今回のトピックス |
---|
譜代大名であった延岡藩の中にも、勤王の志士として倒幕を企て、日本中をめぐり、 日本中の仲間の志士と連携をした禅宗の住職がいた。 名を胤康といい、目的半ばで延岡藩に捕縛され、京都奉行所に送還され、維新の2年前に獄死した。 彼の魂は、京都東山の霊山に今も眠っている。 かれの誕生の地、活躍の地、そして、終焉の地を巡ったので紹介する。 ********* 当HPをご覧になった大分県の小河哉右衛門を研究されている狭間様から貴重な資料を頂きましたので、 当HPに追加して、紹介いたします。(2018.8.31) (2018.3.28) |
延岡藩の幕末を語る時に欠かせない人物の一人に僧侶の胤康(右の似顔絵)がいる。
彼は、延岡藩内の北方町の禅宗である曹洞宗の慈限寺の僧侶でありながら、勤王の志士として、活動し、
当時の日本国内各地の代表的な勤王志士と接触し、特に薩摩藩と提携して、幕府転覆を画策していたが、
寺田屋事件で企てが失敗し、また、彼自身も、延岡藩の藩士を通じて藩主の説得に失敗し、
徳川政権が終わる数年前、延岡藩内で捕縛され、数年の間、投獄された後、京都町奉行所に送られ、
慶應2年に、獄死した勤王の英雄である。
彼は死後の明治35年に従四位に叙せられている。従四位というのは、武士階級でない志士としては、破格の評価である。
右の表を見ると、従四位のすぐ上の正四位には、坂本龍馬、高杉晋作、武市半平太、吉田松陰、久坂玄瑞など幕末史のそうそうたる人物がいる。
彼らとほぼ同格の評価である。彼らのすぐ下に叙せられていることは、明治時代の同時代人による評価が高いことを意味する。
彼は、どういう人物であったのだろうか?
今日、彼の業績は、埋もれてしまっているが、彼の社会へのインパクトは大きかったのであろう。
今後、彼の生前の業績をできるだけ顧みたい。彼の生前の業績を掘り起こしたいと思う。
第1回目の今回は、彼の経歴の代表的な3つの場所の紹介から始めたい。
写真が多いが、日本中を取材旅行した結果である。
日本の幕末のドラマでは、幕末というと、ペリー来航によって始まるという門切り型の解釈がまかり通っているが、
実は、その前から、日本国内には、勤王の考え方が芽生え、幕府主導ではなく、天皇制での日本の在り方を望む考え方、
尊王あるいは、勤王の考え方が芽生えて、日本各地でその行動が起き始めていた。
尊王攘夷が有名であるが、最初は、あくまで尊王であったが、ペリー来航以来、攘夷が結びついたものである。
それより前の段階で、日本の知識人の間で尊王の考えが広がりつつあった。
武士階級は、既得権の権力者側であり、なかなか、幕府、その先にある自分の藩主を否定することになかなか踏み切れないが、
庄屋や僧侶は、既得権という特権階級でないことから、発想がより自由であるため、先進的な考えになる傾向があった。
徳川幕府の最終段階には、武力をもつ武士集団が登場したが、その前に活動を開始した面々は、武士階級ではなく、
庄屋とか僧侶とかの市井の知識階級であった。これらの草の根の勤王の人を、「志士」、とか、「草莽」と呼んでいた。
これらの活動の代表格は、水戸の浪士や、吉田松陰、の他、
武士階級であった武市半平太(土佐藩)や久坂玄瑞(長州藩)が
有名であるが、今回の胤康もその代表である。
彼は、右の年表を見ると明らかな様に、ペリー来航の嘉永6年(1853年)以前に、日本各地を回り、勤王の志士と意志を巡らせている。
今回のシリーズは、胤康を通して、彼自身だけでなく、日本の各地に芽生えていた草莽の志士の考えを紹介しながら、
無名のまま、歴史の中で報われず忘られている人々を掘り起こしたい。
これから、随時、出てくるが、勤皇の志士たちにとって、大きなターニングポイントが、文久2年という年であり、薩摩の島津久光の上洛であり、寺田屋事件であることは、注意しておく必要がある。
この年表の中で重要な人物2名を上げておく。以後、何度も出てくる人物であるが、それは、胤康の弟子である小河弥右衛門と広瀬重武である。
小河弥右衛門(1813〜1886)(小河一敏:オゴウカズトシともいう):
岡藩士の子。尊皇派の代表的な人物となり薩摩藩と結託して倒幕を画策したが、寺田屋事件でとん挫し、帰藩後、投獄された。
新政府が樹立されて解放され、後、大阪府知事、堺県知事などを歴任した。
広瀬重武(1836〜1901);岡藩士。小河弥右衛門と一緒に尊王攘夷派の活動家で、寺田屋事件にあう。
維新後は、権大属となり、司法省などに勤務。彼は、広瀬武夫の父として有名。
息子の小瀬武夫は、日露戦争の時、ロシア軍の重要な軍港であった旅順港を閉塞しようという日本側の作戦で、
部下を探しに行って名誉の戦死をして、最初の軍神となった人物である。
胤康は、1821年(文政4)に、武蔵国豊島郡赤塚村(現東京都板橋区赤塚)に生まれている。
生まれて間もなく、同村内にある禅宗の松月院の住職である大隣に引き取られている。
その松月院は、山号を萬吉山(バンキザン)といい、現在も板橋区の成増駅から徒歩20分ほどの地にデンと構える大きな寺である。
正確には、萬吉山当宝持寺松月院という。
この寺の歴史を見ると、房総に勢力を張っていた武将・千葉自胤が、康正2年(1456年)に、千葉県市川市から、赤塚城に移したものという。
江戸時代には、徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。
現在も、当寺には、徳川将軍がそのまま残っていることで有名である。
同寺は、幕末の近代耐砲術で有名な高島秋帆を祭っている事でも有名である。
この寺には、西洋式砲術で有名な高島秋帆を顕彰した大砲に似せた碑が残っている。
この寺は、大団地で有名な高島平にも近いが、高島平という地名は、幕末に高島秋帆が砲術の試験場として有名なことからその名前が生まれた土地である。
本筋とは関係ないが、この秋月院のすぐそばには、日本で3番目に大きな大仏像があることで有名な垂水蓮寺(ジョウレンジ)がある。
写真だけを示すが、意外と言っては失礼だが予想以上に立派な大仏であった。
松月院にある高島秋帆の記念碑 | 近くの垂水蓮寺にある大仏像 |
胤康は、大隣が、生国である肥後に帰るのに連れられて肥後に移り、直ぐに、大隣は、胤康を連れて、延岡の奥に位置する北方村の慈眼寺へ移り住職となっている。
時に、胤康は、年表にあるように、15歳であった。
この慈眼寺は、正しくは、弘誓山 慈眼寺という曹洞宗の禅寺である。
同寺の由緒を見ると、創立は平安時代(1177年)と極めて古い。慈眼寺境内には、胤康の銅像や墓石(骨は埋まっていない)がある。
慈眼寺 | 慈眼寺内の胤康墓 | 胤康の記念碑 | 胤康の銅像 |
胤康は、文久2年(1862年)、延岡藩で捕まり、投獄されていたが、慶應1年(1865年)に京都町奉行所に引き渡され、慶應2年4月17日、京都で獄死をした。
時に胤康46歳であった。
彼の死から3年後の、明治2年に、胤康の門人の小河弥右衛門と広瀬重武の手により、京都東山にある霊山(リョウゼン)に招魂碑が建てられた。
彼の本当の墓は、どこにあるのだろうか。
この霊山護国神社は、明治元年に創立され、幕末の嘉永6年のペリー来航から、尊王の大義を唱えて世論を啓発し、
倒幕に転戦しながらも、その成就を見ずして倒れた志士たちを祭った場所であり、明治元年5月10日に御沙汰書がでている。
ここは、墓場ではなく、かれらの魂が埋まっている場所という意味で、招魂という表現をしている。
この丘陵には、最上部に木戸孝允をおき、
高杉晋作、久坂玄瑞、
そして、最下部に最も人気のある坂本龍馬と中岡慎太郎たちの招魂碑が所狭しと並んでいる。
維新直後の評価では、木戸孝允の評価が最高であったことがわかる。
胤康もここに祭られている。
しかし、入口近くの招魂碑の案内マップには、彼の名が載っていないので探すのに苦労した。
図1に、同所で販売されていた地図を示す。それには、胤康の招魂碑が描かれている。木戸孝允の招魂碑のすぐそばの場所である。
一方、この地図には、久坂玄瑞の招魂碑の位置が記されているが、高杉晋作のそれは、見つからない。
しかし、実際は、久坂玄瑞の隣に高杉晋作の碑はある。
また、入り口に近い場所に坂本龍馬と中岡慎太郎の招魂碑があるが、参拝者が多いのだろう、別格の扱いで多くの献花がある。
胤康の招魂碑は、木戸孝允の墓のすぐ下の場所にある。
図2の様な、独特の自然石を生かしたものである。ほとんどの招魂碑が角柱の形をしている中で独特の形である。
図3に、胤康の招魂碑から、木戸孝允の墓を見上げた写真を示した。
当神社の係の人に伺うと、年に数名ほどが、胤康禅師の招魂碑の場所がわからないと言ってこられるんですよとの事だった。
興味のある方は、この霊山にお参りされることを推奨する。心が洗われる気がする場所である。
胤康禅師の招魂碑 | 木戸孝允と胤康の招魂碑の位置関係 |
大分県の狭間様から、胤康の碑の背面に書かれている碑文の詳しい文章を教えていただきましたので紹介します。
まず、表面=?胤康禅師招魂璽碑(エイ インコウゼンジ ショウコン ジヒ)
裏面の碑文
京都で胤康と同じ牢獄に居た京都の商人で文筆家である馬場文英が周旋し、小河弥右衛門と広瀬重武が碑文を書いた。
漢字だけの文章なので、当方が、勝手に送り仮名と現代文風に書き直したものを示す。
「禅師 初めの名を 定康 更に 彭康 又さらに、胤康とし、北条氏の息子であったが、
故あって、薙髪をして、日向国臼杵郡 岨岐邨(ソギムラ) 慈眼寺 看主となった。
大志雄畧有 蓋世の気象で、文久2年壬戌春に、謀與る同志の徒、王室において、致力する。
藩吏は、忌み憚かりて、これを囚(トラ)え、幕府に訴える。乙丑春に、幕吏、京都において召す。
鞠問(キツモン)すると雖も、無罪を徒に、?(ただす)べきとして、獄に幽した。
慶應二年 丁卯5月17日夜、辛亥に、病没する。我等、嘗って、師事し、経世の略を問い、
是において、魂を招き、玉に鎮め、其玉を手澤の書とともに、?(ウズ)めて、
石を建て 以って、不朽に存すと云えり。
明治2年己巳春3月
徴士堺県知? 元岡藩 小河弥右衛門 藤原一敏
雇士 堺県吏員 元岡藩 広瀬友之允 藤原重武
(1) 京都霊山護国神社:殉難志士墳墓全図
(2) 延岡 慈眼寺の諸資料
このページの先頭に戻る→
メインページへ戻る
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|