第57話:江戸藩邸閉鎖(1):明治元年1-3月 

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      徳川家の政権が終了し、同時に官軍が江戸に進軍してきます。
      延岡藩の江戸藩邸から武士や前藩主を急ぎ延岡に帰す手続きに入ります。
      徳川家や各藩への挨拶も必要です。



 
今回のトピックス


      徳川家の政権が終了し、同時に官軍が江戸に進軍してくる気配の中、各藩の江戸藩邸は騒がしくなってきます。
      一斉に藩主や前藩主や奥方たちを在所に帰す必要が出てきます。

      延岡藩の江戸藩邸でのその終了の過程を報告します。


                                         (2017.10.29)

     

【1】 時代背景


慶應4年(明治元年)の正月に、鳥羽や伏見にて、
幕府軍と薩摩を中心とする官軍が戦ったが、

戦途中に、幕府側の最高指揮者である前将軍の慶喜が、
江戸にこっそり逃げ帰ったこともあり、
あっけないほどの官軍側の圧勝で終わった。

官軍=新政府側は、京都を中心に次々に手を打ち、
西国の各藩を手始めに、新政府側への恭順を求めて、
江戸に向かい進軍を始めた。

一方、江戸では、京都から送られてくる情報で、
徳川の政権が終了することを理解しながら、
どう対処しようかと動揺してくる。

江戸が戦場になるかもしれない。
徳川家は見捨てても、まずは、
自藩の存続を考えなければいけないことに気づく。

また、徳川家への窓口として存在した江戸藩邸は不要になる。
延岡藩の江戸藩邸でも、その結論へむかう。

当報告#51で、慶應3年11月から、慶應4年1月19日の慶喜の謹慎までを、
延岡藩の江戸藩邸の記録をたどった。

今回は、延岡藩邸の記録が終わる明治元年3月末までの
藩邸の閉鎖までの様子をお知らせしたい。

徳川家からの命令で増上寺の警衛を担当していた。それも断らなければならない。
周りの各藩の藩主たちが在所に帰るという挨拶状がまわってくる。

延岡藩でも、江戸に残っている藩士と前藩主とその周りの女中を含めて、
ほとんどの者が、延岡へ移動してしまうのである。

お抱えの坊主も、御役御免となる。
そのドタバタを報告する。

【2】 慶喜が退隠の意思を示す= 1月28日 (明治元年=慶應4年)


慶喜が徳川宗家の当主を辞退することを発表した。

1月28日、松平和泉守(乗秩:三河西尾藩)と堀田相模守(正倫:下総佐倉)の連名による26日付の廻状が回って来た。

彼らが、登城した処、小笠原壱岐守(肥前国唐津藩世継。3度目の老中)から書付を見せられたので、
急ぎ、写して回覧するものであるとして、右の書面である。

概意をしめす:

  「上様の思し召しの旨を、御達し為されるについて、
   (上様=慶喜が)御退隠を遊ばされるので、(その後の)御相続のことも

   紀伊中納言殿(紀州藩主:徳川茂承)に、
   朝廷にお願いするようにおっしゃった。

   その旨を理解して、連絡するように。
   但し、御内沙汰(秘密)のこと。


この時点は、内密にと言っているが、2月末日に正式に表明している。

【3】 公儀所の設置の通達 = 2月朔日(=1日)  (明治元年=慶應4年)

徳川家 から、上意として、公儀所(議会)を設置するので、やる気のあるものは申し出るようにという通達が届いた。
ここで上意は、だれの考えだろうか。

慶喜は、引退の意思を表した後の事であるが、上様(慶喜)の見解であろう。
遅まきながら、一般大衆も含めた議会制度を提案している。



概意を示そう。

  「上意(徳川家の意思:具体的には、慶喜だろう)により、
   (徳川家で藩主と会うことのできる武士の格である)お目見え格以上だけでなく、それ以下も、

   そして、次男や三男の厄介者も、(徳川家意外の)諸藩の藩士も、そして、百姓や町人にいたるまで、
   有志の連中は、その見込みのある程度を書面に書いて、公儀所に申し出て来るように。

   (能力のないものは)厚情(温情)によって、来ることがあってはならない。

   もっとも、公儀所にて受け取りができるようになるまでは、評定所に申し立てること。
   いつまでという日限は、後日、連絡する。
   このことを、面々に、漏らさず、御触れを出して連絡すること。正月。

   皇国の御制度の基本を、全国の公儀(今でいう議会か)によって、
   決めるべきであることは当然であるから、幕府の政権を閉める。


   朝廷諸藩が、公儀を尽くされるように、(朝廷に)奏聞いたすので、これまでの家政(内政)の事を熟考すると、
   士民(武士から町民まで)の心に行き届いていなかったことは少なくない。

   このことは、実に、耿(=恥)入ることで、この度、公儀所を設置して広く、大衆の公儀(意見)を取り入れ、
   上下の情を通じるようにしたいと考えているので、銘々、見込み(これからの考え)を、
   はばからず、言ってくるようにすべきであるというのが、上意である。

   右の段、公儀の御触れがあったので、その意を、家中の一統に、漏らさず伝えるように、
   また、更に部下家来がいるものはその者達へも伝えるように。


有能、有意の人材を広くあつめて、衆議による政治をめざしたのだろう。しかし、もう遅すぎた判断であった。

【4】 江戸進駐の辞退を慶喜名で官軍へ訴え、そして、徳川家の家来たちにも自重を促す = 2月11日と 2月末日

 1) 2月11日 (明治元年=慶應4年)



概意を示す:

  「この度、御追討使が各地に差し向けようとされていることを、遠くで聞いて、
   誠に、学びいり、恐れ多い気持ちになっております。

   このことは、全て、慶喜の一身の不束から生じたことであります。
   天朝がお怒りのことは、ひとことも反論するつもりもない次第です。

   この上、どのような沙汰があろうとも、遺憾とすることなく、恐れ入り奉る所存にて、
   自分は、東叡山(東京の上野)に謹慎するつもりで、下の連中に申し諭しております。

   たとえ、官軍を差し向けなさろうと、不敬のことを一切しない様、心得るようにと言っておりますが、
   弊国(徳川家の所領)には、四方の士民輻?の土地もあるので、多くの者の中には、万一、心得違いの者が無いとも限らず、
   この事情で、恭順の意を取り損なって、不慮の事が起きる場合は、なおさら、恐れ入り奉ります。

   それのみならず、億万の生命、塗炭の苦しみなど蒙るとすると、忍び難いことですので、
   なにとぞ、官軍を差し向けることは、暫時、御猶予下さる様、

   臣慶喜が一身が、罰せられようと、無罪の生きた民が、塗炭の苦しみを免れられるよう、
   お願いしたく、臣慶喜が、今日、懇願いたします。

   右の趣を厚く、御諒察下される様、前文の次第、お聞き届け下さる様、
   この点を御奏聞下さいます様、願上げ奉ります。以上。

         臣慶喜 


慶喜による官軍による進軍の自重を促す必死の嘆願である

 2) 2月晦日(=末日) (明治元年=慶應4年)

そして、慶喜は、徳川家の家来衆に謹慎し、軽挙暴動に出るなと訴えている



2月晦日(末日)に、以下の通りの、ご家中にお知らせするようにという御触れがあった。

その内容の概訳を示す:

  「(各藩の)大目付に

   この度の段、京都表で、御軍勢を御差向けになり、既に、東海道筋に
   御先鋒が出発したとの由を聞いている。

   (慶喜側は)然らば、もとより、朝廷に、対して、深く御謹慎の態度でありなされるので、
   この上、如何様の御沙汰があるとも、御恭順の勤めをお続けになり、
   王の御素志を、貫かれる。万一、官軍に対して、

   軽挙暴動をする者があったのでは、 
   天朝に対し、恐れ入って謹慎していることにならず、
   その為に御誠意が届かないことになる。

   万民が塗炭(の苦しみ)に落ち入ってしまうことになる。
   それに、心得違いの無いように、一同、謹慎をしているように。

   忠義を忘れてきたら、連絡したその趣に悖る(もとる)ことになる。
   (上様の)御ためにならないので、よくよく、しゅいを考えて鼓動するように。

   決して、妄動の無いように。硬く、守ることを(上様が)仰せになった。
   右の趣意を、各自に相伝えるように。

        二月 


【5】 増上寺山門の警衛を辞退したい:お家の勝手(経済)が窮迫を訴える = 2月18日

延岡藩は、慶應3年末から、江戸藩邸は、増上寺の警衛を命じられ、数藩と一緒に警衛に当たっていた。
増上寺は、徳川家の代々の将軍の墓のある徳川家の中心的な寺であるから、反徳川陣営から焼き打ちに逢う可能性がある。

延岡藩は、殆どの武士を京阪に送ったこともあり、手勢が少なくなっているところで、警護の兵を出すのは負担である。
それだけでなく、陣容のほとんどを延岡に返すことを考えているので、徳川家に対して、増上寺の警衛の御免を申し出ているのであるが、
その理由は、勝手(経済)が窮迫していることを理由に挙げている。

台所事情がひっ迫しているのは事実であるが、それを理由に、兵の引き上げを許す様に徳川家に要求している。



概訳を示す:

  「 2月18日

   稲葉美濃守様に、今夕、左記の嘆願書を、(延岡藩の御留守居役の)老之進が御留守居の場に持っていき、
   公用人に渡した処、それを受け取ってくれた(御落手成られ候)。

   (その内容は)
   先般、兼ねて、(増上寺の)御山門の御警衛を仰せ付けられていたが、
   (延岡藩主の)備後守は、在所にいるので、多数の武士は延岡にいる。

   江戸には少数しかいないので、(命令が来た段階で)、書面で、
   多数を足すのは難しいと申し出て、少数だけを警衛に差し向けていた。

   その中で、当藩の勝手向きが、兼ねて、窮迫していた処、さらに、
   早春の京阪での事変により、大阪藩邸から資金が回ってこなくなり、
   勝手向きが窮迫し、やりくりが難しくなった。当屋敷内での融通が大変で、飢餓に及ぶ可能性も出てきた。

   それで、とても、山門の警衛に人を割くのが難しくなってきた。甚だ、不本意で、恐れ入ることではあるが、
   そこの事情を御憐察戴き、(警衛の件は)御免頂きたい。嘆願いたします。

      江戸家来 成瀬老之進 


【6】 老中の稲葉美濃守がお役御免を言い渡される = 2月23日


老中 稲葉美濃守とは、山城淀藩(10万石)の藩主の稲葉正邦である。鳥羽伏見の戦の時は、
江戸に残って留守政権を守っていたが、

在所は、鳥羽伏見の戦の戦場に近く、最初は幕府側であったが、戦況が危なくなると、
藩主は徳川家の老中でありながら、官軍側についてしまった。

その稲葉美濃守が、老中御免を言い渡されたのである。

概訳を示す:

  「 2月23日

   稲葉美濃守は、(老中の)御役を御免されたので、これまで、老中宅に差し出していた諸届などは、
   今後、あらたな(老中の)役が決まるまでは、西丸の御徒目付の当番所に差し出して、
   御目付に渡すようにと頼む様に。

   もっとも、夜分は、大手御門の大番所の御徒目付に差し出す様に、心得ること。

   という内容の廻状が回って来た。


【7】 松平の姓を返上したい = 2月26日


松平の姓は、多くの大名が名乗っている。
もともとは、徳川家康の旧姓であるが、その時代からの流れで松平を名乗っているものもあるが、

他に、家康以後、御三家から分かれた家、そして、徳川家の血縁関係はないが、徳川家から妻をもらったり、
将軍から気に入られたことから、徳川姓を頂いた譜代、外様も多い。

維新の時、反徳川の代表的な薩摩の島津家も松平姓をもらっている。
江戸時代は、松平姓を頂くことは名誉だったのである。

外様で松平姓をもらったのは、島津家、加賀前田家、仙台伊達家、毛利家、黒田家、浅野家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などがあるが、
殆どは、旧姓をつかっている。

徳川家の勢力が強い時は、競って、松平の姓を頂いたであろうが、一旦傾くと、松平姓を返上する家が出てくる。
松平大蔵少輔(下総多胡藩藩1万石:松平勝慈)は、松平性を返上した旨を、延岡藩に知らせてきた。

概訳を示す:

  「松平大蔵少輔様の家のものから、奉札を以て、知らせてきた。
   それによると、大蔵少輔様内儀、御代々御家は、松平の御称号を有難く、幸せに思ってきたが、

   今般の状況で、京都で、(松平の)姓を改める様な沙汰(命令書)があったこともあり、
   また、御恭順の道をとり続ける意思なので、旧姓である“平松”に解明しようと思う。

   それについて、御徒目付の御当番所に、使者をたてて、御届けをしたので、
   (延岡藩にも)お知らせしますと言ってきた


【8】 各藩主が在所に帰り、江戸藩邸を閉めるという挨拶状が届く


江戸に在府した各藩の藩主が、在所に帰るとして延岡藩へ挨拶状が届く。

   @ 2月19日 : 内藤若狭守 ( 信濃高遠藩3万3000石:内藤頼直 ) 
   A 3月 2日 : 藤堂佐渡守 ( 伊勢久井藩5万3000石:藤堂 高邦 )
   B 3月 2日 : 秋本但馬守 ( 上野館林藩6万石:秋元礼朝 )
   C 3月 3日 : 内藤紀伊守 ( 越後村上藩5万石:内藤信民 ) などである。

その中から、内藤紀伊守からの廻状を紹介する。

概意を示す

  「内藤紀伊守様の家来より、1昨日の2月朔日付けの奉札をもって、
   紀伊守様が、御領分に御取り締まりのため、御在所に出発できるように、
   御願書を差出された処、お願いの通り、許可が出されたので、有難いことと思っている。

   よって、昨2日、ご当地を御発籠(出発)された。
   この事情のため、(江戸藩邸の)表御門は、御締め切りにする。

   お客様、御使いの者などは、御通過なさってください。
   もっとも、よんどころない御使者やお使いの者は、通用御門より入り、
   御内玄関に向かわれて下さい。

   更に、かつ、御日限のある連絡網の廻状は、廻さないようにお願いします。
   もはや、御知らせの為においでになることのない様にと 言ってきた。


【9】 資料 

  1) 内藤家資料(明治大学所蔵) :1-8-156
    



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