第41話:将軍家茂薨去:幕府の葬儀のしきたり 

No.41> 14代将軍家茂の突然の薨去:武家社会の最高の社会である幕府のしきたり

    第2次長州征伐の途中、大阪で第14代将軍家茂の薨去となり、幕府軍は浮足立った。
     1月の秘密の後、慶喜を後継に決め、江戸で葬儀をとり行った。武家社会の最高の葬儀である。



 
今回のトピックス


    第2次長州征伐への親征中の第14代将軍家茂が、突然、大阪で薨去してしまった。
    長州征伐の突然の休戦、そして、孝明天皇の薨去がほとんど同時に起きた。

    歴史の偶然か何かの必然か。延岡藩の記録に従って、家茂の薨去の周辺のドタバタを見よう。
    徳川幕府の執り行う葬儀としては、最後の儀式となった。
    江戸幕府の終焉と重なるでき事でもある。その厳しい葬儀のしきたりを延岡藩の資料から追ってみたい。

                                         (2016.3.22)

                                          

【1】 歴史概論:将軍家茂の薨去

将軍家茂は、第2次長州征伐に慶応1年に親征し、大阪に1年滞在して、孝明天皇からの長州攻撃の勅許を得た直後の慶応2年7月20日大阪で死去した。

家茂は、時に20歳であった。彼には、子供もなく、後継ぎも指定していなかったこともあり、長州との戦の途中であったため、彼の死は秘密にされ、急ぎ、本来は、後継ではない一橋慶喜への引き継ぎが行われると同時に、家茂の死は公表された(同年8月20日)。

慶喜は、徳川宗家は引き継いだが、征夷大将軍は引き継ぐのを拒否した。(征夷大将軍を継いだのは、半年ほど後の、慶応2年12月5日であった)。

8月20日に大阪で公表された将軍家茂の死は、江戸では、8月26日付で発表されたが、延岡藩の記録では、8月27日に届いたことになっている。
そして、9月23日に、家茂の葬儀が行われ、芝の増上寺に埋葬された。

長州征伐の始末はどうなったか?

慶喜は、徳川家を引きついで、事実上のトップになって、勝海舟に命じて、長州との休戦交渉をさせた(9月2日)。
慶喜が有力各藩の藩主を含めた諸侯会議を開く趣旨を示したことをもって、長州藩に休戦を納得させたはずだったが、
慶喜は、孝明天皇から「長州は越境侵略者で占領地からの撤退を要求」という全く異なる勅命を引き出していたのである。
海舟は、長州藩に嘘をついたことになる。

慶喜は、9月4日に長州からの全面撤退を開始した。
延岡藩はそれより前の8月28日に、広島を去り呉に後退しているが、実際に撤兵の指令書を得ているのは、9月24日で、延岡藩隊が延岡に着いたのは、10月6日であった。

12月5日に慶喜が、孝明天皇から第15代征夷大将軍の宣下を受けている。
ところが、最大の幕府の理解者であった孝明天皇が、12月25日に不自然とも思えるほど、暗殺の疑いがでるほど、突然に、薨去したのである。
情勢が大きく動き出した。右年表に慶応2年の出来事を示した。

★言葉> 薨去(こうきょ)とは?:
   皇族の内の皇太子妃や親王・親王妃や内親王、或いは、位階が三位(正三位・従三位)以上の者の死去についての表現。

【2】慶応2年7月19日の大阪滞在の中の延岡藩の記録

慶応2年7月19日(家茂の死去の前日)に、大阪に滞在していた延岡藩主政挙は、将軍家茂のご機嫌伺いに大阪城に行った方が良いかどうか稲葉美濃守に伺いを立てている。

そして、返事をもらった。多分、「登城したら好かろう」という内容だったろう。

概訳を示す:
今朝、左の御内慮御伺い書を御用番 
 稲葉美濃守様に 頼み成し、
 老之進が、持参し 差し出し候。

 公方様
 御所労に付 お尋ねのために、
(天皇からの)勅使が 御下坂の旨の御触の達しが御座候。

 然れば、 備後守儀(としても)、餘時に 
 登城し、御機嫌伺いを奉られたいと考えます。
 不吉の儀の御座候分、この段、そちら様に 
 御内慮を伺い奉り候様に
 (我が殿から)申付けられ候。以上

  7月21日 
    内藤備後守 家来 成瀬老之進
  書面の通り、相心得候仕るべき候事

 御月番 稲葉美濃守様より
 御留守居、御(時)出に付き、小林祐蔵、
 罷り出候処、今朝 差し出され
 御内慮御伺い書に 御書取を以て
 御差図 有之候 



そして、政挙は、返事をもらった翌日の7月22日(家茂の死去の翌日)に、大阪城に登っている。
当然、直接は会えるはずがなかった。当日の記録は以下の様のものだった。

「  今朝、五時お供揃いにて、
   公方様 御所労に付き、御機嫌 御伺のため、御登城
   九半時 御帰り


実にそっそない記録である。

【3】慶応2年8月27日の江戸藩邸の記録:将軍の喪報が届く

将軍家茂がなくなったこと、そして、慶喜が徳川宗家を相続したこと(征夷大将軍にはまだなっていない)を知らせる江戸幕府からの廻状(8月26日付)が、
江戸の延岡藩邸にも届いているが、8月27日の記録に残っているので、届いたのは、27日であろう。


この記録の概訳を示す:
「  公方様 御不例に成らせ御座候。
   ご養生も、叶い為されず、去る二十日の卯の上刻(朝5時)に大阪表にて
   薨御(こうぎょ)遊ばされ、言語 絶し奉り候。 
   この段を、今日 仕出(外出)している面々にも 達せられるべき候。
   8月二十六日 

   大目付へ
   兼ねて 仰せ出で候通り、一橋中納言様(慶喜)が,ご相続遊ばされ、
   去る二十日より、上様とたたえ奉り候。
   益々もって 精勤に励み 申すべき候段、大阪表に 仰せ出候。
   この段、今日 出仕して、此れ無き面々にも 達せられるべき候。


慶喜は、徳川宗家についたので、「上様」と呼ぶことになるが、将軍ではないから、
この時点ではまだ「公方様」とは呼ばないのである。

【4】家茂の葬儀:(慶応2年)9月23日

9月18日に、大目付より酉下刻(夕6時)に大御目付中様より 御廻状、御用席触が、到来した。
それは、先の将軍家茂の葬儀の予定の通知であった。

それによると、葬儀は、
9月23日 午上刻(昼十二時)に御出棺で、酉上刻(夕五時)に、増上寺に御葬送する。

御出棺に際し、殿中での服装は熨斗目麻の裃を着用のことと指定があった
更に、9月20日には、大小御目付様から次のような御廻状が回ってきた。

出棺を担当する布衣(ホイ)以上の服装は、熨斗目長袴であること、そして、布衣以下の者は、熨斗目に半袴であること。
熨斗目も無地であることという指定があった。また、御出棺の道筋にあたる所は、提灯と手桶を用意して置くこと
提灯は、役がある無しにかかわらず、準備すること。御出棺の道筋にあたる屋敷の家主が、表に出てくることは、不届きであること。

前日の9月22日に、来た廻状によると、延岡藩は、特に上屋敷は、葬送の通り道にあたるので、特別の指図が来ている。
出棺から、増上寺に至るまで、葬送の時、延岡藩の屋敷(上屋敷=虎の門と下屋敷=六本木)では、

6時半から御通棺が終わるまで、煙筒をしながらも、火の元に気を付けよ。不用意に人が出てくることの無い様(札留めにせよ)にともある。
そして、当日である9月23日の丑の刻(午前一時)に、御用席中様より以下の様な廻状がきている。



概訳を示す:
「 覚え

  1.一万石以上の面々の御香典の献上の儀は、     熨斗目長袴にて 朝六時より 五時(現時刻では、朝6時から8時)までの内
    増上寺、表門を通り 差越され、本堂に、献せられるべき事。

  1.一万石以下 三千石以上の面々の使者は、熨斗目半袴にて
    四時より九時(現時刻、昼10時から12時)までの内 裏門を通り 差越され、本堂に、相納められるべきこと

  1.この他の面々の使者も、熨斗目半袴にて 九時より、八時(現時刻昼12時から2時)までの内
    裏門を通り、差越され、本堂に 相納められるべき候事

表門、裏門より内には、国持大名たりといえども、
(御供は、)侍4人、挟み箱持ち1人、草履とり1人、六尺(かごかつぎのこと)4人の外 無用と為すべき。
若し、雨の時は、表箱、から傘持ちを連れるべき。この外は、一切 停止のこと。

また、香典の献上についての指示もある。

   ・白銀 30枚 = 60万石以上
   ・ 同 20枚 = 25万石〜59万石まで
   ・ 同 10枚 = 15万石〜24万9000石まで
   ・  (5枚?) = 10万石〜14万9000石まで(多分、写し取のミスで欠落している)

   ・ 同 3枚  =  5万石〜9万9000石まで(延岡藩の場合)
   ・ 同 2枚  =  1万石〜4万9000石

   ・ 同 3枚  = 30万石以上の嫡子と隠居
   ・ 同 2枚  = 10万石以上の嫡子と隠居
   ・ 同 1枚  = 1万石以上の嫡子と隠居 



★言葉>白銀とは?
   白銀は、贈答や儀礼用のもので、43匁(=161.25g)の純銀で、かつ形を整えたものである。
   銀を含む実際の通貨である丁銀は、銀含有率は低く、今回の白銀とは異なる。

★言葉>熨斗目(のしめ)とは?
   武家の礼装用の小袖(着物)である。無地で、袖、腰のあたりだけに織り方による縞模様がある。

★言葉>使者の服装としての熨斗目長袴、半袴とは ?
   9月26日から10月4日まで、葬儀後も、身分によって、
   例えば、諸大名1万石以上の嫡子(26日)、高家(27日)、
   布衣以上の旗本(29日)などのように、日を決めて、参詣すべき日が指定されている。

   朝四時より九時(現時刻で朝10時から昼12時)までの内,
   正式服装が直垂(ひたたれ)、狩衣(かりぎぬ)、大紋(だいもん)、布衣(ほい)の面々は、長袴で参詣するように指定されている。

   参考までに、これらの下に相当する正装が、素襖(すおう)である。

【6】将軍家茂と和宮の切ない結婚

第14代将軍徳川家茂と、孝明天皇の末妹、和宮の結婚は、歴史に流れによって翻弄された典型である。
二人は共に弘化三年(1846年)生まれである。
幕府支援論者だった孝明天皇は、幕府との強いつながりを作るため、妹である和宮を将軍家茂へ降嫁させることを考えた。
時に、和宮は14歳の時であった。ところが、和宮には、もともと、兄の孝明天皇が指名した有栖川宮という婚約者がいた。
年長の有栖川宮は、和宮が子供だった頃から、彼女に手習いや和歌を教えていて将来を楽しみにしていたであろう。
有栖川宮との婚約は、破棄され、家茂との結婚が成立したのであった。
京都から一度も出たことのない幼い和宮にとって、降嫁の為江戸に向かうということは、どれほど、心細いことであったろうか。

家茂の方も、歴史に翻弄された人物である。
江戸の紀州藩邸で藩主の息子として生まれた彼は、わずか3歳の時に父を失い、紀州藩主の地位に就く事になった。
その頃、ペリーが来航し、風雲急を告げる時代に突入していった。

13代将軍家定に子供が生まれないままだったので、家定の従兄弟に当たる家茂は、本人も知らない内に将軍の後継者候補になっていた。
井伊直弼大老の強引な支援のもと、安政5年(1858)6月、12歳の時に、将軍職についたのである。
その井伊大老も安政の大獄で、わずか2年後の万延元年(1860)、桜田門外の変で暗殺された(家茂14歳の時)。

そして翌年、15歳の時、同年齢の新妻を迎えたのである。家茂は、環境の異なる所へ嫁入りした若い妻に気配りをして暖かく出迎えたのである。
二人が、仲睦まじかったというエピソードも多い。家茂は、風雲急を告げるこの時期に、何度も関西へ行っているが、和宮への贈り物を欠かさなかった。
家茂は、義兄となった孝明天皇にも忠実であった。

家茂は、慶応2年、第二次長州征伐の最中に、病没してしまった。
和宮へ訃報が届けられた時、同時に、夫からのプレゼントの着物も到着して、和宮は号泣したという記録がある。
和宮は、未亡人となり、静寛院宮と名乗る。

慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発し、江戸に官軍が攻め込んできたときの官軍側の総大将は、和宮のかっての婚約者、有栖川宮だった。
22歳になった和宮は、徳川家を取り潰させない為に、かつての婚約者や、甥にあたる明治天皇に、説得の手紙を送っている。
大好きだった夫が、守ろうとした徳川家を、彼女も守ろうとしたのである。そのせいあってか、戊辰戦争後、徳川家は。取り潰しを免れている。
和宮は、30歳の若さで明治10年(1877)に亡くなり、彼女の亡骸は、徳川家代々の墓所がある東京芝の増上寺に葬られた。

昭和34年(1959)に、徳川家墓所の大掛かりな改葬が行われた際、和宮の墓所の発掘作業が行われた。
和宮の遺骸のすぐ傍らから、一枚のガラス湿版、写真が発見されたのである。
和宮の亡骸が抱いていたのは、愛する家茂のガラス写真であった。実は、14代将軍家茂の写真は、一枚も現存していないのである。
極端な異人嫌いだった義兄孝明天皇の影響もあってか、家茂は写真を撮っていなかったと思われていたが、家茂は、大阪に滞在中に、自分の写真を撮って、幼な妻に、
送っていたのである。直垂に烏帽子の正装をした、まだ幼さを残した若き将軍家茂が写っていたのを、何人かの研究者が肉眼で確認している。

翌日、写真の専門家が来たときには、将軍家茂の像は消えて、ただの硝子板だけであった。
太陽光を浴びて、感光したのであろう。将軍家茂の画像は永遠に失われたのである。
和宮の心には残っているのが、救いであるが、切ない話である。彼らのわずか5年の結婚生活であった。

【7】資料

  1)内藤家資料:2-10-34=大阪滞在記
  2)内藤計資料:1-7-154=万覚帳




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