第52話:羽伏見戦(2):京阪の現地における延岡藩の行動 

No.52> 第52話:羽伏見戦(2):京阪の現地における延岡藩の行動

     徳川譜代の延岡藩が、今回の鳥羽伏見の戦には条理がないとして現地で幕府の上層部へ猛抗議して、
      実質、戦場放棄をしています。詳しい資料からわかったことです。
      慶喜の東帰を厳しく批判しています。



 
今回のトピックス


   徳川幕府の優等生であった延岡藩が今回の鳥羽伏見の戦は、徳川家と薩摩藩の私戦でありそれに、
   合理的な条理がないとして、しつこいぐらい猛抗議をしています。
   そして、最終的には、戦場の分担の警衛を拒否したようです。

   慶喜の東帰を厳しく批判しています。
   延岡藩の資料から、分かったことです。 

                                         (2017.3.21)

     

【1】 鳥羽伏見の戦:概論



慶應3年後半は、京都御所で薩摩藩一派と幕府の攻防が繰り広げられた。 各藩がそれぞれ、独自に国を守るという体制では、外国から日本を守れない。 日本全部を統治する形態が必要という認識が薩摩藩を筆頭に広がっていた。 そこに、岩倉具視が牛耳る朝廷という権力候補が加わり、複雑になっていった。

慶喜が大政を奉還しただけでは、700万石という巨大勢力である徳川家の発言権は残る。
新政府側は、徳川家の力をそぎたいので、領地削減等の荒療治にでるが、
福井藩主の松平春嶽の京都での苦労で、領地没収などはあいまいになり、
年末ごろには、慶喜の新政権内での地位保全ができたと見えた。



慶喜は、復政を狙って、朝廷に恭順の意を示す戦略であった。
ところが、そこへ、江戸から、幕府側による薩摩藩邸の焼き打ちがあり(12月25日)、
その結果を、大目付の滝川具挙が200名の兵とともに上坂し大阪の幕府側に、12月28日に報告したのである。

大阪城では、一気に薩摩を討つべしという機運が高まり、慶喜も抑えがたく、上洛を決意する。
慶應4年(明治元年)1月1日には、慶喜名で「討薩の表」を表し、滝川具挙に託した。

当初の慶喜の予定では、本人の進軍する前に、先供が薩摩藩を蹴散らし、
そのあとで、自分が悠々と二条城に入り、京都にいる薩摩藩主島津修理大夫忠義を除くことを考えていたのだろう。

鳥羽伏見の戦によって、徳川幕府が倒れ、最後の抵抗組を抑えて、新政権が樹立される頃の年表を右に示す。

延岡藩は、2人の家老の指揮のもとの総勢200名の部隊を送り、野田口(地図中C)の護衛を支持される。
戦後、新政府軍委によって、延岡藩は、幕府側についたということで、藩の存亡がかかる事件が起きるが、それは、次回以降に報告する。

今回は、この戦のとき、大阪にいた延岡藩の家老2人の苦悩を中心に報告する。
延岡藩主の内藤政挙は、第二次長州征伐後、主力部隊とともに、延岡に帰っており、
今回の戦への動員に対しても、体調が悪いと理由をつけて、自分は、延岡から出ていない。

京都には、薩摩藩主島津忠義が率いる3000名の薩兵、長州から家老の毛利内匠が1200名、そして、藝州からは、世子である浅野茂勲が300名を率いて入洛している。

一方、幕府直轄の旗本軍が5000名、会津藩が3000名、桑名藩が1500名と勢力では、幕府軍が圧倒している。延岡藩の200名は、大軍ではないが、少なくもない数である。

【2】 延岡藩の記録から見る鳥羽伏見の戦

1/3近くの兵力を後詰として大阪城に残して、大阪を発った1万5千名ほどの幕府軍は、京都街道を北上し、淀から、鳥羽街道と伏見街道の2手に分かれて進軍した。
薩摩藩を主力とする新政府軍は、伏見奉行所近くと上鳥羽付近で部隊を展開して、幕府軍を待ち受けていた。
3日夕刻に、まず、鳥羽街道で戦端が開き、その大砲の音を聞いて、伏見でも戦争が始まった。

図中の@Aを記した場所で、東寺の南に位置する。互いの地域は、2kmと離れていない。
4日も両地点付近で攻防が続いたが、じりじりと幕府側が後退し、5日には、年表でも示した様に、後退した幕府軍が、一旦は淀城に入り、態勢を整え直そうとしたら、 淀城から拒否されて、幕府軍は、慌てて、更に橋本付近まで下がらざるを得なくなった。

この淀藩(10万石)の淀城というのは、戦の時は、江戸詰めであった幕府の老中である稲葉美濃守正邦の居城である。

部下が独自に判断した結果である。この5日には、有名な錦旗の巡行があったのである。
また、大阪城では、芳しくない戦況の中で、慶喜による「最後の一兵まで戦う、大阪城を死守する、関東忠義の士の意地をみせよう」と熱弁をふるい、
そこにいた武士は感動し、馬を走らせて、前線の兵士にも慶喜の意思を伝え、気持ちを奮い立たせたでのある。

しかし、6日には、幕府の最後の砦である八幡浜、橋本が破られている。
その6日には、慶喜が、こっそり大阪城を抜け出して、艦船で江戸へ帰ったのである(東帰という)。
慶喜がいなくなったのでは、戦う意味がない。7日には、いきなり、幕府側が白旗を上げたのである。
薩摩藩側も策略と思うほど、あっけない変化であった。

この様子を延岡藩の記録で、この時の様子を延岡藩の報告書から見てみよう。
延岡藩は、12月15日以降、江戸から派遣されたものもいるが、主には、延岡からの兵士が大阪の藩邸に到着している。
その中には、忍者も居り、開戦前から、斥候(忍者)を派遣している。以下は、その斥候からの報告の一部である。



概訳を示す:

  「去る三日、薄暮の頃、伏見の方へ 火の手が上がり
   砲声が 聞こえて来たので、音の方角を確かめると 奉行屋敷と、
     京橋(宇治川にかかる橋)横手と、戸羽口(=鳥羽口)の三か所から、兵火が分かった。

   右は 会藩の大人数が、進軍してきて、伏見奉行屋敷へ着いた処、 
   ゴツ社へ隠れていた薩摩藩より 眼下にある奉行所へ 大砲を 打ち込んできて 出火となり、戦争となった。

   京橋横手での戦いも 会津藩の大人数が 船上がり中に 薩摩兵が進軍して来て 打ち掛かったが、
   悪しくも出火して 是の処では、火の手が迫り来たので、(両軍とも)挽きさがり、戦争には、ならなかった。

   翌日 四日朝、会津藩、並びに 高松藩が新手の戦争を致したが、高松勢が 忽ち敗れたので
   続いて、両藩とも 淀近くまで、引退いた。 
   戸羽口の 戦いは、桑名兵と薩長との(陣地の)取り合いにて 余程の裂戦となった。 
   一端は、桑名藩が勝利して 東寺より西南に当たり 七八丁 相隔たった 豆南円 と申す所まで押寄せてきたが、
   薩長は 三番手を以って 相支えたので、桑名藩は終に敗北して 翌



   四日朝、淀近くまで 引退いた。此の日 淀森田と申される処にて、戦争が起き、四つ代に至ったが、
   砲声が止まり、互いに止戦の趣となった。 
   翌五日 未明より又又、砲声 急がしく候に付き 伏見まで 罷り越し候処 
   急に迫り来た砲声にて 長州側の手負した 多分の兵が カツキ込まれ、薩人も希に見えた。 
   そこから、(斥候は)東側道を帰り掛り、町はずれに至ったところ、四つ頃(朝10時)と思われる頃、砲声が打止となった。

   しかし、伏見での勝敗の模様は、更に 分からず、空しく、引き返した。
   その後 (現地に)参ったところ、余程の激しい戦いにして、互いに勝敗が決まらないほどの接戦にまで 成りはしたが、
   終には、幕府の方が 敗北して、淀城を捨て、引き退いたところ、薩長の兵が深入りしてきて、止め戦に到らずとなってしまった。
   幕府歩兵は、百人ばかり、その外に桑藩の手負いは、夥しい数になっているようだ。

   六日になっても、火の手は上がり続けたが、砲声は、更に 無く、全く止戦に成ってしまったと思えた。
   そのようなところで、今薄暮になり 橋本で 激しい火の手が上がりヤハタ山より大砲が激しく打ちこまれ、戦争が始まった様である。
   しかしながら、確かなる程の様は、未だ相分かり申さず候


これ以外にも面白い報告があるので、少しだけ追加する。
戦争が始まった1月3日は、延岡藩は2名の斥候(忍者)に派遣していた。
2人は、開戦時(夕刻)には、丹波屋(今でいう食事処か?)にいたが、その店には、会津藩士もいた。
砲声が聞こえると、2人は、そこを去り、少し遠方からみることにしている。

その後、鳥羽街道を大阪に向かって下っている時、芦草の中に、多くの薩摩兵士が伏せているのが見えたが、
2人は、薩摩藩士から何処の国の者かと尋ねられている。
どう答えて切り抜けたかの記述はないが、延岡藩士であると告げることで、見逃してもらったのであろう。

鳥羽伏見の戦いは、基本的に、薩摩藩と徳川家の戦いである。
その証拠に、徳川家の先供の直前に肥後藩が伏見の奉行を通過しているが、そこでは、何も起きていないのに、
直後の徳川家が来ると、通すわけにはいかないとして戦が始まったのである。

徳川家と薩摩とそれに加勢する長州との戦いであったが、板垣退助が率いる土佐藩の部隊は、前藩主山内容堂の命に背いて、参戦している。
戦闘場所で、会津藩は、使者を土佐藩に送り、
貴藩(土佐藩)へは手向かい儀も、毛頭これなく候間、御引き下されたく、申し聞き候」と仁義を切っているが、
拒否され、土佐藩とも開戦となっている。延岡藩の鳥羽伏見関係資料には面白いエピソードがいっぱいある。

【3】延岡藩はこの出兵には条理がないと抗議:       慶喜の東帰は、「あるまじき事にて候」と非難

延岡藩は、大目付の戸川伊豆守(3000石の幕臣)から、12月27日に野間口(先の地図のCで示した処)の警護を仰せつかっている。
しかし、大阪に出向いている延岡藩の家老級の2人、穂高内蔵進と原小太郎が、今回の出陣には、合理性がない(彼らは、「条理」という言葉を使っている)と、
このままでは、自分たちは、警護に従事できないとして大阪城の家老である板倉伊賀守(備中松山藩主)に抗議をしている。

この段階で、延岡藩は、慶喜が、天皇に対して、恭順の意を示しており、それによって、その後の、松平春嶽の尽力で、
次期政権で慶喜が政権内の中枢を担う(「復政」する)ということを理解している。

しかるに、ここにきて、急に、慶喜が軍を動かす、つまりは、天皇への恭順の意を翻していることは、どういうことだとその翻意を明らかにせよと言っている。
きわめて、正当で、新政府への考えに近い理解度を示している。

彼らは、大久保利通や西郷、木戸孝允などと一緒に新政権の中枢に入ってもおかしくない見識を持っているのであるが、
残念なことは、その意志の表出先が、老中の板倉等であったことである。彼らに抗議しても、何らの意味もなく、
彼らは何の見識もない人物であったことである。

12月27日に延岡藩家老の原小太郎が板倉伊賀守に会えて、自分たちの意見を述べたが、それ以後は、要人に逢えず、
2日には、部下の塚本を若年寄の永井玄蕃頭に送り、
4日には、家老の穂高内蔵進が大目付の戸川伊豆守にしか会えていない。彼らの意見が分かる文章を示す。

以下の文章の前半は、12月27日に板倉伊賀守にぶつけたものであり、
後半は、戦争中の1月4日に、内蔵進が戸川伊豆守に、意見を述べた部分である。



概訳を示す:

  「12月27日 小太郎より板倉伊賀守様に 申し上げた点の大略は、
   伏見表にて 薩長の大人数と 新撰組が相対峙して、かげでは、干戈(戦争)が起きそうな気配であると聞いている。

   (徳川家の)従来の 御恭順の(姿勢の中なのに)そこで、下輩の粗忽より 争闘 に及び、
   その争闘によって、大勢が加担するようになってしまっては、 
   (慶喜公の)もともとの復政のお考えの状態に戻すも不容易 の 御次第 になり、 
   御取まりは、如何の 御模様になっているのかを、伺いたいので、昨日も人を遣り こっちの意見を述べた。

   時宜(チャンス)に寄せて、残らず 引き取ろうと 思うとの仰せであったが、小像征伐を起こし、
   田舎の志(?)田を 特殊に攻めたのが、初めての経験であったが、

   今回もらくらくの御取締まりが、おできになると考えて、遠からずの諸大藩が会集まりなさった。

   公論も、これを支持している。若し、是より、御手初めてのことがおきるならば、
   必ず、上様に、饗往している諸大藩も 無拠(よんどころなき)次第に なるであろう。

   公論が 生じてきた時点になった。依然として、(家来として)奉るままの振舞いをする者があるならば、
   その黨展も奉る稚心(幼稚な心)であると(私たちは)考えると申し上げた。

   正月四日 内蔵進も、戸川伊豆の守様に 申し上げたことは、野田口警衛の御達の由について、
   各は、如何のお考えなのだろうか?。萬に一つでも、御不恭順の意味合いがおありなされるならば、
   これまでの (上様を) 敬愛してきたことが、水泡に帰してしまうということを お尋ね申す。

   また、(慶喜の名前で出した)御上表の件も




   (慶喜から)どのような御指図があったのか、それによっては、(我々は)、戦い難く、
   只是と思し召しの点を おっしゃって頂きたいと申し上げた。

   彼(向こう側)の水狡(大変多い様)は、 天子の如何のお考えで、かつ、如何なさったのか?
   これは、上様のお考えが、きっとあるのであろう。

   拙者ども、非儀側(反主流側)に、その点について、おっしゃって頂き、 
   そのような風に、御前は なぜ なってしまったのか?。

   お尋ねした件について、曖昧な仰せの義に付き 御警衛せよという点については、できるだけ、行いたい。
   但し 人数は、 二百人ではなく、あるだけにて、勤める予定であることを申し上げた。
   六日朝 小太郎は、伊賀守様に 申し上げたことは、
   野田口で、すべての人数にて、警衛するという考えは、
   八幡などが 若しも、御防ぎできず 彼(薩長側)が、太鼓をたたいて、進軍してきたならば、何を以て 御支ができるだろうか。

   御見分の上、然るべき御施設があるよという点を教えてくれ。
   恐れ入ることであるが、(今回の慶喜公の)御東帰の思し召しは、あるまじきことである

   各のお考えで 下は、感じる通りにするので、市人は、このように、 動揺を致して居ることについては、
   これが無いようにどうするつもりか、伺いたい。

   時様(今はやり)の上意を伺いたいが、 決して、その様なお考えは全く無いようなお話なので、
   左様の、市中を 御鎮撫し、人が 安業できるように、なってほしいと申し上げた


延岡藩の家老が、慶喜の東帰を、「あるまじきことである」と切り捨てている。市中の人も此れでは、ついてこれないだろうと述べている。
延岡藩の家老にしてみれば、「言わんこっちゃない」という気持ちである。

小太郎が、延岡にとどまっている別の家老たちに出した手紙(1月4日出し)では、上記文章よりさらに詳しい経緯が示されている。
12月27日に延岡藩は、永井玄蕃頭(若年寄)と戸川伊豆守(大目付)から野田口への警衛を命じられているが、
原小太郎が、伊賀守に拝謁を願い、不条理を訴えた。そして、2日には、部下の塚本を送り、永井玄蕃頭に訴え、
4日には、朝、小太郎が、そして、その後、もう一度、延岡藩家老の穂高内蔵進が伊賀守に拝謁を望んだが、
いずれもかなわず、名代の戸川伊豆守にしか会えなかった。

延岡藩二人の主張は、慶喜は、朝廷に恭順をして、復政にかけていると聞いて納得していた。
それなのに、朝廷に対し軍隊を出すというのは「条理」が立たない。

幕府側の御条理を伺いたいとして、登城している。
納得のいく説明があれば、延岡藩は野田口の警衛にすぐに向かうが、
逆に、「不条理」ということが明白になれば、不義をお助け申し上げるというのは、決してできない。
今、苦心至極である。」という趣旨を書いている。

【4】錦旗

戦中の4日に、仁和寺宮が征討将軍に任じられ、同日の八つ(昼2時)頃、日月の旗を翻して、東寺までの行進を行っている(出発は、朝早かったが、延岡藩の記録では帰ってきた時刻である)。
戦場を錦旗が行進した、いわゆる錦旗の巡行である。

この旗は、前年末に大久保利通と岩倉具視が図って作った偽造品であり、皇室の純正なものではないが、この錦旗が戦場に与えた影響は大きかった。
その影響度を、一生懸命に否定することでかえって、大きな影響を与えた証拠となる記録である。



出所、相わからず。

  「錦籏は、 奸の連中の手に 動ク時は、錦旗にして、錦旗にあらず。
   この旗の動ク所以を知らずして、ただに朝敵の名を蒙らん事を恐れて、以て、為す処をあやまれば
   即ち、朝敵の罪名は、不可避となる。

   三日からの戦争は、全然、勝利が見えず。
   薩長の兵は 勝に乗じて、頻りに進軍し、内を虚ろにし、外に進むという今日であるが。

   大阪の兵 何を大挙して来たらずヤ。諸大藩の本音を考察するに、錦旗にして錦旗にあらざるの論は多々ある。
   因って、尾州と越州の両藩より、後々、就き衣うの策を唱え 両肥(肥前、肥後)土三藩の袖に涙ながす時は必ず、左袒せん。

   左袒するときは、勝?(サンギ)の牧挙恐るべく多くもあるべしも、京師を一時 戦争のちまたとなさん時は、
   一挙にして、皇国の治安の大基本を立申すべきと 存じ奉り候。

     正月」

【5】資料

(1) 内藤家資料:1-29-305-1=鳥羽伏見戦いの事
(2) 内藤家資料:2-10-50=持ちあがり上方御変憂筆記
(3) 野口武彦著 「長州戦争」(中公新書)



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