今回のトピックス |
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藩主が上京して来ましたが、謹慎処分になります。必死の弁明で、終に、延岡藩の謹慎が免除されました。 その後、延岡藩は新政府軍の一員として全国に出張命令が出されます。 その中で、内藤家の分家が奥州同盟に参加してしまいました。 (2017.9.30) |
慶應4年(=明治元年:1865年)の正月に、鳥羽伏見の戦が
おきたが、幕府側の戦況が芳しくない中、
大将である前将軍徳川慶喜が、
こっそり、大阪城を抜け出して江戸に帰ってしまったので、
幕府側の完全な敗北となった。
延岡藩の藩主内藤備後守政挙(当時12歳)は、眼病を口実に、
延岡に残り、家老二人が軍を率いて、大阪にいた。
枚方近くの野田口の警衛を命じられたが、
幕府軍が北行する(京都に向かう)というのは、
恭順を唱えていた慶喜の考え方に矛盾するとして、
幕府の上層部に強く抗議し、
閣老の方がおれて、
延岡藩は、大阪城の警衛に少しの兵隊を出すだけで、
官軍とは、干戈を交えていない。
幕府側が敗北を認めて、大阪城を明け渡す直前に、
大阪城は、原因不明の火事で焼失した。
延岡藩の兵のほとんどは、薩長軍が大阪に入る前に、
急ぎ、延岡に帰っている。
戦争直後に、官軍側から、延岡藩は、戦犯の疑いがあるとして、藩主の上京を禁じられている。
このままでは、延岡藩は、最悪の場合、取りつぶしにあうとして、
京都と大阪に残った少数の延岡藩士は、
必至の身の潔白を証明しようと、
種々のルートに訴えている。
その中で、熊本藩が乗り出してくれて、岩倉具視などに話をしてくれた。
それが、明治元年1月の終わりごろの話である。
2月6日に、延岡藩の無罪立証の後ろ盾になってくれた熊本藩の細川越中守の家来から、
延岡藩に呼び出しがあり、以下の内容の御達書を渡された。
それには、内藤備後守家来の者が嘆願の趣、出先で、
軽率の取り計らいに及んだが、家来の者は謹慎をしており、
自分儀は、はやばや、上京するべき旨を(延岡藩主の)備後守へ伝えてくれという内容だった。
それで、延岡藩主の内藤備後守政挙は、3月5日に延岡を船で発ち、
4月4日京都に着いている。
延岡から大阪に向かう途中に、
大阪にいる面々にこれから殿さまが大阪に向かっているという情報を先に伝えている。
先触れであるが、どうやって、船より早く、大阪に着いたのであろうか?
これの略意を示す:
「殿様、去る5日昼、御城を発籠し、延岡表を御乗船に遊ばされたことを、
言って来たので、その意を理解して、在阪の面々に、申し通され、
支配これある面々は、その支配方(=家来)にも連絡すべきこと。以上
3月13日」
殿さまは、4月4日に京都に到着し、
すぐ、官軍本部にその旨を届けたが、以下の文書が返って来たのである。
疑わしいことがあるので、謹慎せよというものである。
その文面が右のものである。
略意を示す:
「 内藤備後守へ
昨日四日に、上京してきたことを届け出してきたが、
お取糾の可能性があるので、
まず、謹慎をしておくように御沙汰(=命令)するものである」
4/13日に、太政官代へ家来の者が呼び出され、以下の様な御書付を渡されたので、
延岡藩から、身の証を示す受書を、翌13日に差出している。
その書付には、
「その方家来共、滞坂中、当正月3日後、伏見辺に於いて、戦争の節、賊兵に与し、官軍に対し、取り合いに及ぶやに聞いている。
その方儀、その節、在国していたかと、お尋ね、(返事するようにと)仰せつけられた」
それで、4月13日付けで受書を提出した。
その受書の内容は今までの通りで、殿さまは、旧来の眼病が出て、上京できず在所(延岡)にいて、家来だけを上京させた。
そこで、徳川家から命じられたので野田口の警衛に行ったが、
それでも、これは、不条理だと抵抗した旨、そして、家来は、謹慎中である旨を、切々と述べている。
4月14日、太政官へ延岡藩の重役が呼び出され、以下の様な糾問の書付を渡されたでの、
翌15日に受書(弁明書)を提出している。
糾問の内容は、
@正月4日暁、野田口への警衛を申しつけられたので、重役の者、徳川氏の監察に罷り出て、
心痛の段を反復、申し述べ、やむを得ず、
警衛だけの人数を差出したという趣、右の心痛の旨の趣、並びに、やむを得ずの次第は、如何か?
A家来の穂鷹内蔵進、原小太郎の両人とも、謹慎を申しつけていた趣、その罪状は、如何か?
というものである。
そして、延岡藩からの弁明書を示す:
この訳は、
「私議、御取糾べを蒙り、御対して申し上げ候処、更に、御糾問が仰せつけられ、
重々、恐れ入り、即ち、謹んで左に申し上げ奉ります。
1.去る冬、私の家来の者が、滞阪中、伏見表にて、新選組等、隠に干戈の意を含んでいるという風聞を承るに及んで、
重役の者、旧閣老に、罷り出て、下輩の粗忽により、不容易な次第になってしまっては、
第一、徳川家の素意にも戻るべきだと申しあげ、
実に、大切なことだと返す返す
申し述べた所、(旧閣老から)追々、(延岡藩の)人数も、減らすべきと答えられたのでした。
然るに、正月2日に、大造(多数)の人数が、北行の由と伝聞しましたので、
同夜、(延岡藩の)一人が、旧参政に差し出て、これまでの恭順の道も尽くされて、
万一、不条理の儀があれば、しかるべからず事になると、
再三申し述べました処、決して、左様なことはない、尾越の両老公が、御下阪の砌に、お勧めの儀もある。
俄(にわか)に、上京を、
仰せ出でられたようなので、その時になって、御猶予をお願いした処、
これまた、不恭順ときっとなるだろう言う。止むを得ずの次第という趣旨の発言でした。
同4日暁、野田口の警衛を申しつけられたので、重役の者、旧監察へ罷り出て、万一、不恭順に至ったならば、
これまでの事は、水泡に帰すと申し上げたところ、その様な事は、万万、無いことで、徳川氏の心得もあるので、
拙者共が、測り知るところではないと答えられたので、同人(閣老個人)の心得は、如何かと尋ねたところ、
聢(しか)と突留ず(つきとめず)の挨拶にて、心痛無限でありましたが、倉卒 (突然) のことで、
(延岡藩は)譜代家ということで、やむを得ず、華城(大阪城のこと)警衛だけのことは、心得ましたと申しました。
勿論、北に向かっては、一歩も進まずと申し合わせていた。同日夕、人数170人余りを差出しました由です。
もっとも、戦争の始末柄は、
弁ずるわけには行かないですが、深く、懸念の意もあり、恭順の筋は、一つとして、尽くされていませんが、
素意にも戻ると申すべきことで、猶、また、旧閣老に申し述べた趣旨です。
1.重役の者、赤心も、不行き届き、且つ、軽率の取り計らいに及び、重畳、恐れ入り存じ奉りますので、
穂鷹内蔵進は、在所表に、そして、原小太郎は、坂邸(大阪の邸)に、謹慎している処です。
その後、右の家来の者は、謹慎を続けさせ、私儀(内藤備後守)は、はやばやと上京致す様、沙汰がありましたので、
尚又、命令を奉り、その通りにしようとしています。
右の通りです。4月15日」
延岡藩の従来の主張を切々と述べている。心情と戦犯とされた無念さが伝わってくる名文である。
謹慎の御免の情報が、正式発表前に、堀田出羽守からこっそり届いている。
この堀田出羽守がどこの人がはっきりしない。名前だけからすると、堀田正養(まさやす)近江宮川藩主かもしれないが、
この時点では、彼は、江戸にいたはずなので、多分違うだろう。
とにかく、堀田出羽守の家来2名からの手紙が届いている。それによると、延岡藩の謹慎が御免になると出羽守が知ったので、
延岡藩にそのことを伝えよと命じられたので、お教えします。
という内容である。
そして、正式な謹慎を免ずるという知らせが届いたのである。
本文は、5月15日、呼び出しがあったが、殿さまは不快(病気)のため、重役が、名代で罷り出たところ、
以下の様な沙汰書があった。その報告の訳文だけを示す。
「その方の家来、大阪詰め居り時、当正月三日後、不容易な事態に立ち至った時、
朝廷に対して立ち向かい、如何の義もあったと聞いているので、一旦は、入京差し止めたが、嘆願の旨があり、
その方は、在国中にて、坂地に詰めていた重役の者が、翌四日に徳川慶喜より、野田口の警衛を申しつけられ、
人数を差出す前日に、突然に、伏見辺で戦争の顛末を弁ぜずより、不都合の次第に立ち至り、恐れ入り奉ったが、
豪も官軍に対して発砲に及ばなかったことについては、その方に於いて、素より、勤王の心が底にある聞食(政治)が届いている。
最前、重役の者、旧幕閣老の監察に向かって諌(カン:いさめる)争をしたそうだが、その赤心は、行き届かず、やむを得ず、
ついに、前件の軽率に出兵に及んだ次第をもって、その方儀、一旦、御不審を蒙ったのは、当然の事で、
畢竟、出先での家来共のふつつかは、全て、その方の、かねがねの、示し方が不行き届きに当たるので、
この件は、御沙汰があっても当然であるが、恐縮して謹慎しており、それも百日余に及ぶので、
(官軍?朝廷?の)寛大な御仁恵をもって、免ぜられる。
ますます、臣民をもって、教導し、国論を一定にし、精々、忠勤に励む旨、御沙汰する。
但し、家来の穂鷹内蔵進と原小太郎も本文の御寛典に準じて、謹慎を免除しても苦しからず。
5月」
その後、明治元年5月20日に、藩主内藤政挙は、誓約書にサインをしている。
5月20日、御誓約を致しました、
「御誓約月日 慶應四戊辰5月20日 右の通り御座候」
という記録がある。後に、あの時の成約に従い、国に帰ったら、臣民をうまく育てよという文言がある。
明治元年(=慶應4年)5月13日、軍務官より、御呼出しがあり、
千葉新左衛門が、罷り出たところ、判事の吉井幸助が、御書付を渡した。
その内容は以下の通りである。
概意は、
「内藤備後守へ
右、甲府城番の応援を仰せつけられたので、早々に、
人数を差出す旨の御沙汰があった。
五月」
更に、甲府関係では、命令が続く。
A 明治元年5月17日、そこで、内藤家は、お届け書を差出している。それによると、
銃兵:119名。その中に、医師(3人)、旗手(4人)、人夫(13人)が含まれている。
右は、甲府城番の応援ために、人数を差出す。仰せつけられたので、
備後守が、召し連れている人数の内、取りあえず、右の通りで、人数を増やすことについては、
早速、在所表に申しつけているので、到着し大、御届けをいたします。
5月17日 内藤備後守家来 井上貞太郎
B 明治元年5月29日:京都出発
これらの人数が、京都を発って、6月26日、甲府に着いている。但し、行軍中、病気のため、途中の駅に残った者がいる。
それは、銃兵(11人)、医者(1人)、旗手(1人)、人夫(1人)となっている。
内藤備後守家来 大野城之介 からの到着報告書
C 明治元年7月27日:江戸に到着
甲府滞在の兵員は、去る7月16日、同所を出立し、川留などの延引があったが江戸藩邸に到着した
@ 明治元年7月2日
国谷村へ警衛のため向かい、これまで警衛を担当していた松代藩と交代するようにという御沙汰があった。
そのため、延岡藩は、銃兵(15人)、人夫(1人)を送る
A 明治元年7月6日
7月5日、延岡藩重役の内藤治部左衛門が鎮撫府に行くと、参謀の浜松藩の伏谷又坐衛門から、御書付が渡された。
延岡藩兵を武州の飯能付近に差し向ける命令である。強盗や浪人が多いとのことである。
延岡藩は、飯能にむけて、 銃兵(65人)、医師(1人)、鼓手(2人)、人夫(7人)を差し向けている。
B 明治元年7月16日:甲府から江戸に行くように命令
甲府滞在の兵隊を江戸に向けるように命令が下る。国谷村や武州に出張の面々も江戸に向かった。
上鹿山村に滞在していた延岡藩兵士が7月23日出立して、24日に江戸藩邸に到着している。
甲府からの兵隊も、途中川留めがあったので遅れたが、27日に藩邸に到着している
C 明治元年7月29日:欧州戦線への出軍の命令
奥州表への出張命令がでた。今までの、小石川、牛込、神田橋警衛を免ぜられた。
D 明治元年8月4日:藩主の延岡への帰国が許可
藩主、内藤備後守政挙は、京都にいたが、京都守備を免ぜられ、延岡帰国が許可された。
E 明治元年11月27日
雉子橋御門の警衛が命じられた。一方で、小石川、牛込、神田橋を警衛していた延岡藩は
、尾州や紀州の連中と交代して、延岡へ帰ることが許されている。
内藤家は、延岡に来る直前は、陸奥国磐城平(現福島県)を領していた。
内藤家は、延岡藩内藤家は、安中藩内藤家、挙母藩(ころも:現愛知県豊田市)内藤家など、
を束ねる本家である。
新宿御苑を江戸屋敷とした、信濃の高遠藩内藤家は、姓は、同じであるが、親戚関係とはなっていない。
これ以外に、磐城平藩時代の支藩として湯長谷藩(ゆながやはん)があったが、延岡への転封の時、湯長屋藩は、1万石程度と小さいが独立の藩として残った。
後、加増されて、1万5000石までになっていた。この藩は、最近は、映画「超高速!参勤交代」のモデル藩として脚光を浴びている。
湯長谷藩の第11代藩主内藤政養(まさやす)は幼名を長寿麿といった。慶應4年(明治元年)当時、政養は、12歳ながら、あくまでも旧幕府側に立ち、
奥羽越列藩同盟に参加した。明治元年6月24日、新政府軍に湯長谷陣屋を攻撃され、攻略されたが、彼は仙台城に逃げた。
9月24日、新政府軍に降伏し謝罪を申し入れている。9月27日に新政府軍に降伏を認められ、10月19日、本家の延岡藩の江戸藩邸に幽閉されてしまった。
12月7日には、同藩は新政府にたてついたということで、所領も1000石削減された。彼は、翌明治2年9月28日に謹慎を解かれている。
延岡藩のこのころの記録には、「長寿麿」に関するものが相当ある。その一例を示す。
@ 官軍側の指令書
明治元年10月19日
江戸において、大総督府応接方より公務人の御呼出しがあり、以下の通りの御沙汰書3通が渡された。
そして、当藩より長寿麿に御沙汰書を引き渡すべき旨が口達であった。
その内容は、
「 内藤備後守へ
その方、同姓内藤長寿麿、?(しばしば)、官軍に抗し、在所を脱して、士民をして向背を失わしめ(反抗させ)、
ついに、仙台表に於いて降伏するといえども、不容易の所業におよんだことは、当地において、まず、その方にお預け謹慎を申しつける」
「来る20日に、内藤長寿麿は、千住に到着するので、同日昼午刻に、右駅の本陣に受取人を差出すように」
A 延岡藩からの届書
10月21日、大総督府応接方に、左の通り、(延岡藩から)お届け書を差出し、内藤長寿麿を、昨20日、千住宿にて、
受取し、同日夕方、虎ノ門の延岡藩邸の中へ連れてきて預かります。この段をお届けします。内藤備後守家来 成瀬老之進」
B 明治1年12月7日
弁事御役所より、重役の御呼出しがあり、左の通りの沙汰書を渡された。
別紙の通り、命令するので、これを彼に達すること
「 内藤政養へ
奥羽諸属と同盟し、王師に抗衝したのは、大義順逆を相弁ぜず次第にて、その罪は、軽からず、
きっと、御咎めが仰せつけられる処であるが、出格の思し召しをもって、
領地の内、千石を召し上げ(1万4000石になった)、隠居を仰せつけられ、家名の相続のことは、血脈の者に仰せつけられるべきこと」
彼は、10歳近くで隠居し、養子の政憲に家督を譲った。
1) 内藤家資料(明治大学所蔵) :3-20維新-349:殿様延岡表乗船
2) 内藤家資料(明治大学所蔵) :2-1維新-64-1:内藤備後守弁事務所呼び出し
3) 内藤家資料(明治大学所蔵) :2-10維新-65:内藤備後糾問状および答申
4) 内藤家資料(明治大学所蔵) :3-20維新-57:備後守謹慎御免
5) 国立公文書管所蔵華族家記
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