第60話:延岡藩の武芸帳と南蛮流捕手 

No.60> 第60話:延岡藩の武芸帳と南蛮流捕手

         延岡藩の記録にみる各種武芸から南蛮流捕手の橋本一夫斎をさぐります。
         また、幕末時、土佐の武市半平太と岡田以蔵が延岡藩を訪れて剣術の申しあいをしています。


 
今回のトピックス


     諸藩では、多くの武芸者を抱えて、藩士に武芸を奨励していました。
     延岡藩の精密に記録から、藩内での各種武芸を紹介します。

     その中から、南蛮流捕手の有名人である橋本一夫斎の実像を探ります。
     また、幕末には、武市半平太と「人切り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵が延岡藩を訪れて、剣術の申し合いをしています。


                                         (2018.2.28)


【1】 序:大名家の武芸

延岡藩に限らず、どの藩でも、武士の基本として、武道を奨励し、達人を称賛してきた。
藩同士の戦のない250年近くの間も、各藩の武道は師匠から弟子へと脈々と続いてきた。

延岡藩には、武道の流れに関して、享保3年(1718年)から明治までの詳細な記録(文武師範の歴史)がある。
それぞれの流派の特徴などはわからないが、人的な流れはわかる。

これを調べようと思ったのは、南蛮流という素手で戦う拳闘(現代の柔道や空手のようなものか)の流派が、
延岡藩生まれであるということが、武術愛好者たちによってインターネットの世界ではやされていることに、興味を持ったことから始まる。

そして、意外なことが分かったのである。

【2】 延岡藩にあった武道

延岡藩の藩士が習い、鍛錬をしていた武道については、延岡藩の公式記録(享保年間)から慶應時代の中に残っている。
延岡藩が公式に藩の武道として認可したものである。

もちろん、市中には、他にも種々の武術もあったと思うが、それは、含まれていない。
安永7年(1778年)の名簿が詳細なのでそこから、延岡藩にあった武道を拾う。
  

(1) 剣術( 「剱」という字が使われている)

     @ 神厳流剱術
     A 新當岡野流剱術
       注> 土佐藩の武市半平太岡田以蔵が修行対決した報告あり(下記に詳述)
  

(2) 鑓(やり: 「鎗」という字もある)

     @ 雲年流鑓
     A 神情流鑓
     B 東軍流兵法 無敵流鎗
       注>「(やり)」と「(やり)」が異なるのかどうかは不明。どなたかご存じないですか。
  

(2) 居合

     @ 林崎夢想流居合
     A 林崎新夢想流居合
     B 林崎本心無敵流居合
  

(3) 弓術

     @ 弓術遠山流
     A 日置流弓術
     B 古田流弓術
  

(4) 軍術

     @ 北条流軍術
     A 北条流軍学
  

(5)馬術

     @ 抜用流馬術
     A 高麗流八條家馬術
  

(6)砲術

     @ 関流砲術
  

(7)捕手=柔術

     @ 南蛮流捕手
       注>以下、南蛮流については、あとで、詳細に紹介する
  

(8)棒術

     @ 圓流棒術
       注>南蛮流の師範は、この術も習熟している


ほか、武術のほか、学問所の教授陣の名簿もある。それは略す。
その中で、面白いのは、藩校である廣業館のほかに、北小路学問所新小路学問所もあった。
ここで、北小路、新小路は、延岡の地名である。

  この文武に関する史料には、武芸に関する褒美や、付け届けなどの情報も載っている。

柳生備前守への付け届けの記録がある (宝暦4=1754)。
柳生備前守とは、右の家系図をみると、柳生家7代目の俊峯であることがわかる。

当時、柳生家は、1万石の大名であった。柳生新陰流の剣術で有名な同家であるが、大名家としてゆるんできたのか、
剣術の技量は下がってきているという世間の評価であったようだ。

延岡藩は、直前に大殿様が弟子入りしたいとして、御側の2人を送り込むことにした。
それもあってか、右に示す様に、この柳生7代目に、暑中、寒中、歳暮等々の付け届けをしている。

訳を示す:

  「柳生備前守様へ年中御進物につき、御書方と御勘定所と御賄方へ

     年始 : 御太刀馬代
     暑中 : 1種
     中元 : 1打500疋
     寒中 : 1種
     歳暮 : 1打銀2枚


  右 何れも御使者を以て、進めるべき。 

   御嫡采女様へ
     年始 : 箱者
     暑寒 : 1種宛て
     歳(暮) : 1打300疋

   御家来行司 佐々木右内に
     暑寒 : 1種宛
     中元 : 200疋 


柳生家当主だけでなく、同家の家来の要人にも付け届けをしていることがわかる。
ここで、「疋」(ひき)は、金額の単位で、1疋が銭30文に対応する(現在の貨幣価値で、約1000円程度か)。

【3】 武市半平太と岡田以蔵が延岡藩を訪れている

幕末の土佐(高知県)で、徳川幕府ではなく、朝廷を頂点とした社会の構成を正当とした考え方をもち、
土佐勤王党を作った武市半平太がいる。彼は、坂本龍馬の親戚であり、先輩である。

彼は、明治維新直前に、藩主によって断罪されている(慶應元年=1865年)。
その後の日本の流れを先読みしていたともいえる人物である。

その武市半平太(瑞山)が、万延元年(1860)に、中国四国での剣術修行を藩庁に願い出て、許可され、
8月に高知を出立し、途中、江戸にも向かい、翌翌年4月に土佐に帰るという20か月の度である。

この旅には、九州までは、門人の島村外内、久松喜代馬のほか、
剣術の達人で、後に「人切り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵も付き従っている。


この途中の旅程は、岡田以蔵の日誌「道中控」に詳しい。
それによると、四国、中国を周って、万延元年(1860年)9月24日に、九州入りして、最初の筑前秋月藩に到着している。
そこで、丹石流と腕試しをしている。

以後、西肥唐津藩→肥州佐賀藩→西肥蓮池藩→久留米藩→南筑柳川藩→豊州岡藩(12月1日)と経て、

日州延岡藩(12月8日)→日州高鍋藩(12月11日)→日州佐土原藩(12月13日)とめぐり、九州の旅は終わっている。

延岡では、12月8日に、

   新当流の小野貞治と、
   無敵流の大里皆平

対戦している記録がある。

延岡藩の名簿をみると、図中、青枠で示した様に、確かに、講師の所に、2人の名前がある。
但し、後者の大里皆平は、大里海平の間違いであったのだろう。

ただ、延岡藩の記録では、無敵流というのは、鑓の流派のように見えるが、兵学の中の一つなので、剣術もあった可能性は高い。
大里海平は、名簿の中で確かに、「釼術(けんじゅつ)」と付記されている。

右の年表示す様に、小野貞治は、弘化元年(1844)に、そして、大里海平は、文久2年(1863)にそれぞれ、講師に任命されている。
武市半平太と岡田以蔵が延岡に立ち寄り、剣術の立ち合いをしたのは興味深い。

この年表には、緑枠で示したところに、南蛮流柔術の師範に内田七郎兵衛の名前が見える(後述)。
またほかに、君公(殿さまの事)や若君の相手をする師範の欄もある(他の年代にには具体的に名前が挙がっている)。
他の年代では、君公自身が弟子入りしている場合もある(誓詞をいれるという)。例えば、政陽候(明和2年)

実際、半平太と岡田以蔵のどちらが戦い、その勝敗等は不明である。

もう一つの興味は、武市半平太が延岡に滞在した時に、僧の胤康に会ったのではないかという点であるが、
その点に関しては、後日触れたい。

【4】 南蛮流と橋本一夫斎

(1)藤田西湖から出た話


南蛮流が有名になったのは、明治から昭和にかけて名をはせた藤田西湖が、
橋本一夫斎から南蛮殺到流拳法を習ったということからであろう。

インターネット上の情報によれば、この藤田西湖(明治32〜昭和41)という人は、最後の甲賀忍者で、
他にも大円流杖術心月流手裏剣術一伝流捕手術を継承していたそうで、肩書の多い人である。

南蛮流の創始者橋本一夫斎の武勇伝(たぶんデマである)は、この藤田西湖から出たものではないかと思われる。

橋本一夫斎の、インターネット世界で有名な話では、鳥羽伏見の戦いで、
刀が折れた時、手刀で相手の頸骨を砕き数十人を倒し、素手で馬の尻の肉を掴み取ったという話で、
引用している人は必ずこのエピソードを上げている。

(2)講談にでてくる橋本一夫斎

橋本一夫斎について、もう一つの情報源が、講談の速記本「南蛮流柔術元祖 橋本一夫斎」(明治33年刊)である(右図がその表紙)。
これは、仇討ばかりを集めた讐文庫100番の中の内の第5番の敵討ちの話である。

この本の簡単な内容を紹介する。主人公の橋本一夫斎は、日向国飫肥藩(現宮崎県日南市:宮崎の県南。延岡は県北)出身の柔術家で、
武士ではない。父の死をきっかけに江戸に出てきた。

西国筋郡代 そこで、たまたま、兄の敵討ちをしようとしている武士の山本新之丞と知り合い、彼を助太刀することになった。
敵討ちする相手は、神保内膳という800石の旗本である。

西国筋郡代 たまたま、延岡藩の虎ノ門の屋敷前で仇討の最初のチャンスが来た時、
突然、相手方に助太刀するものが、多数現れて、多勢に無勢となって、山本と橋本はその場を逃げた。

その時、橋本は延岡藩の屋敷内に逃げ込んだ。神保が橋本を引き渡す様に要求したが、延岡藩は、
彼は逃げ去って屋敷内にはいないと答えて、彼をかくまった。

それから、何か月かして、橋本は、父の墓参りのため、江戸を発ち九州に向かったが、
その時、神保は、豊後(現大分県)の日田の代官(西国筋郡代=九州探題ともいわれた)をしていたが、
そこに、山本も来ていて、敵討ちができたという話である。

その時、橋本は血一滴も流さないで仕留めたということで、講談のネタになったのである。

その本の最後に、大事な情報がある。橋本は、墓参りを済ませた後、
改めて、延岡藩に正式に仕官して、苗字を内田に改めたという所で終わっている。

敵討ちはあったのであろうが、この本では、時代がわからない。少なくとも、幕末の騒然とした時代ではない。
徳川の御代がしっかりしている時代である。


従って、この本には、橋本一夫斎の鳥羽伏見の戦での活躍については触れられるはずがない。

西国筋郡代の歴代の代官名の中には神保内膳という名前は見つからない。
江戸時代に講演された演目であり、被害者が幕府の旗本なので、名前や役職は実際の者とは異なるのだろう。

(3)延岡藩の史料にみる橋本一夫斎=内田七郎兵衛

延岡藩の史料をみると、確かに南蛮流捕手はあった。夢物語ではなく、資料でたどる確実な話を見よう。

延岡藩の記録では、延岡に来る前(福島)の内藤藩には、柔術に三浦止躬(享保9年=1724年)の名前が見えるが、
延岡にきてから、柔術の開祖は、三浦芳津という人物である。

そして、多数の弟子の中に橋本という名前はないが、内田という名前はでてくる。そこの年表を見てみよう。

内田七郎兵衛という人物が柔術師範に取り立てられ、300疋(=3000文〜1両の半分〜5万円程)を受領している。
そして、同じ苗字の内田八百進が柔術の講師になっている。

そして、右に示す様に、内田七郎兵衛が家臣に取り立てになっている。
これを見ると、この内田七郎兵衛(@で示した人物)こそ、講談に出てくる橋本一夫斎なのであろう。

そして、幕末に近くなって、再度、内田七郎兵衛(Cで示した人物)という名前が出てくる。年代から見て同一人物ではない。
初代、橋本一夫斎から孫かひ孫にあたるので、二代目の内田七郎兵衛と思われる。
彼が、明治になって、(2代目)橋本一夫斎と名乗った可能性はある。

しかし、明治以後の彼の活躍はまだ探れていない。


右の寛政5年の任命書をみる

  「寛政5(1793)癸丑(ミズノトウシ)年

   組付に仰せつけ 御中小姓組 内田七郎兵衛
   棒捕手 ご家中へ師範 出精指南改に付き


ここでは、棒捕手という技の師範を命ずるというものである。
実際、彼は、圓流棒術の師範も兼ねている。彼は、柔術だけでなく、棒を使った技も達人であったのであろう。

当報告書の#51〜#56で分かるように、当延岡藩は鳥羽伏見の戦では、幕府側で出陣したが、
出陣組の家老の判断で朝廷軍への対戦を拒否しているので、延岡藩は戦っていないので、橋本一夫斎の武勇伝があるはずがない

武勇伝は、酒飲話などで出た架空の自慢話である可能性が高い。これもその一つであろう。

(4)磯貝十段

もう一つ、延岡における南蛮流の逸話を紹介しよう。

講道館の初期の柔道家である磯貝一(ハジメ;明治4〜昭和22)は、延岡のもと藩士の家に生まれ、
幼いころに、南蛮流の柔術をならい、東京に出て、講道館に入門する。

初期の講道館柔道の立ち上げに参加し、特に三高など関西地区を担当した。
昭和12年に、生存者としては歴史初めての十段になった人物である。

十段というのは、講道館に貢献した人物だけが得られるもので、歴代15名しかない名誉の段位である。
彼の略歴にも、南蛮流という柔術の名がでてくる。

(5)南蛮流の子弟関係:名簿一覧表


【5】 資料 

   (1) 内藤家資料:「延岡藩文武師範家」:1-31-82
     (2) 講談速記録:「南蛮流誉柔術 橋本一夫斎」=「南蛮流柔術元祖 橋本一夫斎」
     (3) 岡本以蔵「道中控」:岡田以蔵:菊池明著(2010年:学研パブリッシング刊)
    



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