今回のトピックス |
---|
徳川幕府崩壊を受け、延岡藩は改革に取り掛かります。 今回は、服装面を中心に報告しますが、それは、あくまでも、 武士社会の存続を前提にしたものです。 他藩も大同小異だと思います。 維新時の各藩の動きを示す貴重な資料となります。 (2018.2.2) (注) 読者の方のご指摘で一部修正いたしました。 (2018.2.8) |
慶應4年(=明治元年)、徳川の時代が終わり、新しい時代が来たと、誰もが思ったが、その新しい時代も、
武家社会は武家社会として残ると思っていた。武家社会が終わるとは、恐らく誰も(大久保利通、西郷隆盛、
木戸孝允等はどう考えていたかは不明だが)、考えていなかった。
延岡藩でも、新時代がくるので、一つには節約、一つには、簡略を狙いながらも、
武家の上下の違いは明確にするという改革策を藩内の足軽に及ぶまでの武士社会に通達をしている。
その知らせが、江戸藩邸に届いたのは、3月16日であった。3月末には、江戸藩邸に残っていた先代の殿様(大殿様)や御付の女中とも、
そして、殆どの武士と家族持ちはその家族まで、延岡に帰す決定をしている。
そこで、延岡の江戸藩邸では、江戸にいるときは、旧来の制度や習慣でよいが、延岡に入るときは、新しい規則に従う様に決定し、武士に通達している。
延岡から届いた新規則は、江戸末期(明治初年)の武家社会の様子を知るうえで貴重な資料であるので、詳しく、見てみたい。
延岡藩の改革といえば、当レポートのNo-15で延岡藩による蒸気船による軍艦を米国から購入(明治2年4月)したことを報告している。
時代の大きな変革時に、延岡藩は、軍艦を購入し、軍隊強化と、今回報告する服装の基準の徹底を行っている。
今回の服装の新基準も、新時代を迎えるに当たっては、的外れの政策である。
来る時代を読めていなかったことを表しているが、それは、延岡藩だけではなく、諸藩も、同様だったろう。
武士階級が廃止になるとは夢にも思っていなかったことがわかる。
まずは、その経緯を示した明治元年3月16日付けの記録である。延岡では、第2次長州征伐の直後に、藩の改革を始めたようである。
その結果が、徳川家が滅びた後に届いたのである。
概訳を示す。
「去る(慶應3年)11月中に、延岡において、
別紙の通り、仰せ出でられたので、
この表(江戸)においても、
御差略(お考え)の上、お改め成られるべき処は、
この期間中、その通りになさる。
何れも、延岡にお移し成られた積りにおいて、
この表(江戸)では、出立までは、これまでの通り、
据え置きになさって、右の趣を理解して、
ご家中一統に申しわたされ、支配をもつ面々は、
その支配方にも申渡しするように、達するものである。」
武家社会の各位に応じて、通達されている。
色々改革はあるが、まずは、衣服から改革をするという趣旨である。
概略を示す。
「衣服を始め、諸事、慎みの件は、追々、仰せ出でられるが、昨今の御時勢もあるので、
上下(カミシモ)は、分に応じることで、治教(教育)の面で、第一にあるので、
猶又、左の通り、制度をお決めなった。
心得違いの無いように、急度(きっと)、守るようにという。もっとも、品物などの件は、
戊辰(慶應元年)正月までに改められたようにすること(猶予を与える)。」
まずは、服装から改革を含めて、決めていく。品物に関しては、正月までの2か月の間に準備するようにと言っている。
武士の各階級に対して指令されているが、延岡藩の場合、4階級に分かれている。
「本組」、「中小姓」、「組外」、そして、「足軽」である。延岡藩の他の資料では、士分、卒という分類もある。
卒とは、ここでの「足軽」なので、それ以外の3区分は、士族なのであろう。
士族も、お目見え(藩主にお目見えできる格)と会えない格があるが、もう一つは何だろうか?
今後の宿題である。
「<本組>
「1. 羽織の紐は、黒(色)であること。
但し、縞羽織(縞模様の入った羽織)は無用(禁止)のこと
1. 大小(大刀、小刀用の)引き肌(=引膚=蟇膚:サヤ用の袋)を
用いる時は、黒色であること。
鐺(コジリ:刀の鞘の端)より三四寸(〜10cm)の間に金(糸)にて、
二筋巾で二歩位の引き回しがあり、合印の付いていること。
但し、(その材質は)、単(ひとえ)か、並びに、木綿であるかは、
勝手にやってよい。
金にて、自分役の付いている場合は、勝手にしてよい。
1. 本組より組外の者の名前を呼ぶ場合は、呼捨てにすること。
但し、家筋によってや勤めがある時は、それに準ずること。」
羽織の色と紐の色は、品格と身分を示す重要なものである。
大刀、小刀の袋(ここでは、「引き肌」と言っている)の色も重要で、目印となる日本の線が引いてある。
そして、延岡藩の仲間である印(合印=アイジルシ)をつけている事と、そして、材質も指定がある。
本組から、組外を呼ぶときは、呼び捨てにせよという、細かい指示もある。
本組から、中小姓を呼ぶときはどうするのだろうか?呼び捨てはいけないのかもしれない。
(参考)
★★ 刀関連の復習 ★★
まず、鐺(コジリ)とは、
右図に示す様に、サヤの先端部のことである。
端なので、ぶつけやすいから、通常、金具がついている。
鞘(サヤ)のうち、帯に接触する部分に、栗型という金具がついていて、
その栗部に下緒(サゲオ)という2m長もある紐を通しており、
それを独特の結び方をして、
帯に縛り付け、刀を抜いた時、鞘も一緒に抜けないようになっている。
この下緒にも、身分に応じた、厳しい、きまりがある。色も厳しく指定されており、
緋色は、将軍と大名しか使ってはいけないなどである。各藩内でも、身分に応じて色や材質などが指定されている。
映画などで、雨の日や旅行中の武士が腰の刀を袋に入れて、それを腰に差しているのを見ることがある。
その袋を、鞘袋とか、引き肌といっている。引き肌とは、袋の材質がヒキガエルの膚に似ているからである。
「<組外>
1. 羽織紐は、木綿で茶色であること
1. 大小(刀)の引き肌を使うときは、黒色であること
鐺(コジリ)より三四寸の間に朱にて
二筋巾 二歩位引き回し、合印のついていること。
但し、単(ヒトエ)、並びに、木綿であることは、勝手である。
自分が役附きである時は、勝手(自由)である。
1. 大小(刀)の 絹製の下緒は無用(禁止)。
木綿巻の下緒に致すべき事
1. 小袴は無用(禁止)である。伊賀袴裁附(タッツケ)を着用すること。
但し、平袴を使わないというのは、勝手(自由)。
1. 下駄ばきは禁止。今後、下駄を使わないというのは、好ましい。」
(参考)
★★ 袴と裃(カミシモ)についての復習 ★★
江戸時代は、上下(カミシモ)という様に、上下のセットである裃が着用されていたが、
江戸中期以降は、継(つなぎ)裃という
上下を分離して別布で作るようになった。
上が肩衣(カタギヌ)であり、下が袴である(右図参照)。
武家社会では、公服、私服ともに袴を穿くのが常であった。普通の袴を「平袴」という。
武家の平袴の襠(マチ=股下の長さ)は、最初は長く、そのまま乗馬も可能であったが
、時代が下がると、町人用と同じようにマチが低いものになった。
夏用と冬用があり、夏用は、単(ヒトエ)袴で、生地は、葛布から高級な仙台平など。
冬用は、袷(アワセ)袴で、生地は、茶宇や唐桟などが使われた。
@ 平袴=半袴と一緒:足のくるぶしまでのもの。切袴、行燈袴ともいう。
A 馬乗袴 (ウマノリバカマ):乗馬用の袴で、特に裾びらきで、マチが深くなっている。
B 伊賀裁着袴(タッツケ)=伊賀袴=軽杉(カルサン)ともいう。
南蛮の影響で、袴のひざ下部分が脚絆になったもので幕末に武士が着装した。
C 小袴(コハカマ)=馬乗袴の筒幅をよりスリムにしたもので、洋服のワイドパンツに近いスタイル。
動きやすいという実用性を重視したもの。
D 野袴=武士が、旅や籠に載る時に着用した。形は、平袴と同じだが、裾に黒ビロード等の縁布がついている
**************
★★ 袴の例 ★★
平袴 | 伊賀袴 | 野袴 |
「<足軽>
1. 羽織の紐は、木綿で薄黄色であること
1. 大小刀の引き肌は、組外と同様
1. 大小(刀)において、絹の下緒は、使用禁止。木綿巻の下絹にするべきこと
1. 襠(マチ)高袴は無用(禁止)
伊賀袴裁附(タッツケ)を着用すること。
但し、平袴無用(禁止)というのは、勝手次第
1. 途中、(上位の人と)行き逢った場合は、諸士に封して、
無礼の無い様に、急度(きっと)、心得ているように。
1. 下駄ばきは無用」
ここで、襠(マチ)高袴とは、股下の深い袴であるから、馬乗袴や小袴の類であろう。
路上で、上位の人に逢ったら、失礼のない様にとわざわざ注意している。
身分の歴然とした差があるのが分かる。
箱提燈 | 騎馬提灯 | 手丸(弓張)提燈 | 小田原提燈 |
「1. 陣笠といっても、筋金(スジカネ)の類は無用(禁止)
御中小姓組以下は、裏が朱色で散金のものは、無用(禁止)
但し、朱に紛しきものも無用(禁止)
1.組付きの、初、末事迄、胡服も、同様に 冠物は無用(禁止)である。
但し、蓋央の紐が黄色であることも、無用(禁止)
注>この部分は、意味がよく分からない。
1.書き上げの外で、家の定め役を厳しく用いることに関しては、不要。
但し、仕事を引き継ぐ時に、改めること。
1. 隠居、並びに医師や、その他、七歳以下の者の着服等については、
割外(管轄外)ではあるが、身分不相応の品は、遠慮するべきこと。
1. 晴天の節は、高足>は無用(禁止)
1. 自分が、高足にて、同輩以上に、途中で行き逢った場合は、高足であることを、礼あるべき事(あやまるべきこと)
1. 有故の士分より組外以下には、その身の相応の品遣りをするのがよい。
もっとも、その節は、双方より、組頭や支配頭にそのことを申すべき事
但し、これまでの通り、更に、持ってきた品物は、早速、申し通す(申告)すべきこと
右の趣意を理解して、御家中の面々に申されること。支配方(配下)がある面々は、その支配方にも申し伝えること。
11月」
ここには、よくわからない言葉が出ている。筋金(スジカネ)とは、補強のために入っている金属であろうが、
散金(バラキンと読むか?)とは、金粉を散らした飾り模様が入っているようなものだろうか。
どなたか解説をお願いしたい。
(訂正:吉田尚様からのご指摘で、以下を付加します。2018.2.8)
陣笠の裏側(内側)を朱色にして金粉を散らしたものがあった(右写真参照)。
それは、ある程度の地位を示すものであったようだ。
近藤勇が鳥羽伏見戦後、江戸に帰ってきて、再度、甲府城に赴くときに、
裏金の陣笠をかぶって、出陣したという記録がある。
そのいでたちで、故郷の八王子を通過するのは、
今の出世を自慢するためであったというのである。
(三田村鳶魚に聞いた近藤勇:青空文庫)
高足もよくわからないが、多分、袴の裾を帯に巻き込んでいる状態ではないだろうか。
1) 内藤家資料(明治大学所蔵) :1-8-156
2) 江戸衣装図鑑(東京堂出版:菊池ひと美著)
3) 刀、提灯の写真は、インターネット内で収集
このページの先頭に戻る→
メインページへ戻る
このレポートへの御意見をお聞かせ下さい。
|