第45話:延岡藩の持ち場で町人の変死:延岡藩は幕府に対応の指示を仰いでいる:慶應3年1月 

No.45> 延岡藩の持ち場で町人の変死:延岡藩は幕府に対応の指示を仰ぐ:慶應3年1月

    慶応3年1月:延岡藩の持ち場内での町人の溺死:幕府を巻き込んでの面倒な事務処理の例を紹介する。



 
今回のトピックス


    いよいよ、江戸幕府が終焉を迎えるための大きな動きが起きる慶應3年がはじまる。
    延岡藩の持ち場で町人の溺死があった。一見小さな事件にみえるが、幕府まで巻き込んでの大騒ぎになる。

    江戸幕府体制の中では、町人がらみでも事件処理は意外に面倒である。
    今回の事件は、格好の例となる。
                                         (2016.7.26)

         

【1】 序

本舞台の慶應3年は、翌年慶應4年が、明治元年となる年であるから、事実上の江戸時代最後の年である。
前年、第2次長州征伐が、外見上は、将軍家茂の急逝で、停戦という形をとったが、徳川政権の事実上の敗北であった。
しかも、最後の将軍、慶喜は、江戸城には現れず、京都に滞在のまま、会津藩、桑名藩と京都政権を作っている。

徳川政権の瓦解の年を、月を追って、時代の変遷を味わっていこうという趣旨のシリーズである。

今回は、延岡藩の虎ノ門にある上屋敷前の堀に、町人の死体が見つかったという騒動である。
歴史の変動には、まったく関係のない小さな出来事であるが、まだ時代が激動するという実感のない江戸藩邸では、
大きな事件である。徳川時代では、1町人の溺死も、大変面倒な事件なのである。意外な事実をしることになる。

【2】 慶應3年(1867年)正月9日

(1)延岡藩上屋敷の周り

 
図1)現在の虎ノ門付近  図2)幕末の虎ノ門付近地図


当レポート、第1〜3回で触れたことであるが、以前のレポートに行ったり来たりでは、面倒だろうから、ここでも、簡単にふれておく。
延岡藩の上屋敷は、現在の虎ノ門の文部省特許庁の付近にあった。今も、堀の石垣の一部を見ることができる。

現在は、埋め立てられて跡形もないが、外堀が、延岡藩の上屋敷の南側と東側を囲むようにめぐっていた。
第一図に現代の虎ノ門付近とかっての延岡藩の上屋敷と外堀の位置を書き加えたものを示す。

第2図に、江戸末期の上屋敷付近の地図(切絵図)を示す。

この図に、1,2,3で示したものは、延岡藩上屋敷近辺の辻番所(今回の報告に関係する)である。

第三図に、延岡藩上屋敷付近を描いた浮世絵(正確には泥絵)を示す。
この図には、辻番所―1、辻番所―2も描かれている。

この図に描かれていない手前の部分に、丸亀藩京極家の上屋敷とその敷地内にあった金刀比羅宮所が位置している。

辻番所について説明しておく必要がある。辻番所については、当レポートの25報で詳しく触れている。ここでは、少し重複するが、お許し願う。

江戸の町のいたるところに、今でいう「交番」の様なものが、あった。
江戸庶民の街中には、町奉行の管轄下に「自身番」があった。庶民の住宅である長屋には、「木戸番」があった。
そして、藩邸が立ち並ぶ地域には、「辻番所」があった。

浮世絵に示すように、近い間隔で設置されている。近所の、いくつかの藩邸が、組合を作り、日割り交代で担当している。
それを、「日割組合辻番」と言った。

(1)慶應3年1月9日の日誌

日誌には、浮世絵に示された外堀の中の右の方で、見るからに町人男の浮き死骸が見つかったことが記されている。
このありそうな事故、事件に対し、延岡藩はどのように対処しなければいけなかったか。

それは、延岡藩だけではなく、同じような事件が起きたら、各藩とも同じような対処をしていた。
意外に、大変なことなのである。江戸時代の事件対処の仕組みがわかる貴重な資料である。



まず、概訳を示す。

 「正月九日

 1.今朝、六時過ぎ、(延岡藩の)大目付、神山新左衛門より、報告があり、虎の御門の外、
   日割り辻番所より、東の方、80間程先の御堀川に、浮き死骸躰の者が、見えたという報告があったので、
   御徒目付が,聞いて、御留守居に、報告した。

   御徒目付の、芳賀伝次を、早速、差し出し 見分させたところ、
   死人に相違ないという趣旨の報告があった。

   したがって、番人を、附け置いて、(幕府の)御目付の、新見相模守様に、このような届け書を、
   (延岡藩の)御留守居の、添役で仮役の、渡辺 伝が 持参して、差し出した。

     御当番中に付き、早速、お城(江戸城)に報告したところ、御用人の古橋荷平が、まず、聞いて、御見分を、
   そこそこして、済んだ。時刻などについては、わからないと挨拶で申し上げた。
   いづれ、今日中に、(もう一度)来るという話を聞いた。

   虎御門の外、京極佐渡守様、本多肥後守様、内藤備後守の(3者で担当する)日割り組合番所で、
   延岡藩の持ち場である御堀川に、浮き死骸躰の者が見えたと報告があった。

   今朝、六時過ぎに、番人が申し出できたので、さっそく、役人を差し出し、様子を見分したところ、
   これに相違無いので、入念に、番人を附け置いて、この段を、幕府で報告申し上げた。以上。

        正月九日 日割り当番 お届け家来 渡辺伝

  1.右に付き、建番足軽の差配名を、大目付に申し渡す。
  1.右に付き、今日、検使の時に、出役の者、出役など廻り、差配することを、各自に申しつける。

        御留守居 大目付 御作事奉行(延岡藩)
 」

この事件は、延岡藩の担当日の辻番所近くで、しかも、この堀は、延岡藩の「持ち場」(担当する地域)であったから、
延岡藩が処理する必要がでてきた。この辻番所は、延岡藩内藤備後守丸亀藩京極佐渡守(5万石)、本多肥後守が持ち回りで担当していたようだ。
今回の辻番所は、文脈から、図中、辻番所-2であろう。

まず事件は、朝6時すぎ、延岡藩の担当する辻番所の80間(約144m)ほど東の方の(延岡藩の持ち場である)堀の中に死がいがあると、
辻番所の延岡藩士4人から、延岡藩の大目付:神山新左エ門に連絡が入り、御留守居に連絡すると同時に、
担当である(延岡藩の)目付:芳賀伝次が見分をし、そこに番人を張り付けた。

御留守居代理(添え役仮役)の渡辺 伝が、江戸城に報告に行き、御用人の古橋荷平に報告し、
犠牲者がいつ、どこから来たかなどは不明であることを報告した。そして、正式に、幕府の御目付へ報告書を提出した。

(2)徳川幕府からの指示

幕府から御小人(おこびと)、目付番人黒鍬方(くろくわがた)が、(延岡藩の)芳賀伝次や辻番4人から事情聴取をした(口書をとる)。
延岡藩の関係者は、見分をし、見張り番を置いて、その他は一切、かかわっていない旨を伝えた。

そして、御目付からの指示として、今日より、3日間、死骸を晒しておきて、関係者が申し出てくるか待つように。
そして、誰も申し出てこない場合は、もとより、幕府の御目付中様(中様=幕府内であることを示す)に伺いを立てること。
多分、辻番所に死がいを置いて、通行人に、誰か心当たりの者はいないかと見せたのであろう。

(3)慶應3年1月12日

昨11日まで、晒しておいたが、誰も身寄りが名乗り出てこなかったという報告が辻番所からあった。
それで、延岡藩の御留守居が持参し幕府の御目付の新見相模守に今後、どうすべきかと伺い書を出し、お指図を願った。

その結果、12日の八半時に、御当番御目付の松平左金吾からの使いとして、
御小人目付(おこびとめつけ)の堀井釟太郎が、黒鍬の者を引き連れて、新見相模守様の指示を差し出した。

それによると、死骸を桶に入れ、寺に持っていくこと。そのうえ、七日間、身寄りの届け出があるのを待つこと。
それまで、念を入れて、置いておくようにとのことであった。

それで、死骸は、(葬儀屋)相田屋半兵衛に一切を請け負わせて、麻布の宮村町の専懴寺に送った。
そして、延岡藩から中間である佐藤新五郎を一人、附けた。そして、専懴寺から、日にちを待って、葬儀をする旨の約束の一札を入れさせた。
町人一人が堀に落ちて死んだというだけなのに、幕府の判断を仰ぎ、これだけ丁重に、身寄りの登場を待っていたのである。

注>
@松平左金吾という目付は、第2次長州征伐時、老中小笠原長行に従って、小倉城に詰めていたという記録がある。

A新見(しんみ)相模守:父は、三浦義韶の次男房次郎が新見家に養子に入った新見正興(豊前守)である。
彼は、外国奉行になり、トップ格の正使として、米国に派遣されている(万延元年遣米使節=1861年)。
このとき同伴した小栗忠順(ただまさ)は、第3位の格の監察であった。
正興は、最後には、御側衆となり、旗本としては最高位(役高〜5000石級)に出世している。

その息子が、今回の相模守を名乗る、新見正典(1834〜1890)である。
この事件の時は、慶喜についており、京都に滞在中のはずである。慶應3年11月に江戸にもどっている。

【2】幕府組織と、お目付は?


今回の堀に町人の死骸が浮いていたという事件で、延岡藩は、幕府の目付へ報告している。目付の仕事は一体何か。
文中にでてくる、大目付という職制は、幕府の組織を習って作っている延岡藩の中の組織であり、幕府側の人間ではない。

今回出てくる幕府側の組織は、目付である。幕府の組織中、右図に示すように、将軍の次に来るのは、老中、若年寄りなどである。
幕府の大目付は、老中に属し、目付は、若年寄に属している。紛らわしい構造である。

大目付は、大名、高家、朝廷を監視(目付)するのがもともとの仕事である。3000石から5000石の旗本の上級の者がつく職である。
在位中は、大名と同じように、「○○守」の官位が与えられる。

他方、目付は、若年寄りに属し、大名の登城の際の監視や、幕府役人の監視、スパイ活動が主である。
目付の役高は、1000石級である。幕府組織の中の出世コースである。

実際に働くのは、その下に属する「徒(かち)目付」(:トップの頭でも役高〜100俵)や、
その下の、小人(こびと)、中間(ちゅうげん)、黒鍬者(くろくわもの)である。今回の報告に出てくる諸人である。

今回の事件は、結果、町人の溺死であるが、もしかしたら、薩摩、長州などの武士の暗躍ではないかと疑った結果、目付がしつこく出てきたのであろう。

今回出てきた職種に、黒鍬者というのがあるが、それは、目付の下にあり、名前の通り、土方的仕事をしていた。 その長である黒鍬頭でも、役高100俵(3〜4人扶持程度)で、御家人の最下級の扱いである。

【3】資料

1)延岡藩資料:万覚帳=1-7-155




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