第44話:慶応3年正月:孝明天皇の崩御と明治天皇即位の知らせが江戸に到着 

No.44> 慶応3年正月:孝明天皇の崩御と明治天皇即位の知らせが江戸に到着

    不穏の慶應3年が始まる。江戸屋敷では、年始のしきたりと喪中のしきたりで混乱である。



 
今回のトピックス


    歴史上では、江戸幕府終焉の最後の大きな転換点となる慶應3年が、孝明天皇の崩御報告で始まる。
    延岡藩邸では、歴史のうねりは実感していないが、不穏な始まりは実感している。
    まずは、新年の儀式と喪のしきたりの先例をさがしている。
                                         (2016.6.19)

         

【1】 慶應3年の歴史背景

慶應2年には、第2次長州征伐で幕府軍が大挙して長州を4方向から攻めたが、実質、幕府軍の完敗であった。
幕府側総大将の将軍家茂が大阪城で死亡したため、休戦の体裁は取った。

一橋慶喜が徳川宗家を継ぐが、征夷大将軍の座はしばらく、固辞したが、結局、慶應2年の12月5日に将軍も引き受けている。
その20日後に、孝明天皇が急逝した。ここで、倒幕へと歴史の歯車が決定的に違う方向へ回り出した。右にこの時期の年表を示す。

この時代は、天皇を中心に置くことは変わらないが、朝廷と幕府が提携すべきという考え(公武合体)と調停を中心に外国を討つという考え(尊王攘夷)があった。
孝明天皇は、この2つの考えの中心にあった。

薩摩、長州が、実際に外国船排斥の攻撃をしたが、逆に破れてしまい、日本の現状の力を思い知らされて、
薩長から尊王攘夷の考えが消えると同時に、倒幕に方針が変わっていく時代である。

第二次長州征伐の半年前の慶應2年の1月には、薩長連合が成立し、反幕府への体制を作っていた。
慶應3年に入ると、4月には、坂本龍馬の亀山社中は「海援隊」となり、
5月には、土佐の乾退助と中岡慎太郎、薩摩の小松帯刀と西郷隆盛が京で会合し、倒幕挙兵の密約をかわし、
6月に薩摩―土佐の連合が成立している。7月には、土佐の後藤象二郎が大政奉還建白書の案を作っている。

慶應3年は、幕府倒壊の最後の詰めが行われた年である。
一方、将軍慶喜は、一橋―会津―桑名の連合政権を京都に構成しており、幕府とも違った権力ができていた。
しかし、それは、実力に裏打ちされたものではなく、幻想の政権であった。

しかし、幕府中枢や、延岡藩では、その地面が大きく動いている感覚はなく、慶應3年の正月を、平穏に迎えていた。

【2】 慶應3年(1867)年の正月

延岡藩の殿様は、延岡におり、何よりも、将軍慶喜も京都にいて、江戸城にはいないのである。
右に江戸藩邸の正月の記録を示す。

1> 延岡藩の名代がお城へあいさつへ

延岡藩の江戸藩邸からは、名代(御留守居)が、お祝いの挨拶のため、江戸城にご挨拶に行っている

概訳:

  「慶應3年正月

   御触れの通り 年頭の御祝儀である 御太刀と馬代を、
   御在邑(殿様が所領に帰っている)ので、

   御名代として、御留守居である 成瀬老之進が、行った。
   西丸に 持参して、蘇鉄の間において、御奏者 御当番(にお渡しした)


2>延岡藩邸内でも、恒例の新年のあいさつを行っている。

  概訳:

  「1.大殿様(先代の殿様)の御住居に 
     いずれも 並んで、成瀬老之進が、(代表して) 罷り出で、お目見え 年頭の御祝儀を 申し上げた。
     御熨斗を 三方にのせて差し上げた。

   1.大殿様に 差し上げた物は、左の通りで、 お目見えする前の前披露はすましている。

      干し鯛 三枚 御年寄 今西弥学から (以下 略)


武士の世界では、鯛が最もめでたい魚で、重要な儀式はすべて鯛である。

【3】 孝明天皇の崩御の知らせが江戸に届いた:慶應3年1月5日


孝明天皇は、昨年12月25日に亡くなっているが、幕府から江戸藩邸に、知らせが届いたのは、まだ松の内である正月4日付けであった。
実際に届いたのは、5日かもしれない。

  概訳:

  「正月五日(延岡藩邸の書類の記述日)
   1. 主上(天皇の事) 崩御されたので、
      今朝、大お目付中様(幕府の大目付の事)から、
      御廻状御同席触によって、ご到来した。 左のとおり、

         大目付へ
      主上 御不豫(天子の病気)の処、ご養生 叶わず、  
      旧蝋(先の12月のこと) 二十九日に 
      崩御(天皇の逝去)遊ばされ候につき 
      御機嫌伺のため、明五日 急ぎ(江戸城へ)出仕のこと


天皇の事は、主上とあらわしている。亡くなったのは、12月25日のはずであるが、
この幕府からの報告では、29日になっている。理由は不明であるが、指示が出された日が、29日という意味か。

2>幕府からの指示はさらに続く

  概訳(続き):

  「1.病気、幼少、隠居の面々は、使者を月番の老中に 差し越すべき事

   1.在国、在邑の面々は、使札を 差し越すべき事
     ただし、在国、在邑の嫡子 隠居も 右と同様にすべき。

   1.普請や鳴り物の停止のこと。 右のとおり、相触れられるべき候

         正月四日


   この時の服装として、平服の着用が指示されている

【4】幕府の指示=和宮(=静寛院宮)へ挨拶に行くこと

孝明天皇の妹である和宮は、幕府に攘夷を実行させる約束のもと、公武合体の名で将軍家茂に降嫁した。

しかし、すぐに、家茂が他界して、静寛院と名乗っていた。
孝明天皇が崩御されたのであれば、幕府は、江戸在住の大名は、和宮へ弔問の挨拶に行くように指示したのである。

  概訳を示す:

  「主上は、崩御につき来たる年始のお礼は、無しのこと。
   右のとおり、旧臘二十九日 京師表(ケイシ:京都の事)において、
   仰せ出でられた(種々の注意事項の)内容を 
   その段 面々に 達せられる(連絡す)べきこと。
          正月    

         大目付に

   主上 崩御 遊ばされ候につき
   静寛院宮様(和宮のこと) ご機嫌伺いのため
   在府の万石以上 今明日中
   月番の老中に使者を 差し出されるべきこと


当時、幕府にのとって、朝廷との関係を維持するうえでの、和宮の存在は極めて大きく買ったので、在府の大名に対する支持は当然である。

先代将軍家茂の正室であった和宮は、孝明天皇の妹であり、時の、公武合体の政略結婚の犠牲者でもあったが、二人は犠牲者という意識はなかったかもしれない。

和宮は、攘夷を約束に、文久元年(1861年)末に江戸城に入り、翌文久2年(1862年)に将軍家茂との婚礼が催された。
時に、和宮が、15才であった。婚礼時、和宮は、内親王で、征夷大将軍より身分が高く逆転結婚であった。

結婚生活も短く、家茂は、長州征伐のため、慶應元年(1865年)に江戸を発ち、これが二人の永久の別れになった。
そのとき、和宮は、19歳であった。翌年、和宮が20歳の慶應2年の夏に家茂が亡くなっている。

そして、その年の12月に、兄の孝明天皇がなくなっている。実は、慶應元年夏には、和宮の貢献として大奥に入っていた実母もなくなっているから、
わずか1年の間に、和宮は、母、夫、兄を失っている。

夫の死後、和宮は、落飾して、号を静寛院と改めている
勝海舟が西郷隆盛と江戸の無血開城を交渉する際にも、「慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合、こちらには統御の術が無く、和宮様の尊位は保ちがたい」と
和宮を取引条件に出すなどその存在感は大きかった。

和宮は、明治10年、激動の中を翻弄されて、短い30歳の人生を閉めている。遺言で、家茂の墓の隣に葬られている。
当第41話でも紹介した様に、和宮は、家茂の写真を抱えて埋蔵されていた。

【5】幕府の指示=ヒゲそりや月代(サカヤキ)を剃ることの禁止

ここで、面白い指示が届いている。
天皇が死去したので、喪に服するため、大名は、月代(サカヤキ)や髭を剃ってはならない。
はやし放題にせよという。月代(サカヤキ)とは、武士が頭の頂上の剃っている部分の事である

剃ってよい日は、葬式がすんで、後日連絡するという。

江戸時代の武士は、主人の喪中は、頭の月代(サカヤキ)や髭を伸ばし放題だったのである。
この命令は、1万石以上の大名と(旗本の)お目見え(上士)以上に対して出されている。

1月15日付けで発表された今回のヒゲや月代の剃りの解禁は、いわば、喪明けである。
それは、翌日が、次期天皇の践祚(即位)の式が催されるからである。

概訳:

  「 大目付に、

     主上 崩御につき、髭剃りに関しては、追って、連絡するであろう。
     月代(サカヤキ)は、御葬(送)(式)が済んでから、剃ること。

     右の通り、旧臘(11月の事)29日に京師において、仰せ出でられたので、
     ただし、在京の面々に、この指示がない場合は、崩御の儀を 聞いてから
     御葬式が済んだということを聞くまで、月代剃ることのないように。

     右のとおり、旧臘二十九日 京師(ケイシ)において、
     仰せ出でられ候旨、万石以上の面々に、残らず、相触れる(連絡する)こと候。

     正月四日   大目付に

【6】正月の御祝儀の儀式と天皇の喪が重なったので、延岡藩内では混乱である

延岡の殿様の代理が、慶喜が新将軍になったお祝いに江戸藩邸に到着したが、
江戸城にご挨拶に行ってもよいものかどうかを、大目付にご意見(御内慮)伺いを立てている。
  その内慮伺いの内容の概訳:

  「正月六日
   1.御用番 松平周防守様に、今朝 左の御内慮伺いを
     御留守居の脇役で仮役の 渡辺伝が、
     持参したところ、(御用番は)御承知これ無く 以前 御差出しの事に付き、
     御使者、差し出され不吉の点については、公用人をもって 仰せ出ででられました。

     (延岡藩の差し出した内慮伺いの内容)

    旧十一月の朔日、二日、三日に、(将軍の)お代替りのお礼が済んだことを、
    備後守(延岡藩主)は、在所(延岡)で 承りましたので、
    兼ねて、御触れ達しの通り、ご祝儀の使者が、
    今日 着府(江戸着)致しました。

    然るところ、主上の崩御遊ばされましたことを 仰せ出でられましたでの、
    右のご祝儀の使札の 差し出し方は、如何 仕るべき哉、
    この段を、各様まで、御内慮を 伺い奉ります。  以上

                  渡辺 伝 


というものである。
天皇がなくなったとき、今後の正月のお祝いごとはどうすればよいのか。
そこで、延岡藩は、同様の前例を探したところ、享保十四年(1729年)卯年正月4日に将軍の御姫様がなくなった例がある。
その時の、対応例を示している。例えば、

御門松は、引き拂うこと。御内飾り、御年棚、御年縄、御具足も、併せて、
御鏡餅、その他、御喰摘(おせち料理の事)、御内飾りの品も、これ迄の通りで、やってよいという指示を、
伺いの末、下知があった。今回は、これを心得ればよいだろう。

鬼打ち木は、御前例の通り(門松と一緒に立てかけておくものだから、門松と一緒に片づけるのであろう)。
七種囃子もやってよい。今回も、これらを参考にすべきであると内部に伝えている。
お具足啓き(開き)は日延べ、延岡藩内の恒例のお年男の儀は、今まで通りやることにしている。
その他、宝歴12午年(1762年)7月24日、安永8亥年(1779年)11月13日、弘化3午年(1846年)2月10日の天皇の崩御の場合の、藩内対応の仕方を調べている。

【7】髭や月代のそりの許可が出た(1月16日)

  概訳:

  「1. 今朝、大お目付中様よりの御廻状ご同席触れを以て、ご到来した。左の通り。

      覚え
   万石以上の面々は、明後日より、髭剃りをすべきこと。
   右の通り、 万石以上の面々、相触(連絡)れられるべきこと。 
         正月14日
 」

【8】明治天皇の践祚の知らせ(1月17日着)

践祚(センソ)とは、天皇の位を引き継ぐことを表す。
孝明天皇の崩御によって、
当時、14歳で元服前の皇太子であった睦仁(ムツヒト)親王が皇位に即位した。

彼は、翌年、1月に元服をし、そののち、即位式を行い、内外に天皇(明治天皇)になったことを宣言している。

延岡藩の江戸屋敷に、践祚の報が届いたのは、正月17日であった。

  概訳:
   「去る九日、新帝が、御践祚(天皇に即位すること)が相済みました。
    御祝儀のため、明18日に(江戸城に)出仕いたすようにという、
    (指示が)大御目付中様から御廻状ご同席触が、回ってきた


という内容だけである。

【9】資料

1)延岡藩資料:万覚帳=1-7-155




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