第54話:羽伏見戦(4):処罰の対象となった延岡藩の必死の嘆願書作成−1 

No.54> 第54話:羽伏見戦(4):処罰の対象となった延岡藩の嘆願書作成−1

     京都に残る延岡藩の藩士が、藩の生き残りをかけて必死の嘆願をします。
     藩士は、失敗すれば、割腹の覚悟をしています。三条実美にもお願いします。



 
今回のトピックス


      慶喜の逃走で、鳥羽伏見の戦は終了しました。敗戦側の延岡藩にも糾弾の手が押し寄せます。
      藩の危急存亡の時がきました。京都には、少ない藩士しか残っていません。上司に相談する暇がありません。
      藩の生き残りのために、彼らは、必死の策を練ります。考えられるつてを探します。

      新政府側の要人である三条実美にすがると、大藩に口利きを頼めとアドバイスがあり、
      肥後藩に必死に食い下がり、口利きの約束を取り付けることができました。

                                         (2017.7.1)

     

【1】 鳥羽伏見の戦の直後:背景



大阪城に滞在していた徳川慶喜と、その呼び出しに応じて
大阪に集結した幕府側が、朝廷を牛耳る薩摩藩を排除する目的で、 京都目指して、出軍し、慶應4年(=明治元年)1月3日、鳥羽伏見で幕府側と薩摩藩を中心にする(後の)新政府側と交戦状態に入った。

幕府側の戦略の貧弱さや、全体の戦意の欠如、武器の貧弱さ、そして、延岡藩の強調した戦争自体の合理性の欠如などが重なり、幕府側は、あっけなく後退した。

そこで、幕府側のトップである慶喜が、部下達に向かって戦意高揚の演説をした翌日の6日に、こっそり、大阪城を抜け出し江戸へ逃走してしまったのであるから、各藩は茫然自失である。

幕府側の諸藩は、延岡藩を含めて、あっさり、大阪を放棄して自藩へ帰路を急いだ。1月7日に、大阪城を明け渡して、幕府側の敗北が確定したのであった。

延岡藩は、200名近い藩士を投入していたが、敗戦が確定して、2日とたたず、堺港で、船をチャーターして、兵士や大砲などの兵器を延岡へ送り返すということをした。

問題は、そこからである。新政府側から、延岡藩は幕府側の中心的な藩(反新政府)とみなされてしまう。
その情報が延岡藩の京都藩邸に入ったのは、1月10日であった。延岡藩の京都藩邸には、重役はいない状況であった。

にらまれた諸藩が、藩防衛のための種々の対応をしているという情報が入ってくる。
延岡藩の京都在住の藩士にとって、延岡藩が取りつぶしに、あうかもしれないと恐怖を感じている。

そこで、情報を集め、新政府側の要人や、信施府側についた九州の大藩である肥後隈本藩へ泣きついている。
その時点での、延岡藩の藩士にとって、延岡藩の危急存亡の時である。

その後の歴史の結果を知らない連中にとって、新政府というのは、徳川家に代わる絶対藩主であって、
各藩は残って
その後の、廃藩置県と版籍奉還がおきるとは、全く想像もつかない状況である。

【2】 延岡藩は不審対象につき、入京禁止の知らせが入る(1月10日)

新政府側は、鳥羽伏見の戦で勝利が確定した直後、慶喜を頂点とする幕府側の主要人物と、幕府側の主要藩に対して、朝敵として処罰を発表した。
発表日は、1月4日となっているが、それが、延岡藩に届いたのは、1月10日の事であった。延岡藩に残る記録を示す。



この発表でその処罰は、第1級が、慶喜と幕府重臣であり、第2級が会津藩の松平容保、桑名藩の松平定敬、

第3級が、豫洲松山藩の松平定昭、姫路藩の酒井忠惇、備中松山藩の板倉勝静、他、讃州の高松藩、豫洲の松山藩、備中松山藩板倉勝静、である。

第4級が上総の大田喜藩、そして、

第5級が、若州の小浜藩、濃州の大垣藩、志州の鳥羽藩、丹波の宮津藩、日州の延岡藩の5藩が対象になった。

ここでのレベルというのは、
第1級と第2級は、鳥羽・伏見戦争で新政府軍に敵対した主力軍である。
第3級は、藩主が滞阪して、幕府軍に多人数を出して政府軍に発砲した藩である。
第4級は、藩主が滞阪中、出張していた藩士が、不心得から発砲などしたが、新政府の慶喜追討令に服して、速やかに帰国した藩である。
第5級は、藩主は、在国であるが、滞阪の家来が不心得で発砲した藩で、その家来を速やかに謹慎させ、藩主が速やかに上京し謝罪を申し出た藩である。

その第5級に、我が延岡藩が入っているのである。延岡藩を含む5藩に対しては、「右、不審の次第これあり候につき、入京を止められ候事」、
つまり、延岡藩は、幕府側の可能性があるので、京都に入ることが禁止された。

延岡藩は、最も軽い第5級とはいえ、新政府にとって反政府的存在と決めつけられたことを意味する。

【3】 延岡藩の資料:1月10日から14日ごろの京都での奔走の経緯

新政府による延岡藩への処罰の判断結果を、延岡藩の知る所となったのは、先にも述べたように、1月10日である。
それを知った、京都に残っていた延岡藩士の池内善蔵らが、延岡藩の存続のために、
数日の間、藩の潔白を訴えるべく必死の対応と時の有力者である三条実美や九州の雄藩である肥後細川藩にすがっている。

その緊急度と、同様な立場にある諸藩の対処の情報を得ながら、対処している様子がひしひしと伝わる一線級の資料を紹介したい。
京都での活動の中心人物である延岡藩士の池内善蔵が、国(延岡藩)の危急存亡を感じ、それにどのように対処したかという実況中継を、
大阪に残っている中老の原小太郎へ報告している手紙がそれである。

失敗すれば割腹という覚悟の彼らの行動は、迫真的で、その緊迫感ある彼らの活動と、同じ立場の諸藩の行動もわかる報告となっている。

(1) 彼らの活動と、同じ立場の諸藩の行動もわかる報告となっている。 (1)第1編(5編中)



この部分の概訳を示す。

  「1.一筆啓上申し上げます。
    然らば、この方様(延岡藩)に、不審の筋が届きました一件に付いては、不容易な(ただならぬ)御模様に付き、(
    (私が)身分を顧みず、取り計らいました一部始終を報告いたします。

    去る九日
    「徳川慶喜天下の形勢 止むを得ず・・・」という前紙を 京都三条にある制札場(通達の張り紙をする所)に、
    昼、御書付になり、列藩に御達があったとの事で、この方様にて、既に、何事のためかという知らせもなかったので、
    参与御役の新左衛門が、(御所に)罷り出ました処、御門を入りのは差し止められ、空しく、引き返しました。

    そこで、初めて、(呼び出しを)承知仕りましたと届をしました。
    同10日様、新左衛門が、(親戚筋の)彦根様の留守居まで罷り越しました処、
    この方様(延岡藩)を始め、若洲(小浜藩) 大垣藩(美濃)、鳥羽藩(志摩)、宮津(丹後)などの五藩だけ、
    御不審の次第があるとのことで、(殿さまの)入京止めという趣旨を、列藩に御達し届になったとの事でした。

    そういう事情が、当御屋敷には、何の連絡も無く、只管(いちずに)痛心致しておりますと、御届をしました。

    同11日様、飯島よりの噂に、尊藩にも御嫌疑がかかっているということがございますかと、お尋ねした処、
    既に、松山藩様は、龍野(龍野藩脇坂氏か?)に頼って、歎願書を差出したとのことで、
    今更、書面などを、差し出す手続きの次第は、殊に、(松山藩は、自分たちは)発砲もしておりませんという文意であるという。

    発砲後、生け捕りになった兵もいるのに、甚だ、不都合なことの様である


この節では、1月9日に、権力者から町民や該当者への連絡事項を知らせために、決まった場所に札を立てる。それを高札ともいう。
高札で有名な場所である、京都三条にある制札場に、延岡藩などいくつかの藩は、御所に出頭する趣旨があったのであろう。
そこで、担当者が、御所に伺ったが、初日(9日)は、門前払いを受けて、真意は不明のままであった

翌10日、延岡藩の新左衛門は、彦根藩(延岡藩の第一の親戚筋)へ行って、真意を聞いたところ、延岡藩を含む5藩が反新政府的をみなされ、
入京禁止になったと初めて知る。しかし、新政府側から、延岡藩へは、是といった直接の働きかけはまだない。

翌11日になると、諸藩の情報が入ってくる。延岡藩より重罪の3級の対象になった松山藩(備中松山藩のことか:岡山県高梁市:藩主は老中の板倉)は、
龍野(播磨国龍野藩のことか?)に頼って、嘆願書をすでに提出している。そこで、松山藩は、発砲などしていないと抗議しているが、
松山藩は、(発砲して)生け捕りになった人物がいるのに白々しい。

(2) 第2編(5編中)


概訳を示す:

  「 取様(間を取り持った)の藩も同罪であるという趣旨を、参与役の挨拶で聞き、龍野も甚だ迷惑の由である。
    各様の御振合い(=状況)に付き、一刻も御速やかに御嘆願書の差出すことは、当然の所であると、誠に、心切(=親切)の心で、
    言ってくれたので、新左衛門は、その文を読んで、同様、草槁を作った。 

    翌12日、願書が出来ました柄(オリカラ=その時)に、甲村が来た。が来た。
    中々、至急の模様であることを聞きつけて、早速、御動気の諸藩は、何れも嘆願書を差し出している様子である。
    大垣藩は、手を入れて、大いに、都合がよろしくしているとの事、最早、(延岡藩は)国家のが旦夕に迫っている事であるから、
    爰(ココ)に至っては、決行するは、厚き君迚(とて)も、同意できません。

    成るべくの気持ちで、大変な事態と思っている。この際に当たっては、貴兄の一身に関係することだ。
    もしや、嘆願書が否定されたならば、割腹するという心得にて、取極めることだ。夜きりの聞き届をしてくれた。
    よって私より、歎願書を、書くべきだというので、内分を示したところ、あまり、冗長過ぎるという。それぞれ加筆してくれました。

    諸々よりの聞き込めで、延岡は、このままならば、(新政府側は)必ず討手(攻撃軍)を、御差し向けの上、処断するだろう。
    まず、中程度の判断で、御国替えか、或いは、半地様(石高半減)となるだろうという、風聞があるとの事である。

    同朝(12日)に至り、喜七をつかって、転法輪様(三条実美:転法輪三条家)の雑掌(役人の一つ)に、参らせた。
    この方様には、御続き(関係)の事で、何らかの御慈悲の思し召しは、ないだろうと思われる中、折り入って申し込みをして、
    夕刻に、挨拶をした由である。

    その後、肥邸(肥後藩邸のある)の桜田に罷り越して、大阪にて、旧臘(12月)二十七日、板倉様に御建言をし、
    去る(1月)二日に永井様に、同三日の深更(=深夜)に戸川様に、申し上げた御次第柄を、できるだけ、反復して、弁論を仕りました。
    嘆願を出して、示しました後、急いで、尊藩(肥後藩へ)には、ご依頼を申し上げ、殊に、御隣単(隣同士のよしみ)で、
    当節柄、御縋(すがる)するしかない事態で、万事、行き届き兼ねており、只管(ひたすら)、願上げする旨を、折り入って、御話し申し上げた

    (肥後藩からは)、至極、尤もなことと、聞いてくれて 弊邸(肥後藩)にて、御取次をすることは、聊かも問題ありませんと言ってくれた。


参与の話では、協力した藩も同罪というのもあったから、龍野藩は迷惑している。
とにかく、一刻も早く嘆願書を出すべきであろうといろいろな人の話を聞いてきて新左衛門は、草稿を作った。

翌12日に草稿ができた。そこに、緊急事態を聞きつけた甲村(どのような人物かは不明)が来て、諸藩の動向を知らせた。
対象になっている諸藩は嘆願書を出しているらしい。

そして、大垣藩は、いろいろな人のアイデアで嘆願書に手を入れてうまくできているらしい。
国家(延岡藩)の存亡が、そこ(旦夕)まで迫っている。ここで、君主思い(延岡藩)のあなたも決行しなければいけないと檄を飛ばす。
ここで、失敗したら、あなたは割腹の覚悟が必要だ、そして、今日1日が限界だと脅す。
徹夜で意見を聞きながら、書き上げた嘆願書を見せたら、冗長過ぎるといって、加筆した。

延岡は、このままなら厳しい手が打たれてしまう。
いろいろな情報を集めた結果、新政府の判定を想像すると、中ぐらいの判定でも、延岡藩は、国替えか、半地(減封)にはなるだろう。

13日朝には、喜七が、転法輪様(三条実美:転法輪三条家)の雑掌(役人の一つ)に突然訪問した。
この方には、特別のつながりもなく、特別の御慈悲をかけてくれるはずのないところだが、申し込みをして、夕方に、挨拶をして去った。

その後、肥後藩の屋敷のある桜田に向かいて、延岡藩は、大阪で、12月27日には、老中の板倉様に、1月2日には、永井(尚志:若年寄)様に、
3日には、戸川(伊豆守:大目付)様に、今回の出陣には、理がないことを主張したことを、(肥後藩に対し)何度も申し上げ、嘆願をだした。

そして、肥後藩は近隣の藩であるよしみで、貴藩にすがるしか手が無いことをひたすらお話しした。
相手は、よく聞いてくれて、それは尤もなことである、取次ぎをすることは、聊かも問題ないとの返事を得ている。

(3) 第3編(5編中)



概訳を示す:

   「しかじかの御情実であるから、一応、大阪で御打ち合わせの上で、彼の地にて、弊邸に御差出になるのが、
    然るべきところであるとのことで、そのまま、引き取って来たところ、喜七がやってきて、言うのを聞くと、
    転法論様の衆が、只今、呼びに参り、罷り出ました処、御話は、きわめて、お助けに成るようなことではなく、、
    残念ながら、延引になった次第で、かる(しかる)御含みが、おありになる事である。

    大藩へ一刻も早く申し込み成られるうべきだとの由である。よって、甚だ、窮迫し、進退極りになった時、
    又々、甲村が参り、一刻も早い方が 都合が宜しいので、今また、承り候旨を、言うのを聞いて、
    (肥後藩邸)桜田へ、行って、左すれば、その意味を、今一度、話すべきであると申すので、
    又、御桜田へ参り、切迫の素、乱れた様子で、歎願をして、このままにては、如何との事にて、それぞれ、心つけ、いうのを聞きました。

    その次第左の通りです。

    今般、人数を、野田口に 御差出しした件は、戦争の始末に並びなきより、警衛の人数を、倉卒(突然)に、
    御過出ました筋には、当たらないことです。私が考えますに、中々、遣りようは難しいと思い、
    徳川家の御不条理は、廣く、明白になっておりますので、素より、御練言(くりごと)を申し上げるべく、
    思い取るべくとして、、初めより、及ぶだけを、建白仕り居りました次第です。

    殊に、(幕府軍が)北に(京都へ)、御向い、あそばされ居ることにつきましては、諫め(いさめ)も、申し上げたこと。
   (延岡藩の)人数も、引き払い申すべき旨を、戸川様に申したててこともあること、
    その結果、まったく、御城(大阪城)の近辺の警衛に常免(引き下げられ)、軍隊をそこに留め出した訳にて、
    聊か、倉卒(とうとつに)に人数繰り出したのではない趣旨を取るべき。

    初めの通り、反復、申し置きました処、伏見の戦争を承知の上で、人数の繰り出しにつき、仮令(たとい)、
    御警衛だとしても、萬一、彼の地の人数達が、御城近辺に 参り、乱防(=乱暴)を致した場合、矢張り、
    御制止も成られるべき筋にて、その餘り、浪士にもせよ、京地よりの人数の、内なれば、苦心のことに至り、
    その旁(カタワラ)、官軍と御承知成られず、人数を、御過(留め)出のの様の存じて、
    いわゆる他の盗みに備えると申すにしては、少し、嫌疑をかけられると思われますと、反復、言うのを聞きました。


今までの情実に従えば、大阪で打ち合わせの上、大阪にある肥後邸に差し出してもらうのが筋であるとの事で、仕方なく、退いた。
喜七が来て、聞いたところ、転法論様(三条実美)の家来衆が、呼びに来たので、同宅へ参上したところ、直ぐにお助けに成るという話ではなく
、時間がかかるという話であったが、しかしながら、何となく意味する所があった。大藩へ一刻も早く申し込みなさいという話であった。
甚だ、窮迫で、進退極まりの所に来た時、

又、甲村が来て、一刻も早い方がよいと聞いてきたという趣旨で、桜田(肥後藩邸のある場所)へ、行って話をしたところ、延岡藩の話に一理あるとの話であったということで、早速、桜田へ再度、参上した。

切迫してしたので、当方も乱れていたが、とにかく、嘆願を行った。肥後藩は、このままでは、何ともならないので、詳しい話を聞いてくれた。
その次第は、延岡藩は、多くの人数を野田口に差し出したが、戦争の規模は、今までにないものなので、警衛の大人数は、唐突に出したという批判は当たらない。

その説明は、自分でも説得が難しいと感じて、徳川家の不条理が広く明白であるので、練言(くりごと)を色々申し上げようと、
考え付くものを建白致した次第である。特に、慶喜軍が、京へ向かって北上される点については、自分たちは、お諫(いさ)めもした。

大人数を引き上げるということを(大目付の)戸川様にも申し立てたこと。御城近辺の警衛に変えられて、そこに軍を出したのである。
唐突に大人数を出したというのではないこと。この点を何度も繰り返し申し上げた。伏見戦争ということは承知の上で、人数を繰り出したので、
たとえ、御警衛としても、万一、敵軍の大人数が、御城近辺に来て、乱暴を働いたら、矢張り、御制止はしただろう。
そのあまり、浪士にせよ、京都からの大人数なら、苦心の極である。

他方、官軍が御承知なく、その大人数が繰り出してきて、盗みに備えるのだと答えたのでは、少し、嘘くさいと思われるとして、何度も質問された。

(3) 第4編(5編中)



概訳を示す:

   「実行の大切なことに付き、私も、及ぶだけは、苦慮しましたけれども、何分、その辺に、差し入るべきだと、決着いたしました。
    早速、引き取り、また、新左衛門に言い含めて、同人をもって、尾州様に、それを出し ひき続き会うの意味を述べ、
    且つ、その御地にて、前段、徳川家に御尽忠の意味も為し申し、哀訴に至り仕りました処、彼の方の在京役、石川志太夫殿に、
    尤もなことだとしてお聞きになり、嘆書書 受取候趣に、御届しました。

    私儀は、歎願書を 請け出し 出来上がりの様に入り、又々、桜田に持参して、頼み至りまして、お届けしました。
    昨十三日早朝、青地に参り、又々、その地、旧臘二十七日、当二日、同三日の深更(深夜)に、御尽力の(趣)を、再三、お話し、
    且つ、歎願書の文意も、十分 御正の(判断が)下される様に、打ち入りて、頼みました処、

    青地も、心中を察し呉れて、如何計りの痛心ならんと応じる扱いにて、何れ後刻に、主人にも申し聞き、ご挨拶を申すべきなので、
    夕景に、桜田まで、来る様にと聞いたので、厚く礼を述べて、引き取りました。

   1.その地 挨拶に 坂地の御情実は、御書取にて、阪地の弊邸に 御差し出いなるか、或いは、上京の当地へ御差届になる歟(か)。
     是非 是非 御差し出に成られるように、無拠(ヨンドコロナき)意味柄も、貫徹なさるべきとのお勧めの由でした。
     この段は、是非、是非、御都合に下す様、願上げ奉りました。池辺が、桜田にも 同様に届けました。

   1.貞太郎儀、昨昼 滞り無く、内京の昨今のこの様子を、誠に、仰天することと御届けしました。

   1.昨十三日夕、又々、模様願として、桜田まで、罷り越しました処、御嘆願書の件は、右京太夫様にも、申し上げたことで、
     至極 尤の次第に付き、及ぶだけ、一力 致すべきとの御意の旨の挨拶であった由でした。実に身にあまり、恐れ縮み仕りました。
     随当の池辺迄、挨拶に参り候様の事に付き、早速、同氏に、参り、面会仕り候処、改めて、右京太夫様の御意の趣を聞きましたので、
     重ねて、厚礼 申し至り候上、又又、嘆願書


大切な点なので、私も考え付く限り、苦慮しました。何とか、その辺であろうという点に落ち着いた。
早速、肥後邸を退いた。また、新左衛門が、文面を読んだ上で、それを持って尾州(尾張徳川家)へそれを提出した。
この後もお会いするという意味を述べ、そこで、今までの徳川家への御尽忠も申し上げ、(延岡藩を助けてくれと)哀訴に至った。

尾州藩の京都役の石川志太夫殿から、それは尤もであるという言葉を得て、嘆願書を受け取ってくれるというので、嘆願書を届けた。
私の方は、嘆願書を取り出し、完成品にして、又又、桜田に持って行って、頼み込んで、お届けした(受け取ってくれた)。

昨13日に、青地(肥後藩の源右衛門か?)がやってきて、12月27日、1月2日、3日の深夜に、御尽力した件を再三話して、
嘆願書の文意も十分、正しく理解できるように真剣にお頼みした。

青地も心中を察してくれて、(我我の)痛心はいかばかりかと推し量ってくれた。後刻、主人とも相談するので、夕方に、挨拶に来られたしというので、その場は礼を述べて退却している。

1.桜田へ挨拶に向かう。大阪の実情は、御書取りにて、大阪の延岡藩邸へ御差出になられ、京都では、当地に御差出になられるか。
  是非、御差出に成られますよう、よんどころなき意味合い合いがあっても、貫徹して進んで頂きたい。
  この点は、都合に合わせて頂く様お願い申し上げた。池辺は、桜田にも同様に届けた

1.(延岡藩の)貞太郎が、昨昼、滞りなく進んでいることに仰天した。

1.策13日夕方、模様願として、桜田まで行ったところ、嘆願書は、右京太夫様まで上がっていた。
   至極、尤のことなので、できるだけのことをしてやれとの御意であったとの話で、実に身に余ることでした。
   随伴した池辺まで、挨拶に来るとの事なので、こっちから挨拶に参り、面会した。右京太夫様の御意に重ねて感謝を示した

(3) 第5編(5編中)



概訳を示す:

   「の内、倉卒(突然)の意味柄、又、何を思し召しか、実は、坂地において、旧臘(12月)二十七日、当二日、三日様の始末は、
    新しい次第を、胞迄、申直したところ、如何にも御痛心は、御尤もの次第で、その辺は、十分過ぎる含みで、
    御尽力申すべきということで、それぞれ願書に致し、このように至った上、嘆願書の文面は、御認の通りにて、然るべき処である。

    伏見戦争と承知の上の事に存じ、倉卒の字は、御下々に至方で、却(かえって)、御為に、なるかどうかの旨を、申し聞きましたので、
    何様、急速の場合で、認めましたことですので、成るべく、御正の(判断が)下され度、
    一謁は、差し出しましたとて、文面に不都合がありました由にて、御下げ願をでるのは、恐れ入りの筋にあたるべきと、
    泣血(ひどく悲しむこと)致り候処、これまた、応切の扱いに付き、只管、頼りました処、
    当分、御都合も、宜しくなるだろうとなぐさめて呉れましたとのことであります。

   1.(御所の)九門の出入り 御予留、並びに、入京御予留めの儀 改めて、御沙汰無し候由の儀、只々、恐れ入り当屋敷にても、
     御引き上げに成るべき処、何事の御達しがあった上にしようと、決心を仕り居ります処、
      この間の 風聞は、不容易なことは、前段、申し上げました。

     阪島、甲村の深切(親切)により、右様の手続きに及びました次第をお届け致します。
     尤も、殿様が、御上京の件は、各、不行き届きで、御用等を仰せつけ下さい等々の事を 
     御嘆願書に、認め込めました件は、中中 私共を以て、取り計らいする筋には、
     毛頭 これなく、この上無く大事件でありますが、

     大垣様の御詫も、皆々様の振り合い柄、又、御上京の事、御国論 十分 六ず敷(難しき)事と、慮り、
     伺い奉りますが、最早、御家の御安危には、難しい事態で、御勢いに加えて、肥邸の教諭もありました旁、
     執り行いましたことで、実に芳慮と申します処、痛心と申す処で、一日一日と日を送り、
     御仕合せは、朝夕 血残る計りで、何れ、遠からず、病を満ちて絶命 仕るべきに存じ奉り候。
     何分にも途中、御都合 克閑と御上京を願上げ奉る候。各の段、申し上げ度、
     是ごとくお届け候。恐惶謹言

          正月十四日   池内善蔵   


突然の意味柄、どういうお考えかというと、大阪にて、12月27日、1月2日、3日の幕府への直言したことは、
実に痛心、尤もなことで、十分すぎる話で、尽力してやれということで、願書内容は認めて当然であり、伏見戦争を承知の上で、
倉卒(突然)の言葉が下じもに至るまで、却って、為になるとの趣旨をお聞きしたので、急ぎ認めるので、なるべく、
正しい判断が下る様に、差し出すが、文面に不都合がある場合は、願を取り下げるより門だにになるとして、泣血(ひどく悲しむこと)になることもある処、これまた、適切な扱いに、ひたすら、お頼りして、肥後藩からは、今後うまくいくだろうとなぐさめてくれた。

1、御所の九門の出入り禁止に関しては、改めての通達はない。ただただ、恐れ入るだけである。
  延岡藩の京都屋敷も引き上げようと成るべきだが、通達があってから決心しようと考えていたが、
  この間の風聞は容易ならずの事態とお伝えしておきます。

阪島、甲村の骨折り(深切)により右のような手続きが進んだ。
尤も、殿さまが上京為さる事は、不行き届きとか、御用の仰せつけとかのこと、嘆願書に書き込んだことは、この上なく大事件であるが、
大垣様(の殿様が上京して)がお詫びをしたということがあるが、延岡藩の殿さまの上京は、難しいことと考えていますが、
もはや、御家の安危は、難しい事態になっていますが、肥後藩のアドバイスは、良い考えと思っています。

、 痛心の中、一日一日と日を送り、御仕合せが来るように、朝夕、血が流れるばかりで、遠からず、病が来て絶命する感じです。
何分にも、殿さまの、都合を合わせて、御上京を願上げ奉ります。

1月14日 池内善蔵  という悲痛な手紙+報告文である。

【4】最後に


延岡藩が新政府にとって危ない藩として挙げられ、実は、延岡藩は出軍に反対だったのだという反論をしているところを紹介した。
言葉は、悪いが、頼りになりそうなところへは手当たり次第に頼って助命短観書を送っている様子がわかる。
当時、京都には、それほどの重鎮はいなかったはずであるが、残ったものが必死に走り回っているのが分かる。
中には、喜七という名の下級武士が、三条実美宅に飛び込みでお願いに行っているのが分かる。
そして、肥後藩が本気で延岡藩の汚名注ぎに協力してくれる。それは、次回に報告したい。

慶應4年(明治元年)1月10日近くには、劇的なことが起きている。延岡藩に即座に情報が入ったかどうかは不明だが、気が気ではなかっただろう。
それを列挙してみよう。

1月4日、西園寺公望が山陰道鎮撫総督に任命されたのを筆頭に、
東海道鎮撫総督(橋本実梁)、東山道鎮撫総督(岩倉具定)、北陸道鎮撫総督(高倉永?)と任命され、15日に中国四国追討総督(四条隆謌)、
そして、25日に九州鎮撫総督が任命された。

1月6日に、亀山藩は降伏して開城して、鎮撫使を迎え入れている。
以後、丹波付近の開城が続く。1月21日には、第5級の罪状である丹後宮津藩に至り開城させている。
四国地方では、1月20日に開城させた。その時、高松藩では2名の家老に切腹を命じている。
山陽道では、長州藩を中心に進撃し、1月15日に備中松山藩を降伏させている。

17日には、慶喜に従って東帰していた藩主酒井忠惇が不在にもかかわらず、姫路藩が開城している。
第5級の戦犯組の大垣藩は、1月16日に藩主戸田氏共が上京して恭順の態度をとった。

また、最も強硬な幕府側戦力の一つであった桑名藩は、藩主が、慶喜と一緒に東帰していたが、
残った老臣たちが連名で嘆願書を出し(1月12日)、28日に開城している。

世の中がガラガラと変わっていく中で、延岡藩の恐怖は頂点に達していた。

この資料には、甲村や阪島という好人物が現れる。どういう人物かは、今のところ不明である。
また、喜七という延岡藩の者(藩士以下かもしれない)も活躍している。
また、忘れてはいけないのは、肥後隈本藩の親切である。この場を借りて感謝をもうしあげたい。

【5】資料


  (1) 延岡藩資料(明治大所蔵):2-10-50:「持上り上方後変憂記」
    



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