第48話:慶應3年(5)=6月〜8月=幕末の経済混乱と延岡藩や幕府の対策 

No.48> 慶應3年(5)=6月〜8月=幕末の経済特集:延岡藩と幕府の対策

    幕末は、政治面での行き詰まりだけでなく、経済面も混乱しています。
    幕府も、無策ではなく、これに対処しようとしています。古い金貨を新金貨と高率で変換します。
    延岡藩も、財務面でひっ迫し、藩士の給与の半額カットの荒療治をしています。



 
今回のトピックス


   今回は、慶応3年の6月から8月になりますが、特に、経済問題に絞りました。
   幕末は、政治面での行き詰まりだけでなく、経済面も混乱しています。

   幕府も、無策ではなく、これに対処しようとしています。
   古い金貨を新金貨と高率で変換します。

   延岡藩も、財務面でひっ迫し、藩士の給与のを半額カットの荒療治をしています。

                                         (2016.10.20)

     

【1】 幕末の経済面での混乱と対策の必要性:延岡藩と幕府

幕末の中でも、第2次長州征伐後の慶應3年になると、幕府、延岡藩ともに種々の変革が避けられないものとなり、迫ってきた年である。
幕府は、長州に事実上敗北したことから、軍事制度や、幕府の諸体制の大変革に着手している。
また、延岡藩は、経済状態がさらにひっ迫して、節約の大きな変革が進んでいる。
また、兵庫開港が決まり、諸藩に訴えて日本の商品開発を促しもする。

市中に、外国人もふえてきて、トラブルも増えてきた。市中では、物価が高騰し、生活が苦しくなってきて、不穏になってきている。
「ええじゃないか」騒動も、8月ごろから日本各地で起き始める原因が少しづつ、市民生活の中に、育ち始めている。

今回は、明治の新体制になる半年前の幕府側の延岡藩の対応と幕府の経済、貿易などの対策状況を特集する。
この時期、幕府と薩摩は別別に、パリ万博(慶應3年2月末から7か月)に参加している。
幕府側からは、将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武を送り、海外への関心も高まっている。

【2】 延岡藩における経済問題

(1)(延岡藩)延岡藩の藩士への給与減額

延岡藩の財務状況は前回報告した様に、悲惨な状況である。
金食い虫である江戸滞在の藩士を減らすために、多くを延岡に転勤命令をだしている。
そして、残った藩士への給料を減らす策に出た。慶應3年6月18日の日誌を見る。



この概訳を示す>

  「   (慶応3年)6月18日

     この度、厳しき御改革につき、定府(江戸在中)の知行取の面々の、知行扶持(給料の事)を、
   当八月扶持分で七月渡しの分から、此れ以来、差し止められ、知行物成(物で渡す)ことにした。

   値引き率と、差し引いた分については、正米 並びに、代銀で代わりに、御渡し される。

   高扶持取(高給取り)の面々には、正米渡しは、当八月扶持より行い、その渡し方は、御改めがされており、
   然るべき(決まりを)送りつけ、今日、御用部屋を出て、このため、御番頭に左の御書付を 月番が相渡しする。
   ご家中一統に、申し渡しをする為、大目付にも 例の通り、相渡す。


その減給の様子は、種々の武士格ごとに示されているが、その内容が興味深いので、ここで、その一例を示す。



その概訳を示す>

  「  

   知行扶持 当八月扶持は、七月渡しの分、差し止められ、知行物成(物で支給)の、
   御引き方は、差し引きされている内
   正米、並びに、代銀は、左の割合にて 御渡しなされる。

   高百石(の給料をもらっている者)は、これ米百俵であるが、その内、
    45俵を、御引き方(減らす)
     但し、4割5分引き物(45%の給料減である)

   残り、55俵については、外の物成(物で支給する)。
   その渡し高の内、
     24俵は正米で渡す。
       卯の八月より、辰の7月迄 月割で渡す。
       但し、閏月がある場合は、年を13か月で割って渡す。

     31俵分は、代銀渡しをするが、その内
       11俵分は、3月、7月、12月に渡す。 
       この内、5俵分については、卯年12月に、そして、
           3俵分については、辰年3月と7月に渡す。

       20俵分については、月の渡しをするが、その内分けは、
       10俵6分5厘を、卯年8月より辰年6月までに渡す。
         但し、閏月がある年は、右と同様


給料は、45%減額されて、もらうはずの残り55%も、いろいろな制限がついているのである。
ほか、ここでは示さない部分に、銀での支給(代銀)は、その時の相場で計算するとか、休息している武士や、
延岡在住の武士については、65%引きの給料となっている。大幅な給料の減額である。

(2)(延岡藩)道具代を支給する:銀の秤量貨幣の例


延岡から、江戸の勤務になっている武士に、道具代と称する特別手当が出ている。
それも、武士格に応じて異なるが、その一例を示す(慶應3年7月27日)。

 概訳を示す>

  「   (慶応3年)7月27日

   御勘定所より、左の通り、伺い書を差し出し候に付紙をもって、
   指図(サシズ)に及ぶ

      覚え

  1.御納戸御側に対して: 道具代渡し 左の通り
      ただし、勤年計に対して、渡す

   @ 金一分と銀5匁(モンメ=3.75g)5分2厘(=計20.7g) その内分け

      (銀)6匁6分4厘(24. 9g) : 鍋の大小
         1匁1分 (4.1g)   : 行燈(あんどん)1つ
         7匁2分(27g)    : 振桶:1荷椎など
         3匁9分5里(14.8g)  : 手洗の大小
         1匁6分3厘(6.1g)  : 摺鉢摺木(スリバチとスリキ)
             (全量=銀20匁5分2厘) 


  つまり、金1分=銀15匁で計算されていることがわかる。(1両=銀60匁である)

   A 銭壱貫文
      縁付き琉球畳を四畳。ここで、一畳に付き248文(〜3720円) 
          銀1匁3分2厘
        莚(ムシロ)4枚:             1枚に付き3分3厘


ここで、気になるのは、「金1分、5匁5分2厘」という表現である。
1分金を5匁5分2厘」なのか、「1分金と5匁5分2厘」なのかである。
その次の内分けとの計算が合わなければいけない。貨幣を重量で表す場合がある。それを秤量貨幣Mという。
銀貨が主であるが、金貨でも、幕末になると、金の含有率が低くなったことから、貨幣のつぶしでの実質価値が下がり、
それに伴って、重量で取引をしている例がある。

しかし、今回の資料では、「金1分と銀貨5匁5分2厘」と考えなければ説明ができない。
1両を現代の貨幣価値で10万円程度と考えると、銀60匁と等しいのだから、銀20匁5分2厘とは、3万4000円程度になる。
金一分(=1/4両)が2万5000万円であるから、計5万9000円となる。

さらに銭1貫文(=1000文)が与えられているが、幕末時代は、1両が、およそ10貫文にもなっていたといわれるから、
銭1貫文とは、現在の1万円程度である。納戸御側役の武士に対して、道具代として、計7万円程度を支給したことになる。

ついでに、鍋の大小が、6匁64だから、1万1000円程度となるから、安くはないことがわかる。
ここで、「振桶」というのが何の事か不明である。

また、1文という最小単位は、約15円程度になる。わらじが2足で3文というから、1足が、20円程度。
蕎麦1杯が、16文というから、240円程度となる。

(3)(延岡藩)富高が延岡藩に組み入れられる

慶應二年の第二次長州征伐では、九州内の特に北部で、幕府側と長州側の小競り合いが起きている。
また、九州南部には、薩摩藩があり、幕府側から見ると不気味である。

西国郡代窪田治部座衛門が、自分の管轄部が、九州各地に散らばっており、自分で守る自信がないので、
各飛び地をその近隣の諸大名に管轄をお願いしたいと幕府へ願いを差し出した(慶應2年末ごろ)。
例えば、延岡藩の隣の富高陣屋(現日向市)については、延岡藩へ任せたいというのである。その文面を示す。

  「私の出張(デバリ)がある日向国の富高陣屋、附き高が。
   2700石余の儀は、内藤備前守の御領所である同人領分とも間近な場所に付き、
   右の通り、仰せつけられ候ように、仕りたく存じ奉り候。」

というものである。ここで、出張(デバリ)とは、戦いのために他の場所へ出向くこと。
あるいは、本城から離れて設立されている城や砦のことである。現在の会社の出張は、
一種の戦への出陣という意識なので現代につながった意味となっているのであろう。

この話は、延岡藩の家老、原小太郎が、長州征伐以後、情報収集のため、京都に、残留しているが、
そこで幕府老中の板倉伊賀守からの話として延岡藩へ伝えられている(延岡藩記録:慶應3年2月8日)。



概訳を示す>

  「   (慶応3年)8月4日

   会計総裁 松平周防守様に左の通り、お聞きしました。
   御留守居の成瀬老之進が、持参して差出ましたところ、(周防守が)御落手(うけとること)されました。

   西国筋、御郡代の窪田治部左衛門様の御支配所である日向国の村々の備後守の御領地に仰せつけられ、
   非常の節なので、防御筋について、行き届くようにすること。

   京地(=京都)において、御沙汰があったので、御年貢の取立ての他は、総て、私領と同様に処置を仕りたいと、
   先に伺いをたてて、御聞き置きをしていたところ、私領同様の取り扱いに関しては、
   難しいという内容に及ぶ旨を、請書取をもって、御沙汰が下された。

   畏れ奉り候。然る所、この度、御預かりに関しては、非常の時なので、防御筋などのこともあるかもしれないが、
   取扱は、御委任ではないので、不都合のことも、あるだろうという旨も、甚だしく、心痛仕り候。
   この上、(さらに)、嘆願奉るというのは、重々、恐れ入り奉り候えども、出格(破格)の思し召しなので、
   政事向きを以て、仰せつけ下されたことだと考えたいと、備後守は、兼ねて、申しつけておられた。
   よって、例書を相添え、この段、願い奉り候。以上。

      八月四日、 成瀬老之進


ここには、延岡藩は富高について、年貢取り立ては、今まで通り、幕府の代官が行うが、
それ以外は、延岡藩の私領のように支配したい旨を嘆願しているのである。この時点では、幕府側は即答を避けている。

しかし、後日(同年8月18日)、松平周防守から、私領の様な支配は難しいという沙汰がきている。

ここで、会計総裁・松平周防守について、説明したい。
慶喜の時代になると、いろいろな制度改革が行われた中で、五つの総裁が設置された。
海軍総裁、陸軍総裁、海外事務総裁、国内事務総裁、そして、会計を扱う会計総裁である。
初代は、松平周防守泰直(棚倉藩6万石藩主)がついている。
それまでは、老中が月番制度で会計事務を統括していたが、それに変えて、会計の専任老中をおいたのである。

【2】幕府関連

(1)(幕府)新旧の金貨の交換率の通達

同じ、金貨(両、分、朱)でも、時代によって、金の含有率は異なる。現代は、貨幣自体の地金代としては、大した価値のない紙幣でも例えば、
1万円の価値があるが、時代が、不安定になると、金額に見合う貨幣でないと信用がなくなる。
江戸時代でも、時代が下ると、金の含有量が下がってくる。



概訳を示す>

  「   (慶応3年)6月11日

   1昨日 (慶応3年6月)9日のこと
   公儀(幕府)から、左の通り、御触れがあったので、ご家中に伝えるべき。然るべく、命令書を送りつける。
   今日、大目付に、御書付を、渡し、ご家中一統に申し通した。尤も、御勘定所にも御触れの写しを、渡した。

     大目付に

   安政(時代)に、吹立(鋳造)した二分判について、新金との引替(交換)について、いうべきことを、
   去る申年(元治元年=1864年)中に 触れておいたが、兎角(トカク)、引替方(交換率)は、等閑(いい加減にみすごす)に付き、
   向後(今後)、世上(社会)で、通用は停止する。 就いては、引替の為、御手当(手数料)は、100両に対して20両を差し出す。

   天保度(時代)に吹立ちした二朱金の場合は、兼ねて、触れておいたように、世上、通用停止は勿論のこと、
   引替手当に関しても、これまで、100両に対して60両の処を、90両とすることとしたので、右に述べた二分判と二朱金の両様とも、
   所持の者は、早々、引替をすべきである。右様、格別に増歩(増額)したので、速くに、引き替えすべである。

   若し、この上、持貯めていたり、又は、不正の取引をした者がいれば、糾弾して、取り上げた上、きっと、咎めを申しつけるであろう。
   右の趣(内容)の御料(代金)は、お代官や私領は、領主地頭より、漏れなき様に、連絡すべきである。

        六月


これは驚くことである。
その前に、この時代の貨幣を振り返る必要がある。
1両は4分であり、1分は4朱という金貨幣と、銀貨、そして銭という3種類の貨幣があり、その互いの換算率は、時代とともに変化する。

今回の資料で問題になっているのは、金貨である。
1両小判と1分判(=1/4両)は、金含有量は同じ(幕末時代は、56.8%)で、貨幣の重量比も、4:1になって、基軸貨幣である。
これら以外にも金貨はあり、1/2両である二分判や、1/8両である2朱判や1/16両の1朱判がある。

金貨は、時代が下がるにしたがい、金の含有率も変化するが、それ以上に、1枚当たりの重量が減少する。
結果、製造元からすると、金の含有量は少なくて済むようになっている。

逆に言えば、同じ金の量で、多くの金貨が作れることになる。
新しい金貨(新金)を発行すると、金の含有量の多い従来の金貨を回収するのである。
それを使って、新しい金貨にすれば、より多くの貨幣が作れる。

ここで、問題になっている2分判2朱判をみる。
2分判は、慶應3年(1867)の近くでは、7年前の万延元年と安政3年に鋳造が始まっている。
この2期での小判の金含有率は、ともに56.8%であるが、小判の重量(量目)は、9g(安政)、3.3g(万延)と大きく異なっている。



二朱判の最新の鋳造開始年は、万延1年であるが、その前のものは、天保年間である。以下のその2種をまとめた。



さて、今回の資料を見てみよう。
安政時代に鋳造した二分判を近々、使用停止にするので、万延時代の二分判(新金)と交換せよと大衆への命令書であるが、
その時の比率がすごい。

100両持ってくれば、20両を足して、120両の新金と交換するというものである。実際の金量の比を見ると、
安政の二分判は、万延の二分判の1.7倍以上であるから、それでもペイするのである。

また、天保の二朱判を万延二朱判で、今までは、1.6倍で交換していたが、さらに増加(増歩)して、1.9倍で交換するというもの。
金量の比でみると、天保二朱判は、万延二朱判2.9倍近いので、これでも、ペイする。

(2)(幕府)兵庫開港に伴い商社の設立



概訳を示す>

  「   (慶応3年)8月24日

      大目付に

   この度、兵庫開港につき、商社が御開かれることに成ったことに付いては、触通の多免(タメ)に、
   この節より、金札を当分の内、通用を仰せ出でられたので、都で、 通用している金銀同様に心得て、
   御年貢や、そのほかの、諸上納物にも、用いても、苦しからずなので、五畿内の近国共、差し支えなく通用致すべきこと。

   尤も、右札を正金に引替の点については、商社、会所、並びに、商社頭取
   その他の御用達の共方において、引き替えをするように。

   右引替については、歩判の趣など一切、ないので、取締まらないということは、
   此れ無き様。正路(セイロ=正しい方法)で、取引を致すべき事。
   右の趣において、御料は、御貸御領所、私領は、領主地改より、漏れなき様相触れられるべきこと。

   右の通り、相触れられるべき候

       八月   大目付に


幕府が、兵庫開港に伴い、貿易を行う商社を作ったという話である。その資金調達のため。金券を発行したので、
それを、金銀の貨幣と同様の貨幣として、近畿地方で使用してかまわないというものである。

(3)(幕府)外国人対策

当時、一般大衆は、街中を歩いている外国人を見かけると、石を投げつけたり、悪口を言うなどの不法行為をしていたようだ。
このことに、外国から苦情が来て、幕府は、一般人への注意をしているのである。



概訳を示す>

  「   (慶応3年)7月26日

      大目付に

   外国人が、市中を遊歩している時、大衆が、石つぶてを投げたり、その外、不法の事をしかけることがあると聞いている。
   これまでも、度々、触れを出してきた。それについては、不法のことの無いように、とかく、今までの触れの本質を理解して、
   忘れない様にしてほしいが、いまだに、石礫を投げたり、悪口を言うなど粗暴の挙動を致す者もある。

   そのようなことを聞いて、もってのほかである。以後、そのようなことが起きたら、やむを得ず、事情より、外国人達が、必死となり、
   砲を使うことにもなるだろう。そうなると、御国人(日本人)の内でも、不法の所業をしていない者まで、流れ玉に当たり、
   怪我をしてしまうことになり、不容易の事になりかねず、決して、右様のことの無いように、町役人どもに、厳しく申し渡すべきこと。

   若し、いうことを聞かず、石つぶてを投げることがある場合は、今までの触れにある通り、
   無用族(犯人)を 召し捕らえ、その筋に、万ず、差し出す。もし万一、見逃したり、

   又は、等閑(いい加減にすること)に致すようなことが起きた場合は、その取役人などにも、
   きっと、外に申し付けるであろうから、その旨を心得て、末々(スエズエ)に至るまで、心得違いの無いように、厳しく、申しつけ置くべきなり。
   右の趣を、町中に、漏れなく、触れる(知らしめる)べきこと。

   右の通り、触れるので、末々の小者などに至るまで、心得違いの無いように、主人から、きっと、申しつけておくように、
   万石以上、以下の面々に、漏れ無き様に、触れるべきこと。

(4)(幕府)物価高騰、物流監視所設置


同じ慶應3年7月26日の記録に、物流に関する監視所を設置するという記録があった。

概訳を示す>

  「近年、諸国の産物の運送が、差し滞り、物価が騰貴していきて、今までに増して、ますます、国用において、
   不便利に付き、右の取り締まりのため、江戸、大阪両所に、御国(日本)の差し改め所を早速、

   設置することになった旨を知らせるが、大目付中様よりの御廻状がご到来した。
   委細、御触状にある。


幕府による、流通の監視所ができたのであろう。

(5)(幕府)生糸貿易



概訳を示す>

  「   (慶応3年)8月6日

   今朝、大御目付中様(幕府)よりの御廻状ご同席触れを以てご到来した。左の通り。
      大目付に

   生糸改め方の件に付き、去る丑年(慶應1年)12月中に、出した触れもあった。

   万石以上の面々にも、改めて、印を御貸渡しになられたところ、関内の村々での、御料(支払金)は、 
   私領の悉くで、入会い、生産糸が混じってしまい、小領所の分杯(分配)に至っては、御糸代金が、細かく分かれてしまい、
   小分にて、割渡し方をする際、差支えがでてきた。

   当年は、御料を私領生糸ごとに、包み紙の色分けをしてきたが、領分知行の者は、色紙にて、小拾いをすることが難渋いたし、
   御料所に流入するものが、多くなってしまったということを聞いている。

   夫々の人で、そのようになってしまっては、これまた、本来の御趣意に、かなわないことになってしまったので、
   関内の分については、これより、色分けを、止める。

   私領の分も、全て、御料を改め所で、代取り立てをする場合、蚕村もそれに応じて、領分地頭に割合に分けて、渡したけれでも、
   その意を受けて、御国内(日本)を出て、外国行きの分は、改めて、受けとることにすべきことである。

   右の趣で、関八州において、御料は、御代官に、私領では、領主地頭より
   漏れ無き様に、触れられるべき(知らしめるべき)こと。

     八月、

   右の通り、相触れられるべき候。 


関八州とは、相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の8か国をさし、
現在の。ほぼ関東地方になる。

当時の貿易の基本は、生糸と茶を輸出し、綿糸、綿織物、毛織物を輸入するというものだった。
生糸は、輸出の主力品で、特に、上州、甲州、信州、武州、福島などで生産され、開港したばかりの横浜に集められ、世界の輸出されていた。
養蚕農家は、にわか景気に沸いていた。生産も増えてきたが、それ以上に輸出が増えたので、国内に出回る量が半減していた。

江戸の問屋を中心にする流通機構が破たんし、そのため、生糸は高騰してきた。
幕府は、産地から江戸を通過させ、量を制御して、横浜へ運ぼうとしたが、輸出した方が儲かるため、輸送にもいろいろな抜け道が出てきた。
関八州は、天領、旗本領、大名領などが入り乱れていて取り締まりがきつくできない事情があったので、
関八州からの生糸の流通の管理ができていないのである。

このような背景のもと、今回の御触れが出されているのである。
生糸の生産者への支払いも混乱していることがよく見てとれる。 

(6)(幕府)海外留学生募集


幕府は、今後の事を考えると、海外の学問や、商業のやり方を若い人に勉強させる必要を感じている。
そこで、留学する人材を募集している。(慶應3年8月23日)

概訳を示す>

「  (慶応3年)8月23日

   海外諸国に学科修行、又は、商業のため、行きたいと志願の者どもに、
   御免(許可)の印章を渡す件について、

   印章請け取りの時に、当地においては、外国奉行、神奈川、長崎。函館においては、
   その所の奉行に、手数料を納めるべき旨を、
   大お目付中様(幕府)よりの御廻状ご同席触れをもって、ご到来した。

   委細は、御触れ状にある。

【4】 資料

 (1)内藤家資料: 万覚帳:1-7-155
 (2)嘉永明治年間録 


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