今回のトピックス |
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歴史上では、江戸幕府終焉の最後の大きな転換点となる慶應3年が、孝明天皇の崩御報告で始まる。 延岡藩邸では、歴史のうねりは実感していないが、不穏な始まりは実感している。 まずは、新年の儀式と喪のしきたりの先例をさがしている。 (2016.6.19) |
慶應2年には、第2次長州征伐で幕府軍が大挙して長州を4方向から攻めたが、実質、幕府軍の完敗であった。
幕府側総大将の将軍家茂が大阪城で死亡したため、休戦の体裁は取った。
一橋慶喜が徳川宗家を継ぐが、征夷大将軍の座はしばらく、固辞したが、結局、慶應2年の12月5日に将軍も引き受けている。
その20日後に、孝明天皇が急逝した。ここで、倒幕へと歴史の歯車が決定的に違う方向へ回り出した。右にこの時期の年表を示す。
この時代は、天皇を中心に置くことは変わらないが、朝廷と幕府が提携すべきという考え(公武合体)と調停を中心に外国を討つという考え(尊王攘夷)があった。
孝明天皇は、この2つの考えの中心にあった。
薩摩、長州が、実際に外国船排斥の攻撃をしたが、逆に破れてしまい、日本の現状の力を思い知らされて、
薩長から尊王攘夷の考えが消えると同時に、倒幕に方針が変わっていく時代である。
第二次長州征伐の半年前の慶應2年の1月には、薩長連合が成立し、反幕府への体制を作っていた。
慶應3年に入ると、4月には、坂本龍馬の亀山社中は「海援隊」となり、
5月には、土佐の乾退助と中岡慎太郎、薩摩の小松帯刀と西郷隆盛が京で会合し、倒幕挙兵の密約をかわし、
6月に薩摩―土佐の連合が成立している。7月には、土佐の後藤象二郎が大政奉還建白書の案を作っている。
慶應3年は、幕府倒壊の最後の詰めが行われた年である。
一方、将軍慶喜は、一橋―会津―桑名の連合政権を京都に構成しており、幕府とも違った権力ができていた。
しかし、それは、実力に裏打ちされたものではなく、幻想の政権であった。
しかし、幕府中枢や、延岡藩では、その地面が大きく動いている感覚はなく、慶應3年の正月を、平穏に迎えていた。
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