今回のトピックス |
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諸藩では、多くの武芸者を抱えて、藩士に武芸を奨励していました。 延岡藩の精密に記録から、藩内での各種武芸を紹介します。 その中から、南蛮流捕手の有名人である橋本一夫斎の実像を探ります。 また、幕末には、武市半平太と「人切り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵が延岡藩を訪れて、剣術の申し合いをしています。 (2018.2.28) |
延岡藩に限らず、どの藩でも、武士の基本として、武道を奨励し、達人を称賛してきた。
藩同士の戦のない250年近くの間も、各藩の武道は師匠から弟子へと脈々と続いてきた。
延岡藩には、武道の流れに関して、享保3年(1718年)から明治までの詳細な記録(文武師範の歴史)がある。
それぞれの流派の特徴などはわからないが、人的な流れはわかる。
これを調べようと思ったのは、南蛮流という素手で戦う拳闘(現代の柔道や空手のようなものか)の流派が、
延岡藩生まれであるということが、武術愛好者たちによってインターネットの世界ではやされていることに、興味を持ったことから始まる。
そして、意外なことが分かったのである。
延岡藩の藩士が習い、鍛錬をしていた武道については、延岡藩の公式記録(享保年間)から慶應時代の中に残っている。
延岡藩が公式に藩の武道として認可したものである。
もちろん、市中には、他にも種々の武術もあったと思うが、それは、含まれていない。
安永7年(1778年)の名簿が詳細なのでそこから、延岡藩にあった武道を拾う。
幕末の土佐(高知県)で、徳川幕府ではなく、朝廷を頂点とした社会の構成を正当とした考え方をもち、
土佐勤王党を作った武市半平太がいる。彼は、坂本龍馬の親戚であり、先輩である。
彼は、明治維新直前に、藩主によって断罪されている(慶應元年=1865年)。
その後の日本の流れを先読みしていたともいえる人物である。
その武市半平太(瑞山)が、万延元年(1860)に、中国四国での剣術修行を藩庁に願い出て、許可され、
8月に高知を出立し、途中、江戸にも向かい、翌翌年4月に土佐に帰るという20か月の度である。
この旅には、九州までは、門人の島村外内、久松喜代馬のほか、
剣術の達人で、後に「人切り以蔵」の異名をもつ岡田以蔵も付き従っている。
この途中の旅程は、岡田以蔵の日誌「道中控」に詳しい。
それによると、四国、中国を周って、万延元年(1860年)9月24日に、九州入りして、最初の筑前秋月藩に到着している。
そこで、丹石流と腕試しをしている。
以後、西肥唐津藩→肥州佐賀藩→西肥蓮池藩→久留米藩→南筑柳川藩→豊州岡藩(12月1日)と経て、
日州延岡藩(12月8日)→日州高鍋藩(12月11日)→日州佐土原藩(12月13日)とめぐり、九州の旅は終わっている。
延岡では、12月8日に、
新当流の小野貞治と、
無敵流の大里皆平と
対戦している記録がある。
延岡藩の名簿をみると、図中、青枠で示した様に、確かに、講師の所に、2人の名前がある。
但し、後者の大里皆平は、大里海平の間違いであったのだろう。
ただ、延岡藩の記録では、無敵流というのは、鑓の流派のように見えるが、兵学の中の一つなので、剣術もあった可能性は高い。
大里海平は、名簿の中で確かに、「釼術(けんじゅつ)」と付記されている。
右の年表示す様に、小野貞治は、弘化元年(1844)に、そして、大里海平は、文久2年(1863)にそれぞれ、講師に任命されている。
武市半平太と岡田以蔵が延岡に立ち寄り、剣術の立ち合いをしたのは興味深い。
この年表には、緑枠で示したところに、南蛮流柔術の師範に内田七郎兵衛の名前が見える(後述)。
またほかに、君公(殿さまの事)や若君の相手をする師範の欄もある(他の年代にには具体的に名前が挙がっている)。
他の年代では、君公自身が弟子入りしている場合もある(誓詞をいれるという)。例えば、政陽候(明和2年)
実際、半平太と岡田以蔵のどちらが戦い、その勝敗等は不明である。
もう一つの興味は、武市半平太が延岡に滞在した時に、僧の胤康に会ったのではないかという点であるが、
その点に関しては、後日触れたい。
(1) 内藤家資料:「延岡藩文武師範家」:1-31-82
(2) 講談速記録:「南蛮流誉柔術 橋本一夫斎」=「南蛮流柔術元祖 橋本一夫斎」
(3) 岡本以蔵「道中控」:岡田以蔵:菊池明著(2010年:学研パブリッシング刊)
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