今回のトピックス |
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鳥羽伏見の戦の3か月前の事です。 将軍慶喜が大政奉還を朝廷に申し出たという大ニュースが延岡藩に届きました。 この大ニュースは、日本中の諸藩を飛び交った様子がわかります。他藩も含めて、大騒ぎです。 江戸城内、二条城内での発表の様子がわかる貴重な報告をします。 その一方で、幕府は、江戸市中の問屋に上納金を要求します。 延岡藩も、藩内の近代化を急ぎます。 (2016.11.18) |
慶應3年10月という時期は、この3か月後には、鳥羽伏見の戦いあり、
徳川政権が完全に崩壊するし、この1年前には、第2次長州征伐があり、
前将軍の家茂が大阪で他界し、慶喜が最後の将軍に付き、
そして、最大の庇護者であった孝明天皇の突然の崩御があった。
まさしく、時代が大きく転回しようとしている時期である。
幕末になるほど、外国の実力を見せつけられ、外圧は強まる一方である。
当時の日本は、250年の間、徳川家が日本最大勢力で日本を支配している形態であるが、各藩が自国を統治しているのには、変わらない。
例えば、日本が軍艦をそろえようと、徳川をはじめ、各藩がそろえる必要があり、それぞれの藩は、小さな経済力でしかない。
早急に、日本という国全体を一つにする必要があると考える人が若い人を中心に芽生えてきた。海外の議会制度を見てきた人もいる。
当時の日本の改革案は、最終的には、2院による議会制度を想定している。
各藩の藩主からなる上院=貴族院と、もっと幅広い構成員からなる下院である。
それに達するアプローチとして、2つの方法が模索されていた。
急先鋒の薩摩藩を中心に長州藩や、土佐藩の一部(乾退助=板垣退助)が唱えた、倒幕論である。
もう一つの流れは、徳川幕府も一つの藩主(三河など)に戻すという考え方の大政奉還論である。
これは、土佐藩の後藤象二郎や、安藝藩(広島県)の辻将曹などのグループである。
薩摩藩を中心とする倒幕派は、10月に武装蜂起する予定であったが、各藩の集まりが遅れているスキに、
後藤や辻ともう一人(關山紀?)によって、京都の二条城にいた慶喜に大政奉還すべきであるという建白書を直接提出したのである。
それが、慶應3年10月3日の事である。
そして、慶喜は、10月13日、京都にいる各藩の代表者を二条城に呼出して、自分は、政権を朝廷に返上するつもりであるという意思を発表したのである。
幕府も、各藩もびっくりするのは当然である。その知らせは、種々のルートで藩主や、江戸屋敷へ届けられた。
その顛末を、延岡藩側から見てみよう。
実は、慶應3年10月には、もっと、劇的なことが京都を中心に起きているが、それが延岡藩に伝わるのは11月になってなので、
あくまで、延岡藩が知り得た順番に報告していく方針なので、10月末の出来事は、次回報告したい。
当時は、わからなかったが、実は、10月13日〜15日ごろには、朝廷から幕府追討令が薩摩藩と長州藩へでているのであるが、
これは、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視らの策略であろうと考えられている。
まずは、慶應3年の年表を右に示しておく。
10月21日の辰上刻(朝の7時ごろ)、江戸城内の大目付より廻状が回ってきた。
それによると、10月21日の朝四つ(10時頃)に、平服着用で西の丸に登城せよという指令である。
万石以上の面々で、在国在邑にある者(藩主が自国に帰っている者)は、重役が一人が、代理で出席せよという。
そこで延岡藩の藩主は、延岡に帰っているので、今回は、家老の穂鷹内蔵進が代理で出ることになった。
江戸城内での通達と封書渡しの様子がありありとわかる記録を示す。
この概訳を示す。
「右の通り 御触れがあったので、(江戸在の家老の)
穂鷹内蔵進が、今朝(10月21日)、五半時(9時)に、
出宅し、御留守居の成瀬老之進が同道した。
西の丸に罷り出たところ、
大広間、四の間の御下段の御口そばに出て座した。
大御目付の、滝川播磨守様が、京都表に於いて、御達の御書付を、
(そして)、美濃守様が、御達の旨を御口演の上で、松浦越中守様と大久保常刀様が、
御立合いの上で、播磨守様より、御封書を御渡になされた。
早々、備後守(延岡藩主)に報告するようにと言われ、
且つまた、不容易の御書付に付き、必ず、軽挙の事の無いようにと、厚く申しつけると御口達があった。
(封書を)受け奉り、退出致した。」
(延岡藩邸に帰ってきて、その封書を、先祖神をまつる御隠殿に報告している)
右の通り、御封書を御渡しになられた時に、内見してよいとの御沙汰は、無かったことに付いては、
御用の品の、更に、内容を示してくれ中田ので、大殿様に申し上げた上で、
御同所様の御前に出て、極内(輪)に内蔵進が、開封いたしたところ、左の通り(以下の通り)であった。」
封書を自分の殿様(内藤備後守)に渡すようにと預かってきたが、中を見てよいかどうかの指示はなかった。
内容は、とても異常事態の様である。どうしようかと迷った挙句、江戸にいる先代の殿様(大殿様)の許可を得て、
大殿様の眼の前で、ごく内輪のメンバーで開封したところ、以下の内容であった。
これが、慶喜が政権を朝廷へ返上する意思を示した意味で、最重要の本文である。一大事の内容であった。
概訳を示す。
「去る(10月)13日京地において、御発表があったことを、書き取り、(江戸藩邸へ)連絡するものである。
我(将軍慶喜の事)、
皇国時運の沿革を観るに、昔、王綱紐を解して相家権を執り、保平の乱で、政権が武門に
移りてより、我が祖家に至りました。
更に、寵春を蒙り、二百余年、子孫を受け、我、その職を奉じてきたといえども、
政刑が、当を失うこと、少なからず。
今日の形勢に至るも、畢竟、薄徳の致す処で、慙愧に堪えず。
況(いわん)や、当今の外国の交際は、日に盛んになるにより、
愈々、朝権一途に出ないことには、綱紀が立ちがたく思うので、従来の因習を
改め、政権を、朝廷に返し、広く、天下の公儀を尽くし、聖断を仰ぎ、
同心で協力し、共に、皇国を保護すれば、必ず、海外の万国と並立すべく、
わが国家に、尽くす所は、これに勝るものはない。
さりながら、猶、見込み(今後のこと)に関しては、
考えもありますので、聊(いささか)、忌諱(きき)を憚らず(慎んで朝廷へ)、申し聞くものであります。
十月」
ここで、「忌諱を憚らず」という耳慣れない表現がある。「忌諱(きき、或いは、きい)」とは、忌み嫌う事、
やってはいけないことなどの意味であるが、ここでは、いけないと思って、
自分自身で制限してしまう事とでもいう意味である。
そこで、「忌諱を憚らず」は、自分に制限もなく、無遠慮になることも憚らず、という意味である。
天皇に対して、遠慮なく言ってしまったという意味か。
福沢諭吉の「学問のすすめ」の中にも、大いに積極的に学問を行えという意味で、
「忌諱を憚らずしてこれを行なひ」という表現がある。
そして、10月15日には、朝廷側から慶喜の提案に同意の趣旨の発表があった。
訳を示す
「(慶喜公が)御奏聞をなさった処、去る(10月)15日に別紙の通り、
御所(朝廷)より 仰せ出でられた内容を、同十六日に、京地において、(幕府側から)仰せ出でられたので、
この段、(延岡藩の江戸藩邸へ)連絡致します。
十月
祖宗以来、御委任を、厚く、ご依頼をしてきたが、方今(最近)の宇内(国内)の形勢を、考察し、
建白の旨も考慮すると、(大政奉還も)当然のことと、お考えになったと、聞食(きこしめされ)た。
猶、天下とともに、同心で尽力を致し、皇国を維持し、安じ奉るべく、宸襟(天子のお考え)の、御沙汰があった。
大事件や、外異一条(意見の不一致)は、衆儀を尽くし、その他、諸大名にも伺い、意見をいうことなどで、
朝廷の両役において、取扱が自餘(なみなみでない)の件については、
右の諸侯が、上京の上で、御決定するのがよい。、それまでの処、支配地や、
市中取り締まり等は、まず、これまでの通りにて、追って、御沙汰が有るでしょう。」
という事であった。
延岡藩江戸藩邸は、同封書を延岡の殿様の処へ送ることになり、翌10月22日、海老名晋と佐藤格蔵に手紙を持たせて、出発させることにした。
大阪までは、陸路を行き、大阪からは、船で行くようにという指示をしている。
家老の内蔵進が、(かれらの上司か?)相木森之助に、口頭で、昨日の封書を渡された様子を語り、
「大御目付の滝川播磨守様より、封書を受け取る際に、不容易な書付につき、必ず、軽挙の事の無いようにと厚く申された」ということを伝えている。
面白いのは、これは、封書なので、自分は、内容は不明であるが(何等の御儀に候や、相わかり候得ども)、
昨日、内藤豊後守様から頂いた書付により、例の御書付を御渡しの由を聞いた、多分、これも同じ内容でしょうと伝えている。
(こっそり見たことは伝えていない)。
確かに、いろいろな大名方から、延岡藩江戸屋敷に、自分たちはこのような書付を渡されたという内容を記した直接の廻状がきている。
相互に、情報のやり取りをして、確認しあっていることがわかる。
大阪藩邸に居る平葉新左衛門から、5日切(5日間で着くようにという最速の飛脚)で10月19日発の飛脚が、江戸屋敷に、10月24日に着いている。
去る17日に、京都二条城に呼び出しがあり、そこで、御達書4通と封書1通を渡されたという内容であるが、二条城での様子がわかる興味深い内容なので紹介したい。
概訳を示す
「一筆啓上仕り候。しからば、御達することがあるので、昨日(10月)17日の昼九つ(12時)に二条御城に重役の者一人、
罷(まか)り出ること。尤も、重役の詰合がいない場合は、、各藩ともその内の一人が出席することと、
大目付の戸川伊豆守様、御目付の設楽岩次様より、昨16日付けの御廻状が、今日の未の刻(昼2時)に、到着したので、
その指定時刻に、罷り出ました。
ご同席は、柳の間、雁の間の藩臣が、大広間二の間に列座した。
板倉伊賀守様、松平越中の守様、右に、大小お目付様、ご出座された。
伊賀守様より、御達された内容は、
(将軍慶喜が)お考えがおありになり、(朝廷へ)御奏聞をなさった処、別紙の通り、
御所(朝廷)より、仰せ出でられた趣を、拝見させてもらったので、見ましました通りに、
御趣意書の趣に付き、見込みの点もあるでしょう。朝廷の名を汚すことの無いように、封書を御渡しになられた。
且つまた、御主人達は、右の件については、お考えもおありでしょうから、
出来るだけ早く上京されるように申し伝えることという内容の書面を、御預かりし、御書付については、ちょっと見て、御返しした。
御席を退いてから、写しを作成した。別紙に、御添え書きと一緒に、4通と封書1通を、江戸藩邸へお送りします。
右の件について、右に付き、勢山増次郎に申し付け、それが確実に届くまで、自分で持参して持っていくように命じた。
それを御承知の上、急いで、御在所表(延岡)にお送りくださるようにお願いします。 恐惶謹言
10月17日
平葉新左衛門から、 長谷川許之進様へ」
各藩主へ、朝廷や、大納言(慶喜)から上京するように要請が出ている。延岡藩主への要請が来ているのである(10月)。
また、各藩の対応について、お互いに連絡しあっている。
例えば、親戚の伊井掃部頭からは、家来が二条城に呼び出され、殿様に上京するようにと申し伝えよと、
また、(朝廷側の)飛鳥井中納言からも、上京するようにという要請があったので、
(伊井掃部頭は)26日に在所(彦根)から上京する予定であるという連絡が入った(10月29日着)。
また、藩主が江戸城に登城した折、同じ控室となる者たちのリーダー(世話役か?)である御同席取締の三宅備後守(三河挙母藩:譜代、帝鑑之間、1万2000石)から、
呼出しがあったので、穂鷹内蔵進と御留守居の成瀬老之進が伺うと、主人の備後守が出てきて、いう事には、
京都表での伊賀守からの御口達の内容は、実に恐れ入った、この上は、何れの藩も、譜代として、武備充実を第一に、心がけるべきだ。
警備についても今後、要請が来るはずだ。
当方から、取締の胸の内、見込み、今後の行動について尋ねたところ、今、迷っており、昨今、考えているが、未だ、見込みがつかないとの返事であった。
皆、どうしたらよいか、迷っているのである。
幕府が、江戸市内の種々の問屋に金を用立てるように命じたのである。
米穀地廻り問屋の約500軒に対して、
10月中に1万5000両(現10億5000万円)、
11月25日までに、5万両(50億円)、
12月15日までに5万両(50億円)を
御用金として上納せよ。
他、材木問屋、炭真木問屋、菜種問屋、酒問屋等に18万両(180億円)を上納するようにと命令を出している。(10月26日)
そこで、右の様に、
それについて、幕府は、御用金を出したものに対して、金札を渡すという触れを出している。
概訳を示す
「大目付に
この度、
御用金を差し出す者どもに、御用金高に応じ、
金札相渡すべきこと。
右 金札の儀は、
来る巳年(明治二年)三月まで都で
通用する。金札に限り、同様に 相心得て、
御年貢そのほかの諸公納に
用いることができるので、
御府内、並びに、関東在方でも差支えなく、
通用致すべき。
尤も、一時の融通のため、通用を仰せ出でられた点については、心得違いをしないように。
引き替えの儀は、来る巳年三月より、三井八郎衛門方に 出向いて、正金銀にして、渡される。
右引替えに附いては、歩合が減る等のことは、一切、無いので、きちんと取締りをするように。
右の趣、関東筋、御領、私領、寺社領などに、漏れなき様に、お触れをだすものである。
右の通り お触れを出すように。
10月20日」
徳川幕府は、何度も、御用金を出させている。これは、徳川家が自分の領地に出すもので、他藩が支配する地には決して出さない。
それで、大阪や江戸の金持ちに出させている。今回も、明治2年になったら返却するというものであるが、これは、返されなかったであろう。
今間の御用金も、無理やり取られて、満足に返却されていないのである。
ここで、三井八郎衛門とは、三井家の惣領が代々名乗った名前である。この時は、8代高福の時代である。
彼は、維新の時代に、幕府、朝廷側にうまく取り入って、更に三井家を大きくしたことで有名である。
第二次長州征伐が終了して、自分らの非力を実感し、延岡藩の近代化を図る必要を痛感している。その一例を示す。
概訳を示す、
「十月八日
松崎牧治は、測量執行を
仰せつけられたので、海軍所に稽古に
出席するように。
然るべくは、
(いきなり)送りつけるというのもあるが、
兼ねて、御触れの趣もあるので、
御願いの面を、御留守居に申しつけた。
海軍お奉行の土岐肥前守様に左の願書と、
並びに、短冊書面三枚で、今季の成願を、
(御留守居の)老之進が持参し、
願書の御取次を以て、差し出した処、
御用人の梅村善之進が、
土岐肥前守様のお書込み小印を押して、
戻ってきた。
外2枚は、肥前守様に御留め置き成られた。
尤も、何日でも、海軍所に来るのは構わないという旨をおっしゃった。
但し、初めて、海軍所に出席する節は、御留守居が同所にて、出欠の手続きをしてから、戻ること。
御書込みの短冊を 持参し差し出されるべきこと」
ここで、松崎牧治は、当時42歳で、今までは、兵学を学んでいたが、ここにきて測量と算術を学ぶことになった。
1)明治大所蔵の延岡藩資料:万覚帳:1-7-155
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