第53話:羽伏見戦(3):慶喜逃亡の大阪城の混乱と延岡藩の大阪撤退 

No.53> 第53話:羽伏見戦(3):慶喜逃亡の大阪城の混乱と延岡藩の大阪撤退

   延岡藩家老が大阪城に戻ると、慶喜は敵前逃亡した後でありました。愕然としました。
    しかし、船を急ぎ手配して、翌日には全員を船に乗せることに成功しました。

    今回の敗戦と慶喜の脱走は、会津藩の入知恵と嘆いています。



 
今回のトピックス


      幕府側の一員として、延岡藩も大阪までは藩士を集めましたが、今回の戦の不条理を訴えて、
      途中、前線への出兵を控えた延岡藩でありました。

      しかし、戦況は気になり、視察にいき幕府の増軍を陸軍奉行や老中に訴えます。
      出軍を決心して大阪城に戻ると、慶喜は敵前逃亡した後でありました。愕然としました。

      しかし、延岡藩士を急ぎ大阪から撤兵をする必要があります。
      船を急ぎ手配して、翌日には船に乗せることに成功しました。

      今回の敗戦と慶喜の脱走は、会津藩の入知恵と嘆いています。

                                         (2017.5.27)

     

【1】 鳥羽伏見の戦:序



朝廷における薩摩の力をそぐために、徳川慶喜の先供としての幕府軍が大阪を発ち、
京都に入る直前の伏見と鳥羽で戦端が開かれたのが、
慶應4年1月3日の夕方であった。

圧倒的な軍勢を誇る幕府側も、士気も上がらず、
指揮官不在もあって、途中、一進一退もあったが、
結局、幕府側が、一方的に負け続けた。

その中で、1月6日夜間には、慶喜が、少数の者をつれて、
幕府側軍艦によって、大阪を抜け出し、
江戸城に帰ってしまった(=東帰)。

前日5日に、慶喜は、自分が先頭に立ち、総軍による反撃をするぞと檄を飛ばして、 戦闘員を鼓舞したばかりであった。

延岡藩は、2人の家老に率いられた200名近い部隊が、
前年12月末に、延岡と江戸から集められ大阪に駐屯していた。

延岡藩部隊は、幕府より、当初、先供軍の後備を担当する目的で、 枚方近くの野田口の警衛を命じられ、
確かに、4日までは、野田口での警衛を行っていた。

延岡藩の両家老は、幕府首脳に、今回の出陣は、
不条理(当時もこの言葉があった)であるとして、
抗議をしていた。

その論法の根拠は、慶喜は、当初、天皇に対し恭順する姿勢を表面していたことと、
尾州と越州の苦労による慶喜復活の可能性が出てきていたことから、延岡藩としては、
今回の出陣は、納得がいかないというものである。

きちんとした説明があるなら、出陣するが、納得いかない場合は、撤兵すると訴えたため、
6日には(5日も?)大阪城の警衛に回っていた。
そのため、延岡藩は、戦闘の先端にはいなかったことになる。

新政府側は、4日づけで、慶喜を筆頭とする賊徒幕府軍征討令が出された。
その賊徒に延岡藩も含まれていた。
しかし、この知らせが、延岡藩に届いたのは、1月9日である。この点は、次号以下に触れたい。

【2】 鳥羽伏見の戦と慶喜脱走:延岡藩が現地で見た状況

突然、慶喜が脱走した時点の幕府軍側の動揺と怒りが、延岡藩の記録にみられる。
幕府のために尽くしてきた小藩の気持ちが見えて興味深いのである。

家老の原小太郎が、延岡に残る他の3人の家老(格)に戦闘の様子を記した手紙(1月8日出し)にそのところの様子が詳しくわかる。
鳥羽伏見の戦を知るうえでも、また、その目まぐるしい変化の中で、情報が不十分な中で、
延岡藩がどのように行動していったかというのは、非常に興味深い。

そして、肝心の、7日に、大阪城に帰って来た原小太郎が、大阪城で見たこと、そして、彼らは、薩長軍が、大阪を席巻する前に、できるだけ早く、
大阪を発とうと行動している。その、緊迫感あふれる状況を報告する。

(1) 1月5日までの戦況

延岡藩隊は、4日には、野田口付近に出陣している。桜宮から、姫路川までを巡回しているという記録がある。
その姫路川は、淀川にそそぐ支流の一つと思われるが、現在の地図では、見つからなかった。

4日に続き、5日にも、両家老は、大阪城に登城して、板倉伊賀守に面会を求めたが会えず、代理の戸川伊豆守に訴えたのである。
延岡藩の軍隊は、4日に、野田口から、大阪城、および、市中の警衛をおこなうよう依頼されているので、5日から、そのようになったか、
5日は、移動日かもしれない。6日は、大阪城にいる。幕府軍側の戦意が乏しいことを見抜いている。

その6日に、原小太郎は、一人、大阪城を抜け出し、馬により、橋本の近くまで来たら、すでに、橋本の関門は官軍に突破されていた。



概訳を示す:

   「一筆啓上致します。然らば、去る、四日午時(正午)に、延岡藩の大人数(約200名)の軍隊を野田口に繰り出し、
    地勢を観察し、本道に番士、番卒を送出し、桜宮付近にも、日様(その日)、設営した時に、巡還し、哨兵等を出した。

    陸軍奉行からは、姫路川北付近を警衛するようにと言われた。そのような命令の意図は、川の渡し付近辺を、
    特に注意するためであるとは理解していたが、姫路川もどういうことか、川北にさほどの人数は見えず、
    昼のために見かけることはできたが、問題は、川だけではない。

    大阪国にて、御覧なることがあるように、廣莫の原野を、纔(わずか)の兵で守ることは不可能である。
    大(虫食いで読めず)の堤は、前後に水を帯び湿地になっているので、その中に隠れている土豚(もぐら:伏兵)を列し、
      銃の砲眼を開いて、本道への射程は、五六町(5〜600m)ばかりで、地の利のある場であるが、
    姫路川とそれぞれの通りをさらに、京側に行くと、次第に、多くの人数になり、敗績致し、火の揚がりが近づいてきた。

    五日朝になると、拙者は、大阪城に登城し、(板倉勝静=備中松山藩主)伊賀守様に御逢できるよう願ったところ、
    御名代の戸川伊勢守様と、御逢することができた。そこで、八幡橋本付近の防衛の成算は、宜しくなく、
    敵兵が、勇ましく進軍してくるので、どうやって、お守りできるでしょうか。

    延岡藩の受け持ちの場所は、険しいところもない代わりに、隠れるべき藪や林もない。
    軍隊を大量に出陣させなければ、十分に戦えないです。よくお考えの上、防備の施設を設置するように訴えた。
    幕府軍が側の市中(軍隊内)は動揺し、老壮の兵士は、負担を回避している。

    それは、たぶん、万一、自分たちの戦況が芳しくなったら、御東帰(江戸に帰る)の積りであろう。
    人々(家来たち)もその下心を見抜ぬいているのではないか。どういうつもりでいらっしゃるのかとお尋ねした。


幕府側の兵士の気持ちのたるみを記している。

(2) 1月6日の様子

原小太郎は、前日(5日)までの戦況を聞いたが、幕府側の判断は、幕府軍側は、多数いるから、大丈夫、
市中(これは、自軍内の武士達の事であろう)の動揺を抑えよと命じられているが、橋本あたりまで、幕府側が後退しているのを見ている。

しかし、慶喜が、いよいよ、自ら先頭に立って戦うという檄を、橋本あたりで聞いたのだろう。
原小太郎も、終に、延岡藩を出陣させようと決心して、大阪城に帰って来たら、
大将の慶喜は、6日の夜半、極親しい面々だけを連れて、大阪城を抜け出し脱走(東帰)していたのである。

7日に登城した時、大阪城内は、狼狽のまっただ中であった。



概訳を示す:

   「昨様(前日=5日のこと)、(伊賀守に)お尋ねした処、兵は敗れたとしても、この地の道当りの幕府軍側の兵士数は、
    (官軍側よりは)多い。大人数を投入すれば、その中の動揺も鎮撫できるだろうと申し上げて、引き下がった。
    その間もなく、遠くに煙と炎が見えた。

    橋本付近の事は、行かずともわかるので、そのことを残らず、その草稿にしたためて(認めて)、発蔵に持たせて送り出した。
    自分(拙者)も、出すぎたことであるが、見分のため、半道ばかり馬でやってくると、
    橋本の関門は、既に突破されており、敵兵が、山崎路より、湧くように押し寄せてきていたということは、
    途中、報告のために馬を走らせていた者に聞いた。

    そこで、自分は、直ぐ、本道に引替して、本道の番所に立っていた処、会津藩と桑名藩の兵士を始めてみた。
    苦しそうに、陸続と引き換えして来ていた。

    それらの多くの人は、一人一弾を受けており、彼らは武器(兵仗)は、持っていたが、幕府軍の3人に一人は、死んだようで、
    敵の弾薬は、まだまだありそうだと見積もった。夕方に、伊織を陸軍奉行へ差し向け、
    その状況を報告させ、大量の軍隊を出陣させるように訴えさせた。

    陸軍奉行は、それは理解できるとしたが、予想外の出来事なので、敵の中への出軍は、見合わせ、
    守りを固めるとのことで、兵を引き上げているとの事だった。

    拙者も、御馬にて、御帰伴し、直ぐに大軍を御繰り出しするようにと、申し上げたが、天明に到り、大人数による出固めもなかった。
    自分は、本営に帰り、上様(慶喜)が御出馬されると聞いたので、両路(鳥羽街道と伏見街道)に延岡藩を進軍させるように、
    延岡藩筆頭家老の内蔵進殿に申し上げる積りで、(7日、大阪城に)登城した。

    そうした処、御玄関番も居なく、城内に煙を撥見した処、1〜2カ所の灰の中で、まだ、ぱちぱちと火種がくすぶっていた。
    既に、そこにいる只人は、混雑して、立廻りっていた。

    そこで、直ぐに、伊賀守様の御館に 参りましたところ、公用人から、初め、伊賀守は、南中(正午)に出たばかりとの事であったので、
    引き返した。即刻、幕府軍の兵士の大多数は、引き揚げていて、もう残っていない。

    きちんとした届け出も出されていないが、安定の判断処分ができそうもなく、狼狽をしているので、
    自分たちも、外に出ようとしたが、使うべき人もなく、八時ごろ、延岡藩の一群は、延岡藩邸に帰った。

    すぐに、路蔵に手紙を持たせて、大目付様に送り出したが、大目付もいらっしゃらなく、
    それで、御城代の御家来のもとに向かわせたところ、早くいらっしゃる必要はないとして、送り返されてきた。

    延岡藩の大人数は、すぐさま、堺から、乗船して、内蔵進殿が全員を引き連れて帰るという。

    嗚呼、上様(慶喜)は、若い時から、聡明といわれてきたのに。


最後の、「嗚呼」という悲鳴にも似た嘆きは、心からの落胆である。
譜代大名の延岡藩の家老の心情を吐露したものである。6日、戦場近くを視察した際に、慶喜が先頭に立って反撃するという話を聞いたのであろう。
原小太郎は、延岡藩も出陣させるつもりで、大阪城に帰って来た。
その時(7日)、慶喜は、江戸へ向けこっそり抜け出した(6日、夜9時ごろ)後だった。
そして、老中の板倉勝静伊賀守も、慶喜に同行して、東帰していたのである。

後に分かったことであるが、同行した者の中に慶喜の侍妾である新門辰五郎の娘”お芳”もいた。
幕府軍艦に女性を乗せているとことでひと悶着があったようだ。

(3) 会津藩への恨みと延岡藩の戦後処理

慶喜は、もともと信頼されてはいなかった。しかし、最も悪いのは、会津藩だと、原小太郎は手紙に書いている。
会津藩が、慶喜をいいようにだましたのだろうとみている。

大将たる慶喜がだっそうしたとあれば、大阪に延岡藩の兵士を置いておくことは危険である。
筆頭家老の穂鷹内蔵進は、兵を率いて、船によって、急きょ延岡に変える。

原小太郎は、大阪に留まり、戦後処理と薩長との交渉を担当することになった。引き揚げの手際の良さに、必死さが見て取れる。



概訳を示す:

   「但し、慶喜公への御信義は薄いと、広く知られていたが、今回の様な事は、彼を担いでいた藩は、お知りにならなかった。
    初めての事が、まだ起きていない時は、上策をおっしゃることに対しては、その通りとすぐにいい、
    一旦初めての事が起きると、残っている下策を、家来が申し上げても、上も下も、是を採用することはない。

    お役人様方、一切、うそを御つきになっている。中でも、最も、ひどい悪は、会津藩である。
    いろいろの考えを巡らせ、凝り固まった(容気=かたぎ)私怒をあれこれ言い張り、
    既に、事が起きてしまった後は、古法の主張は、やめるべきだという。

    2〜3敗もしたら、全然、抵抗もせずに明け渡して帰って来た。
    老成の主張は、両肥(肥前、肥後)を初め、諸大藩の建議を追って、為される手筈の模様であったのに、
    薩邸の一挙により、会津藩等 の持論の通りになり、最終的に、投終となり、ここに極まった。

    要衝の地(伏見奉行所近く)を担っていたのに、直ぐに、敵方に明け渡してしまった。

    今日(8日)は、御目付が一人いることを聞き出したので、路蔵に申し含めて、かれこれ、申し入れをさせたが、
    何分、策士の噂のある方なので、猫の目の様にくるくるいうことが変わったとのこと、発蔵の手記にて、ご想像ください。

    4日に京都を発って、大阪に来た、飫肥藩(宮崎県南部の藩)の人に昨日(7日)会って、聞いたところ、
    薩摩藩軍6000名、長州藩軍4000名という。これは、京都の御所で調練をしたところを日算したとのこと。

    その数を聞いて、(幕府軍の方がはるかに多かったので)、実に切歯に堪えぬ思いです。
    今日(8日)、善蔵殿より、飛脚便が来ました。残らず写して、そちらへ送ります。同人初め、苦心の心中ですと言ってきた。

    延岡藩の藩士の引き上げの件は、あらかじめ、作場船(作業船?)を借り受けることができたので、
    荷物残らず一切を積み込むことができ、見苦しい点は何もなく、荷物に関しては、
    伝右衛門殿の採決が、流れるがごとく、いささかも、不都合な点がありませんでした。

    逆風の為、船は、堺港を出帆できません。
    線砲二門に関しては、今日、綜助の才覚で船を借りることができたので、積み込みました。

    拙者に関しては、伝衛門殿と他、数名が当藩邸に残り、後に、処理することにしました。
    名前は、残らず示した通りです。
    これは、朝命、および、薩長より、詰問があるとの事なので、それに素直に聞こうと思っています。
    なお、心苦しいのは、江戸の御屋敷のことで、この表(大阪)からの回金(送金)も閉ざされております。

    上様は、既に、御東帰されています。御威霊は、行われず、奸民(よこしまなやつら)は、相次いで、いろいろ申してくるだろう。
    関内だけの御世話も、今までよりは、身はもてあそばされるだろうと考えられます。

    いずれにしても、米は、早早、御積み送りの手配を御指揮下さればありがたい。
    飛船(急行の船)があることを、幸いにも知ることができたので、(この便で)思いをできるだけ書き送ります。

       恐惶謹言
          正月八日   原小太郎


新政府側の記録では、会津藩が最も激しく抵抗したようだが、延岡藩内では、徳川家を台無しにしたのは、会津藩であるといの認識のようである。
これは、他の諸藩も同様の印象を持ったのであろうか。

6日夜に慶喜が敵前逃亡して、その実態を知り幕府側の敗北が決まったと知ったのは、7日であるが、
その翌日の8日には、藩士と荷物、そして、大砲2門を船に積んで延岡に向かわせることができている。

【3】資料


  (1) 延岡藩資料(明治大所蔵):2-10-50:「持上り上方後変憂記」
  (2) 野口武彦著 「鳥羽伏見の戦い」(中公新書)



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