第42話:慶喜(1)=慶喜が15代将軍に宣下される 

No.42> 14代将軍家茂の突然の薨去:武家社会の最高の社会である幕府のしきたり

    徳川幕府の最後の切り札のはずの慶喜が、徳川政権と異なる政権を考えていた。
     幕閣の彼への不信感も強い。なぞの多い人物である。



 
今回のトピックス


    慶喜が天皇により第15代将軍に宣下される。
    尊王第一の水戸学で育った彼は、孝明天皇を守り、近幕府を捨て京都にて次なる政権を立てようとして様にみえる。
    しかし、孝明天皇の不思議な死により、流れは逆流を始め、彼は朝敵になり、失脚することになる。

    今回は、将軍になるまでの彼の歴史を概観する。

                                         (2016.4.20)

                                       

【1】 慶喜の歴史(前半):15代将軍になるまで

慶喜は、幕末を語る時に不可欠の人物であるが、一般には理解しがたい不思議な人物と思われていると思われているだろう。
彼は、独自の明治維新を狙っていた人物にみえる。

何かが、ちょっとだけ変わっていたら、たとえは、孝明天皇が変死をしなかったら、彼が中心の時代になってい居たかもしれない。
彼は、大政奉還の処でもう一度扱う予定なので、ここでは、前半として、15代将軍に就くまでにしたい。

(1)生い立ち

彼は、天保8年(1837年)、水戸家徳川斉昭の七男として江戸屋敷に誕生している。幼名を七郎麿という。
彼の母は、有栖川宮家6代目当主織仁親王の娘 登美宮吉子である。

彼は、藩主の子であるが、例外的に、水戸での生活が認められて、帰国している。
そこで、彼は、厳しい教育を受け、藩主としての帝王学もうけている。水戸家は、御三家の中でも、特異で、光圀以来、尊王精神をもとにする水戸学の教えが脈々とつながっていた。

彼の父、斉昭も熱心な尊王攘夷論者であったし、妻に、有栖川宮家(霊元天皇につながる家系)の娘をもらい、彼の姉は、関白職を長年務め、朝廷にあって最大の実力者であった関白鷹司政通の妻になっている。

天皇家へのつながりを強く求めていたことがわかる。そのような父斉昭の影響もあって、慶喜も熱心な尊王の信者となっていく。
彼が誕生した年に、家慶が12代将軍に就いている。慶喜は、利発な子として目立ったのであろう。

時の将軍家慶に気に入られており、将軍の命により、11歳の時に、一ツ橋家に養子になっている。
その挨拶に、江戸城に赴いたときから幼少と侮った大奥の女中たちから、周りを囲まれ、

一橋様の御母君は御名を何と仰せられ候や」と尋ねられた時、慶喜は、静かに歩を止め、声高く、
予は有栖川宮の孫なるぞ」と答え、女中達は一言もなく、平伏したと記録にある。
いかにも慶喜らしい切り替えしという逸話である。

後の述べるように、有栖川織仁親王(慶喜のいとこになる)は、慶喜追討の急先鋒であり、
新政府の最高職である総裁に任じられているのは皮肉である。
彼は、生涯、3度の将軍就任のチャンスが来て、3度目の正直で15代目の将軍になった。

(2)ペリー来航

嘉永6年6月3日(1853年)ペリーが浦賀沖に来て、日本に開国を求めるという事件が起きた。

これは、徳川幕府の崩壊の始まりであり、慶喜にとっても激変人生の始まりである(慶喜=17才)。 この直後の6月22日に将軍家慶が死去している。

家慶は、唯一の息子である家定(当時家祥)は、あまりに凡庸であり、将軍の荷は重いと考え、 慶喜の才能を見込み、自分の後継者と考えた節は大いにある。

幕府内でも、国難にあたるためには、英明な将軍が必要という意見が出てきた。
この時、次将軍候補として、家慶の異母弟で、紀州家の慶福(後の14代将軍家茂)と慶喜の名が上がったなかで、松平春嶽島津斉彬、老中阿部正弘らが慶喜擁立に動いた。

しかし、慶喜は、実父斉昭に手紙を送り、将軍世子就任運動の制止に動いてほしいと書いている。 10日ほど後、斉昭は、一橋邸を訪問して、慶喜と会っている。

ここでの話は不明であるが、斉昭が後日、藤田東湖に語った言葉によると、(自分は、)慶喜はいつも小児と思っていたが、

近来は、なかなか打ち込み激しく、受け太刀、容易ならざることもこれあり。深く感心」 と感想を述べている。

しかし、結局、血筋を重んじる当時としては、当然、13代将軍には、家定(嘉永6年11月)が就任した。
その後も、次代将軍が保証される現将軍の世子任命に慶喜を推す勢力が増える。
慶喜が固辞したにも関わらず、先の松平春嶽、島津斉彬以外に、
伊達宗徳(宇和島藩主)、山内容堂(土佐藩主)、徳川義勝(尾張藩主)、蜂須賀斉裕(徳島藩主)などがいた。

(3)井伊直弼の大老就任

当時の老中、阿部正弘は、攘夷論の慶喜の父 徳川斉昭をうまく利用していた。
阿部は、江戸に安政の大地震が起きた直後(安政2年)に、開国論者の堀田正睦(佐倉藩主)に老中の就任を依頼して、老中首座を譲っている。

当時、老中の中で、堀田だけが開国論者であったという。
この頃から、保守派の徳川斉昭の幕政批判。掘田批判が過激となり、あの過激者の息子(慶喜)では、将軍にはふさわしくないという雰囲気も出てき始めた。

反慶喜の勢力は、老中牧野忠雅や、久世広周のほか、大奥の女性であったが、決定的なのは、将軍家定の慶喜嫌いであったことである。

家定が篤姫(島津家)と結婚したのは、安政3年12月であり、自分の子供が生まれるかもしれないときに、養子の話が出てきたのである。
家定を無能と決めつけ、その子も無能だろうから、優秀な慶喜に次を任せようという意見を、不快に思うのは仕方がない。

結果、家定は、自分の次の将軍には、家茂(紀州藩主)を指名していたのであるが、当時は、知られていなかった。
その様な時、安政4年になると、アメリカ駐日総領事ハリスは、日米修好通商条約締結を迫り出す。
安政4年12月末日に、幕府は、諸大名を江戸城に登城させ自ら、朝廷への説得に乗り出す。

しかし、鎖国攘夷論者の孝明天皇の抵抗はすさまじく、説得に失敗する。
堀田を御所に招き、通商条約の勅許は出せない。アメリカが武力に訴えるなら、「是非なき候」とも答えている。
米国が攻撃して来たら、戦争もやむなしという意味であろう。

米国との通商条約締結の締切日が迫り、次の将軍世子問題な度問題山積の中、堀田正睦が、失脚し、井伊直弼が大老となる(安政5年4月23日)。
井伊直弼は、朝廷からの勅許を受けないまま、日米修好通商条約を締結し(6月19日)、将軍継嗣に紀州藩主の慶喜福(後の家茂)に決定する(6月25日)。

勅許なしの締結は不敬と抗議に登城した徳川斉昭(前水戸藩主)、徳川慶篤(現水戸藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、松平慶永(福井藩主)、一橋慶喜らを、
“不時登城をして御政道を乱した罪は重い”との台慮(将軍の考え)による」として、隠居謹慎を命じた(安政の大獄が始まる)。

朝廷に対しては、通商条約を結んだという事後報告(届け棄て)のみであり、孝明天皇は激怒し、朝廷と幕府の関係に陰りが出始めた。
将軍家定が死去し(安政5年7月6日)、その後、第14代将軍に家茂が就任する(10月25日)。

天皇と左大臣+右大臣+内大臣ら(関白は含まれず)は、天皇の意見として「御趣意書」を幕府と水戸家に送った(8月7日:戌午の密勅)。
井伊直弼は反対論者を処罰すると同時に、水戸藩に戌午の密勅の返納命令を出した。
その強硬姿勢に、不満を持った尊王攘夷の水戸藩士による井伊直弼暗殺=桜田門外の変(安政6年3月3日=万延元年)が起きてしまう。

【2】 慶喜の中央政界へのデビュー

(1)将軍後見職につく

安政の大獄で謹慎していた慶喜らは、井伊直弼の暗殺によって、謹慎が解除された(万延元年=1860年)。
このころ、井伊直弼の後を継いだ老中安藤信正は、幕府と朝廷の融和策として、家茂の正妻として孝明天皇の妹和宮の降嫁を画策した(公武合体論)である。

この時、各藩とも公武合体派尊王攘夷派で二分され、激しい闘争が繰り返されている。安藤信正も尊王攘夷派の水戸浪士によって襲撃されている(坂下門外の変=文久2年1/15=1862年)。
いろいろ障害はあったが、和宮との結婚に持ち込めた(文久2年2/15)。

朝幕の権力バランスが変わりつつあるこの時期に、慶喜は、将軍後見職に就いている(文久2年7/5)。
将軍家茂は、17歳になっており、後見職をつける様な年齢ではない。これには複雑な背景があった。慶喜への辞令は、

   「この度、叡慮をもって、仰せ下され候につき、後見を相勤められ候様に

とあった。任命権者は、当然、将軍であるが、「叡慮」(天皇のお考え)という言葉が示す様に、後見職就任は、天皇の意向なのである。
天皇の勅使が島津久光とその軍勢をつれて、幕府に迫った結果、不承不承、幕府が了解した。
幕閣を始め、幕臣の間での慶喜に対する嫌悪感、不信感は強かったのである。時に、慶喜26歳でであった。

朝廷では、尊王攘夷派が力を持ち、京都内でも、長州、土佐の勤王の志士が集まって大勢力となっていたこの時期、
幕府内では、朝廷に対し攘夷を約束している手前、修好通商条約を破棄するべきかどうかの議論が紛糾している時、慶喜が画期的発言をした。

   「拙者は、万国一般天地間の道理に基づき、互いに好みを通ずる今日なれば、
    独り、日本のみが、鎖国の旧套を守るべきに非ざる故に、
    我より進んでも交わりを海外各国に結ばざるを得ずとの趣意を叡聞に達するつもり


なかなかの正論である。当時のしがらみに中では、世界を理解した一人といえる。同時にこの時、

   「このたび、かかる意見を立てしは、既に、幕府をなきものと見て、
    もっぱら、日本全国のために謀(はか)らんとするなり


とも発言している。彼の幕府にこだわらない新しい政権の考えが生まれている。

(2)京都へ

文久2年、孝明天皇の勅使が江戸城に達し、天皇の攘夷督促の意思を伝え、将軍家茂が、攘夷を約束のため京都に向かうことを約束させられた。
家茂の上京に先立ち、慶喜が上京した(文久3年1/5)。尊王攘夷派を抑圧するために、松平容保が京都守護職に就き(文久2年閏8月)、新選組を結成し、
京都の尊攘派の締め付けを始めた頃である。

慶喜が京都に着いたとき、彼は、尊攘派の頭目と歓迎され、長州藩の尊攘派の急先鋒の久坂玄瑞が面会に来たほどである。
文久3年3月4日に、将軍家茂が入京している。

文久3年8月13日、尊攘派の公家の主導により、天皇の攘夷親征の大和行幸が行われることが決まっていたが、
公武合体派が、会津と薩摩両藩が結束して、御所9門を閉じ長州藩を追い払うというクーデターを起こした(8.18政変)。

翌日、長州藩と尊攘派の公家七卿が都落ちをした。公武合体派の逆転勝利であり、薩摩の地位が上がった。

(3)京都政権への模索

元治元年(3/25=1864年)、慶喜は、禁裏御守衛総督に着いた。その時の辞令は

  「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮等仰せつけられ候。
   これまで、後見職仰せつけ置かれるの処、今般内顧により免ぜられ候。
   但し、大樹在京中は、以前同様心得あるべきの旨 御沙汰候事


摂海(大阪湾)の警備と禁裏の警護の総責任者となり、前職の将軍後見は免除となっている。
将軍後見職は、形式上は将軍の任命であったのに、免除は、天皇である。そして、それに勝る、西の将軍職ともいえる職の任命も天皇である。
任命権は天皇に移っていることを如実に示している。

この禁裏御守衛総督とは、天皇に最も近い存在であるから、京都の将軍であり、この時の最高権力者である天皇に近いという意味では、
江戸将軍より上の地位かもしれないのである。慶喜による京都政権への布石となっている。
当然、江戸幕府からは、慶喜に対する猜疑心は強まっている。幕府と別の政権を作ろうとしていると見る幕閣は多かった。

この時、長州の尊攘派が池田屋で新撰組に襲われる事件が起きた(池田屋事件=元治元年6/5)。
その後、長州の尊攘の急進派が御所の蛤御門を襲撃する事件が起きた(禁門の変)。

ここで。慶喜は、生涯一番の活躍をする。長州藩と戦いながら、4度禁裏に参内し天皇を、妥協しないように鼓舞している。
三度目の参内では、天皇が三種の神器を持って逃げようとしているのをとどめて、

   「私が守護し奉りますからには、未だ、御選幸の時機ではございませぬ
と奏上している。

慶喜の此の時の振舞いを間近に見た薩摩の家老の小松帯刀は、その様子を、
   「その時の一橋公の振まわれたる御挙動は、威儀堂々、誠に無双の豪傑と相見え候

と述懐し、感嘆している。

その後、慶喜は元関白の鷹司邸に籠って抵抗を続ける久坂玄瑞らに対して、鷹司邸を焼いて、長州方にとどめをさす活躍をした。

(4)第一次長州征伐と第二次長州征伐

禁門の変の直後に、朝廷は、(第一次)長州征伐の勅命を出した(元治元年7/23)。
これは、すぐに長州側が降参して、3家老の切腹で決着したが、自信が出てきた幕府は、京都に禁裏守衛総督や京都守護職は不要とばかり、
老中阿部正外、松平宗秀が様式軍隊を率いて上京し、慶喜と松平容保を江戸に償還しようとしたが、両者が拒否したので、両老中は退散している。

次に、将軍家茂の親征による第二次長州征伐に踏み切った(慶応元年5/16)が、長州征伐の勅許が出ず、1年程大阪にとどまることになる。
その間に、英、仏、米、蘭4ヵ国が、兵庫港の開港を要求してきた。幕府側の2人の老中が、勅許を得ないまま、許可してしまう。

これを知った慶喜は、朝廷に赴き、両老中の失策を糾弾したので、朝廷は、両老中の官位を剥奪し、謹慎を命じた。
将軍の任免を飛ばして、朝廷が行ったことに幕府側は激怒した。

将軍家茂も、将軍を辞退して、慶喜に譲ると大阪を発とうとした。慌てた慶喜は、家茂を何とか思い止まらせた。
第二次長州征伐の戦端が開くと同時に、家茂が大阪にて他界した(慶応2年7/20)。

(5)将軍慶喜の誕生

家茂が死去したら、次は、慶喜しかいないが、反発も大きいので、慶喜は辞退し続けた。
8月20日に、家茂の死去を公表すると同時に、徳川宗家を慶喜が引き継ぐことを発表したが、将軍は辞退し続けた。

12月5日、ついに将軍の宣下を受けた。これに先立ち、孝明天皇は、

   「徳川中納言(慶喜)への宣下あるべしと思うなり。
    たとえ、固辞するとも、このたびは、是非、御請け致すべきとの内意を伝宣せよ

と命じている。

慶喜の唯一のよりどころである孝明天皇の意志である。この直後、孝明天皇は不思議な死に方をして、将軍宣下が慶喜への最後の土産となった。

【3】 延岡藩に残る資料

延岡藩の江戸日誌に慶喜の将軍の就任の記録が手短な形で残っている。将軍就任が自明のことだったこともあるだろうが、あまりに淡々とした記述である。
延岡藩の江戸屋敷の記録を見ると、慶喜が将軍職に就いたという知らせが現れるのは、10日後の慶応2年12月15日である。

(1)延岡藩の江戸屋敷の日誌



その概訳を示す。

今卯下刻(朝7時) 大目付中様より御廻状あり。
御同席触れの形で、御到来した。(内容は)左の通り。 

     大目付に

  去る五日、勅使(天皇のお使い)が 二条御城に 参入し、(慶喜様が、)正二位衛大納言の御位記と宣旨を御頂戴し、
  引き続き、将軍の宣下 と 右近衛大将の宣旨等御頂戴に 為されました。

  それについて、右、御祝儀のため
  明後十五日 いつもの通り、出仕をすべきこと。
    但し、熨斗目の麻地の裃(かみしも)を着用の事

   1. 病気 幼少、隠居の面々は、月番の老中に 使いを差出すこと。
     在国、在邑の、面々は、隠居にあっても、御礼札を差越すこと。

     但し、在京の面々は、当地に、御礼札を差越には及ばない。
     右の段、(関係の)面々に、相触れされるべきこと


慶喜が、二条城で将軍の宣下を受けた時の様子がわかる。
これを受け、延岡藩は、当時の江戸屋敷のトップである大殿様(先代藩主)の代理として、御留守居が勤めている。

その後の12月18日の記録には、
    「将軍宣下が済みました。
     御祝儀の御礼、御日割り、御差役、その他、御献上物、並びに、女中への贈り物などについての御触れも御到来した

という記述もある。
女中たちへの贈り物も必要だったことがわかる。

言葉> 
    勅使=天皇からの使い
    位記=位階を授ける時、そのことを書き記して、本人に交付する文書
    宣旨=天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。
    宣下=天皇からの命令であるが、特に、「将軍宣下」は征夷大将軍を任命すること。

(2)最後に

慶喜という人は、徳川将軍15人の中で、任期は1年で最も短い将軍であるが、最も長生きした人物でもある。
彼は、中央政界にいた時期のほとんどを京都で過ごしており、徳川幕府と対立する存在ですらあった。
孝明天皇に近く、彼は、徳川幕府に代わる次なる政権構想を持っていたように思う。それについては、次に回したい。

【4】 資料

   1) 内藤家資料=万覚帳=1-7-154
   2) 「幕末の天皇」:藤田覚 著 (講談社学術文庫)
   3) 「孤高の将軍 徳川慶喜」:桐野作人(集英社)




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