第40話:第二次長州征伐(13):小倉口からの偵察隊の報告 

No.40> 第二次長州征伐(13):延岡藩の偵察隊による小倉口の哀れな顛末の報告書

    延岡藩の本隊は、藝州口(広島)に居ますが、今後の趨勢を決めかねない小倉口へ偵察隊を送りました。
    そこで報告された顛末は、幕府側の情けない行動と小倉藩の哀れな城の自焼でした。

    その顛末から偵察隊は、長州軍が延岡に及ぶことを危惧します。また本隊の孤立も心配しています。
    早急に軍勢を延岡へ帰すべきと提言します。  


  
今回のトピックス


    延岡本隊は藝州口(広島)にいますが、小倉口に偵察隊を出しました。
    そこでも幕府側は芳しくない。

    このままでは、長州藩は延岡まで攻めてくるかもしれない。藝州に居る本隊は孤立して餓死する可能性がある。
    本隊を早急に延岡に帰し、補強に努めるべきだという意見も述べます。

    幕府内の内紛を嘆きながらも、朝廷の決断が無いことに不満を示します。

                                         (2016.2.24)

                                          

【1】 序

第2次長州征伐は、将軍家茂自らの親征に伴い、延岡藩も慶応元年(1865年)の夏に江戸を出立し、大阪に集合した。
実際の長州への攻撃が始まったのは、それから1年後の慶応2年(1866年)の6月であった。
幕府側は、長州を大島口、藝州口、小倉口、石州口の4方向から攻めた。

第一次奇襲は、ほとんどいずれも、長州側の勝利であったが、小倉口だけは、小倉藩や肥後藩(熊本)などの幕府側の粘りもあり、長州側も手間取っていた。
小倉口の総指揮者には、第2次長州征伐の主戦派の代表である老中小笠原長行(唐津藩世嗣)がついていた。

延岡藩の本体は、藝州口にいたが、小倉口にも偵察隊を出していた。
その偵察隊から、小倉口においても、幕府側が敗れた趣旨と、今後の延岡藩の採るべき策を本体向けに出した手紙を紹介する。
この小倉口の敗戦により、家茂の死後、徳川家宗家当主となった慶喜が急に弱気になり、長州との停戦に傾いた原因となった。

【2】小倉口の戦について

(1)前半戦=6月中旬

幕府側は、豊前小倉藩15万石小笠原讃岐守忠幹の居城に本営を置き、第二次長州征伐に関して主戦派の老中小笠原長行(同じ小笠原であるが小倉藩が本家)が、下関方面総督として着任していた。
肥後藩(熊本)、久留米藩、柳川藩などの九州の諸藩が小倉近くに集結していた。

関門海峡を挟んで、長州藩は、奇兵隊が中心の部隊が対峙した。
長州藩の指揮官は、山内梅三郎で、高杉晋作が補佐、山形有朋が軍監についていた。

幕府側の戦意が不足しており、各藩の軍は、自軍に立てこもって前線に出てこないので、小倉藩だけが孤立して、前線に立つのみであった。

最初に、長州軍が動いた(6月17日)。艦砲攻撃から上陸をしたところ、強力と思われていた幕府側の千人隊が真っ先に逃げたので、戦利品をもって、長州側に引き上げた。

海軍力では、幕府側の方が圧倒的で、特に富士山丸(1000トン、60m長10m幅の鉄製蒸気船、大砲12門、米国製)は最高の戦力であったが、この船を幕府側(小笠原長行)は動かさなかった。

7月3日にも長州側の攻撃があったが、幕府側は大した抗戦はできなかった。
その後、小笠原長行は、肥後藩54万石から出陣している家老の長岡監物が率いる5000人の隊の出動を要請した。
対峙したまま、以下の後半戦になる。

(1)後半戦=7月末

7月27日:未明、長州軍は蒸気船2艘を先頭に大小船舶数百艘を連ねて総攻撃
  肥後藩兵が朝四時(午前八時)過ぎから夕方七ツ半(午後五時)まで休みなく
  戦闘しているが、幕府兵は山陰に隠れて出てこない。

  小倉藩の小笠原壱岐守は、援兵を送れと幕府軍に催促するが動きなし。

  公辺(幕府軍)の軍艦、富士山丸と回天丸は、海上の遠方から砲弾は撃つが長州藩陣地に届かない。
  つまり、自船が被弾することの無い様に、遠くから撃つので、自分の砲弾も届かないのである。小倉藩も城に閉じこもって出てこない。

  幕府側では、肥後藩だけが戦って、長州側に圧倒していたが、ばかばかしくなったのか、急に、肥後藩も軍を引き上げてしまった。

7月30日:小倉藩の家老 田中孫兵衛は、幕府軍の本営に赴き、最後の嘆願をすべく、小笠原長行に会見を求めた。
  公用人が留めるのを、強硬に入ってみると、小笠原壱岐守長行は本営を抜け出して、小舟に乗って、沖合の富士山丸に逃げ出した後だった。

  それは、老中小笠原長行に将軍家茂の死去が知らされたからであったが、小倉藩には知らされていない。
  小倉藩は、使者2名を富士丸に送った。しかし、富士山丸側からは、「小笠原殿は乗船していない」の一点張りであった。

8月1日:富士山丸は、北の玄界灘方向へ移動し始めた。小倉藩の飛竜丸が追いかけたが、
  軍司令(老中)の小笠原長行の他、大目付、軍目付なども一緒に乗せた富士山丸は、小倉口戦線を放棄して、長崎へ逃げ去ったのである。

  同日、切羽詰まった、小倉藩は、哀れにも小倉城に火をつけた
  その後、田川郡の香春(かわら)に本拠をおき、長州藩相手に、ゲリラ戦を展開して、長州藩を苦しめた。

  家茂の死は、公式には、8月20日まで伏せられたが、極秘のうわさは広がっていたのであろう。
  肥後藩が、勝ち戦を捨てて、慌ただしく帰国したのは、それを知ったためであろう。

【3】延岡藩の偵察からの報告

延岡藩の本隊は、藝州口(広島)にいたが、小倉口にも偵察隊は出ていた。
その偵察隊から、延岡藩の本隊へ手紙(=報告書)が、8月9日に出された。
これを見ると、当時の延岡藩は、歴史の結果を知る我々とは、異なる感想を持っていたことがわかる。

今回の衝突では、幕府側が長州藩に負けた。
このあと何が起きるか? 長州藩は、九州諸藩の統一、そして、北上して、大阪、江戸と占領していくだろう。
それは、豊臣秀吉が、行った日本統一の様な事が起きると想像したのであろう。

延岡藩の飛び地である豊後(大分)の領土(現在の湯布院や高田市など)の領地が危ない。
そして、延岡自体にも攻めてくるだろう。その時は、隣の肥後藩に助けてもらおうと考えている。
一旦、延岡で勢力を立て直して、幕府の為に役立とうと考えている。
前回第39話の延岡藩家老の原小太郎が江戸屋敷に送った手紙も、大阪、江戸で戦おうという趣旨を述べている。

(1)今回の報告書の前半

前半部分は概訳のみを示す。

前半概訳>

   「去る7月27日、長賊が小倉城下を襲い、また、小倉藩の敗走の処、熊本の大人数が長州賊の後を絶って、接戦を致して、
    賊は、敗走に及んだところ、三松百助が小倉表より御用があってやってきました。

    旅の途中に、小笠原侯を初め、御役の方たちが御引き払い、
    かつ、熊本藩も引き拂ってしまったことを、聞いてから、百助一同がやってきたのです。

    そこで、澤波猿之助をそのまま、差し戻して調べさせたところ、8月5日の巳の刻(昼四時)頃、帰ってきました。
    それによると、当方が身分を明かしたところ、閣老付属の人や他の人の話すことには、小倉本丸から火が起こり、
    御城下一円が、焦土と相成り、長州人は、城を乗っ取り、兵糧を繰り込んで、もはや、城下一円は長州のものになり、
    実に忍び無い有様だと申しておりました。

    幕府本営が、御役人を初め、引き払い、7月30日と8月1日のことについては、7月27日と28日に、よくよくの内変があり、右の次第になったようです。
    誠に、大変至極で、この上は、賊の勢いが、ますます、盛んになるでしょう。


7月27日と28日に何かがあったことを暗示している。この時に、将軍家茂の死が伝えられたと考えられる。

(2) 報告書 II


II 概訳>

   「近くの然るべき御譜代の大藩(小倉藩15万石)も此れ無く、この末は、如何なる擾乱が及ぶでしょうか。
    豊後(大分県)にある(延岡藩の)御領分は、勿論のこと、もしかしたら、延岡の御城下に迫りくるかもしれません。

    殿様の御留守中なので、わけても、御隣領の熊本藩に御依頼して、上下死力を尽くして、奮戦を固める覚悟はございますが、
    これまでの形勢をみると、藝州口、石州口のご先鋒も御敗軍に及んでしまいました。

    討ち手の諸侯も急速に、大軍を出さなかった上に、この後に、御応援に人数を増やしたけれど、やはり、形勢をかえることもありませんでした。
    幕府側(公辺)の御内輪の御混雑に加え、御廟議(朝廷の評議)の確定もないので、忠幕の列藩の振るわないことにきっとなるでしょう。


長州藩が延岡藩領に攻めてくる可能性を現実的な問題としてとらえていることがわかる。
その様な事に成ったら肥後藩に助けを求めようとしている。このことは、この後の、鳥羽伏見の戦で、延岡藩が幕府側に付き朝敵となった時に、
やはり、肥後藩に口利きを頼んでいることから、よほどの深いつながりがあることがわかる。

幕府側の混乱と、朝廷側も明確な決定をしないことに不満をもっている。
この点も、第39話での原小太郎の手紙と共通して、朝廷からの明確な指示を待っていることがわかる。
この時点では、朝廷が命令を出して、幕府が実行するという仕組みになっているのである。

(3)報告書 III 


III 概訳>

   「その上、先述の小倉口の大敗に及びました。幕議の紛糾は、申すまでもないことで、諸藩のやる気は、ますます落ち込み、
    御討ち入りは、なかなか、容易には、実現しませんでしょう。
    出張の大人数が、大阪と藝州の支え仕事に拡大しており、是までと違って、民衆(民膏)に手を下すのは難しくなっております。

    さらに、第1、海路運送も覚束ない(不覚束)ので、このままいけば、(我々の軍は) 、ことごとく、餓死することになるでしょう。
    ひとまず、(延岡藩の)御人数の内、見込をもって、延岡に返軍、差し戻して、少なくとも、御国力を養うべきでしょう。


藝州にある本隊への海路からの食糧補給路を断たれる可能性を心配している。

(4)報告書 IV


IV概訳>

   「若し、万に一つでも、長賊(長州藩)が天下を横行するようになったとしても、将軍の御膝元で、御忠節、一筋になさって、
    もしも、海路が絶えて、運輸の手段がだめになった時も、公辺(幕府)を御見捨てに為さるべきではありません。

    その時になったとしても、御所置(謹慎)の振りをするのもあり得るでしょう。
     御引取りの御人数は、ますます、繰り返し加えておき、再び、御時勢の御挽回の期を待ち、

    (その時が来たら)、速やかに、走り登り、勉励するということを、評議し、御相談下さい。
    篤く、御衆議下さった上で、公辺(=幕府)に御内達するのが、至当(まことに当然)であると御決着されるのが良いかと存じます。

          8月9日


あくまでも、幕府に忠義を尽くすべきという提案になっている。けなげである。

【4】資料

    1)内藤家資料=1-20維新-254=長州小倉城襲い城下焦土になる
    2)野口武彦著:「長州戦争」(中公新書)
    


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