下屋敷=六本木屋敷

No.4> 下屋敷は六本木のど真ん中にあった

今回のトピックス

  延岡藩内藤家の下屋敷は、六本木のど真ん中にあったのです。

  今は、その跡はなにもなさそうですが、敷地の東端であった、閻魔坂を歩いてみると、昔の屋敷が急な丘の上にあったことを
  しのぶことはできます。延岡藩下屋敷跡という碑でもあったらなと少し残念になります。(2013.8.5)

  図7は、下屋敷付近の明治初期の地図です。(2013.9.23)


【1】下屋敷

内藤家の拝領屋敷は、虎ノ門に有った上屋敷と六本木にあった下屋敷である。中屋敷はなかった。それ以外に、自藩で所有する私的な抱屋敷として、渋谷屋敷とある時期所有した本所屋敷だけである。今回は、六本木にあった下屋敷を紹介する。参勤交代で上府してきた殿様の居住区であり、公儀への表口は上屋敷であった。

延岡藩の場合、中屋敷はないので、下屋敷は、引退した殿様等が住む別邸の色彩が強い。実際、2代目政陽は、引退し家督を譲った後、下屋敷に住み、「詩語碎金」という当時のベストセラーとなった書物を書いたそうである。後日、報告予定の7代目政義も早く引退し(せざるを得ず)、下屋敷に住んだ。 赤坂六本木屋敷と呼ぶことが多い延岡藩の下屋敷は、もし今、所有していたらびっくりするほどの資産になっていただろうと容易に推察できる場所にあった。つまり、六本木の交差点にあったのである。幕末の文久2年(1862年)の絵図面を示そう。図面の上部に赤枠で示したのが、内藤家の上屋敷(現 虎ノ門付近)であり、下の方の赤枠内が、六本木にあった下屋敷である。現在の地図と対応させるには、六本木は、維新後大きく変化した所のため、対応が難しい。そこで、基準となるのが、現在も残る寺社である。

  
図1図2

寺社が見やすい幕末の絵図面を図2に示す。下屋敷の周りが寺だらけだったことが分かる。

先に、特にレポート3でも述べたように、江戸時代の絵図面は今の地図とは異なり正確度はかなり低いのである。敷地の形もサイズも違うし、配置すら信用できない場合が少なくない。絵図面を参考にして、今の地図に敷地図を描くのは難しい。そこで、内藤家に残る当時としては、最も正確な図面を利用する。これは、内藤家が、幕府に定期的に報告する屋敷図面(文化6年=1809年)である。当時としては、、最も公式書類であり、市中の絵図面とは信頼度が違うのである。 オリジナル図面を図3に示す。見にくいので、私が、なぞったものを図4に示す。この図面をもとに現在地図と対応させると、図5に示す様に、現六本木のど真ん中に位置することが分かる。

  
図3図4

今は飲食店が立ち並び、昔をしのばせるものはほとんどないが、唯一、あるのは、この屋敷の東側端にある閻魔坂を下ると、崇厳寺の墓地がある。この地図ではわからないが、この下屋敷は、小高い丘の上にあり、周りはかなりの坂になっている。昔は、見晴らしの良い所だったと思われる。この現代図でわかるように、下屋敷は現在の六本木の交差点に接していた。六本木の中心にあったのである。惜しい!

  
図5図6
明治初期(多分、明治10年ごろ)のこの付近の近代地図を図6に示す。屋敷を南北に貫く道路はできているが、屋敷の中の建築を伺わせるものがまだ残っている。
この地図では、屋敷の高低差がよくわかる。また、現ミッドタウンが、江戸時代は、高松藩(松平大膳)であり、明治時代から昭和まで、陸軍(後、自衛隊)の駐屯地であったことが分かる。

図7

【2】出火に伴う下屋敷の再建

下屋敷は、何度も消失しているのだが、新しいところでは、安政2年10月2日(1855年)起きた安政江戸大地震に伴う火事で焼失している。其の後、再建されたが、安政5年11月12日(1858年)に、原因は不明だが、また、類焼している。
(3-1藩主-91=「六本木屋敷御類焼に付き諸向申達書」(安政5年=1858年)

その後、再建されたのか不明だが、慶応元年(1865年)4月に六本木屋敷を再建するため、大工等に出した注文の記録が残っている。内藤家としては、最後の再建であり、維新のわずか、3年前である。当時は、そういう運命は夢にも思わなかっただろう。その再建の計画書でもある注文控えを示す。図8は、その一部である。
[資料=1-26-143「六本木御屋敷儀普請御入用」(慶応元年)]
この注文書の全貌を表にまとめた。

建設業者建設内容銀 又は 銭
大工 留吉御殿、表長屋、駕籠部屋、物置部屋:新築790両3分3朱95匁4分5厘
大工 喜右衛門2階建て長屋1棟、女中台所1棟、新築 御長屋、裏御門 1131両1分2朱45匁1分
大工 吉右衛門表御門、長さ57間1256両3分3朱27匁7分6厘
豊屋 九兵衛御殿周辺、勤番部屋2972匁7分5厘
山住屋 小兵衛物見、勤番部屋、御座表4543匁9分
田中久蔵障子90両1390匁6分
左官 久五郎蔵4か所手入れ23両3分
桶屋 三四郎石風呂、行水233匁5分
石屋 長七玄関、有合せ石切出、毫石8個新規13両2分2朱5厘
伊勢屋 九兵衛表御門内外植木1両1分3朱1匁2分5厘
家根屋 平七奥蔵、塀、苔新規、 2か所1両3分5厘
猪狩銀蔵
高橋藤兵衛
山口六之助
屋敷普請58両2分962匁3分2厘6毛 +銭 8193文
3419両3分1朱1万270匁6分2厘6毛(〜171両) +銭8193文

この再建では、約3500両を費やしている。現在の貨幣価値では、約3億5千万円となる。貧乏藩としては、しかも、第一次長州征伐(文久4年=1864年)と第ニ次長州征伐(慶応2年=1866年)の間になり、大出費の重なる時期のため、本当にきつかったであろう。やせ我慢で、仕方なくのことであろう。ちなみに、 第一次長州征伐での戦費が6億円程度で、その財源に汲々していたという記録がある。

【3】下屋敷はその後どうなった

延岡藩は、ただでさえ、財政的に苦しかった上に、幕末の動乱で出費がかさみ、幕末は本当に財政的に逼迫していた。安政3年(1856年)には、御改革覚書を出して、下屋敷の売却を検討していた。しかし、実現はしなかった。レポート1でも示したが、虎ノ門屋敷(上屋敷)と一緒に、明治元年、下屋敷も拝領に成って、大喜びしている。そして、明治2年に、見回りを命じられている。上屋敷は、明治4年に没収(上地)されている。下屋敷の上地も同時期だったようである。

【資料】

(1)内藤家資料(明治大所蔵):1-4家-468-2「江戸御屋敷絵図 六本木御下屋敷」(文化6年=1809年)
(2) 内藤家資料(明治大所蔵):3-1藩主-94=「六本木屋敷御類焼に付き諸向申達書」(安政5年=1858年)注>出火に伴う記録
(3)内藤家資料(明治大所蔵):1-26普請-153「六本木屋敷御普請御入用」(慶応元年=1865年)



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