第43話:慶喜(1)=慶喜が15代将軍に宣下される 

No.43> 慶応年間の大名屋敷の火事としきたり

    火事が頻発する慶応年間:延岡藩邸の周辺の火事に大名家の相互扶助のしきたりを紹介



 
今回のトピックス


    江戸では火事が多かったので、相互扶助の仕組みが発達していた。
    幕末は治安も悪く、火事も特に多かった。慶応2年末にも延岡藩邸の周りでも火事が頻発している。
    そこでは、各大名家は、お手伝いに人手をだし、また独特の火事見舞いがあった。
    出入りの町人も、真っ先に駆けつけるのが信義である。

                                         (2016.5.18)

         

【1】 江戸の火事

よく落語の枕で江戸らしい風物を紹介するのに使われる有名なせりふに、
江戸の名物は、武士 鰹 大名小路 広小路 茶店 紫 火消 錦絵 火事に喧嘩に中っ腹 伊勢谷 稲荷に犬のくそ」といわれる。

中でも、人口密度が高いことから江戸の火事は、有名である。研究によると、どの程度までの火事を含むのかは不明であるが、 江戸時代267年間で、1798回の火事があったという。中でも、幕末の嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では、506回の火事が起きているという。

幕末は、幕府の権威が低下とともに、江戸を不安にするための政治的な火付けもあり、幕末時に火事が多く発生して、江戸市民は不安な時期を過ごしていたであろう。

江戸では、どこかで、火事が起きると、大火になる可能性もあり、特に神経質になって、火事については、町民世界、武士世界でも相互扶助の意識が高くなっており、 どこかで、火事があると、いの一番に駆けつけることが信義の根拠となっていた。

落語の「富久」で、大店「田丸屋」をしくじっていた幇間の久蔵が、火事を知らせる半鐘の音で、火元が田丸屋の近くの芝金杉町と見当をつけ、
いの一番に田丸屋に駆けつけたが、幸い田丸屋は無事で、火はおさまった。火事見舞いに駆けつけてきた久蔵をみて、
旦那は許してくれたという話である。その後に、落語らしい話があるのだが、それは省略する。

とにかく、江戸時代は、火事と聞いたら、誰よりも早く駆けつけ、手伝いをし、かつ、火事見舞いが最大の信義の見せどころなのである。
それは、武家社会でも同様である。慶応2年10月〜12月の延岡藩江戸藩邸の周りで、火事が起きており、その対応にその時代の必死の忠誠な行動がみえる。
それほど、火事は、頻繁に起きている重大な事件なのである。

【2】 慶応2年(1866年)の延岡藩邸付近の火事

江戸幕府が終了する1年前のことである。事実上は、徳川側が敗退した第二次長州征伐が形式上、終了し、延岡藩を始め、兵隊を撤収して、軍隊のほとんどは、在所に帰り、一部の武士が江戸に帰ってくるころである慶応2年の10月末のことである。
延岡藩の江戸に向かう一行が江戸藩邸に着いたのは11月1日のことであるから、10月末は、まだ、最小限の残った藩士と、臨時雇いの浪人で守っていた時である。

近所の大名屋敷から出火=慶応2年10月29日 

延岡藩の上屋敷は、現在の虎ノ門にあった。その隣町である永田町には、大藩の江戸屋敷が並んでいた。
夜中の12時ごろに、そのどこかの藩邸から火の手が上がった。強い西風が吹いている。大火のなる可能性のある状況である。

概訳を示す:

 「慶応2年10月29日
  今暁 九半時(夜中の12時)頃 永田町の(記述なし)様の御屋敷より 出火の処、西北風が、烈しく、大火に及び、
  (延岡藩の)御上屋敷に至りて、御(危夫)の防ぎ手を差配した。

  諸役所の帳面を 御道に取り出した時、処所に飛び火がやってきて、何とか消し留め、八半時(昼1時)までに 
  鎮火した。御屋敷には、御別条、被害はなかったので、大殿様は、御立退きをなさらずに済んだ。


この記録には、諸大名屋敷が並んでいた永田町のどこかの屋敷から火の手が上がったようだが、その名前は空欄になって、記入されていない。
それが礼儀なのであろうか。

今回の記録では、延岡藩邸にも火の粉は飛んできたが、それを必死に消して、被害はなかったようである。
この時、殿様は、第二次長州征伐後、本体とともに、延岡に帰っている途中の時機であり、江戸藩邸には、先代の殿様(大殿様)がいたが、退去することもなく、無事であった。

【3】 当日の火事見舞い

火事の半鐘が鳴ると、遠見に上って、火事の場所を探り、知り合いの屋敷に近い場合、親せきや出入りの町人は、手下を連れて駆けつけるのである。

当時、延岡に帰っている殿様〔内藤政挙〕の実家である太田家から、すぐに火事見舞いが来ている。
政挙の実父は、老中にもなった遠江国掛川第5代藩主の太田資始(すけもと)である。6代藩主は短命で、慶応2年時には、資始の4男の資美(別名:総次郎)が第7代藩主になっていた。当時、12才である。

政挙の実家で、実の弟でもある総次郎から火事見舞いがすぐに到着している。
また、内藤家の分家である内藤金一郎(三河挙母藩=現豊田市)からの見舞いの手紙が来ているが、その対応は、微妙に異なる。

概訳を示す:
 「1.右に付、左の御方様より、御見廻りの御人数並びに、お使いが、奉札を以て、左の通り、
   進まれ候。

    1荷  奉札  太田総次郎様


太田家からは、大人数の手助けとともに、粥(かゆ)が提供されている。
当時、火事場見舞いに粥を持参するというのは、日常であった。火消しをした後の、腹の足しにするためであろう。

 「1.内藤金一郎様衆より 御用掛 平左衛門は、紙面を以て(挨拶が来た)
    今暁は、御許様(おもとさま)では、御近火に付き、消防御人数 並びに、御見廻り等を
    通されるべき処ではありますが、この節柄につき、差控えましたが、風動きは、
    烈しく、御心配をしており、(手助けに行かないという)非道の儀は、承知仕っておりました。

    やはり、手助けに行こうということになりましたが、いろいろ調べて、彼是が、引きとめました。
    その中で、鎮火に及び、(結局)、行かなかったことは、恐れ入り奉っております。
    もし、連絡がございましたら、程を見て、お伺いいたします。と言ってきた。


分家の内藤金一郎からは、手助けは来ず、手紙だけが来のである。
物騒な時節柄で、人でも不足の時機なので、屋敷を空ける事が、はばかれたのであろうか、人手を出さなかった。
その謝りの一筆をおくってきたのである。

【4】火事場見舞いに来た人々への御礼の宴=慶応2年11月15日

1)藩士たち

概訳:

 「去る月、二十九日暁 御近火のところ、御人が少ない砌
  (みぎり)、諸向き、何れも、骨折り、(その結果)御屋敷は、
  御別条、被害は出なかったので、御内輪や、その他で、

  (当日)罷り出できた面々一統に、今日、
  御酒を下されるので、出席を頂戴したく、いづれにも、
  吸い物と肴1種を、十畳の部屋で(提供する)。

  御登城口にて、頂戴の他は、諸向席にて、持ち回りなどして、
  申し合わせ、頂戴する分があることは、
  御賄方に 一昨日、委細申しつけた。

  但し、今日、四時(午前10時)に、御内輪は、
  御酒を下されるますので、昨日、月番の他、
  七郎左衛門より、その他役頭や支配頭に、演達をいたした。

  夫れに申す通りにする様に、十畳の間で、
  御登城口で頂戴分を、大目付から申し来るようにして、
  かつ、御内輪に、下されましたので、
  十畳の間にて行う。

  御登城口に月番大目付が、挨拶に行くべき事。
  (吸い物並びに、1種)  御用部屋  長坂平左衛門   渡辺平兵衛、 赤坂七郎左衛門   大目付、  御用部屋調べ役、御広間坊主


名前は、まだまだ続くがそれは省略する。ここで、不思議な記述がある。
幕府からも、火事場見舞いの酒が提供されているのである。それを頂戴に、江戸城の登城口に挨拶に行っているのがわかる。

延岡藩には、実害はなかったが、それでも、親せきや公儀等の縁者は、火事場見舞いを出すのが礼儀である。
幕府から提供される酒を使って、身内の頑張った面々を慰労しているのである。
ここで、御賄方とは、台所関係の調達をする掛である。

藩士たちだけでなく、頑張った女中たちも以下の様に慰労されている。

2) 女中たち

概訳を示す:

   「右 御近火の節、中奥 女中等、いづれも、彼是、骨折り致して、御屋敷は、御別条 
   被害なかったので、御内輪より、出中奥にお酒が下されましたので、御隠殿と御納戸役に
   一昨日に七郎左衛門より、申し付け候。

   (吸い物 他1種) 中奥女中 御中室詰=壱人、御側女中=弐人、
   御次女中=1人、御三の間=二人、同詰め=1人、御中居=1人、
   御末=1人、御致番=1人、小使=四人、お半下=五人

3) 出入りの町人たち

藩士や女中たちだけでなく、出入りの町人も手伝いに駆けつけている。その連中へも感謝している。

概訳を示す:

 「去る月、二十九日暁 御近火の節、人数を引き連れ、駆けつけた御出入り町人並びに、
  御抱えの者 その他 中間など、差働きましたあので、いづれも、御酒代を下されるので、
  面々に連絡をした。左の通り、お酒用の鳥目(銭のこと)を下され、然るべき 其の段、
  申し渡すものである。
  御酒をご用意の件について、御賄方に相行うよう指示

            御作事奉行(修理等の担当部署)に


招待されたのは、大工、桶屋、商売人たち、左官、等々の種々の名前が続くがそれは省略する。

4) 出入りの町人たちへ礼金

その町人には、食事だけでなく、金一封も出ている。
鳥目(銭のこと)100文とは、現在の貨幣価値では、2500円程度である。最大で、800文でも2万円でしかない。
額面より、感謝の気持ちが大事なのであろう。彼らは、手下もつれて駆けつけていた様で、手下へもこづかいが渡されてる。

【5】井伊掃部頭家でも火事騒ぎ=慶応2年11月17日

井伊家は、譜代の最大の家であるだけでなく、大殿様(先代の殿様)と充真院様(先先代の殿様の奥方)の出身家なので、
極めて重要な家なのである。先の火事で駆け付けた面々への慰労会の翌日に、その井伊家からの出火があったので、
延岡藩からは、多くの人が手助けに向かった。

1) 概訳=11月17日

 「今暁、九半時まで、井伊掃部頭様 御居屋敷より、出火に付き、
  早速、御留守居の成瀬老之進が、御人数を連れて、向かったが、御長屋の家根(=屋根)に
  御人数が上がっておりましたが、ほどなく、鎮火したので、
  消防などは、実際に行わなかった。

  1. 右に付、御見廻りのため、粥一荷 を進呈した


個々でも、延岡藩が粥を持参している。

2) 概訳=11月19日

 「1.井伊掃部頭様衆より、一昨日付(11月17日)の奉札を以て、掃部頭様 御居屋敷内の方、
  御長屋より、今暁、出火、よって、(殿様は)御在邑中に付、御家来の者より御用番供に、
  御差控えすべきかどうかを相伺いましたところ、
  御昨夕に、御付札を以て、御差控えに及ばずの旨を上層部から指示がありましたと、
  連絡のために言ってきた。

【6】材木屋が高値販売している=慶応2年12月4日

幕府の大目付から、御廻状が延岡藩にも回ってきた。昨今、火事が多いので、材木屋が足元を見て、値引きをしない。
言い値に従わないように、曲事(法に背くこと)に従わないようにという趣旨である。それが、慶応2年12月4日のことである。
商人は、気を見るに敏である。

【7】資料

1)延岡藩資料:万覚帳=1-7-154




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