第51話:羽伏見戦(1):江戸延岡藩邸への鳥羽伏見戦の情報 

No.51> 第51話:羽伏見戦(1):江戸延岡藩邸への鳥羽伏見戦の情報

    鳥羽伏見の戦の状況が江戸になかなか届いてきません。
    やきもきしている中、大将の慶喜が突然、江戸城に逃げ帰ってきました。



 
今回のトピックス


   鳥羽伏見の戦が、始まるまで、そして、始まってからも江戸には、7日ほど遅れてニュースが届きます。
   開戦や途中経過に焼きもしている中で、戦況報告と、前将軍慶喜の逃げ帰ってきたのが同時なのでびっくりです。

   その様子を延岡藩の江戸藩邸の記録から報告。 

                                         (2017.2.22)

     

【1】 この時期の歴史的背景慶應3年12月の背景



慶應3年の晩秋になると、幕藩体制に替わる新体制を巡り、幕府側、反幕府側(新政府側ということにする)の攻防が激しくなり、将軍慶喜は将軍職を辞し、大政奉還を宣言した。

2カ月ほど水面下の攻防の後、突然、新政府側は、薩摩藩兵に守られた御所にて王政復古を宣言している(12月9日)。
クーデーターである。

幕府側は、大阪城に兵を上坂させる中、慶喜名で「挙正退奸の表」を発表し、幼帝(明治天皇)を利用して、我が物顔をしている薩摩藩や岩倉具視達の除去を訴えている。

それに対する妥協案が出され、慶喜の上京が認められ、慶喜も了諾の返事をしている。慶喜の新政権内での地位の確保が見えた瞬間であった。

ところが、そこで、事件が起きた。江戸の三田にある薩摩藩邸の焼き討ち事件である(12月25日:前回報告)。
この事件の結果は、対抗する両者をともに戦争へとたきつけるきっかけとなった。

薩摩藩には、1月1日に事件の情報が届いて、京都の薩摩藩関係者は、激昂した。
また、江戸幕府側は、薩摩藩何するものぞとばかり、大目付の滝川播磨守具挙(石高=1200石)に200名の兵をつけて、上坂させ、12月28日に大阪に到着している。
大阪城内では、主戦論が圧倒的になった。

大阪城にいた老中の板倉伊賀守勝静(備中松山:5万石)の焚き付けにのる形で、慶喜名による、薩摩征伐の檄文「討薩の表」を1月1日に出している。

そして、慶喜公上京の先供という形で幕府軍が大阪城を発った。

鳥羽伏見の戦は、1月3日〜6日にかけて起きたが、その6日に、なんと、幕府側の総大将慶喜が、こっそり、妻をつれて、軍艦で大阪を抜け出したということで、戦は、しりすぼみの形で終わった。

その慶喜は、1月12日に江戸城に入ったのである。

京阪の地の戦の状況は、延岡藩の資料をもとに次回以降、詳しく報告したい。
今回は、かなたで起きた激変を江戸にいる延岡藩の関係者の目で見たときの報告である。
戦況の報告がない中、不安にとらわれる様子を報告する。

鳥羽伏見の戦(幕府は京阪戦争と表している)の前後の年表を右に示す。

【2】 延岡藩の対応

延岡藩は、その一年前の、第二次長州征伐に出兵し、1年間を大阪で無為にすごし、肉体だけでなく、藩の財政も疲弊していた。
また、近代兵器に圧倒されたことや、長州藩が九州に乗り込んできたこともあり、藩の近代化と延岡という自領の保全が最重要事項となった。
そのため、金食い虫である江戸藩邸から、多くの藩士を延岡へ帰している。藩主も延岡に帰ったままである。

その一方で、特に、京都を中心にして、10藩にも満たない少数の藩だけの陰謀と利害と策略で、目まぐるしい政治の変化をしていく中で、延岡藩をはじめ、ほとんどの藩では、詳しい情報のない中、情報収集に必死になっていた。
延岡藩は、3番目の老中格の原小太郎が、第二次長州征伐の後も、そのまま、京都に留まり、京都にも延岡藩邸を設けて情報収集を続けていた。

(1) 江戸にいた筆頭家老の穂鷹内蔵進を京都に行かせる=慶應3年11月18日



内蔵進に対し、京都への出張命令が出た(自分で出した)。“早追“で行くという。
早追とは、昼夜兼行で、かごを乗り換えて、早かごで行くことをいう。
相当の強行軍である。今回の出張は、緊急事態の発生なので藩主の許可なしに行うことになる(藩主は、延岡に滞在)。
このようなことは、弘化元年(1844年)1月6日と嘉永3年(1850年)1月16日に前例があるということを確認にしている。
前例はとても大事なのである。

慶應3年11月18日の日誌の概訳を示す。

  「穂鷹内蔵進は、差し急ぎの御用があるので、京師表に向けて、来る21日に出立する。
  “早追”にて、行くことにすることを、今日、内蔵進から月番に申し達しがあった。

  但し、右様に出張することに関して、御前(殿様)に伺いをしていない。
  このような、事前の承認を受けないで出張することは、弘化元辰年(1844年)1月6日や、
  嘉永三戌年  (1850)年1月14日の前例がある。

  このことについては、大殿様(先代殿様)に申し上げ、御隠殿の御側役を呼びだし、
  (第2の権力者である先々代殿様夫人である)充真院様にも重役からの指示で
   月番から手紙を出して知らせるようにと指示を出した。」

(2) 京阪へ援軍を送るようにと大阪の延岡藩邸から指示がきた=慶應3年12月27日

大阪、京都での幕府と薩摩藩を中心とする新政府側との間で、一触即発の状況になっていることを感じて、
先日、京阪地区へ出張した筆頭家老の穂鷹内蔵進から、江戸藩邸から援軍部隊をよこすようにという指示が来た。
しかし、江戸には、そもそも人員は少ない。
当事の独特の表現に、この表とその表というものがある。この表=こっち、その表=そっちという意味である。


概訳を示す。

  「(慶應3年)12月27日 

   大阪を去る12月18日に出て、(7日後の)23日についた手紙は、穂高内蔵進から(江戸藩邸の)弥学平左衛門宛てであった。
   それによると、同人組(内蔵進組)と、原小太郎組の内、代表的な修行人(訓練兵か?)の分を、早々、上京するように指示をだしてくれ。
   もし、(延岡にいる)殿様が御上京遊ばされる場合は、5組の修行人と役人を上京するように命令をだしてくれ。

   以前、話合いをしておいたようにしてほしいが、その表(江戸)では、御警衛もあるだろうし、両組だけにて、よろしい。
   尤も、両組のところも、その表(江戸)に据え置いて、(江戸藩邸の保安のために)したいというのもあるだろうし、
   両組のうち、無拠(やむ追えな)く、御在所(延岡)に致着した面々もあるであろうから、
   この表(大阪)に、人数(大人数)を、送るように考えてくれと、言ってきた。

   しかしながら、この表(江戸)も、当形勢に付き、この後、如何様の事変の出来るかも計りがたい。
   また、上様(大殿様や充真院様)も 有りなされるので、両組の部隊を差し向けるとなる大人数になる。
   大殿様より、御沙汰の筋もあって、先ずは、長坂良造と、長坂華四郎を上京させるようにした。
   然るべくは、還相続をして、昨夕、1名を、さらに呼び出し、申し遣った。今日、御用部屋を出るように申し渡した。

      長坂良造 
      長坂華四郎

   この度、御用向きがあるので、出京を仰せつけられたので、支度を 差急に行い、
   早々、出立するように命令をだすものである。


その後、長坂良造と華四郎の二人は、慶應4年1月2日に江戸を発っている。しかし、鳥羽伏見の戦には、間に合わなかっただろう。
延岡藩では、各家老を中心に部隊が構成され、原小太郎組、穂高内蔵進組という呼び方をしている。
全部で5組ある部隊のうち、京阪に出ている2人の家老の組だけ京阪に召集したのである。

(3) 朝廷からの王政復古の発表=江戸城にて伝達:慶應3年12月18日

前将軍の慶喜が大政奉還して、将軍職を放棄したのち、新体制のつばぜり合いが水面下で行われていたなかで、
薩摩藩と岩倉具視を中心のグループにより、天皇を中心にした新政府案となる王政復古の大号令というクーデター(12月9日)が起きた。

この発表は、世の中の大名にどのように伝えられたのか。
意外にも、朝廷から江戸城に手紙が送られ、江戸に残る老中稲葉美濃守が、江戸にいる藩主と重役を呼び出して、今回の王政復古の文を渡しているのである。
御用談という表現をしているのが珍しい。



この部分の概訳を示す。
  「12月18日
   京都表でのことについて、御用談の儀があるので、明18日4時(朝10時)に西丸に 登城されるようにという 
   稲葉美濃守様からの連絡があった。
   (藩主が)病気や幼少、あるいは、在国、在邑にいる面々は、重役の家来1人を差出すようにと、大御目付中様よりの御廻状が到来した。
   委細は、御触状にある。

   右に付き、(延岡藩の)今西弥学(年寄格)は、今朝、出宅して、御留守居役と同道して西丸に登城した処、
   大広間と四の間で、御老中様方が、御列席で、
   御奏者番の内藤若狭守様、(大目付の)川村信濃守様、滝川播磨守様、木下大内記様、川村信濃守様、御目付松浦越中守様が、
   お立合いで、(老中の)美濃守様から左の御書付がお達しなされた。
   尤も、御在府のお方様(この後、切れているか?)

     <伝達内容=王政復古の令>

   御基(おんもと=天皇)が御立なされたので、従来の、摂関や幕府は、廃絶し、
   即ち、これから先は、仮に、総裁、儀定 参与 の三職を置き、これらが、すべてのことを行っていく。

   神武創業始に基づき、縉紳(身分の高い人)武辨や堂上地下の区別なく、至当の公儀を謁し(盡しの間違いか) 
   天下の体威を固く結んでいくように、叡慮(天皇のお考え)に付き、各々、勉励し、旧来の驕奢や汚習を洗い流し、
   一忠報国の誠を以て、奉られるべきように。

   内覧 勅問、御人数、国事、御用係、議奏、武奏、守護職、取司代など総てを廃するものである。


そして、国家体制の上職の名簿が発表されている。この革命の張本人である岩倉具視や、大久保利通(薩摩藩3人の中)は、ちゃんと入っているのである。
朝廷側以外では、議定に、松平春嶽(越前)、浅野茂勲(安藝)、山内容堂(土佐)、島津茂久(薩摩)らの大名、
そして、参与には、後藤象二郎(土佐)、板垣退助(土佐)、辻将曹(安藝)、西郷隆盛(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、広沢真臣(長州)がいる。

江戸城に残っている老中筆頭は、稲葉美濃守である。彼は、山城淀藩(10万3000石)の藩主である。
別の機会に紹介するが、鳥羽伏見の戦で敗走する幕府軍が大勢を立て直そうと稲葉美濃守の淀城に入ろうとすると、
残った家来達が新政府側について、幕府軍を城内に入れなかった。幕府側の敗因の一つにもなったことである。
その後、稲葉美濃守は、幕府内で針のむしろに座っているような苦しい立場になったのではないか。

【3】慶應4年になる

(1)正月の儀式

延岡藩は、恒例により、殿様が在邑なので、代理の御留守居が江戸城に、御太刀と馬代を持参している。
延岡藩邸内では、大殿様(先代の殿様)から、幹部へ干鯛が配られている。通常の正月の風景が江戸藩邸にはまだあった。

(2)延岡藩江戸藩邸は増上寺の警備を受け持つ

この時期の延岡藩の江戸藩邸の最大の問題は、増上寺の山門の護衛を言いつけられたことである。
江戸藩邸は手薄なので、数十人の護衛の人は出せない
。そこで、あっせん所に頼んで、人を調達している。そのあっせんの件は後日扱いたい。

(3) 殿様 上京せず=慶應4年1月4日

延岡藩の藩主にも、幕府側、新政府側から上京するようにという要請書がきていたが、決めかねたかどうか、
病気を理由に(たぶん、仮病だろう)、猶予願いを、幕府側、朝廷側に出している。
江戸幕府に出したのは、1月4日であるが、その時点では、鳥羽伏見の戦の真っ最中の時である。

延岡藩は、この後、新政府側ににらまれる立場になるのだが、それは、別の機会に。



概訳を示す。
  「慶應四年 1月4日

   (延岡藩の)殿様は、御上京の御猶予を大阪では、既提出で、今回、江戸に差し出しようにと、送ってきたので、提出する。
   この表(江戸)では、(老中の)稲葉美濃守様に
   左のお届け書を、今夕、御留守居・添役・仮役の長坂平学が、持参し差し出した処、御落手した(受け取ってくれた)。

   今般、(江戸幕府から)仰せ出でられた件に付き、御用が在りなされたので、
   早々、上京するようにという旨の御沙汰の趣意は、畏れ奉りますが、
   先日、御請(返事)を猶予しておいたところ、兼ねての眼病と且つ、疳積(むねやけ)にて、克服できず、(さらに)近来の
   寒さになったので、別けても、甚だしく道が心外で、何分にも、上京できません。

   尤も、この上、積の療用を、加えて少しでも、快方に向かいましたらば、早速、上途を致しますので、
   今、暫くの処、上京の御猶予を頂けますよう、願い奉ります。以上

   右の通り、大阪表において、旧臘(昨年12月)19日に(大阪城在住の)板倉伊賀守様に 差し出し、同日、京師表において、
   (朝廷側の)参與のお役所に同様に差し出した旨を、言ってきた。この段、(江戸幕府に)御届け申し上げた。

   正月4日 (御名家来) 長坂平学


【4】鳥羽・伏見の戦

(1) 鳥羽伏見の開戦の情報が入る=1月10日

鳥羽伏見の戦は、1月3日に始まっているが、江戸には、1週間後の10日に届いている。
その開戦の情報が、初めて、江戸在住の諸藩に公的に知らされている。(各藩はそれぞれ忍者等の情報担当の武士によって知っていたかもしれない)。



概訳を示す。

  「昨(1月)9日、大御目付川村信濃守様(300俵)より西丸に重役たちの御呼出しがあり、
   (延岡藩からも)出席した処、大広間に至り、以下に述べる趣旨が御門大様から、報告があるため、御同席の御重役様方に御内達があった。

   仰せられた由については、諏訪因幡守様(諏訪藩主)、松平丹波守様(戸田:松本藩主)、奥平大膳太夫(昌服:豊前藩主)様衆より、
   御廻状が、ご到来した。
   然るべく様に、送りつけられ、今日、大目付御書付を渡され、各御家中の一統に連絡するようにというものであった。


        <その内容>

   去る(1月)3日、(将軍慶喜が)御上洛をすることになった。
   ところが、おかしいことに、戦争など想定していず、(天皇に対して)忠の気持ちで御上洛をするつもりであった。
   (幕府側の)御先手である会津藩、姫路藩、松山藩が、伏見通りで、大戦争になってしまった。

   1月4日になっても、(薩摩藩側は)、砲発を止めず、待ち伏せ、並びに、諸所より、発砲にて、そのことは、御承知に成っているが、
   未だ、御飛脚による公的な着使が、(江戸城に)無いので、(戦争の勝ち負けの状況は)、確とは、わからない状況である。

   この様になった上は、早速、上役などに報告して仰せつけられるべきである。
   薩藩杯(など)が蒸気船にて、海路を攻めてくるかもしれず、又は、陸路などを押し参じて、
   御府内(江戸)に向けて、砲発など到るかもしれないので、御銘々、当地でも備えを厳しくして、なお一層の忠を心掛けてくれ。

   今後、どのようになるかは、わからない。不覚を取ったということのない様に、お心得(準備)をしてくれ。
   尤も、このような場合に、成った上は、御銘々、平差のことは、如何様の思し召しもあるであろうが、
   上(徳川幕府)にては、一向に、証拠が分からないので、御主人には、御老中方より、別途、情報が入り次第、連絡する旨の話が合った。

   御同席御掛の方もこれあるべき、早々、御通達をしたい。
   右の通り、御触れがあったので、ご家中の面々に、心得をして、無急度(=きっと)連絡するように。


薩摩藩が江戸に攻めてくるかもしれないと脅威に感じている様子がわかる。

本題と関係ないが、幕府の当時の大目付は、4名いて、滝川播磨守(1200石)、戸川伊豆守(3000石)であるが、上の川村信濃守や木下大内記は、300俵の軽輩である。
は、 大目付が意外に軽輩であるのに驚く。

ここで、参考のために、「」と「」の違いを説明する。
石とは、知行取り、つまり、領土を持っていることを示す。
その領土の全生産量が石高であり、それからの実質の収入は、全収穫の約35%程度であるから、取り分は、滝川播磨守の場合、1200×0.35=420石程度になる。

一方。俵で表されるのは、蔵米取りであり、藩主(この場合は徳川家)から米で支給されるのである。
100俵が35石に相当するので、先の川村信濃守の場合、300×0.35=105石になる。
しかし、知行取りの方が、その米の量以上に、蔵米取りより格がずっと上である。

(2) 廻状にて、「討薩の表」が回ってきた=1月11日

情報が大阪から江戸に到着するまで、陸路の飛脚では、早くても1週間かかるので、情報が相前後することもある。
慶喜の上京は、朝廷の奸臣である薩摩を討つためであり、その趣意書ともいうべき「討薩の表」を掲げている。
先頭に、主戦派の急先鋒である大目付の滝川具挙がその表を抱えている。その「討薩の表」が、ようやく江戸に届いた。



概訳を示す。
  「先般、献言の次第もあったところ、
   豈 料らんや(アニハカランヤ)、

   松平修理大夫(島津 忠義)の家来が 幼帝(明治天皇:当時中学生程度)に盡さず、
   公儀を矯(いつわる)、叡慮(天皇の考え)を下させた。

   砲発をしてきた。その(暴挙は)枚挙に暇なく、
   依って、別紙の2通の、奏聞を遂げ、大義に寄って、
   君側の奸を掃らおうと思い、速やかに駆け登り、軍列を加えるものである。

   臣 慶喜は、謹んで、去月9日以来の御事件を畏れ奉りながら理解してきましたが、
   一に朝廷の御真意には、無く、全く、松平修理大夫と奸臣共の深謀よるものであることは、
   天下、共に知る所であり、殊に、江戸、長崎、野州(群馬)、相州(神奈川)など、所々で、
   乱暴、劫盗が起きたことは、同藩の唱導によるものである。

   東西響応して、皇国を乱した所業は、別紙の通りに天人共に、憎む所になっている。
   前文の奸臣共を御引渡し下さい。その御沙汰を下されたく願う。

   萬一、御採用にならざりし場合は、やむを得ず、誅戮を加えるものである。
   このことを、謹んで、奏聞奉ります。


  (さらに、5つの事例を挙げているが、訳は略す。解読をお勧めする)

(3) 1月12日に、いくつかの情報が相次いで入ってきた

@鳥羽伏見の戦の状況報告=1月12日



戦の途中経過の報告も入ってきているが、それでは、まだ、勝敗は、あまりはっきりしないが、なんとなく、
芳しくないことはわかる。

その報告の詳細は、省く。面白いのは、幕府からの呼び出しで延岡藩やその他の藩に通告されたのは、
今回の、軍費は支給するが、その他の出費は、幕府から支給しないので、各藩、注意して節約せよという達しである。

その達しの中心部を紹介する、概訳を示す。

  「   

   御軍備が重要の時節なので、当分、御軍費の他は、全て、御入用金に対する(幕府からの)御渡しは、
   これ無き筈であるから、諸向き、日用不可欠品は、しようがないが、
   その他の、御買上品は、勿論、御普請や御修復等は、追って、沙汰に及ぶまで、
   一切、行うべきでないことを心得られるべきである。


というものである。軍費は、幕府が払ってくれるが、その他はしないので、家の普請、修理は控えよというのである。
そこまで、幕府が関係するのか?

A前将軍の慶喜が江戸城に帰ってくるという情報=1月12日

京阪での戦況がはっきりしない状況で、いきなり、最高司令官が江戸に帰ってきた(逃げ帰ってきた)という情報が入ってきたのでびっくりである。



概訳を示す

  「今日、南中刻(正午ごろ)に御廻状がご到来した。
   (それによると慶喜公が)、今日、12日4時に、還御なさる予定であるから、
   酉刻(夕六つ)に 登城 致すべきという旨が、老中稲葉美濃守殿から仰せられた由である。
   それに関するお達しが来た。以上


       <達しの内容>

   正月12日
         木下大内記(大目付)
     諏訪因幡守様
     戸沢中務大輔様

   追啓(=追伸)ご同席中にも、御通達のなされるべきである。尤も、在邑の面々は、家の人を差し出されるべき。
   ただし、(登城時の服装は)平服でよい。


       <中略>

   上様の御事、御軍艦に乗船為され、今日12日に西丸に、着御を遊ばされた。
   尤も、この段の動静は、今後、早い段階で、(再度)、御上坂をなされるおつもりである。
   右の点については、早々、(各家に)触れられるべきである


       <内容>

   正月12日
     **上意の書付(将軍の直接の気持ち) **

   先般、尾張大納言松平大蔵大輔をもって、上洛する旨の御内論を頂いたので、
   去る3日に、先供の者が、(鳥羽近くの)四塚関門まで、やってくると、
   松平修理大夫の家来たちが、説明もなく、通行を禁止し、前もって、伏せ兵等の手配もしていた。

   突然、彼(薩摩藩側)より発砲におよび、兵端を開き、粗暴の挙動に及んだのは、
   全く、修理大夫の家来どもの一己の所業にして、叡慮(天皇の意見)として、朝敵の名を負わせ、他藩の者を煽動し、人心に疑惑を抱かせた。

   戦に利あらず、この分には、夥多の人命を損じるだけでなく、
   宸襟(天皇の気持ち)を寧(やすん)じ奉るべき誠意も 貫かず、紛紜(ふんうん)の際、曲直判然とせず、
   不本意の至り、深く、心痛致している。

   (今後に)就いては、(慶喜に)深き見込みもあるので、兵隊を引き揚げ、軍艦にて、一と先ず、東帰を致したが、
   追々、申し聞きをすることもあるので、銘々、同心戮力して、国家のため、忠節を抽(ぬきん)ずべき事。


慶喜は、再度、京阪に攻撃に転ずる積りであると言っている。

(4)慶喜謹慎を発表=1月19日

この時期、慶喜は、捲土重来、再度、反撃に出るか、謹慎するかを悩んでいたであろう
。部下たちの中でも、陸軍奉行並の小栗忠順、歩兵奉行の大鳥圭介、榎本武揚、新選組などの主戦派がいた。
しかし、15日に、最も強硬な主戦論者の小栗忠順を罷免している。17日に勝海舟を海軍奉行並に取り立てた。
そして19日に幕府側の最大の後ろ盾であるフランスのロッシュと会談している。

慶喜には、徳川家だけでも有利に残そうという意図があったが、
フランス側から、後援はするが、今までの借金を返せという要求に、徳川側の財政ひっ迫が最後のとどめとなり、慶喜は、19日に恭順を決意した。
これが、真の徳川幕府の終焉である。



概訳を示す。

  「今卯の刻(朝六時)、大お目付中様より、御廻状とご同席触れを以て、ご到来した。左の通り、
     覚、
       在府 万石以上
       上級旗本=寄合
   右明19日 4時西丸に出席するように達するものである。
   尤も、病気、幼少並びに、在邑の面々は、重役が出席するように。
   正月18日

   右に付き、(延岡藩からは)弥学が、今朝、五半時迄に留守居の場にて、老之進を同道させ、出席した。
   玄関番をおいて、お目付当番所に、手札を差出し、蘇鉄の間に控え居ったところ、
   7時頃に、御坊主衆が来て、大広間に諸家の御重役を呼出して、
   板倉伊賀守様、稲葉美濃守様がご出席にて、左の趣を御口された。
   それが、済んで、七半時までに、退行致しました。


    <その内容>

   京阪戦争のことは、薩長より、発砲におよんだことで、素より、朝敵になろうという意図はなかったところ、
   朝敵を蒙り、御名が残念で仕方がない。

   (慶喜は)就いては、御恭順、御謹慎の御取り計らいのお考えである。
   その上にても、御届けができないときは、猶、取り計らいの品も用意している。
   右の心得にて、勉励し忠勤に励む様、お願いする。

   右の段、弥学は、(延岡藩邸に)帰ってきて、早速、御隠殿に罷り出て報告した。


幕府は、鳥羽伏見の戦いを、この時点では、京阪戦争と呼んでいる。

【4】資料

   1) 延岡藩資料(明治大学蔵):万覚帳:慶應3年:1-7-155
   2) 延岡藩資料(明治大学蔵):万覚帳:慶應4年(明治元年):1-8-156
   3) 「鳥羽伏見の戦い」:野口武彦著(中公新書)
   4) 「王政復古」:井上勲著(中公新書)



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