今回のトピックス |
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徳川家の政権が終了し、同時に官軍が江戸に進軍してくる気配の中、各藩の江戸藩邸は騒がしくなってきます。 一斉に藩主や前藩主や奥方たちを在所に帰す必要が出てきます。 延岡藩の江戸藩邸でのその終了の過程を報告します。 (2017.10.29) |
慶應4年(明治元年)の正月に、鳥羽や伏見にて、
幕府軍と薩摩を中心とする官軍が戦ったが、
戦途中に、幕府側の最高指揮者である前将軍の慶喜が、
江戸にこっそり逃げ帰ったこともあり、
あっけないほどの官軍側の圧勝で終わった。
官軍=新政府側は、京都を中心に次々に手を打ち、
西国の各藩を手始めに、新政府側への恭順を求めて、
江戸に向かい進軍を始めた。
一方、江戸では、京都から送られてくる情報で、
徳川の政権が終了することを理解しながら、
どう対処しようかと動揺してくる。
江戸が戦場になるかもしれない。
徳川家は見捨てても、まずは、
自藩の存続を考えなければいけないことに気づく。
また、徳川家への窓口として存在した江戸藩邸は不要になる。
延岡藩の江戸藩邸でも、その結論へむかう。
当報告#51で、慶應3年11月から、慶應4年1月19日の慶喜の謹慎までを、
延岡藩の江戸藩邸の記録をたどった。
今回は、延岡藩邸の記録が終わる明治元年3月末までの
藩邸の閉鎖までの様子をお知らせしたい。
徳川家からの命令で増上寺の警衛を担当していた。それも断らなければならない。
周りの各藩の藩主たちが在所に帰るという挨拶状がまわってくる。
延岡藩でも、江戸に残っている藩士と前藩主とその周りの女中を含めて、
ほとんどの者が、延岡へ移動してしまうのである。
お抱えの坊主も、御役御免となる。
そのドタバタを報告する。
慶喜が徳川宗家の当主を辞退することを発表した。
1月28日、松平和泉守(乗秩:三河西尾藩)と堀田相模守(正倫:下総佐倉)の連名による26日付の廻状が回って来た。
彼らが、登城した処、小笠原壱岐守(肥前国唐津藩世継。3度目の老中)から書付を見せられたので、
急ぎ、写して回覧するものであるとして、右の書面である。
概意をしめす:
「上様の思し召しの旨を、御達し為されるについて、
(上様=慶喜が)御退隠を遊ばされるので、(その後の)御相続のことも
紀伊中納言殿(紀州藩主:徳川茂承)に、
朝廷にお願いするようにおっしゃった。
その旨を理解して、連絡するように。
但し、御内沙汰(秘密)のこと。」
この時点は、内密にと言っているが、2月末日に正式に表明している。
徳川家 から、上意として、公儀所(議会)を設置するので、やる気のあるものは申し出るようにという通達が届いた。
ここで上意は、だれの考えだろうか。
慶喜は、引退の意思を表した後の事であるが、上様(慶喜)の見解であろう。
遅まきながら、一般大衆も含めた議会制度を提案している。
概意を示そう。
「上意(徳川家の意思:具体的には、慶喜だろう)により、
(徳川家で藩主と会うことのできる武士の格である)お目見え格以上だけでなく、それ以下も、
そして、次男や三男の厄介者も、(徳川家意外の)諸藩の藩士も、そして、百姓や町人にいたるまで、
有志の連中は、その見込みのある程度を書面に書いて、公儀所に申し出て来るように。
(能力のないものは)厚情(温情)によって、来ることがあってはならない。
もっとも、公儀所にて受け取りができるようになるまでは、評定所に申し立てること。
いつまでという日限は、後日、連絡する。
このことを、面々に、漏らさず、御触れを出して連絡すること。正月。
皇国の御制度の基本を、全国の公儀(今でいう議会か)によって、
決めるべきであることは当然であるから、幕府の政権を閉める。
朝廷諸藩が、公儀を尽くされるように、(朝廷に)奏聞いたすので、これまでの家政(内政)の事を熟考すると、
士民(武士から町民まで)の心に行き届いていなかったことは少なくない。
このことは、実に、耿(=恥)入ることで、この度、公儀所を設置して広く、大衆の公儀(意見)を取り入れ、
上下の情を通じるようにしたいと考えているので、銘々、見込み(これからの考え)を、
はばからず、言ってくるようにすべきであるというのが、上意である。
右の段、公儀の御触れがあったので、その意を、家中の一統に、漏らさず伝えるように、
また、更に部下家来がいるものはその者達へも伝えるように。」
有能、有意の人材を広くあつめて、衆議による政治をめざしたのだろう。しかし、もう遅すぎた判断であった。
概意を示す:
「この度、御追討使が各地に差し向けようとされていることを、遠くで聞いて、
誠に、学びいり、恐れ多い気持ちになっております。
このことは、全て、慶喜の一身の不束から生じたことであります。
天朝がお怒りのことは、ひとことも反論するつもりもない次第です。
この上、どのような沙汰があろうとも、遺憾とすることなく、恐れ入り奉る所存にて、
自分は、東叡山(東京の上野)に謹慎するつもりで、下の連中に申し諭しております。
たとえ、官軍を差し向けなさろうと、不敬のことを一切しない様、心得るようにと言っておりますが、
弊国(徳川家の所領)には、四方の士民輻?の土地もあるので、多くの者の中には、万一、心得違いの者が無いとも限らず、
この事情で、恭順の意を取り損なって、不慮の事が起きる場合は、なおさら、恐れ入り奉ります。
それのみならず、億万の生命、塗炭の苦しみなど蒙るとすると、忍び難いことですので、
なにとぞ、官軍を差し向けることは、暫時、御猶予下さる様、
臣慶喜が一身が、罰せられようと、無罪の生きた民が、塗炭の苦しみを免れられるよう、
お願いしたく、臣慶喜が、今日、懇願いたします。
右の趣を厚く、御諒察下される様、前文の次第、お聞き届け下さる様、
この点を御奏聞下さいます様、願上げ奉ります。以上。
臣慶喜 」
慶喜による官軍による進軍の自重を促す必死の嘆願である
そして、慶喜は、徳川家の家来衆に謹慎し、軽挙暴動に出るなと訴えている
2月晦日(末日)に、以下の通りの、ご家中にお知らせするようにという御触れがあった。
その内容の概訳を示す:
「(各藩の)大目付に
この度の段、京都表で、御軍勢を御差向けになり、既に、東海道筋に
御先鋒が出発したとの由を聞いている。
(慶喜側は)然らば、もとより、朝廷に、対して、深く御謹慎の態度でありなされるので、
この上、如何様の御沙汰があるとも、御恭順の勤めをお続けになり、
王の御素志を、貫かれる。万一、官軍に対して、
軽挙暴動をする者があったのでは、
天朝に対し、恐れ入って謹慎していることにならず、
その為に御誠意が届かないことになる。
万民が塗炭(の苦しみ)に落ち入ってしまうことになる。
それに、心得違いの無いように、一同、謹慎をしているように。
忠義を忘れてきたら、連絡したその趣に悖る(もとる)ことになる。
(上様の)御ためにならないので、よくよく、しゅいを考えて鼓動するように。
決して、妄動の無いように。硬く、守ることを(上様が)仰せになった。
右の趣意を、各自に相伝えるように。
二月 」
延岡藩は、慶應3年末から、江戸藩邸は、増上寺の警衛を命じられ、数藩と一緒に警衛に当たっていた。
増上寺は、徳川家の代々の将軍の墓のある徳川家の中心的な寺であるから、反徳川陣営から焼き打ちに逢う可能性がある。
延岡藩は、殆どの武士を京阪に送ったこともあり、手勢が少なくなっているところで、警護の兵を出すのは負担である。
それだけでなく、陣容のほとんどを延岡に返すことを考えているので、徳川家に対して、増上寺の警衛の御免を申し出ているのであるが、
その理由は、勝手(経済)が窮迫していることを理由に挙げている。
台所事情がひっ迫しているのは事実であるが、それを理由に、兵の引き上げを許す様に徳川家に要求している。
概訳を示す:
「 2月18日
稲葉美濃守様に、今夕、左記の嘆願書を、(延岡藩の御留守居役の)老之進が御留守居の場に持っていき、
公用人に渡した処、それを受け取ってくれた(御落手成られ候)。
(その内容は)
先般、兼ねて、(増上寺の)御山門の御警衛を仰せ付けられていたが、
(延岡藩主の)備後守は、在所にいるので、多数の武士は延岡にいる。
江戸には少数しかいないので、(命令が来た段階で)、書面で、
多数を足すのは難しいと申し出て、少数だけを警衛に差し向けていた。
その中で、当藩の勝手向きが、兼ねて、窮迫していた処、さらに、
早春の京阪での事変により、大阪藩邸から資金が回ってこなくなり、
勝手向きが窮迫し、やりくりが難しくなった。当屋敷内での融通が大変で、飢餓に及ぶ可能性も出てきた。
それで、とても、山門の警衛に人を割くのが難しくなってきた。甚だ、不本意で、恐れ入ることではあるが、
そこの事情を御憐察戴き、(警衛の件は)御免頂きたい。嘆願いたします。
江戸家来 成瀬老之進 」
老中 稲葉美濃守とは、山城淀藩(10万石)の藩主の稲葉正邦である。鳥羽伏見の戦の時は、
江戸に残って留守政権を守っていたが、
在所は、鳥羽伏見の戦の戦場に近く、最初は幕府側であったが、戦況が危なくなると、
藩主は徳川家の老中でありながら、官軍側についてしまった。
その稲葉美濃守が、老中御免を言い渡されたのである。
概訳を示す:
「 2月23日
稲葉美濃守は、(老中の)御役を御免されたので、これまで、老中宅に差し出していた諸届などは、
今後、あらたな(老中の)役が決まるまでは、西丸の御徒目付の当番所に差し出して、
御目付に渡すようにと頼む様に。
もっとも、夜分は、大手御門の大番所の御徒目付に差し出す様に、心得ること。
という内容の廻状が回って来た。」
江戸に在府した各藩の藩主が、在所に帰るとして延岡藩へ挨拶状が届く。
@ 2月19日 : 内藤若狭守 ( 信濃高遠藩3万3000石:内藤頼直 )
A 3月 2日 : 藤堂佐渡守 ( 伊勢久井藩5万3000石:藤堂 高邦 )
B 3月 2日 : 秋本但馬守 ( 上野館林藩6万石:秋元礼朝 )
C 3月 3日 : 内藤紀伊守 ( 越後村上藩5万石:内藤信民 ) などである。
その中から、内藤紀伊守からの廻状を紹介する。
概意を示す
「内藤紀伊守様の家来より、1昨日の2月朔日付けの奉札をもって、
紀伊守様が、御領分に御取り締まりのため、御在所に出発できるように、
御願書を差出された処、お願いの通り、許可が出されたので、有難いことと思っている。
よって、昨2日、ご当地を御発籠(出発)された。
この事情のため、(江戸藩邸の)表御門は、御締め切りにする。
お客様、御使いの者などは、御通過なさってください。
もっとも、よんどころない御使者やお使いの者は、通用御門より入り、
御内玄関に向かわれて下さい。
更に、かつ、御日限のある連絡網の廻状は、廻さないようにお願いします。
もはや、御知らせの為においでになることのない様にと 言ってきた。」
1) 内藤家資料(明治大学所蔵) :1-8-156
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