今回のトピックス |
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慶喜の逃走で、鳥羽伏見の戦は終了しました。幕府側の延岡藩にも糾弾の手が押し寄せ、藩の危急存亡の時です。 京都と大阪に残る少数の藩士による、必死の嘆願作戦の結果、 肥後藩の協力をえることに成功し、維新革命の陰の実力者、岩倉具視への接触にこぎつけました。 (2017.8.28) |
鳥羽伏見の戦いは、
慶應4年(明治元年)の1月3日〜6日の短期間であった。
最後に、幕府側トップの前将軍慶喜が、味方の将兵を残して、船でこっそり大阪を抜け出し、江戸に帰ってしまったことで、あっけない幕切れになってしまった。
延岡藩も、幕府の呼び出しで、延岡と江戸から、計200名ほどの兵隊を大阪に集めた。
殿さまは、病気と称して(事実かどうかは不明)、延岡に残り、大阪に集結した部隊は、2人の家老が指揮した。
延岡藩は、大阪と伏見の中間地点にある野田口の警衛を仰せつかった。
しかし、2人の家老は、慶喜はもともと恭順するといっていたのに、
朝廷(事実上、その裏にいる薩摩藩)に対して攻撃するというのは、
納得が行かない、“不条理”だと、幕府幹部に何度も談判している。
あまりにしつこい抗議だったからか、延岡藩は、大阪城の見廻りに変えられている。
朝廷側(官軍側)は、即座に、幕府側の戦犯を指名したが、どうしたことか、延岡藩も、第4級の戦犯リストに載っており、藩主内藤政挙(備後守)の入京禁止令をだした(延岡藩が知ることになったのは、1月10日)。
そこで、京都と大阪に残る延岡藩士は、このままでは、最悪は、延岡藩の取りつぶし、良くても、石高半分の処分が下りそうだと、いろいろなつてを使って、身の潔白を図る努力をする。
先回の報告は、11日〜13日ごろの京都での必死の努力を紹介した。
三条実美や、細川右京太夫などが、支援のアドバイスをくれてはいた。
今回は、その続きで、
努力の成果として、
終に、肥後藩が、明治維新というクーデターの最高実力者の一人である岩倉具視へ仲介の労を取ってくれることになったところまでを紹介したい。
1月10日、官軍側の代表である薩摩藩と長州藩へ、以下のような直訴の手紙を出した。
それは、延岡藩が、処罰の対象となっていることを知った当日である。
概訳を示す:
「手紙を以て、啓上仕ります。
しからば、(我が)主人(内藤備後守)は、上京するようにと仰せつかりましたが,
病気がいまだ回復しませんので、先供の人数を大阪に差し登らせおきましたところ、
徳川家より、野田口の警衛を、申しつけられ、それを勤めました。
その後、右御役の衆もどこかへ立ち去りました。
寄る辺もなく、当節柄、少ないながらも人数を差し出しました件については、
物情も関係しておると心得ております。
人数は、一旦、在所(延岡)に引き取るよう申しつけました。跡荷物は、昨日来、取り片付けておりますが、
今朝、隣家の若州(若狭・小浜藩)の蔵屋敷に毛利家の衆かと思われますが、御取締りをなされたとか、見受けました。
きっと、朝命を御奉りなさってのことと、存じ奉っております。
弊邸は、適前条、荷物を片付けていたので、先自外にして、狼狽しております。
出兵した諸家、それぞれ、(出兵した)意味は違うだろうと存じておりますが、
主人の件は、徳川家譜代の者でありますので、差し控えておいた方がよろしいでしょうか?
この点を、そちら様に御内意を伺います。
内藤備後守 留守居 小林祐蔵
正月十日
薩州様御役人 中様」
長州藩による、荒っぽい取り調べが行われているので、九州のよしみで薩摩藩にまずは接触したのであろう。
薩摩藩の対応は、つれないものであった。
「右、薩藩にては、関係これ無しの由にて、書状を差し戻してきた」
という記録が延岡藩にある。薩摩藩が、着き返してきたのである。
それで、今度は、長州藩へ、同じ文面を送っている。その時、一文を付け加えている。
「近国の御大藩につき、薩州様衆へ伺いましたところ、
あっち様(彼方様)には、御関係なしの趣の御口上をもってお答えでした。略儀ながら、(長州藩へも)おたずねいたします。」
というものであるが、長州藩からも、当藩は、同じように、関係ないという答えがきている。
また、この10日に延岡藩の手紙を薩長の当番に届けた山本茂右衛門というものが、
11日付で、二人扶持の加増になって、最終的に、十俵、4人扶持になり、下御中小姓組になり、
後に、支配頭にするという褒美の御達しが出ている。所得倍増である。
よほど、薩長へ手紙を届けることが難しく、大事であったことがわかる。
薩長への口利きに失敗した、延岡藩は、12日付で、肥後藩と尾張藩へも届けている。
また、同文面が、岩倉具視にも届けられている。
下の文面が、諸藩と岩倉に届けたものの原書である。
概訳を示す。
「去る冬、備後守、お召しにより、上京の筈にて、既に、先供、坂地(大阪)に到着しました折柄、
野田口の警衛を申しつけられたので、人数を差し出しました由にあります。
然る処、徳川内府の上京の先供の行き違いにより、かかる御事態に立ち至りましたことは、重々、恐れ入り奉ります。
もっとも、重役の者が、戦争の始末の弁へ申さなかったことから、警衛の人数を粗卒に差し出したことは、重々、恐れ入り奉ります。
右の事は、備後守は、いささかも御承知にならないことで、何とも恐れ入り達まつります。
この段、幾重にも御憐察下され、備後守の入京の御許しを下されるよう、泣血から、懇願いたします。
そういうことなので、(備後守が)、早々、上京仕り、万々、お詫び願上げ奉るべくと考えております。
もっとも、御用の儀は、ゆきとどかないこともありましょうが、幾重にも、心得て申し上げます。
この点を、只管(いちずに)、御執りなしの程を嘆願いたします。以上
正月(12日) 御名家来
本書肥邸の心付け受け 右の通り」
入京の許可を頂き、官軍のために、仕事をやらせてくれと、必死の願いをしている。
さらに1月18日になって、大阪に残る中老の原小太郎から、肥後藩へ同様の内容だが、
延岡藩が戦争に参加せず、むしろ、いさめたことを詳しく述べた嘆願書の記録が残っている。
その概訳のみを、以下に示す。
「明治元年正月18日 京都に於いて 下記の嘆願書を 肥後藩へ差出したものである。
去る冬、備後守 召されたので、先供の人数を、少々ながら、差し上げて、旧臘(きゅうろう=去る12月)、
大阪に到着いたしました処、其の砌(みぎり)、伏見表にて新撰組が、隠然と、干戈意を相含み居りました処かなと聞き、
(慶喜公の)従来の御恭順の姿勢が、下輩の粗忽より不容易の次第になってしまっては、
御復政の思召しに戻ってしまうことになってしまい、
実に御大切の段、閣老に罷り出て、申上げました処、追々、人数も引取る様に致すことになる御模様に有りました。
その後、去る二日、大そうの御人数が、北行しているという趣を伝聞致しましたので、
同夜、塚本右衛門と申す者を、参政に差出して、是まで、御恭順の道も尽きてしまう、
援に到っては、御不条理になってしまうことは、然るべからずの段、愈々申上げました処、
決して、左様な筋には無く、尾・越の両老侯が、下阪の砌に、御進めの儀も有り、俄かに上京を仰せ出られましたので、
その時に至るまでの御猶予をお願いし、かつ又、御恭順にならずに成りますので、やむ得ない次第と答えられました。
同四日暁に、野田口の警衛を申し付けられましたので、穂鷹内蔵進(家老)と申す者が登城し、監察に御達申上げ、
上様の御裾伺い、万一、御不恭順の儀に、押し至るようになっては、是までの儀、水の泡に帰すと申すべき御見込みは、
如何かと伺ましたところ、曖昧の御挨拶があっただけでした。
(延岡藩が)、譜代家であり、かつ、御鞅掌中、やむを得ない情実も有りまして、
御城中の御警衛だけは、御請けいたしますと申し上げて、北に向かうことに関しては、
一歩も進まずの心得で、引取りました。
同日夕、少々の人数ながら、差出し、戦争の始末は弁することはできませんが、
前後については、甚だ懸念の意も有り、御恭順の御筋は、一層御尽くし遊ばされなかった点は、
御素意に戻るよう、反覆、閣老へ申し上げます。
同7日、 豈(アニ)図らんや。(大阪城が焼け落ちて)御空城に成りました旨を、承り知りましたので、
其の儘、人数引取るように申しました。然る処、この度、天朝より御不審の筋があるとのこと、
全赤心、貫徹仕らず候。徳川家が、この度の次第に相成りました点は、その罪遣るべからず。
かの警衛の人数として倉卒(突然)に差出した点は、重々畏れ入り奉り候。勿論、備後守は、聊(いささかも)承知仕らず、
出先に於いて、軽卒が行った取計らいで、右の次第に及び、何とも、恐れ入ります。
仍(ヨ)って、坂邸へ相慎み罷りたいと思っています。
この段、幾重も御憐察成し下され、備後守、入京の御許可を下され、御用を仰せ附けられます様、
貴藩より御執政成し下されます様、只管(いちずに)、御依頼願い申し上げます。以上」
原小太郎の必死の弁明がよくわかる。
ついに、隣藩である肥後藩が仲介に動いてくれた。細川越中守の家来、池邉惇右衛門の手紙がある。
彼は、岩倉具視へ、延岡藩の無罪を訴えるのを手伝ってくれたのである。
概訳を示す:
「岩倉様(岩倉具視だろう)に肥後の池邉惇右衛門より差し出した手紙の出し届
内藤備後守家来の池内善蔵より、備後守入京を免ぜられ下される様との願書を取り次ぎ、
頃日、差し出しました処、備後守の人数が、官軍に向かい、発砲したかもというお聞き込みもありましたようで、
尚得(納得)の事と承糺するようにと仰せ聞かれ、恐れ入り奉って、承糺しましたところ、
大阪詰めの家来、原小太郎より、別紙の書付を差出して言うには、
右は、弊藩までの書付に付き、そのままでは、文体の不都合がありますが、引き取り書に付き、
万一、趣意が違うことになっては、恐れ入ることになるので、そのまま、差し出します。
備後守、人数をかなり警衛として、野田口に差し出しただけで、官軍に向かって発砲したということは、
毛頭有りません趣、別紙の通りに付き、何卒、願いの通り、備後守の入京を御許しになり、
応じて、御用を仰せつけられます様、ねがい上げ奉ります。 以上。
正月 細川越中守 内 池辺惇右衛門」
延岡藩の記録の中に、中国四国の中で、幕府側についた諸藩に対する開城命令がある。
延岡藩自体に対するものではないが、このようなものが、鳥羽伏見直後に各藩に出ていた。
概訳を占めす:
「松平兵部大輔(播州明石藩主:10万石)名で、
この度、中国四国の反逆の藩を征伐に付き、四条(隆謌)前侍従で兼総督が、
近々、進発に付き、 その藩城の本陣 相居り致し候兵は、
御沙汰、諸事手当のあらずの事
但し、最もの儀は、追々、御達 が有る事
正月13日」
この中国・四国の征討総督 兼 鎮撫総督である四条前侍従は、実際に戦の先頭には立つ必要はなかったようである。
四国方面は、土佐藩が中心になり、丸亀藩、讃岐高松藩、そして、伊予松山藩を開城させている。
また、北上する長州藩が、備後福山藩、備中松山藩、播州姫路藩を開城させている。
中国・四国は、官軍側の雄藩の威力で抵抗はなかった。
1) 明治大所蔵の内藤家資料:2-10-50: 持上り上方御変憂筆記
2) 明治大所蔵の内藤家資料:1-11-129: 滞阪日記(正月11日)
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