第50話:慶應3年(7):12月=延岡藩から見る大政奉還(2) 

No.50> 慶應3年(7)=12月=延岡藩から見る大政奉還(2)

    慶喜の大政奉還が朝廷から許可され、二条城を去ります。
    一方、江戸では薩摩藩による暴徒が暴れています。幕府側が遂に薩摩藩邸を襲撃します。



 
今回のトピックス


   鳥羽伏見の戦まで数週間に迫った頃、慶喜はついに、二条城を去り大阪に下ります。
   江戸では、薩摩藩が集めた浪人組が強盗狼藉を繰り返し、遂に、幕府軍が薩摩藩邸を襲いました。
   鳥羽伏見の直接のきっかけになる争い事です。

   延岡藩の資料で念入りに追いかけます。

                                         (2017.1.16)

     

【1】 慶應3年12月の背景



今回は、慶應3年の12月を扱う。江戸幕府の終焉となる戊辰戦争が始まる1か月前のことである。

第2次長州征伐が幕府側の完敗で終わった慶應2年の翌年になると、今までの、幕藩体制のままでは日本は、 欧米の列強の植民地になってしまうという危機感が政治的青年たちの共有概念になっていた。

日本という一つの国は存在せず、小さいが自治権を所有する小さな藩の集合体としての日本という地域であった。

統一された国家にしたいと考える連中のなかでも、徳川幕府を中心とする集団体制にするか、朝廷を中心という形ではあるが、
政治の中心は、欧州的な議会制度にするかという方針の違いがあった。
慶應3年の10月に、土佐藩の後藤象二郎の建白によって、徳川幕府が大政奉還するという動きが出た。

ところが、薩長とその他の有志は、徳川家が中心の集団体制では、抜本的な国家形成にはならないと考えた。
その目的のためには、徳川家を武力で倒さねばならない。

最後の将軍の慶喜が大政奉還を願い出た(10月末)頃の前後して、朝廷を牛耳っていた薩長両藩は、朝廷から倒幕の密勅を引き出していた。

さらに、薩摩藩の西郷隆盛は、藩士の益満休之助、伊牟田尚平、などを江戸につかわし、関東の浪人を集めて、江戸で騒乱を起こすように命じた。

彼らが、薩摩の三田屋敷(現、港区芝2〜5丁目)に入ったのは、10月10日頃と考えられる。
彼らによって、集められた浪士は、最盛期(最後)には、500名ほどになっていた。

当時、この薩摩藩の騒動より先に、江戸市内では、浪士による強盗が頻繁に起きていたが、
それに薩摩藩の組織だった強盗、火つけが加わったのだから、江戸市内は騒然とする。

薩摩藩の強盗、騒乱の対象は、幕府の御用商人、警察組織、唐物を扱う商人(貿易商人)に限られていた。
「私欲を以て人民の財貨を強奪するのは許さず」という掟があった。
浪士は、三田屋敷内の糾合所に寝泊まりしていたから、糾合所屯集隊とも呼ばれていた。

彼らは、薩摩藩邸を出て、強盗を働き、同藩邸に帰ってくるのだから、薩摩藩が疑われるのに時間はかからなかった。
この暴動に対して、幕府は、庄内藩酒井家に市中の警備を一任した。
彼らは、暴動藩の首謀が、薩摩藩とはめぼしはついていたが、薩摩藩邸に乗り込むことはできずにいた。

薩摩藩は、江戸城二の丸に火付けして消失させた(12月23日)。
同日、幕府の治安部隊への攻撃もあり、12月25日に、遂に、幕府治安部隊側は、
薩摩藩三田藩邸と隣にある分家に相当する佐土原(現在は、宮崎県)藩邸へ攻撃を加え、同邸を消失させた。

その報告が、1週間後に京都、大阪に届き、戊辰戦争の火ぶたを切るきっかけを作った。

この時代の年表を右に示す。

【2】 この時の慶喜の内心

将軍慶喜は、土佐藩の勧めに従い、大政を朝廷へ奉還した。
しかし、その後の政治でも、自分(徳川家)が中心となり、諸藩と衆議を尽くして、政治をするつもりで、規則(法律)を作り、
国家を運営する希望を朝廷へ奏上している(12月12日)。

彼の意図をよく示す記録が、延岡藩の資料にも見える。
江戸の諸藩の藩邸へ藩主、あるいは、重役が江戸城へ登城するようにという指令がでた。
延岡藩の藩主は、延岡におり、重役連中も、在延岡か、京都、大阪に出張して不在なので、
12月23日、延岡藩江戸藩邸からは、重役ではないが年寄格の渡辺平兵衛が朝8時ごろ、
御留守居の老之進を連れて、登城し、西の丸の蘇鉄之間に控えた。夕方7ツ半(5時頃)に大広間に集まるように指令が来た。
通常、帝鑑之間を利用する各家の重役連中が集まった。

そこで、老中の稲葉美濃守、小笠原壱岐守、稲葉兵部大輔がそろい、美濃守が演説をした後、書付を手渡した。
その書付の内容は、慶喜が、京都で朝廷へ差し出した「前将軍慶喜奏聞」であった。

延岡藩の平兵衛と老之進は、突然の公務なので、延岡藩邸の賄方(台所)で弁当を作ってもらって江戸城に向かったという記録が残っている。

(1) (延岡藩記録)慶応3年12月21日の記録:京都を挨拶なしに去る



慶喜が、朝廷に出した伺い書(奏聞状)である。
概訳を示す。

    「 帝鑑之間に同席する諸大名と 交替寄合の者へ

      【 御所に 仰せ立てられ候御書付写し 】(書付の外見の模写である) 

   長州+防府の、御処理の儀につき、向こう様(天皇)に、御尋ねの上、
   叡慮の通り、仰せ立てられ、失儀(返答)申し立てられた連中も、
   この筋は、無いのでございますが、

   萬一、異存の輩もあるかもしれず、その騒動に及びますこともありましたら、
   御幼君でありなされる折柄なので、自然、右様の儀もありましたら、
   御驚動は、勿論、皇威も如何なされるべき哉と、深く悩まされ、

   叡慮なさる御次第にて、鎮撫 説得の力を盡しますように、
   御沙汰の趣は、恐れ奉ります。

   その後、
   宮闕戒装をもって、御固めの上 非常の御変革を 仰せ出でられたことについては、
   特に、鎮撫方、ますます、痛心、仕るように、兼ねがね 諸役人始め、
   今日までは、精々、諭し置きましたが、

   何分、多人数の鎮撫方なので、深く、心配りを、しておりますが、
   不省、誠意をもって、尊王の道心を盡し 罷り在りますことも、

   徒ら下輩の粗忽など水泡に氏iとし)ますようなことになりましては、この上

   深く恐れ入り奉りますことにつき、右,人心の折合がつくまで、
   暫時 大阪表に罷りこそうと思います。

   右は、全く末〃の者 鎮撫、致します。
   禁闕の下、御安心の御場合をお願いしたい気持ちでございます。

   徽衷の程、御諒察 成り下されたく思います。
   尤も、伺い済の上で、出立をすべきでございますが、

   彼是、手間取りまして、万万 軽輩の過誤より、国家のお大事を
   牽出しましては、却って恐入り奉りますことなので、
   直ぐ様 出発をしようと思っております。

   よって、この段申し上げ置き候。以上。

       12月12日

   朝廷より、別便の通り、去る十日 仰せ出でられ候段、
   大阪表より、申し越し候得共、この段、相達し候。
      十二月

      【 朝廷より仰せ出でられ候御書付写し 】 


慶喜が、家来たちが何をするか心配なので、挨拶もせず、すぐに、二条城を発って、大阪に向かうという連絡状である。

(2) (延岡藩記録)慶応3年12月23日記録=御奏聞状

慶喜が、朝廷に当てた手紙(=御奏聞状)であり、天皇の周辺に不埒な連中がいることを嘆いている。



概訳を示す。

  「御奏聞状写し

   別紙に様に、御奏聞状を、この度、御差出になったことについて、
   ご理解いただいたことに、感激しております。
   諸候は、家来を多数連れて、早く、大阪に来るように。

   臣、慶喜は、不肖の身を以て、従来、
   奏蒙、無踰(ムユ)の寵恩を頂き、恐感悚(ショウ)戴に至り(恐れの感じで身の引き締まる)思いで、堪に耐えません。
   及ばず乍ら、夙夜(シュクヤ:朝から夜まで)不安で、寝食苦心をし、焦慮は、宇内(ウダイ:世界)形成に熟察をしており、
   政権は、一つで、万国並立の御国威は、輝くでしょう。

   広く為し、天下公議を尽くし,不朽の御基本に立てたいと、微衷(=本心)より、祖宗継承の政権をお返しし、
   同心協力して、政律を御確定したく、

   普く(アマネク)列藩の見込みを相尋ねるべき趣を建言し、なお、将軍職を ご辞退申し上げましたが、
   召の諸候が、上京し、衆議して、結論が出るまで、これまでの通り、
   心得るべきという旨の御沙汰を頂き、右参着の上は、
   同心戮力、天下の公儀輿論をとり、大公至平の御規則を立てたいと考えております。、

   他念はなく、鄙衷(=私の心の中)は、不空で、感戴しており、旦夕(=朝夕)、企望は、持っております。
   豈料や(アニハカランヤ)、今度、臣慶喜に顛末の 御沙汰がないだけでなく、
   詰合の列藩衆儀にもこれ無く、俄ニ(にわかに)

   一両藩戒装を以て、官闕に立ち入り 未曾有の大御変革を仰せ出でられている由にて、
   先帝より御遺托がありました摂政殿下を停職し、旧眷(古い身内)の官堂上方を理由なく、擴斥(カクセキ)せられ、
   遂に、先朝が、譴斥(ケンセキ)しました公卿数名を抜擢し、陪臣の輩猥に




  「玉座近くを徘徊致し、数千年来の朝典を汚し、其の余り、御旨意柄を、兼ねがね、仰せ出でられることになりました。
   御沙汰の趣とは、悉く、霄壌(シュジョウ=天と地)の違いがあり、本当のところ、
   驚愕の至に存じております。仮令(たとえ)、聖断より、出し為されましたことでも、
   忠諌(カン=いさめる)奉るべき筈です。

   况(いわん)や
   当今、御幼冲(幼帝)の君に在りなされる現在、右様の次第に立ち至りましては、
   天下の乱階、万民の塗炭は、眼前に迫り、兼ねがね、献言いたしてきましたが、
   素の願も通ぜず、金甌無釁(=完全無欠)の皇統も、如何が在りなされるかと恐痛致しております。

   臣 慶喜としましては、自今の深憂は、此の事でございます。
   殊更、外国交際の儀は、皇国一体に関係ありますので、不容易な事件に付き、前件の如き
   聖断を矯(ゆがめる)輩は、一時の所見を以て、御処置をしまして、
   御信義を失い為され、後來、皇国の大害を、醸しますことは、必然です。

   特に、深憂をしておりますので、最前、真の聖意より 仰せ出でられました御沙汰に従い、
   天下の公論を決めますまでは、此れまでの通り、取り扱いをしたいと思います。

   鄙言(ヒゲン=田舎の言葉)の趣を御聞受け、成り下され、兼ねて申し上げておりますように、
   公明正大、速やかに、天下の列藩の衆議を 尽くし為され、正を挙げ、
   奸を退け、万世不朽の御規則を作り、上は、奏寧宸襟、下は、万民を安じますように
   したいと思っており、臣慶喜は、千万懇願の至に考えております。

   この段、謹んで奏聞仕り候。
      十二月


慶喜の天皇への必死の訴えである。

(3) (延岡藩記録)将軍を辞した後は、上様とお呼びせよ


江戸幕府(徳川家)より、諸候に、慶喜が将軍職を辞してからは、今までの公方様から、上様と呼ぶようにという指示が出た。
概訳をしめす。

  「(慶應3年)12月26日
   昨日のこと、
   公儀の御触れがありました。
  (慶喜が)将軍職をご辞退し、(天皇から)お聞き届けが有ったので、
   以後、下からは”上様”と称す奉るべき。

   御台様の御事以来、御簾中様にて、称し奉るべき旨、ご家中に
   仰せ出でられ、然るべき通り決め、今日、大目付に御書付けを
   渡すので、ご家中、一統に連絡すべきこと

【3】 江戸市中が不穏になる

(1) 11月の記録:江戸の商家に盗人が入ったという記録

    ・金 3000両: 南伝馬町新道 両替屋 伊達
    ・金 1500両:三十間堀   両替屋 芦川屋
    ・金 7000両: 本所松坂町 紙問屋 紙屋弥兵衛
    ・金 1万両: 浅草代地 札差 坂蔵屋清兵衛

これらには、いずれも、賊が3〜40人ずつが、抜き身と鉄炮を携え、押込みし、かつ、町内の木戸へは、
同類の者が、警護の人数を残していた。組織だった盗賊である

    ・金 5000両: 日本橋 飛脚問屋 和泉屋
  この金は、諸家より、京阪へ送るために預かった金であった。

また、別の記録では、
両替屋に11月15日夜八時ごろ、多人数の賊徒が押し込んできた。

最近は物騒なので、警護として、新徴組を組織しており、その日も15人ほど警護がいたが、賊の大将が、
世上を直すための用意金を取り集めるといって、談判してきた。そして、賊徒が鉄炮を打ってきたので、

警護の者が逃げたところ、大人数で金を奪って行った。そのあと、警護の者が追いかけたが、賊徒が木戸を固めていた。
このように、11月ごろから、江戸内を強盗が騒がしていたが、中には、便乗組も多数あったようである。

(2) 延岡藩の記録に残る江戸市中の混乱ぶり

老中の美濃守から諏訪因幡守、松平中務大輔、松平摂津守、本多能登守、三宅備後守、戸沢中務大輔が12月9日に江戸城に呼び出された。
そこで、市中取り締まりを酒井左衛門尉に仰せつけたこと、そして、この節、市中に強盗、押し借りなどの賊が出て不穏である。

循環を堀田正倫相模守、鳥居丹波守にも仰せつけたが、対象があまりに広く、未だ、一人も捕まえることができていない。

日増しに暴行が増え、このままでは、徳川家の御威光に差し障る。
犯人に見当がつくものは教えるようにという達しが、延岡藩へ届いている(12月11日の記録)。

(3) 江戸城の二の丸炎上:12月23日


概略を示す:

  「  12月23日
   今朝明け、六時ごろ、二の御丸より、出火の処、残らず。御消失 五時前(8時ごろ) 消失
   右の通り、 二の御丸 御消失の処、嘉永五子年(1852年)5月22日に西御丸炎上した時、 
   文久三亥年(1863年)11月15日にご本丸が炎上の節は、

   (延岡藩)御家で、御慎にて、御家中の面々 贈り物など遠慮 致し為し候えども、
   この度は、右の御沙汰にもおよぶまじき旨、送り相徒け、別段、御手当無き候


   各藩は、別段、慎む必要がないとのことである。

(4) 12月23日:薩摩藩の集めた浪人が、庄内藩の屯所を襲った

浪士による御用盗みが暴れまわっている頃、幕府の命令により江戸市中の警備にあたっていたのは、庄内藩酒井家である。
庄内藩は、浪士たちの本拠が三田の薩摩藩ということは気づいていたが、確たる証拠をつかめずにいた。
幕府内でも強硬派(小栗上野介忠順)時期尚早派(勝海舟)に分かれて決めかねていた。

23日に江戸城二の丸が消失したとき、薩摩藩の仕業という噂が立った。
その夜半、三田にあった庄内藩屯所に発砲があった。その時の延岡藩の記録である。



  「当節、悪徒共、市中暴行をしている。且つ、(強盗)その他、厳しく徒党を結び、不容易な事などを
   取巧候に付き、このほど、夫々、御召し取りをするようにと命令を出していたところ

   右同志の者ども、松平修理大夫(薩摩)屋敷内に潜居いたし

   去る二十三日夜、市中御取締りとして、出張していた

   酒井左衛門尉(屯所)に(多)人数が、乱入してきて、
   炮発におよんだ所業は、捨て置き難く

   同人より、召し取り、引き渡しの件について、掛け合いをしたところ、
   理不尽に、発砲におよんだので、余儀なく、戦争になりました。

   就いては、猶、脱走のものは、計り難いので、
   右様のもの、および、見聞したならば、早くも、召し取り、

   自然、手に余るならば、討捨ての上、早々に訴出てくるように、
   萬一、見聞したけれど、其のままに、差し置いたものは、重科に所されるであろう。


23日のことについて、
  「新整組(庄内藩預かりの江戸市中取締まり隊)が、追いかけたる処、薩州屋敷へ逃げ込みたりとて、
   右の者引渡すきの旨 掛合に 及ぶなどしたが、薩州は、ご挨拶の趣に対し、当屋敷へ右様の者は、一切 立ち入らずの趣を申してきた。

   翌24日 並びに、同夜中 数度の往復、掛合など、及ぶといえども、争論、決まらず


遂に25日の衝突になったのである。のである。

(5) 三田屋敷炎上=12月25日

庄内藩を中心に、上ノ山、鯖江、岩槻藩の軍勢で25日未明薩摩藩邸と、隣にある分家の佐土原藩(宮崎県)邸を取り囲んだ。


概訳を示す。

  「   12月25日

   今暁、俄(にわか)に
   公邊(幕府側)の銃隊と 
   並びに、酒井左衛門尉様配下を初め、
   その他、市中、御取締り衆多人数が、
   出張したところ、

   何れも押し出して、
   更に、模様ながめを決め込むものもなく、
   早速、夫々、深索をした。

   右は、薩州様御屋敷三田高輪と 並びに、
   御分家の佐土原様御屋敷等に
   潜伏の浮浪賊党を御召取りの由を聞き、
   その内、五半時頃、一時、三か所から、
   出火と成り、炮(おおづつ)等々、
   爆発し不容易に動揺いたしました。

   両御屋敷は、それぞれ、御取締を
   申し渡しました処、前件、
   三田屋敷共、消失致さず、
   夕七時までで、鎮火を致し、人数も追々、引揚げました。

   今日の異変に付き、解放されていない今晩の外張御門、裏御門、銅御門、その他、馬場通りに夫々、
   多人数が、差配されているので、行燈や火鉢を配る件を、御作事方に申しつけた。


三田屋敷には、浪人組が主力で200名ほどがいたが、衆寡敵せずで、50名ほどの犠牲者を出した。
遺骸は島津藩の菩提寺である大円寺(現在は杉並区に移転)に葬られ、今も墓碑がある。
しかし、薩摩藩に召集された人員の名簿も、その後の火災で焼けており、多くは、不明のまま、歴史の中に埋もれていった。

【4】資料

   1) 延岡藩資料(明治大所蔵):万覚帳1-7-155
   2) 幕末歴史散歩(一坂太郎著:中公新書)


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