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勤王の志士である胤康禅師が田舎の坊主でありながら日本中の勤王志士の中心人物の一人になりえたか。 それは彼の思想にある。 彼の思想の原点と骨格を探る。 (2018.5.15) |
幕末の勤王志士の一人で、当時、延岡藩内の現北方町の曽木にある慈眼寺の住職であった禅僧・胤康(1821-1866)
の紹介をしていきたい。
幕末の勤王という基本姿勢を基軸に、胤康禅師の行動を考える時、3つの時代区分で考えるべきであろう。
第1期は、ペリー来航(1853年=嘉永6年)以前である。
第2期は、勤王の考え方の対局として和宮の将軍家への降嫁を中心とした公武合体の流れが出てくる時代で、
藩の考えとは独立に個人レベルで尊王攘夷の思想で集った若者の行動の行きつく末としての寺田屋事件の起き、
胤康が捕えられる文久2年(1862年)までである。
第3期は、胤康が捕えられながらも何とか赦免にこぎつけたい延岡藩の苦闘が続くなかでの京都所司代に移管され牢死して、
明治維新を迎えるまでで、世の中が急に尊王攘夷から、尊王倒幕へ急展開をする時期である。
勤皇の動きに着目する史観は、幕末を理解する別の基軸である。
明治維新は、ペリー来航によって、初めて作られた流れではないのである。
胤康に関して考えるなら、九州の田舎にいながら、武士でもない一介の坊主が勤王のなかで大きな存在となる経緯で、
誰の影響を受けて、勤王の考えに染まり、倒幕を考えるようになったかが、最大の関心事である。
それをできるだけ探りたいというのが今回のレポートである。
胤康は、自身が武士の出ということもあり、武道に強い関心を持ち、 兵学は、山鹿流を延岡藩士の山本半蔵に学んでいる。 また、若いころ、武道や忍術の鍛錬もしている。 大きな凧にのって空中に浮いたこともあると、 終生、胤康の世話をしていた豪農・甲斐寶作(ホウサク)の思い出にある。 胤康は、天保8年(1837年:胤康17歳)から、 天休の出身寺である大慈寺で数年にわたり修行している。 そこで、仏学や儒教など広く学び、この時期に九州の志士と知り合うことになると記録にはあるが、 この時期に交わった人物の氏名は不明である。 しかし、当時、彼は、常に「神皇正統記」や「中朝事実」を旁に置いていたというから、勤王へ傾いていったのは間違いない。 ここで、「中朝事実」は、山鹿素行が寛文9年(1669)に著した尊王思想を説いた書物であるが、 天皇制の崇拝と同時に、君臣の上下の秩序を説いてもいる書物である。 また、「神皇正統記」は、南北朝時代、南朝方についた北畠親房による南朝の正当性を説いた書物である。 嘉永元年(1848年:胤康28歳)の時、諸国を漫遊すると同時に、当時の政治情勢や城下町の構造等も探る旅でもあった。 その旅の途中、岡藩の矢野勘三郎に会い、意気投合して、岡藩城下に立ち寄り、岡藩の要人と交わることになる。 まず、岡藩とは、現在の大分県竹田市を中心とする7万石(延岡藩と同じ石高)の外様の藩である。 延岡藩の領内である高千穂と接しているから、延岡藩と隣接する藩といえる。 今回の矢野勘三郎は、岡藩に数万両を貸し付けるほどの、同城下の豪商であった。 それ故に、30人扶持の武士に取り立てられている。 当時、岡藩には、小河弥右衛門という熱烈な勤王の志士がおり、 彼は、九州だけでなく、京都、水戸などに人脈をもっていた。 矢野勘三郎も小河に従い、勤王の大義を唱えていた。後に、岡藩の勤王志士17人衆に名を連ねている。 胤康は、この矢野と意気投合して、後に、小河弥右衛門とも親しく付き合うことになるのである。 胤康は、岡城から1里(歩いて1時間ほど)の鬼が城に寓居を構え、そこで講筵(=塾)を開いて、易経、兵学、そして大義名分を教えた。 この「大義名分」こそ、後に述べる、水戸学の基本であり、胤康が勤王の志士となる原動力となった思想である。 この最初の滞在時の弟子の中に、広瀬重武(当時13歳:日露戦争の英雄である広瀬武夫の父)がいた。 また、岡藩の藩主:中川修理大夫久昭の親戚でもあり3000石の大夫である中川土佐もこの時、 胤康に弟子入りして、日夜、尊王思想の議論を重ねている(広瀬重武の記録より)。 胤康は、岡藩内の仏具士(伊右衛門)の彫らせた如意輪観音像を背に、再度、日本行脚に出るため、 岡藩を後にした数日後に、すれ違いで、小河弥右衛門が旅から帰ってきている。 そして、1年ほど日本を漫遊して、翌嘉永2年(1849)に、延岡に帰ってきた。 しかし、嘉永3年には、2度目の大旅行に出ている。 その時は、大和、河内、和泉、摂津など関西を中心にめぐり、一旦、豊後(大分)に戻り、再度、近江、美濃、信濃地方の各藩を周っている。 延岡を発って2年目の嘉永5年(1852)に、帰途、岡藩に立ち寄り、 そこで、小河弥右衛門(オゴウ・ヤウエモン:別名=一敏:1813-1886)と遂に逢うことができた。 (右写真:ヒゲの爺さんが小河弥右衛門=一敏の晩年である) そこで、2人は、3日間議論したが、その結果、小河は、胤康に対し弟子の礼を取るに至った(広瀬重武の記録より)。 小河は、胤康より8歳も年上であったが、胤康の才能と器量を認めた結果なのだろう。 以来、胤康と小河と広瀬は、事あるたびに、行き来や手紙のやり取りをしている。 小河は、当時の日本中のほとんどの勤王志士と付き合いがあり、また、彼は明治18年まで長生きしているので、 資料が豊富である。胤康の考え方を見るためには、彼が影響を与えた小河の具体的活動を見るのがよい。 詳しくは、次号に述べるが、今回は、右年表に、互いの接触を中心に、できるだけ詳しく書きこんだ。
勤王の考えは、幕末になる前から確実に存在した。 江戸の政治体制に対する思想の流れを右に示す。 佐幕(幕府維持派)と勤王は、始めは必ずしも対立するものではなかった。 当時、天皇制を唯一の国体と考え、幕府による治世に疑問を抱く者を (勤王)志士といい、多くは、武士という既得権者ではない者、 つまり、庄屋、僧侶、浪人などが主体の考え方であった。 その中で、水戸藩だけは例外である。 幕末の勤王、そして、尊王攘夷の基本思想と倒幕への流れを作ったのは、 水戸藩を源流とする水戸学である。 徳川御三家の一つが、倒幕の源流というのはおかしな感じがするが、事実である。
一介の田舎の坊主でしかない胤康が、どうして、倒幕にまでつながる勤王の志士たりえたかは、大きな関心事である。 彼は、数回にわたって、長期のしかも、幕末変動の中心となる各地を漫遊旅行にでて、日本国内の最新の動きと考え方を身に着けることができているので、 「田舎の坊主」というハンディキャップはない。 彼の固有の思考結果と同志から得た思想によって、彼の勤王思想の骨格はできたのだろう。 胤康の思想のアウトプット部分は、次号で紹介する小河弥右衛門の行動で分かるが、 できたら、胤康が何を考えていたか、社会をどうしたいと考えていたのかという、彼の思想を読み解きたい。 彼が、大義名分という考えで、天皇を中心とする社会の実現を考え考えていたのはわかる。 そして、彼が、武士ではないことから、藩主を頂点とする藩体制に未練が無いのもわかる。 久坂玄瑞(長州)や、田中河内助(公卿家臣)などは、現藩主では社会変革はできない、 社会変革に無能な藩主は不必要であるという趣旨を語っている。 ところが、武市半平太は、郷士からやっと上士になったこともあってか、藩主体制への否定はできていない。 武士階級のしがらみから脱することができていない。ところが、胤康には、当然、その様なしがらみは無い。 実際、岡藩の中川土佐をけしかけて、義挙を行うことを訴えているところから、「尊王排覇」(倒幕)の考えも、 そして、次号で触れる寺田屋事件につながる基本的な考え方から、民衆の力を背景に大政奉還を目指していた。 ここまでは確かであるが、この後の議論には、確かな資料が見つからないので、想像でしかないが、胤康は、自分が庶民であることから、 新時代は、庶民による平等な世の中が実現できると考えていたのではないだろうか。 この仮説を立証する史料を見つけるのが、私の今後の仕事となるだろう。
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