今回のトピックス |
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いよいよ、京都で、大きな政治のうねりが始まりました。 今回は、四侯会議をへての朝廷からの兵庫開港と長州の扱いの沙汰書を示します。 延岡藩にも情報がきます。 それだけでは心配です。そこで、京都にも連絡の中心とするため、屋敷の購入をしました。 (2016.9.25) |
前年の12月5日に、慶喜は晴れて、征夷大将軍を宣下されたが、
すぐ後の12月25日に孝明天皇が崩御し、将軍慶喜は最大の
後ろ盾を失った。
慶應3年になると、のちの明治天皇(当時は、睦仁)が、次期天皇となるという践祚の儀式があった(1月9日)。
正月、将軍就任の祝い、孝明天皇崩御の喪、そして、天皇の践祚などの儀式が、あわただしく続いた。
これ以後、日本の政治の中心、正確には、これからの幕府体制、
日本のあるべき姿などを問いつつも、政治の主導を取ろうと駆け引きが盛んになされたのが京都である。
将軍慶喜は、将軍職にある1年を全部、京都で過ごしている。
慶應3年に入ると、まず、倒幕派の急先鋒であった土佐の小松帯刀、薩摩の西郷隆盛と大久保利通は、有志大名の上洛を画策していた。
この有志大名とは、島津久光(薩摩藩=90万石:薩摩藩主の父)、伊達宗徳(宇和島藩=7万石:前藩主)、松平慶永(春嶽)(越前藩=32万石:前藩主)、山之内豊重(土佐藩=24万石:前藩主)である。
大藩という選び方でもない。特に、伊達宗徳は、10万石以下である。
伊達といえば、本家にあたる仙台藩(伊達藩)は、60万石であり、最大の加賀藩は100万石であるが、これら大藩も、今回の雄藩の中に入っていない。
薩摩藩、宇和島藩は、外様であるが、越前藩は、徳川家の親戚筋であり、土佐藩は幕府への恩顧を感じている藩である。
1月から3月にかけて、西郷たちは、この土佐や宇和島を頻繁に訪れている。
当時、反幕府側は、穏やかな大政奉還を前提として、一種の議会制政治の様な公儀政体を考えていた。
この時期、幕府側には、大きな問題が2つあった。
一つは、長州藩の復権を認めることであり、もう一つは、兵庫(現神戸)開港の問題である。
特に兵庫開港の問題は、緊急でかつ深刻であった。
安政時代に、幕府は、しかし、孝明天皇が京都に近い兵庫の開港をきつく反対していたので、
幕府は、文久遣欧使節を派遣して、英国とのロンドン覚書により、兵庫開港を5年延期をして、1868年1月1日(慶應3年12月7日)に開港する手順にした。
開港期日が迫り、実際に開港するためには、6か月前に各国に正式に布告をしなければならない。
6か月前とは、6月7日である。幕府は、これまでに朝廷の勅許をえなければならない。
3月には、慶喜は、英仏蘭米4か国の大使を大阪状に招き、兵庫開港を約束した。既に、国家元首として大見えをきっているのである。
ところが、孝明天皇によって、兵庫開港だけは、禁止され、そのまま、天皇が崩御した。
いわば、遺言の様なもので、簡単にこれを認めるわけにはいかない状況である。
幕府単独では、朝廷を説得できないと判断して、慶喜は、諸藩を上洛させ、数の力で朝廷に圧力をかけることを考えた。
慶喜は、2月19日、9藩に対して、兵庫開港に関して意見を求め、併せて藩主の上洛を要請した。
9藩とは、先の4藩である薩摩、土佐、宇和島、越前にほかに、尾張、紀州、因幡、肥前、肥後である。
慶喜は、彼らの奉書に上書きして、兵庫開港の勅許を要請したが、朝廷での廷臣会議の結果、3月19日に、兵庫開港を不許可の決定を出した。
そこで、慶喜は、再度、3月22日に勅許を要請した。
朝廷は、態度を保留する中、慶喜は、25藩に対し、兵庫開港の可否を諮問し、藩主の上洛を求めた。
その中で、先の4藩主がようやく上洛し、四侯会議を開いている。また、5月14日、4藩主がそろって、二条城の慶喜を訪ねた。
ここで、慶喜は兵庫開港に関して、諸侯の意見を聞いて、朝廷に勅許を求めるつもりであること、そして、長州に関しては、寛大な処置を考えていることを告げている。
いずれも、4藩主に依存はなかったはずであるが、長州藩の復権に関して細かいところで、慶喜と薩摩の意見が合わなかった。
慶喜の朝廷に対する強引な説得により、長州藩の復権のあいまいなまま、兵庫開港の勅許が出た。5月24日の事である。
そして、朝廷から沙汰書が出ている。
いわば、4侯を利用して、慶喜は、兵庫開港にこぎつけた。4侯はコケにされたのである。
4侯の慶喜への信頼の気持ちが切れた瞬間でもあった。これを境に、薩摩藩を中心に、倒幕の流れができた。
歴史上の大事な事件であった。
この直後から、土佐の後藤象二郎を中心の「公議政体派」と、薩摩の討幕派が異夢同床ともいうべき提携をして、大政奉還へ流れ込んでいくことになる。
概訳を示す>
「今日の下刻、牧野備前守(長岡藩)様衆からの御廻状が
ご到来した。左の通り。
1.兵庫 停められること
1.条約の決定に至ること
右取り消しの事。
兵庫開港のこと、元来、不容易なことで,殊に、
先帝(孝明天皇)が、止め為されていたが、
大樹(征夷大将軍のこと)から 余儀なく(しかたなく)、
時勢(を考えて) 言上した。
且つ、諸藩からの建白の趣もある。
当節、上京している四藩も、同様に申し上げたので、
(朝廷は)誠に、止めることができないで、
御差し許しとなった。
ついては、諸事 きっと、取り締まりを すること。
兵庫、開港の儀に付き、別紙の通り、
御所(朝廷)より 申し越してきたので、
この段を 心得て、連絡するものである。」
<注>
朝廷での会議には、幕府側からは、慶喜の外、松平春嶽、京都所司代である松平定敬、
それに、2人の老中(稲葉正邦、板倉勝静)が出席した。伊達宗城も途中から参内している。
島津久光は、病気を理由に欠席している。
慶喜は、春嶽や宗城の長州藩の問題を先に議論しようという発言を封じて、強引に、兵庫開港を迫り、遂に、勅許をえることに成功した(5月24日)。
幕府経由で延岡藩に示された今回の内容は、朝廷からの沙汰書である。
兵庫開港に関しては、大樹(征夷大将軍=慶喜の事)や、諸藩、そして、四藩からも、やむを得ないから許可するようにという建白があったので、仕方なく、朝廷は許可するというもの。
もう一つの大きな話題である長州については、寛大にすることというあいまいな話で済んでいる。
この沙汰書は、翌5月25日に、関係者に兵庫開港と長州藩の儀が書面2通の形で示された。
この朝廷の沙汰書をみて、薩摩藩は激怒し、家老の小松帯刀と大久保一蔵が伊達宗之の屋敷に赴き、朝廷に伺い書を出すことを主張して、
結局、四藩の連名で、朝廷に伺い書を出して、沙汰書への不満をのべたが、それは、幕府、つまり慶喜への抗議である。
その抗議書の一部示す。幕府への不満が満ちている。
「全体、幕府、防長再討の妄挙、無名の師を動かし、兵威を以て圧倒致すべき心積もりに候処、
まったく功を奏するに至らず、天下の騒乱を引き出し候次第ゆえ、各藩人心離叛、物議相起こる時宜に候。」
以下、長州藩の復権を要請している。
概訳を示す>
「六月四日
大御目付中様(幕府)よりの御廻状が ご到来した。
左の通り。
大目付に
長防(長州藩の事)の御処置の儀に付き、別紙の通り。
御所(朝廷)より、仰せ出でられた。
尤も、お聞き置きの上で後に、
仰せ出でられるべきであるが、
先ず、この段を、連絡するものである。
右の趣は、去る月二十五日(5月25日)に、京地で、
仰せ出でられたものなので、
万石以上、以下の面々、残らず様、
達せられるべきものである。
長防(長州藩)の儀は、昨年、上京の諸藩、
(および) 当年に、上京の四藩から、(長州藩については)
各寛大の処置が取られるべきであるという御沙汰が言上された。
この上、大樹(征夷大将軍=慶喜)に於いても、寛大の処置の言上があった。
朝延も、同様に 思し食(おぼしめす)されたので、(幕府に対して)、
早早に、寛大の処置を取り計らうべき事」
長州に対しては、寛大に取り扱うことという内容が、朝廷から出されたが、
長州藩の復権、藩主の官位を戻すなどの具体的な処置がなかった。
この点が、この沙汰書を読んで、四侯が失望した点である。
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