第46話:慶應3年(3)=2月〜4月の江戸屋敷=財務状態ひっ迫に付き給与カットと延岡への転勤命令 

No.46> 慶應3年(3)=財務状態ひっ迫に付き給与カットと延岡への転勤命令

    慶応3年2月〜4月: 厳しい財務状態のため大幅給与カットと多くの江戸詰め藩士に延岡への転勤命令が出た



 
今回のトピックス


    いよいよ、江戸幕府が終焉を迎えるための大きな動きが起きる慶應3年がはじまりました。
    慶應3年2月〜4月:長州征伐の後の延岡藩は、いよいよ財政面が厳しくなってきました。

    金のかかる江戸詰めの多くの藩士を家族同伴で、延岡に返します。
    しかし、拒否する人も出てきました。
                                         (2016.8.31)

         

【1】 慶應3年2月〜3月の時代背景


最後の将軍である慶喜が、年末の10月に大政奉還を発表する慶應3年は、事実上の江戸幕府が終了する年である。
この大きな時代の変換の裏側では、薩長を中心とする雄藩と連携する朝廷側と幕府側が京都でしのぎを削る年である。

将軍慶喜は、大阪と京都に在住し、江戸には帰ってこない。
雄藩の大名も自国に帰っている。延岡藩の藩主も延岡に帰っている。

政治の中心は完全に京都に移っており、江戸城内の儀式も将軍なしなので、簡略化されている。
今回は、慶應3年の2月から4月の延岡藩の江戸屋敷の様子を送る。

延岡藩では、1年以上に及んだ昨年の第2次長州征伐で、財政状態は火の車なので、金喰い虫の江戸屋敷の人員削減を行い、
妻同伴での延岡転勤命令がたくさん出ている。

前年から歴史の流れを見直してみよう。
慶應2年、長州征伐のため親征していた将軍家茂が長州との
戦闘開始直後の7月20日に大阪城で死去したが、
後継者が指名されていなかったこともあり、
将軍の死去は、1か月伏せられていた。

その間に、慶喜が、将軍就任は固辞していたものの、
徳川宗家だけは相続している(7月30日)。
幕府側は、家茂の死去を発表(8月20日)すると同時に、長州側と停戦の交渉に入っている。

9月に入ると、幕府側の各藩は、撤兵をはじめ、延岡藩も、藩主他、多くの藩兵が、延岡に帰国している。
12月になると、慶喜が征夷大将軍を引きうけたが、
慶喜の最大の味方ともいうべき孝明天皇が、不思議な死因で崩御している(慶應2年12月25日)。

慶應3年の正月は、天皇の崩御に伴う喪中で、音楽や普請が禁止され、重苦しく開けていった。
慶應3年1月9日に、皇太子であった満14歳の睦仁(後の明治天皇)が、天皇を継ぐ儀式(践祚(センソ))を行っている。
慶應4年(明治元年)の1月15日に元服の儀式の後、8月27日に即位の礼を行い、正式に、明治天皇を名乗る。

慶應3年から慶應4年は、新天皇になっているが、元号は慶應のままなのである。
天皇の代ごとに年号を変えるのは(1世1元)、明治時代に初めて決められたものである。
第二次長州征伐終了後、藩主等が、延岡に帰国する一方で、
延岡藩最大の智謀者である原小太郎(家老格)は、慶應3年になっても京都や大阪に留まり、
情報収集を続けて、延岡城や江戸藩邸に情報を送り続けている。

【2】 将軍情報


この時期に、延岡藩をはじめ、各藩の江戸藩邸に幕府経由で知らされる京都や、将軍の情報は、極めて限定的である。
ほぼ10日に一度のペースで、以下の例に示すように手短な情報しか伝えられない。

概訳を示す:
  「慶應3年2月19日

   上様、去る(2月)八日 大阪のお城を御発途になり、淀(川)を通り、
   同日、京師の御旅籠に還御(尊き人が帰ること)遊ばされました。

   且つ、また 大行天皇(後注を参照)の御法事に付き、御香典、献備の儀は、
   四品以上(後注)、並びに、十万石以上の面々共、当節の御国事が、
   多端(あれこれ問題が多いこと)の折柄、

   無益の入費が相掛り、戦儀を為すべきこともあるので、
   銘々(の国)の使者は、(京都に)差し登ってくる必要はありません。

   御香典 献備の儀 同席は、内にて、使者は 兼ねるに、必要はない。
   尤も、当節、使者は、出発しているだろう。
   それは、右使者を以て、献備、致すべきことという、
   大お目付中様(幕府のお目付)よりの御廻状が ご到来した


今回は、難しい言葉が多いので解説したい。

1)大行天皇: 天皇が崩御(死去)した後、追号が贈られるまでの呼称。
    このとき、孝明天皇が崩御して、その皇太子睦仁が天皇を引き継いだ(践祚=センソ)が、まだ、即位式を行っていない。

2)四品(シホン)以上: 江戸幕府は、禁中武家公家諸法度を定めて、公家、武家の家格を決めた。
    武家は、公家とは別の官位を定めた。大名のほとんどは、従五位下であるが、例外的に、松平家などが四位以上が与えられた。
    それ等の大名を四品以上という。

【3】 延岡藩の財務状態と大量の藩士の延岡への転勤命令

(1)序

長州征伐のための延岡藩の出兵は、1年以上に及び、それも、ほとんどの期間は、物価高騰する大阪滞在で過ごしている。
延岡藩では、この出兵でますます財政が苦しくなっている(“御勝手向き御難渋“)。

御金配りができないので、知行高、扶持、代銀、穀切米の分の半分だけを渡すという通達も出ている。
出兵した兵士へ慰労金を与える一方で、幹部からは、知行の返上が行われている。

面白いことに、家老格で隠居している2名、穂鷹亭之と原佐殿助に、まず、今までの勤めごくろうということで、
隠居料としてそれぞれに、150石、100石を授け、加判の列(家老格)を授ける旨を告げている。

そして、後日、当人たちより、向こう3年間、知行のすべてを辞退したいという願いが出てそれを認めるという形をとっている。
3年間の禄を返上するかわりに、3年後にもっと多くの禄を出すという裏で約束をしたのであろう。

(2)延岡藩の厳しい財務状態


概訳を示す。

  「御勝手向き(財務状況の事)は、 累年、御難渋の処、
   通年餘時に、御物入りに対して、対処をしてきたが、
   一昨年よりの莫大な御入費によって、
   差湊(サシツドウ=停滞)した。

   これ復、如何様な形勢になるかは、計りがたく、
   就いては、
   御備え向き(蓄え)なども、ありませんので、
   難しくなってきました。

   これまでとても、
   かつ、御融通をして、御差配をしてきましたが、
   御在所表(延岡)では、
   度々、(お金の)調達を、仰せつけられた。

   (延岡藩の一統が、疲弊してしまい、為替などを早放も 
   取兼ねて、時勢につれ、御融通も差急にしたが、
   御廻金の見当も、更に、これ無く、
   実に、御大切の御場合(深刻な局面)が迫り、

   よんどころなく、
   定府(江戸在住の)人数を減らし、なおまた、御省思召しを尽くされたので、
   役向きによっては、兼務も、不時の御雇勤めなどを仰せつけることで対処できることもあるだろうと、
   (殿様が)仰せいでられました。

   然るべきことつき、左の通り、 口演書を、今夕に、御側役の沢野幸兵衛や、(家老の)内蔵進も、
   開いて、相渡し、出席者が、順々に伝えた。
   お番頭の相木森之助儀も拓いて、口演で渡し、表方の面々にも、申し通す様に申しつけた。
   但し、口演書の様に、御医師など書面のこれ無き分は、大目付より申し通す。


状況のひっ迫度がわかる。

また、家老家の隠居である穂鷹亭之と原佐殿助は、禄の返上を願い出ている。
先にも書いたように、この直前に、150石の加増の通知が出ているのである。

    「3年後には、もっと多く上げるから、3年間は、禄なしで我慢してね
という裏取引があったと予想できる。

(穂鷹からの知行返上の願い)
  「勝手向き、必至の難渋に付き、この節、頂くはずの知行を三カ年分、
   残らず、差し出したく、内願の趣の許容を乞い願います


一般藩士には、給与の実質半減の通達が出ている。
  「御勝手向き、御難渋にて、御金配ができないので、知行高、扶持、代銀、穀切米の分は、
   半方(半分)だけお渡しになるという通達があった。
   本渡し(全部渡し)は、できないと御勝手方の七府左衛門より通達があった

(3)転勤命令


第二次長州征伐後、延岡藩に限らないだろうが、延岡藩では、財務状態がひっ迫しており、再建策が必須である。
そこで、金食い虫の江戸藩邸を簡略化して、多くの藩士を延岡へ返すことにしている。
藩士の中には、家族も江戸にいるものもいるが、家族連れでの転勤命令が出ている。その一つを示す。

  訳>
   千早豊
   其の方儀、この度、延岡の勝手に仰せつけられたので、
   仕度が済み次第、家族を同道して、行くように。
   ただし、入れ替え(引き継ぎ)の儀については、延岡で、改めて、言われるだろう。


大人数が家族連れで延岡勤務になるのである。
その際の引っ越し荷物については、船便で運ぶので、荷物ごとに値段が提示されている。
下に、その一例を示す。

例えば、最初の「長持」の1棹(サオ)の場合、2分2朱(現在の貨幣価値で5万円ほど)の輸送費になる。
輸送費の参考になるかもしれないので、値段表の一部を示す。

以下、箪笥(1分=2万5000円)、男箪笥(3朱=1万8000円)、櫃(2朱=1万2000円)、
葛籠(つづらこ:2朱)、四斗樽(1朱=6000円)、大たらい(200文=5000円)
などが続く。
引っ越しの時の家財道具が見えてきて面白い。

現地で新たに購入するより、輸送費を出した方が安価なはずだから、当時のこれらの家財道具の価格相場がわかる。
意外に高そうである。


(4)転勤拒否騒ぎ


この大移動で面白い事件が延岡藩で起きている。
延岡藩の御留守居をやっていた渡辺平兵衛という人物がいた。

御留守居というのは、江戸藩邸の総務部長の様な要職で、他の藩や、江戸幕府との外部交渉を行い、
その際のしきたりに詳しい人物で、余人に代えがたい人物である。

彼は、有能な人物なので、慶應2年末段階で延岡の勝手(財務担当)への転勤命令が出ていたが、
延岡への転勤拒否をしていたようだ。

当時、江戸屋敷には、藩主も家老格の人物も、長州征伐の軍に同行して、そのまま延岡に帰っていたので、不在であった。
御留守居以上の地位のものがいないこともあって、決断できないで、慶應3年3月になってしまった。

江戸にいる諸藩の御留守居仲間からの渡辺平兵衛への転勤命令解消の嘆願書が延岡藩邸に届いている。
その署名している御留守居は、出羽山城守、諏訪周防守、松平遠江守、脇坂佐渡守、等々錚々たる46藩の御留守居の連名になっている。

江戸時代でもこういうことがあったというのは意外な気がする。延岡がよほど嫌いだったのか?

当時の江戸藩邸の連中では判断できないので、延岡から家老の穂鷹内蔵進が江戸に到着して決断している。
わがままを許さず、延岡への転勤命令と、今までの格も下げられている。

概訳を示す。

  「渡辺平兵衛

   延岡に出立致し候に付き、御留守居、兼ねていたので下されていた、
   御役の扶持である五人扶持、並びに、御手当金12両を差し止められ候。

【4】 延岡藩の財務状態



慶應2年の延岡藩の財務状況を調べた。長州征伐の直前であるが、それでも大きな借金でくるしんでいる。
慶應2年時の借金は、全部で、約80万両(現在の貨幣価値では、800億円になる)になっている。

その借金の内訳を、事業所ごとにみると、
江戸屋敷が、約42万両(同20億円)、大阪屋敷が約26万両(同260億円)、延岡約10万両(同100億円)になっている。

この借金の大きは、延岡藩の収入規模を見ると、その深刻さがわかる。

慶應2年の場合、延岡藩の収入は、約10万両(100億円)に対し、支出は、12万両強(120億円)となり、年間でもすでに赤字なのである。

そして、支出の内、藩士のへの給料分が2万5000両(同25億円:全収入の24%に相当)
そして、借金返済分が、4万5000両(同45億円:全収入の43%)となっている。

現在の日本財政を見る様で、とても他人ごとではないほど悲惨である。
慶應3年は、長州征伐の後なので、さらにひっ迫しているはずである。

【5】 その他=延岡藩拡大のニュース=富高も延岡藩帰属へ

京都に出張していた家老の原小太郎から、重要な情報が、
大至急の飛脚(正6日切)によって江戸に届いている(慶應3年2月4日)。

将軍慶喜に付き添っている老中の板倉伊賀守から、
延岡藩の隣の富高(現日向市:当時は、幕府直轄領)を防衛上の問題から延岡藩に任せるという。
富高は、代官(西国筋郡代 産田佐部座衛門)がいるだけのところである。

富高のどれだけが延岡に編入されるという話になっているのかは不明であるが、
1万石近くが延岡藩に加わるというのだから、それは重大ニュースである。
しかし、その後、その話が現実になった気配はない。

【6】 資料

 (1)内藤家資料: 万覚帳:1-7-155
 (2)渡辺隆喜 著 :「幕末期における延岡藩財政の特質」






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