区赤塚)に、篠崎郷右衛門という郷士の子として生まれたが、
4歳の時に、父が病死して、母の実家(北條姓)に帰る。
近くあった近くに禅宗曹洞派の萬吉山松月禅院(寺領40石という御朱印を賜っている。右第1写真)の第27世住持の大隣天休に利発な子と認められ、 胤康が8歳の時に、弟子入りし、最初は、“彭康(ホウコウ)”という名をもらっている。

天休は、天保元年(1830年)の夏に、金銭トラブルで松月院を免職となったので、
彼の出身寺である肥後国(現熊本県)の大梁山大慈寺(現熊本市南区。九州一古い寺)へすがることにして、
弟子の胤康(10歳:当時は彭康という名であるが胤康に統一する)をつれて、大慈寺に移動している。

そして、2年後の夏(天保3年=1832年)、延岡の中心部にある臺雲寺(ダイウンジ:曹洞宗)に移っている。
その翌年(天保4年)、さらに臺雲寺の48ある末寺の一つである北方村曽木にある善財院に移ったが、
間もなく、同院は、廃寺となり、
天保6年(1835年:胤康15歳)の時に、同じ曽木にある慈眼寺(右第2写真)に移っている。同寺が、胤康の最後の寺になったのである。

延岡における曹洞宗の中心的寺である臺雲寺の本山は、江州(=近江国)総寧寺であるが、
この総寧寺は、山号を安石山といい、始めは近江国に創設されたが、紆余曲折の後、
徳川政権によって寛文3年(1662年)千葉県市川市に移されて、寺領128石5斗の広大な敷地を与えられている。

徳川時代には、10万石の大名と同等の格式を与えられている(門前に「下馬」と記された石碑がある(右第3写真)。
明治になり、政府に上地された。勝海舟によって現東大の敷地候補になったこともあり、後、陸軍病院等が設置され、
現在は、国立病院や東京医科歯科大学教養学部、諸学校の土地になって、総寧寺自身は、葵の紋章の入った本堂など少しを残すだけである。

必要以上に詳しく書いたのは、筆者の住宅のすぐそばという親しみからである(失礼)。

   注>曹洞宗の本山は、2つある。一つは、福井県にある大本山永平寺であり、
      もう一つは横浜市にある大本山總持寺(ソウジジ)であり、
      曹洞宗では、これを両大本山といっている。

(2)成人後

胤康は、自身が武士の出ということもあり、武道に強い関心を持ち、 兵学は、山鹿流を延岡藩士の山本半蔵に学んでいる。

また、若いころ、武道や忍術の鍛錬もしている。
大きな凧にのって空中に浮いたこともあると、
終生、胤康の世話をしていた豪農・甲斐寶作(ホウサク)の思い出にある。

胤康は、天保8年(1837年:胤康17歳)から、
天休の出身寺である大慈寺で数年にわたり修行している。

そこで、仏学や儒教など広く学び、この時期に九州の志士と知り合うことになると記録にはあるが、
この時期に交わった人物の氏名は不明である。

しかし、当時、彼は、常に「神皇正統記」や「中朝事実」を旁に置いていたというから、勤王へ傾いていったのは間違いない。

ここで、「中朝事実」は、山鹿素行が寛文9年(1669)に著した尊王思想を説いた書物であるが、
天皇制の崇拝と同時に、君臣の上下の秩序を説いてもいる書物である。

また、「神皇正統記」は、南北朝時代、南朝方についた北畠親房による南朝の正当性を説いた書物である。

嘉永元年(1848年:胤康28歳)の時、諸国を漫遊すると同時に、当時の政治情勢や城下町の構造等も探る旅でもあった。
その旅の途中、岡藩矢野勘三郎に会い、意気投合して、岡藩城下に立ち寄り、岡藩の要人と交わることになる。

まず、岡藩とは、現在の大分県竹田市を中心とする7万石(延岡藩と同じ石高)の外様の藩である。
延岡藩の領内である高千穂と接しているから、延岡藩と隣接する藩といえる。

今回の矢野勘三郎は、岡藩に数万両を貸し付けるほどの、同城下の豪商であった。
それ故に、30人扶持の武士に取り立てられている。

当時、岡藩には、小河弥右衛門という熱烈な勤王の志士がおり、
彼は、九州だけでなく、京都、水戸などに人脈をもっていた。

矢野勘三郎も小河に従い、勤王の大義を唱えていた。後に、岡藩の勤王志士17人衆に名を連ねている。
胤康は、この矢野と意気投合して、後に、小河弥右衛門とも親しく付き合うことになるのである。

胤康は、岡城から1里(歩いて1時間ほど)の鬼が城に寓居を構え、そこで講筵(=塾)を開いて、易経、兵学、そして大義名分を教えた。
この「大義名分」こそ、後に述べる、水戸学の基本であり、胤康が勤王の志士となる原動力となった思想である。

この最初の滞在時の弟子の中に、広瀬重武(当時13歳:日露戦争の英雄である広瀬武夫の父)がいた。
また、岡藩の藩主:中川修理大夫久昭の親戚でもあり3000石の大夫である中川土佐もこの時、
胤康に弟子入りして、日夜、尊王思想の議論を重ねている(広瀬重武の記録より)。

胤康は、岡藩内の仏具士(伊右衛門)の彫らせた如意輪観音像を背に、再度、日本行脚に出るため、
岡藩を後にした数日後に、すれ違いで、小河弥右衛門が旅から帰ってきている。

そして、1年ほど日本を漫遊して、翌嘉永2年(1849)に、延岡に帰ってきた。
しかし、嘉永3年には、2度目の大旅行に出ている。
その時は、大和、河内、和泉、摂津など関西を中心にめぐり、一旦、豊後(大分)に戻り、再度、近江、美濃、信濃地方の各藩を周っている。

延岡を発って2年目の嘉永5年(1852)に、帰途、岡藩に立ち寄り、
そこで、小河弥右衛門(オゴウ・ヤウエモン:別名=一敏:1813-1886)と遂に逢うことができた。
(右写真:ヒゲの爺さんが小河弥右衛門=一敏の晩年である)

そこで、2人は、3日間議論したが、その結果、小河は、胤康に対し弟子の礼を取るに至った(広瀬重武の記録より)。

小河は、胤康より8歳も年上であったが、胤康の才能と器量を認めた結果なのだろう。
以来、胤康と小河と広瀬は、事あるたびに、行き来や手紙のやり取りをしている。

小河は、当時の日本中のほとんどの勤王志士と付き合いがあり、また、彼は明治18年まで長生きしているので、
資料が豊富である。胤康の考え方を見るためには、彼が影響を与えた小河の具体的活動を見るのがよい。

詳しくは、次号に述べるが、今回は、右年表に、互いの接触を中心に、できるだけ詳しく書きこんだ。

【3】水戸学と勤皇の考え

勤王の考えは、幕末になる前から確実に存在した。
江戸の政治体制に対する思想の流れを右に示す。

佐幕(幕府維持派)と勤王は、始めは必ずしも対立するものではなかった。

当時、天皇制を唯一の国体と考え、幕府による治世に疑問を抱く者を
(勤王)志士といい、多くは、武士という既得権者ではない者、
つまり、庄屋、僧侶、浪人などが主体の考え方であった。

その中で、水戸藩だけは例外である。
幕末の勤王、そして、尊王攘夷の基本思想と倒幕への流れを作ったのは、
水戸藩を源流とする水戸学である。

徳川御三家の一つが、倒幕の源流というのはおかしな感じがするが、事実である。

(1)前期水戸学

水戸学を考える時は、前期水戸学後期水戸学を分けて考える必要がある。

前期は、水戸光圀(右写真)による「大日本史」の編纂が始まりである。

仏教を否定し、孔子、孟子に始まる儒教を主軸にして、 あるべき社会の基軸を意識し、国家の基本構造を天皇制と考えた。

合理的に理屈で考える儒教を基本とするから、古事記や日本書紀にある天皇の神話と史実(業績)を区別して、
合理的な歴史書を作ろうとしたのである。

前期水戸学の中心の考えは、

  @ 天皇は、神武天皇から始まることで、それ以前は、神話である。

  A 後醍醐天皇の時、南朝と北朝に分かれ、現在の天皇家は、
    北朝の流れを継いだものであるが、水戸学では、
    南朝こそが正統であると結論している。

    それは、北畠親房の「神皇正統記」と同じ結論である。
    この時代の、楠木正成こそ忠臣であると結論づける
    (足利尊氏は逆臣となる)。

  B 神功皇后(仲哀天皇妃で応神天皇の母)を天皇とは位置づけない

などの事を柱としている。

天皇を最上の存在とし、その上に神がいる。上から下への秩序を唱える。

すると、徳川家の位置づけはどうなるか? 
徳川将軍といえども天皇の臣下であり、天皇に忠義を尽くすべであると結論付けている。
徳川家の否定には放っていない。

光圀を語るのに大事な言葉に「大義名分論」というキーワードがある。
光圀の時代、学問の分野のトップにいた林羅山は、歴史書「本長通鑑」を表しているが、
その内容について、光圀が、林羅山のことを「大義名分」を知らぬ者だとこき下ろしている。

この大義名分とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、
出処進退などのあり方を指したものである。
江戸幕府が設定した士農工商の身分社会制など,君臣の支配服従関係を絶対化する仕組みの骨格となった。

朱子学的名分論のもとでは,幕府の権力は朝廷から委任されたものであるから正統であると解釈されてきたが,
幕末には、民衆の意識の向上のもとで,幕府は朝廷の命に服すべきであるとの尊王主義の原理を生み出すにいたったのである。

これが、先に述べた、胤康の勤王思想の骨格を作ることにつながっていく。

(2)後期水戸学

後期水戸学は、藤田幽谷(1774-1826)に始まり、
彼の一番弟子である会沢正志斎(1782-1863)と幽谷の息子である藤田東湖(1806-1855)で頂点をなす。

右写真は、尊王そして攘夷、最終的に倒幕につながった思想の柱を作った藤田東湖である。

藤田幽谷は、商人(古着屋)の生まれであるが、「大日本史」編纂所教授で彰考館の館長だった立原翠軒に弟子入りし、
幼いころから才能を示して、18歳の時に「正名論」を表し、
時の藩主(徳川治保)に彰考館の正式メンバーに抜擢され、後に水戸学の総帥になった。

「正名論」に示されている幽谷の考えの基本は、「尊王賎覇」である、尊いのは「王」(徳をもって治める)であり、
「覇」(武力で世を治める)は賤しい。つまり、徳川より天皇の方が上であるという考えになっている。

そして、尊王排覇論へと進化する。天皇家を尊び、「」(徳川将軍)を排するという考え方である。

最後の将軍である慶喜は、御三卿のひとつの一橋家の出身であるが、もともとは水戸家から養子に入っているのであるから、
慶喜は、水戸学に心酔していた。「いったんことがあれば、自分は、(徳川家側ではなく)、京都側(天皇側)につく」と常に述べていた。

鳥羽伏見の戦で「錦旗」を目の前にしては、彼は、天皇家にたてつくことはできなかったのである。

水戸学では、幽谷と師匠の翠軒の考えが論争となり、結果、幽谷が勝利するが、藩内での両派の確執は、
佐幕派と尊王倒幕派幕末まで続き、水戸藩の不幸の始まりでもあった。

水戸学の急進的な藩士は脱藩し、浪人の身となって「桜田門外の変」、「天狗党の挙兵」などを起こすことになるが、
それは、別の機会に譲る。

(3)後期水戸学の背景(1/2)=草莽の芽

後期水戸学の背景には、当時の2つの社会的変化がある。

一つは、幕末に近づくと、農民社会を中心に具体的には徴税に発しているが、それが体制への不満となり、 一揆などの騒動が増えてきた。農民社会にも貨幣経済が浸透し近代ブルジョアジージーが育ってきて、経済的不満が起きてきた。

それは、マルクスの「資本論」が発表されたのが1867年(慶應3年)であるが、日本も経済を原因として旧社会への疑問が出始めた時期とも言える。
この時期の騒動に、庄屋など武士階級ではない人物が中心にいることも特徴である。

今回のシリーズでも、胤康は坊主である。このように、武家社会ではない人物による社会改革運動家を「草莽」(ソウモウ)という。

これを最初に唱えたのが、吉田松陰である。
吉田松陰自身は武士出身であるが、殆ど学者であり、彼の活躍時期には、士籍をはく奪されている。

藩主から家臣までの武家社会には社会改革の原動力が無いと決めつけている。
水戸学では、謀反を起こそうとする市民に対して、秩序を守るように論理的に説得するために、
天皇という絶対の存在と、それからの順に下に続く組織がある。

徳川というもう一つの組織はあり得ないという結論に達する。

藤田東湖の思想は、封建的な身分秩序を厳しく守るもので、その尊王という考えは、将軍も天皇を尊び、諸侯は将軍を敬い、
諸藩士は藩主に忠義を尽くすべきという上から下までつながる秩序の考えである。

それが、「大義名分」論である。

(4)後期水戸学の背景(2/2)=海外からの神州への進出・侵入が相次ぐ

藤田東湖(1806-1855)の時代には、すでに、海外諸国から開国要求が相次いでいた。

特に、1824年(文政8:東湖19歳)に水戸藩領の大津浜に英国船が水や食料を求めて上陸してきたという大津浜事件が起きている。

その時、父親の幽谷は息子に対して、
「このまま、夷狄をおめおめ帰したら侮りを受けることになる。
お前は、命を懸けて阻止せよ」
と命じている。

彼が浜に到
着した時は、英国船は去った後だった。この事件が東湖のトラウマになっているのは間違いない。
天皇制を絶対視するうえで、海外からの進出は絶対に許すことができない。
そこで、尊王の考えに攘夷が組み合わさることになる。

ペリー来航とそれに続く、日米和親条約締結によって、尊王攘夷が本格的になるが、
尊王攘夷の考えは、藤田東湖によって、それ以前にすでに芽が出ていた。

(5)藤田東湖を中心に水戸藩と勤王の志士とのつながり

勤王を信じて、脱藩して京都に集まった志士は種々の藩にいるが、勤王の中心となった中心人物は、
薩摩の西郷隆盛、長州の吉田松陰ー久坂玄瑞―桂小五郎、土佐の武市半平太などである。

他に、胤康−小河弥右衛門―清川八郎―真木和泉―田中河内助のつながりが勤王志士の代表的な社会を構成していた。

武市半平太は、岡藩と延岡藩を訪問(万延元年=1860)し、特に、岡藩には、弟子の岡田以蔵を1年間残している程につながりが深い。

小河弥右衛門は、その後も、武市半平太と付き合いがある。また、武市半平太は、久坂玄瑞としきりに書簡のやり取りをしている。
当時の日本社会の勤王の動きは、個人レベルでの付き合いで会った。

西郷隆盛藤田東湖との逸話を示す。
西郷は、安永元年(1854)4月に、小石川にあった水戸藩邸で、藤田東湖に初めてあって以来、
その後、何度も訪問しているほど、影響をうけている。時に、東湖が49歳、西郷28歳である。

「東湖先生も至極丁重なることにて、桂の宅差し越し申し候と、清水に浴し候あんばいにて、
心中一点の雲霞なく、ただ清浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第に御座候」

といかに心酔しているかを述べている。しかし、付き合いは1年半程度で終わってしまった。
江戸大地震で、東湖が圧死してしまったのである。西郷は、東湖の喪失を大いに嘆いている。

西郷が、安政6年(1859)に大久保利通に送った手紙に、諸藩の有志として有望な人材8人の名前を挙げているが、
その中に、水戸の武田耕雲斎の名前を挙げている。彼は、東湖、その息子の小四郎につながる人材である。
(しかし、天狗党を首領として小四郎とともに斬首された)。

【4】胤康の思想

一介の田舎の坊主でしかない胤康が、どうして、倒幕にまでつながる勤王の志士たりえたかは、大きな関心事である。
彼は、数回にわたって、長期のしかも、幕末変動の中心となる各地を漫遊旅行にでて、日本国内の最新の動きと考え方を身に着けることができているので、
「田舎の坊主」というハンディキャップはない。

彼の固有の思考結果と同志から得た思想によって、彼の勤王思想の骨格はできたのだろう。

胤康の思想のアウトプット部分は、次号で紹介する小河弥右衛門の行動で分かるが、
できたら、胤康が何を考えていたか、社会をどうしたいと考えていたのかという、彼の思想を読み解きたい。

彼が、大義名分という考えで、天皇を中心とする社会の実現を考え考えていたのはわかる。
そして、彼が、武士ではないことから、藩主を頂点とする藩体制に未練が無いのもわかる。

久坂玄瑞(長州)や、田中河内助(公卿家臣)などは、現藩主では社会変革はできない、
社会変革に無能な藩主は不必要であるという趣旨を語っている。

ところが、武市半平太は、郷士からやっと上士になったこともあってか、藩主体制への否定はできていない。
武士階級のしがらみから脱することができていない。ところが、胤康には、当然、その様なしがらみは無い。

実際、岡藩の中川土佐をけしかけて、義挙を行うことを訴えているところから、「尊王排覇」(倒幕)の考えも、
そして、次号で触れる寺田屋事件につながる基本的な考え方から、民衆の力を背景に大政奉還を目指していた。

ここまでは確かであるが、この後の議論には、確かな資料が見つからないので、想像でしかないが、胤康は、自分が庶民であることから、
新時代は、庶民による平等な世の中が実現できると考えていたのではないだろうか。

この仮説を立証する史料を見つけるのが、私の今後の仕事となるだろう。

【5】資料

   1) 若山甲蔵著  : 勤王史譚胤康和尚(蔵六書房)(大正9年出版)
   2) 久保田源吉伝 : 僧胤康伝(明治26年出版)
   3) 竹田町教育会 : 奮岡藩勤王家略伝(小河弥右衛門伝)(昭和15年出版)
   4) 田尻祐一郎著 : 江戸の思想史(中公新書)
   5) 井上清著    : 西郷隆盛。上と下(中公新書)
   6) 田中彰著    : 吉田松陰.変転する人物像(中公新書)
   7) 西尾幹二著  : 維新の源流としての水戸学(徳間書店)
   8) 山川菊栄著  : 覚書.幕末の水戸藩:(岩波文庫)
   9) 高木俊輔著  : 幕末の志士。草莽の明治維新(中公新書)
   10)入江好脩著  : 武市半平太(中公新書)
    



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