今回のトピックス |
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徳川慶喜が将軍所を放棄し、鳥羽伏見の戦も敗北し、新政府軍が江戸に上ってくる緊迫の明治元年3月に、 延岡藩も江戸藩邸に残る大殿様他を急ぎ延岡に移すことにしました。 混乱の中で大殿様を無事、延岡に送らねばなりません。その緊迫を報告します。 (2017.12.27) |
慶應4年(=明治元年)に徳川幕府は、完全に倒れ、
将軍慶喜は退隠し、官軍に対抗するのは完全にやめた。
官軍は、江戸に進軍中である。慶応4年(明治元年)の年表を右に示す。
3月になると、東征軍が江戸に迫っている情報は入っている。
延岡藩が知ってはいないと思うが、
東征軍による江戸城攻撃は3月15日に決まっていた。
それを回避すべく、勝海舟と西郷隆盛の会談が、3月13日におこなわれて、
結果的に、江戸が炎に包まれることは避けられたが、
その事情は、延岡藩は理解していない。
このころ、延岡藩江戸藩邸を始め、各藩も、江戸屋敷に
藩主その家族、そして藩士自体もを滞在させるのは危ないと考えた。
そもそも江戸藩邸は、参勤交代の制度で藩主が江戸にやって来た時の滞在場所であり、幕府からの種々の指令をこなすために藩士をおいておくためであったから、徳川幕府が崩壊したとなっては、不要になる。
しかも、藩主等の安全のためや、節約のため、などの理由で、藩主や奥方など、主たる機能を在所へ移行する動きが急である。
延岡藩では、藩主は、既に、延岡にいる。
江戸には、前藩主である大殿様(内藤政義)がいるので、急ぎ、延岡に帰すことになった。
江戸藩邸には最小限を残して、大方は延岡に配置換えである。
大殿様の身辺の面倒を見る奥女中たちも延岡にいく。多分、彼女たちは、江戸生まれ江戸育ちであろうに。
延岡藩の江戸在住の本体は、4月4日にアメリカの蒸気船をチャーターして急ぎ大阪まで移動することを決めて準備する。
4月4日は、新政府が江戸城に入っているその日である。
2月末日に、江戸城内から、お触れが回ってきて、内藤家一家内に知らしめるようにというものである。
そこには、2つの重要なメッセージがあった。
上様慶喜が朝廷に対して謹慎の姿勢を示しているのであるから、幕府側のメンバー(譜代や旗本)は、
軽率な行動をするなという注意喚起である。
もう一つは、慶喜が、徳川本家当主を降りる覚悟をして、その相続者探しを、紀伊中納言に依頼したという内容である。
概訳を示す:
「 二月晦日
この度の段、京都表が、御軍勢を御差し向けることになって、既に、東海道筋に
御先鋒が発行した由に、聞こえるけれども、
素より、
朝廷に対し、深く御謹慎に在りなされる儀に付き、この上、如何様の
御沙汰が有るとも、御恭順の勤め在りなさっている。
御素志を貫く様に、遊ばされる思し召しに付き、萬一、官軍に対し、
軽挙暴動を致す者があったのでは、天朝に対し恐れ入らねばならず、
それを為すべきなのに、御誠意も遂げず、
万民塗炭に落ち入ることに、きっとなるだろうから、
心得違いのこれ無き様に、一同、謹慎をしている様に致すべきである。
忠義の志に基づくと言えども、到達した趣に悖(モト)ることでは、
御タメに、成らないことなので、触れの御主意の趣、体認(体験してよく理解すること)致すこと。
決して、妄動の無い様に、堅く、守るようにと申すべき旨を(上様は)おっしゃった。
右の趣向を(内部に)触れられるべきこと。
大目付に
上様の思し召しの御旨もありなされるに付き
御退隠遊ばされ、御相続の儀は、
紀伊中納言様に仰せ出でられる様にと、
朝廷にお願い遊ばされたことについて、先ず、(皆に)通達して
心得の為に、通達し置くところで、お願いの趣の、
御奉聞は、できなかった由である。この段、
猶又、心得の為、通達し置く。
右の趣、面々に相触れるべきこと。」
通常、3月3日は、上巳(ジョウシ)のお祝いで、幕府行事の中でも大きな行事である。
この日は、かって、桜田門外の変が起きた日であった。あの日も、各藩主が江戸城に登城した日であった。
しかし、今年は、上様(将軍ではない)は、謹慎中であるから、上巳の儀式はないとの通達である。
そのため、延岡藩の江戸藩邸でも、藩士は、平服で良いと通達が出ている。
概訳を示す:
「 当上巳(3月3日のお祝い)
上様は、御謹慎中に付き、
上上様の御取り交わりは無く、ご家中での御礼(の儀式)もこれ無く、
一統(全員)、平服にて構わないことを、今日、左の通り通達する。」
京都にある新政府から、海外との通商での為替に関する通達が届いた。
概訳を示す:
「 3月16日
去る月7日、同23日、京都表にて、左の趣の御触れがあったことが、
同二十八日、去る八日着の便が申し来たので、ご家中に申し聞かせて、
然るべきのことを、大目付に、申渡し、ご家中一統に、通達するように。
この度、御一新の折柄、外国との御交際も追々、ありなされるだろうから、
差し向かい(融通)の為、洋銀一枚に付き、金三分を当てて、差支えなく、
交り遣い致すべき旨を仰せ出でられたので、
銘々、疑意をもつこと無く、通用を致すべきこと。
ニ月
右金銀これまで通用令を停止してきたところ、御一新の場合で、未だ、御手も
届が為されず、追っては、仰せ出でられることになるだろうけど、当分に間、
地下相場をもって、差し支えなく、通用致すべきである。
尤も、御一新政の折柄、萬一、心得違い、致し、竊(ぬすみ)積置きする者などがある様ならば、
厳重な御沙汰がきっとあるだろう。この旨を、末々まで、漏らさず、触れ申すべき者也。」
外国との通商の当座の為替について、洋銀1枚に対し、日本の金三分が対応するというのである。
当時の洋銀とは、メキシコ産の貿易用の銀貨である。当時の日本では、海外に比べて、金貨に対する銀貨の価値が高かった。
そのため、海外の業者は、洋銀を用いることで、効率よく金貨に変えていた。
当時の記録では、洋銀1枚で日本の1分銀(これは1分金と同じ貨幣価値)でかえていたというから、
今回の洋銀1枚で金3分というのはとんでもない比率である。
当時、日本の貿易は、海外からの購入が主であるから、日本が輸入する時、
べらぼーに高い買い物をしなければならない為替になっている。
東海道が込み合い、早便ができなくなったと飛脚屋が言ってきたと同時に、
便が高くなってきたので、節約令がでた。
概意を示す:
「延岡の遠国については、御用文通は、約(ツヅマヤカニ)に認(シタタメ)め大封にならぬ様に、
先年より、度々、仰せ出でられて来たので、兎に角、(手紙)縮めてきた。
然る処、
今般、東海道宿の混雑で荷物や?立方がままならないので、正六日切や本六日切便などは、休み、
当分の内は、急便と唱えている便ばかりにするつもりであることを、飛脚屋より、申してきた。
右急便の賃銀は、掛目(目方のこと)は、拾匁(10モンメ)に付き、銀七匁五分で、その餘は(超えた分は)、
拾匁に付き、右の割に付き、是までの振合に比べると、飛脚の賃銀は、不容易まで、金高になってきたので、
諸向の御用は旧の通りで御用向きの多少もあるはずであるが、
成るべく丈、約に認め、掛目で捨匁位に限ってとめ、差出すべき。
且つ、又、無拠(ヨンドコロナク)自分引合向き等にて、
書状を差出したいならば、右の振合いに付き、是又、掛目三匁位までに限り、差し出すならば、
一同御差出し下さるべきその余り掛目の増加分は、御差出下されなくて結構。
右の趣、ご家中一統申し通され、
尤も、支配方の有る面々は、その支配方にも
申し渡しておくように、通達があった。」
正六日切とか本六日切というのは、飛脚便を京都から江戸まで、確実に6日で伝えるという便で、正確な代わりに高額である。
それは保証できなくなったから、ぼんやりと、早便、つまり、できるだけ早く届けるという便にするというのである。
また、匁(モンメ)は、重量の単位で(筆者が子供の頃まで使っていた)、1匁が3.75g、
従って、10匁(37.5g)の早便は、京都ー江戸間でが、銀7匁7分である。
銀60匁が1両(=現在の約10万円)だから、現在に換算すると、早便は、1万2000円程度になる。
船出の時の手順である。
概意を示す.
「ご家中、荷物、来月朔日より、三日までの内、
八丁堀置き場まで御積み出し下されることについて、
晦日に限り、荷拵(コシラエ)致し、
銘々宅に、置いていおくようにすること。
1.乗り組み当日は、支度し、銘々、人数に応じて、
握り飯を用意し持参するようにすること。
1.着替えの類、風呂敷包み持参は、勝手次第である。
右の通り、申されるべき通りである。
三月
御勘定所には、左の廉(ケジメ)を書増しを行う
1.乗り組みの面々は、正六半時に、御留守居も、御用座敷に何れも、集っておき、
五時までに、汐留に、いくこと。それより、蒸気船に乗り組みをすべきこと」
女子供まで、船に乗るのだから、大変なことだったろう。握り飯は自分で用意しなければならない。
しかし、船に着替えや風呂敷などの包は、勝手にしてよい。という達しは、ほっとする。
1) 内藤家資料(明治大学所蔵) :1-8-156
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