今回のトピックス |
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この報告で,延岡藩の渋谷屋敷の位置が初めて明確になったのはないでしょうか。 内藤家資料の公儀への正式報告資料の中に、渋谷屋敷の位置と隣家の横山内記の屋敷の位置が明確に示すものがありました。 今までのいい加減な絵図面を都合よく利用し、説明してきた内記坂と横山内記の屋敷の位置がかなり離れていることが, 初めて明確になりました。 これは、間違いないことだと思います。今までの渋谷区でもこの説明に立脚しておりました。 渋谷区へも働きかけようと思います。 渋谷屋敷は、代官山駅のすぐ近くに有ります。関心のある方は、散策の足を伸ばしてみてはいかがですか (2013.8.05) |
渋谷に「内記坂」というものがある。下に示す現代地図では、恵比寿西1丁目から東急線代官山駅に向かう坂を云う。坂に名前がつくにはいくつかの理由があるが、この内記坂は、長いダラダラ坂だからであろう。
ハイソな(今風にいうとセレブな)代官山駅が、この界隈の山頂になる。多くの書物や、渋谷区の説明にも、江戸時代、この坂のそばに横山内記の屋敷があったためそういう名がついたという趣旨の説明がある。その説明の元となったのは、東京の坂を紹介する本として代表的な「江戸の坂 東京の坂」(横関英一著:筑摩書房)であろう。この手の論法では、何らかの根拠には立脚してはいるが、正直、そうかもしれないし、そうでないかもしれないという類の説明が多いのだが、何とも、反論できないがゆえになんとなく定説となっていくのものが多い。それを、論破するには、確かな資料が必要だが、それが、無いのでなくなく黙ってしまうしかなかった。
今回、示す内藤家の資料は、この件に関しては、第一級の確実な資料であり、上記の本のいい加減な論法をくずす事が出来る。まず、内記坂の位置を頭に入れておく必要がある。
図1:現代地図=渋谷、代官山付近=内記坂の位置に注意 |
後に示す様に、内藤藩の資料中、参考にした資料は、内藤藩と松平肥前守(佐賀県)と横山内記(旗本)の抱屋敷の領地取り決めの公式書類で、3者の家来の署名があり、公儀へ提出した合意書であるから、当時としては、最も正確な資料と言えるものであり、その書類に3者の土地関係が図示してあるのである。これによって、延岡藩内藤家の渋谷にあった抱屋敷の場所が分かるだけでなく、横山内記の屋敷の位置が決定できるのである。内記坂のすぐそばには、横山内記の屋敷は無かったのである。
今回の地図上の基点となるのは、渋谷駅のそばの東側にある金王八幡神社と渋谷川である。この金王坂下から西へ鎌倉街道が伸びる。この金王八幡宮は、昔、渋谷城があった場所である。この渋谷城が築かれたのは、平安時代である。その平安時代の末期に、金王丸という勇壮な若武者がいた。彼は、源義朝、頼朝に仕えたが、義経追討の時になくなっている。その金王丸が、母のために残したのが金王丸御影堂である。ここは、江戸時代から参拝者が絶えず、桜の名所でもあった。この金王丸の位置が、延岡藩の下屋敷の場所決定にも役だった。
横関氏の本の主張のエッセンスを抜粋する。( )内は、私の註釈、反論である。
図2:寛永3年(1750)「江戸絵図」 当方で90度回転して着色 | 図3:宝暦7年(1575)「江戸大絵図」 当方で90度回転して着色 | 図4:明和9年(1772)「江戸絵図」 当方で90度回転して着色 |
(1)横山内記なる人物は、寛延3年(1750年)当時は、定火消の頭である。西の丸御小姓組の番頭となり、後に、西の丸御書院組の番頭にもなった人である。そして、采地4500石取りの大身の旗本であった。
(2) 江戸時代の絵図を参考に屋敷跡の場所を探るのである。
@ 図1=寛延3年(1750年)「江戸絵図」
金王八幡の下通りから伸びる道(旧 鎌倉街道)の西側に、問題の横山内記の領地がある。すぐそばに、延岡藩の内藤家の抱屋敷領地がある。さらに西側、北側に松平丹後守(佐賀藩主)の領地が2か所ある。
A 図2=宝暦7年(1757年)「江戸大絵図」
金王神社下道から渋谷川を渡る道(いわゆる 鎌倉街道)の、西側、北側に、内藤家の領地があるが、横山内記の名前は無い。その代わりに、此の辺を「内記坂」という説明書きがある。
B 図3=明和9年(1772年)「江戸絵図」
(当方注> 横関氏は、この地図を最も基準にしている。それは、この地図が最も新しいことと、現代の内記坂と結び付けるのに都合がよいこと、つまり、松平肥前守、内藤備後守、内記坂が、最も南に設定できると思ったからであろう。松平丹後守のすぐ南に、「内記坂」がある。松平領地の北側に、内藤家の領地がある。但し、内藤大和守となっている。ところが、当時の延岡内藤藩主は、内藤政脩備後守である。
彼は、横山屋敷の位置を、中渋谷村という資料もあるが、それでは都合が悪いので、下渋谷村の方を採用するのである。また、この図面は、道路の形もおかしい。肝心の横山内記の敷地も示されていない。後述するように、松平肥前守の屋敷もここに無いのである。)
(3)「寛文十年ノ中渋谷村拝領屋敷抱屋敷坪数控帳」(1670年)によると、
横山内記の抱屋敷に付いての記述を引用しているが、要点をまとめると、
@ 坪数が、3900坪であった。
A 地主は、半右衛門、作右衛門であった。
B 承応2年(1653年)から地代をとっている。
(4)「新編武蔵風土記稿」の巻之十によると、
@横山内記抱屋敷は、1町3段(=3900坪)であった。
A承応2年より抱屋敷とする。少なくとも、文政十年(1828年)まで、抱屋敷が存在した
(5)正徳6年(1716年)の「武蔵」の中に、「松平丹後守吉茂の抱屋敷は、渋谷の内記坂にある」という記述がある。既に地名として確立していたことを示している。
(6)横山内記は、元和7年(1621年)から元禄2年(1689年)頃の人で、外に内記を名乗った人はいないとある。
(当方注>横山内記は、その後、子孫の何人かが名乗っている)
(7)(当方注>現在の「内記坂」は、江戸時代の住所で言うと、「下渋谷村」に属している。下渋谷村は、旧鎌倉街道の南側を云う。それより北側は、中渋谷村である。「新編武蔵風土記稿」には、横山内記の抱屋敷は、中渋谷村と記述がある。それなのに、横関氏は、鎌倉街道の西側(北側)に横山内記領や松平丹後守領があるのは間違いと断じているが、その根拠はない。ただただ、現在の内記坂を横山内記抱屋敷領地の隣にしたいがための結論であると言わざるを得ない。)
(1)絵図面
寛政2年2月10日(1790年)、松平肥前守(佐賀藩主)と内藤と横山鉄之助の3者による訂正書が公儀に出されている。要約すると、
「この度、江戸絵図面の改めに付き、中渋谷村豊沢の松平肥前守の抱屋敷、同所 内藤右京亮(延岡藩)の抱屋敷、同所 横山鉄之助の抱屋敷の載った絵図面に間違いが3か所あった。3者の話し合いの結果、別紙の通りが正しい絵図面です。」
そして、その図面(当方が描き直した)が以下のものである。
図5:資料 1-4-455:松平肥前守、横山鉄之助(内記)、内藤右京の手打 | 図6:左書類の添付書類:寛政2年(1790) |
図7:公儀提出書類:文化6年(1809) | 図8:資料2-6-243:宝暦3年(1753) |
安土桃山時代まで、加賀前田家の武将だったが、家老だった横山長知は、息子の興知を徳川家康に人質として差し出した。以後、旗本として取り立てられ、江戸時代を通じて、4500石の知行を得ている。4500石というのはかなり大きな旗本で、5000余騎といわれる旗本の中で100番目ぐらいの高格である。3000石以上の旗本を、寄合といった。横山家は、常火消しの役に着くことが多い。そして、横山内記と名乗ることが多い。例えば、旗本2代目は、横山内記友清というようにである。、安永9年武鑑(紳士録のようなもの)によると、安永―天明時代(1772〜1789)ごろの御寄合衆の中に記述があり、横山家は横山内記刀之助の代である。幕府への正式書類の中の記録では鉄之助なのに、市中の武鑑では、なぜか「刀之助」となっている。その理由は不明である。この次の代は、横山兵庫助知雄という。彼は、「火事場見廻」の職に就いている。
図9:資料1-4家―427「渋谷本所御屋敷1件」(元禄8年=1696年) |
この書物の完成は、文政11年(1828年)である。その中の記事に、この地域に関する部分を抜き出すと、
「内藤備後守の抱屋敷=5町1段(=3000×5+300=15,300坪)、元禄8年(1695年)より持トス。
横山内記抱屋敷=1町3段(=3900坪),承応2年(1653年)より、抱え持トス。」
確かに、横山内記の抱屋敷の坪数は、3900坪とある。
(1)東海大の学生さんの卒業論文に、この地域の明治以降の地主の変遷を調べたものがあった。それによると、山本氏がこの地を手に入れ、その後、順々に宅地化されていくのがわかる。
図10 : 東海大の学生さんの卒論より |
(2)昭和22年ごろの航空写真が残っているが、それを見ると、延岡藩の敷地がそのまま森林として残っているのが面白い。敷地の形が分かる。この時まで、残っていたのである。ここでは示さないが、この敷地の中心部に屋敷を立てて、その周辺は木立を残すという図面がある。この航空写真を見ると、中央部に樹木が無く、周辺はうっそうと茂っているという気配が残っている。 延岡藩の跡地は、この後(昭和22年)に、渋谷区の所有となり、現在、鉢山中学校となっている。 最初の現代地図と延岡藩渋谷屋敷の形と見比べて欲しい。この森林の形が、屋敷の敷地の形をそのまま、ほぼ示しているのである。
図11 : 昭和22年の航空写真より。 屋敷の跡が森林で残る |
(4)横山氏の屋敷跡に面白い物を見つけた。 もう一度、江戸時代の地割の図をみると、横山氏の敷地に矢印で示す妙な凹み部がある。それがなぜかは、不明だが、その地形が今も残っているようなのだ。昭和22年の航空写真にも、そして、今の地図にも、凹みの残骸がある。そして、今も家1軒幅の家の列となっている。この不思議な構造も、横山内記の土地がこの場所だったことを示唆するものと考える。現在のこの土地の写真を示す。
図12: 横山氏の屋敷の門の所に変な凹み | 図13: 現在も残る不思議な地割 |
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