今回のトピックス |
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鳥羽伏見の戦が、始まるまで、そして、始まってからも江戸には、7日ほど遅れてニュースが届きます。 開戦や途中経過に焼きもしている中で、戦況報告と、前将軍慶喜の逃げ帰ってきたのが同時なのでびっくりです。 その様子を延岡藩の江戸藩邸の記録から報告。 (2017.2.22) |
慶應3年の晩秋になると、幕藩体制に替わる新体制を巡り、幕府側、反幕府側(新政府側ということにする)の攻防が激しくなり、将軍慶喜は将軍職を辞し、大政奉還を宣言した。
2カ月ほど水面下の攻防の後、突然、新政府側は、薩摩藩兵に守られた御所にて王政復古を宣言している(12月9日)。
クーデーターである。
幕府側は、大阪城に兵を上坂させる中、慶喜名で「挙正退奸の表」を発表し、幼帝(明治天皇)を利用して、我が物顔をしている薩摩藩や岩倉具視達の除去を訴えている。
それに対する妥協案が出され、慶喜の上京が認められ、慶喜も了諾の返事をしている。慶喜の新政権内での地位の確保が見えた瞬間であった。
ところが、そこで、事件が起きた。江戸の三田にある薩摩藩邸の焼き討ち事件である(12月25日:前回報告)。
この事件の結果は、対抗する両者をともに戦争へとたきつけるきっかけとなった。
薩摩藩には、1月1日に事件の情報が届いて、京都の薩摩藩関係者は、激昂した。
また、江戸幕府側は、薩摩藩何するものぞとばかり、大目付の滝川播磨守具挙(石高=1200石)に200名の兵をつけて、上坂させ、12月28日に大阪に到着している。
大阪城内では、主戦論が圧倒的になった。
大阪城にいた老中の板倉伊賀守勝静(備中松山:5万石)の焚き付けにのる形で、慶喜名による、薩摩征伐の檄文「討薩の表」を1月1日に出している。
そして、慶喜公上京の先供という形で幕府軍が大阪城を発った。
鳥羽伏見の戦は、1月3日〜6日にかけて起きたが、その6日に、なんと、幕府側の総大将慶喜が、こっそり、妻をつれて、軍艦で大阪を抜け出したということで、戦は、しりすぼみの形で終わった。
その慶喜は、1月12日に江戸城に入ったのである。
京阪の地の戦の状況は、延岡藩の資料をもとに次回以降、詳しく報告したい。
今回は、かなたで起きた激変を江戸にいる延岡藩の関係者の目で見たときの報告である。
戦況の報告がない中、不安にとらわれる様子を報告する。
鳥羽伏見の戦(幕府は京阪戦争と表している)の前後の年表を右に示す。
延岡藩は、その一年前の、第二次長州征伐に出兵し、1年間を大阪で無為にすごし、肉体だけでなく、藩の財政も疲弊していた。
また、近代兵器に圧倒されたことや、長州藩が九州に乗り込んできたこともあり、藩の近代化と延岡という自領の保全が最重要事項となった。
そのため、金食い虫である江戸藩邸から、多くの藩士を延岡へ帰している。藩主も延岡に帰ったままである。
その一方で、特に、京都を中心にして、10藩にも満たない少数の藩だけの陰謀と利害と策略で、目まぐるしい政治の変化をしていく中で、延岡藩をはじめ、ほとんどの藩では、詳しい情報のない中、情報収集に必死になっていた。
延岡藩は、3番目の老中格の原小太郎が、第二次長州征伐の後も、そのまま、京都に留まり、京都にも延岡藩邸を設けて情報収集を続けていた。
内蔵進に対し、京都への出張命令が出た(自分で出した)。“早追“で行くという。
早追とは、昼夜兼行で、かごを乗り換えて、早かごで行くことをいう。
相当の強行軍である。今回の出張は、緊急事態の発生なので藩主の許可なしに行うことになる(藩主は、延岡に滞在)。
このようなことは、弘化元年(1844年)1月6日と嘉永3年(1850年)1月16日に前例があるということを確認にしている。
前例はとても大事なのである。
慶應3年11月18日の日誌の概訳を示す。
「穂鷹内蔵進は、差し急ぎの御用があるので、京師表に向けて、来る21日に出立する。
“早追”にて、行くことにすることを、今日、内蔵進から月番に申し達しがあった。
但し、右様に出張することに関して、御前(殿様)に伺いをしていない。
このような、事前の承認を受けないで出張することは、弘化元辰年(1844年)1月6日や、
嘉永三戌年 (1850)年1月14日の前例がある。
このことについては、大殿様(先代殿様)に申し上げ、御隠殿の御側役を呼びだし、
(第2の権力者である先々代殿様夫人である)充真院様にも重役からの指示で
月番から手紙を出して知らせるようにと指示を出した。」
大阪、京都での幕府と薩摩藩を中心とする新政府側との間で、一触即発の状況になっていることを感じて、
先日、京阪地区へ出張した筆頭家老の穂鷹内蔵進から、江戸藩邸から援軍部隊をよこすようにという指示が来た。
しかし、江戸には、そもそも人員は少ない。
当事の独特の表現に、この表とその表というものがある。この表=こっち、その表=そっちという意味である。
概訳を示す。
「(慶應3年)12月27日
大阪を去る12月18日に出て、(7日後の)23日についた手紙は、穂高内蔵進から(江戸藩邸の)弥学平左衛門宛てであった。
それによると、同人組(内蔵進組)と、原小太郎組の内、代表的な修行人(訓練兵か?)の分を、早々、上京するように指示をだしてくれ。
もし、(延岡にいる)殿様が御上京遊ばされる場合は、5組の修行人と役人を上京するように命令をだしてくれ。
以前、話合いをしておいたようにしてほしいが、その表(江戸)では、御警衛もあるだろうし、両組だけにて、よろしい。
尤も、両組のところも、その表(江戸)に据え置いて、(江戸藩邸の保安のために)したいというのもあるだろうし、
両組のうち、無拠(やむ追えな)く、御在所(延岡)に致着した面々もあるであろうから、
この表(大阪)に、人数(大人数)を、送るように考えてくれと、言ってきた。
しかしながら、この表(江戸)も、当形勢に付き、この後、如何様の事変の出来るかも計りがたい。
また、上様(大殿様や充真院様)も 有りなされるので、両組の部隊を差し向けるとなる大人数になる。
大殿様より、御沙汰の筋もあって、先ずは、長坂良造と、長坂華四郎を上京させるようにした。
然るべくは、還相続をして、昨夕、1名を、さらに呼び出し、申し遣った。今日、御用部屋を出るように申し渡した。
長坂良造
長坂華四郎
この度、御用向きがあるので、出京を仰せつけられたので、支度を 差急に行い、
早々、出立するように命令をだすものである。」
その後、長坂良造と華四郎の二人は、慶應4年1月2日に江戸を発っている。しかし、鳥羽伏見の戦には、間に合わなかっただろう。
延岡藩では、各家老を中心に部隊が構成され、原小太郎組、穂高内蔵進組という呼び方をしている。
全部で5組ある部隊のうち、京阪に出ている2人の家老の組だけ京阪に召集したのである。
前将軍の慶喜が大政奉還して、将軍職を放棄したのち、新体制のつばぜり合いが水面下で行われていたなかで、
薩摩藩と岩倉具視を中心のグループにより、天皇を中心にした新政府案となる王政復古の大号令というクーデター(12月9日)が起きた。
この発表は、世の中の大名にどのように伝えられたのか。
意外にも、朝廷から江戸城に手紙が送られ、江戸に残る老中稲葉美濃守が、江戸にいる藩主と重役を呼び出して、今回の王政復古の文を渡しているのである。
御用談という表現をしているのが珍しい。
この部分の概訳を示す。
「12月18日
京都表でのことについて、御用談の儀があるので、明18日4時(朝10時)に西丸に 登城されるようにという
稲葉美濃守様からの連絡があった。
(藩主が)病気や幼少、あるいは、在国、在邑にいる面々は、重役の家来1人を差出すようにと、大御目付中様よりの御廻状が到来した。
委細は、御触状にある。
右に付き、(延岡藩の)今西弥学(年寄格)は、今朝、出宅して、御留守居役と同道して西丸に登城した処、
大広間と四の間で、御老中様方が、御列席で、
御奏者番の内藤若狭守様、(大目付の)川村信濃守様、滝川播磨守様、木下大内記様、川村信濃守様、御目付松浦越中守様が、
お立合いで、(老中の)美濃守様から左の御書付がお達しなされた。
尤も、御在府のお方様(この後、切れているか?)
<伝達内容=王政復古の令>
御基(おんもと=天皇)が御立なされたので、従来の、摂関や幕府は、廃絶し、
即ち、これから先は、仮に、総裁、儀定 参与 の三職を置き、これらが、すべてのことを行っていく。
神武創業始に基づき、縉紳(身分の高い人)武辨や堂上地下の区別なく、至当の公儀を謁し(盡しの間違いか)
天下の体威を固く結んでいくように、叡慮(天皇のお考え)に付き、各々、勉励し、旧来の驕奢や汚習を洗い流し、
一忠報国の誠を以て、奉られるべきように。
内覧 勅問、御人数、国事、御用係、議奏、武奏、守護職、取司代など総てを廃するものである。」
そして、国家体制の上職の名簿が発表されている。この革命の張本人である岩倉具視や、大久保利通(薩摩藩3人の中)は、ちゃんと入っているのである。
朝廷側以外では、議定に、松平春嶽(越前)、浅野茂勲(安藝)、山内容堂(土佐)、島津茂久(薩摩)らの大名、
そして、参与には、後藤象二郎(土佐)、板垣退助(土佐)、辻将曹(安藝)、西郷隆盛(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、広沢真臣(長州)がいる。
江戸城に残っている老中筆頭は、稲葉美濃守である。彼は、山城淀藩(10万3000石)の藩主である。
別の機会に紹介するが、鳥羽伏見の戦で敗走する幕府軍が大勢を立て直そうと稲葉美濃守の淀城に入ろうとすると、
残った家来達が新政府側について、幕府軍を城内に入れなかった。幕府側の敗因の一つにもなったことである。
その後、稲葉美濃守は、幕府内で針のむしろに座っているような苦しい立場になったのではないか。
延岡藩の藩主にも、幕府側、新政府側から上京するようにという要請書がきていたが、決めかねたかどうか、
病気を理由に(たぶん、仮病だろう)、猶予願いを、幕府側、朝廷側に出している。
江戸幕府に出したのは、1月4日であるが、その時点では、鳥羽伏見の戦の真っ最中の時である。
延岡藩は、この後、新政府側ににらまれる立場になるのだが、それは、別の機会に。
概訳を示す。
「慶應四年 1月4日
(延岡藩の)殿様は、御上京の御猶予を大阪では、既提出で、今回、江戸に差し出しようにと、送ってきたので、提出する。
この表(江戸)では、(老中の)稲葉美濃守様に
左のお届け書を、今夕、御留守居・添役・仮役の長坂平学が、持参し差し出した処、御落手した(受け取ってくれた)。
今般、(江戸幕府から)仰せ出でられた件に付き、御用が在りなされたので、
早々、上京するようにという旨の御沙汰の趣意は、畏れ奉りますが、
先日、御請(返事)を猶予しておいたところ、兼ねての眼病と且つ、疳積(むねやけ)にて、克服できず、(さらに)近来の
寒さになったので、別けても、甚だしく道が心外で、何分にも、上京できません。
尤も、この上、積の療用を、加えて少しでも、快方に向かいましたらば、早速、上途を致しますので、
今、暫くの処、上京の御猶予を頂けますよう、願い奉ります。以上
右の通り、大阪表において、旧臘(昨年12月)19日に(大阪城在住の)板倉伊賀守様に 差し出し、同日、京師表において、
(朝廷側の)参與のお役所に同様に差し出した旨を、言ってきた。この段、(江戸幕府に)御届け申し上げた。
正月4日 (御名家来) 長坂平学」
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